思い返してみれば颯太は不用心だった。財布とスマートフォンだけは常に持ち歩いていたが、他のものが入ったバッグからは目を離していることも多かったのだ。
 貴重品は現金や電子マネーなど、お金に関わるものだけではない。そのことを、颯太は身をもって思い知ることになった。
 ぶるりと身を震わせた颯太に気づいたのだろう。光は颯太を気遣うように背中をぽんぽんと優しく叩き、大丈夫だよと声をかけてくれた。

「少なくとも俺んちには、倉橋さんも乗り込んで来られないって」

 壁の薄いボロアパートに住む颯太と違って、光の家はセキュリティの高さも部屋の広さも別格だ。もちろん家賃だって桁違いだろう。
 しかし、いくら仲がいいとはいえ、ストーカーに付き纏われている状態で、光の家に長居するわけにはいかない。颯太のせいで光に何か被害が及ぶことになったら、颯太は一生後悔することになる。
 一時避難させてもらったが、あの家に戻る以外の選択肢は存在しないのだ。スマートフォンも財布も通帳も置き去りにしてしまったし、生活のためにはアルバイトにも行かなければならない。家がバレているならバイト先に乗り込んでくるのも時間の問題だろう。

「これ以上、光に迷惑かけられないし。かなり怖いけど、家に戻って倉橋さんと話してみる」
「…………マジで言ってる?」
「大マジだよ。倉橋さんの誤解が解ければラッキーだし、合鍵と貴重品も回収しないといけないから」

 隣に座る親友の顔がひどく強張っているのを見て、颯太は力なく笑う。

「大丈夫。一応僕も男だし、さすがに倉橋さんより力が弱いってことはないと思う」

 もちろん怪我をさせたりはしないけど、と颯太は付け加える。しかし颯太の言葉を聞いても、光の眉間の皺は深まる一方だった。

「それに倉橋さんだって、いつまでも僕の家に居座るわけじゃないと思うんだよ。大学とかバイトには行くだろうし……。話が通じないようだったら、申し訳ないけど警察に相談かな」
「警察?」
「うん。会話にならなかったら、一旦話を合わせる。それで油断させた後、貴重品を持って逃げて、警察に駆け込む」

 眉を寄せて話を聞いていた光が、大きなため息をこぼした。颯太が首を傾げると、「相変わらず俺のことは頼ってくれねーのな」と光は少し寂しそうに呟く。

「今まさに頼ってるよ。光しか助けを求められる相手が思いつかなかったくらいだし」
「そうじゃなくて。俺に交渉させた方が安全じゃね? って話」

 ストーカーに直接対峙するよりも、第三者が話をつけた方がいい、と光は言う。

「俺なら合気道をやってるから護身術も颯太より身についてるし。それに、倉橋さんのターゲットは颯太なんだぞ? 鴨がネギ背負っていってどうすんだよ」

 どうやらかなり怒っているようで、光の口調はいつもより荒い。光は機嫌が悪くてもあまり表には出さないタイプだ。誰かに腹を立てても、笑顔を浮かべて気持ちを押し隠し、怒りは家まで持ち帰る。ふざけて怒ったふりをすることはあるが、光が本気で怒っているのを見るのは、颯太も久しぶりだった。
 そして颯太は知っている。光は普段聞き分けがよく、人を気遣ってばかりいるせいか、怒ったときは意地でも意見を曲げようとしない。

「こんな状況になっても倉橋さんのこと庇ってんの? 話し合いで解決とか、怪我はさせない、とか。まだ好きだって言うなら相当バカだぞ?」
「さすがにもう好きではないし、庇ってるわけでもないよ。自分で解決しなきゃと思うのは、光を巻き込みたくないからでしょ」
「だから巻き込めっつってんの。いつまで蚊帳の外だよ。いい加減にしろ、バカ!」
「バカは光だろ!? 何で自ら危ない方に首突っ込んでくるのさ。僕のこと信じて待っててくれればいいじゃん!」
「信じるのと心配するのは別だって何回言えば分かるんだよ! 危ないって分かってるところに安全策も持たずに飛び込んでいくのは自傷行為と変わらねえからな?」

 刺々しい言葉の応酬は、颯太が唇を噛んだことで終わりを迎えた。『自傷行為』という単語が颯太の胸にぐさりと突き刺さる。
 黙り込んだ二人の間に、重い沈黙が流れた。麦茶のグラスの中で氷がからんと音を立て、重い空気を無視した爽やかな音が響く。

「…………ごめん、言い過ぎた」

 先に口を開いたのは颯太だった。親友が珍しく怒ったのも、言葉が強くなったのも、全て颯太を心配してくれているからだ。そのことを分かっているのに、ムキになった颯太が悪い。
 颯太は俯いて、「自傷行為とか、そんなつもりはないよ」と付け足す。光も静かな声で頷いた。

「それは分かってる。俺もごめん」
「……うん」
「でもやっぱり、颯太が行くのは危ないと思う」
「そっか…………」
「ん、そうだよ」

 二人の静かなやりとりは、重い空気の中に溶けて消えていく。短い言葉を交わすごとに、光のまとう空気が少しずつやわらかくなっていくのを、颯太は感じていた。