目を覚ますと、夜が明けていた。頭が割れてしまいそうなほどの痛みに襲われていたのに、痛みはどこかへ消え去っていた。
 意識を失う前に着ていたスウェットの上に、パーカーを羽織っている。肩からかけられたそれは、孫の身体が冷えないようにと祖父母が心配してかけてくれたものだろうか。それとも、と考えかけて、颯太は力なく首を横に振った。

 確かなことは一つ。
 ニセくんに入れ替わると思って意識を手放したのに、目を覚ましたのは颯太だった、ということだ。

 ニセくんに替わってしまってよかったのに。颯太は心の中で呟き、ゆっくり起き上がる。机で寝てしまったわりには、身体は痛くない。ぼんやりとした頭で辺りを見回し、颯太は異変に気がついた。机にはこれまでの事件にまつわる情報をまとめたノートを広げていたはずだ。しかし、ノートは閉じられ、日記帳の間に挟まれている。
 
 心臓が大きく音を立てたのは、ある可能性が頭をよぎったからだ。
 颯太が突っ伏して寝ているのだから、机の上の整理をできる人はいなかったはず。ただしそれは、ニセくんを除いた場合。
 つまりノートや日記帳を触って動かしたのは、ニセくんだ。緊張しながら颯太はノートと日記帳を確かめた。日記帳の方には特に変化は見られなかった。ニセくんもただ日記帳を読んだだけなのだろうか。そう考えながらノートを開き、颯太は息を飲んだ。

 知らない筆跡。
 そして、身に覚えのない文章。
 ノートの新しいページに大きく書かれた言葉は、きっと、ニセくんから颯太に宛てたメッセージだろう。

 そのメッセージを眺めながら、颯太はしばらくの間、その意味を考え込んでいたーーー。


 颯太はアパートへ戻った。
 もう少し泊まっていけばいいのに、と祖父母は言ってくれたが、大学に行かなきゃいけないから、と嘘を吐いた。講義があるのは本当のことだが、颯太は今日の講義は全て欠席するつもりでいる。

 連絡をせずに休んだため、光から颯太を心配する内容のメッセージが届いた。大丈夫だよと返信をした後、颯太は家の中を隅々まで掃除し始めた。目的は、部屋を綺麗にすることではない。優姫のスマートフォンを探すためだ。
 優姫は山で首を吊っているのを発見されたが、遺品の中にスマートフォンはなかったと聞いている。
 そして優姫が自殺をしたのは、おそらく颯太の家に乗り込んできた少し後のこと。優姫の友人である絵梨花の証言から、少なくとも当日中に行方をくらましたことは確かだろう。

 無断欠勤なんて一度もしたことのなかった、真面目な性格の優姫が、どうしてその日に限ってバイト先に休むと連絡をしなかったのか。
 どうせこれから死ぬのだから自分には関係ないと自暴自棄になっていた。その可能性ももちろん否定はできない。
 でも、もしもスマートフォンが手元になかったのだとしたら。バイト先の店長の電話番号など、覚えているはずもない。店に直接連絡する方法もあるが、店の電話番号を検索するためにはやはりスマートフォンが必要になる。
 優姫はバイトを休むという連絡をしなかったのではなく、できなかったのかもしれない。颯太はそう推理した。

 そして優姫がスマートフォンを失くしたのだとしたら、颯太の部屋である可能性が高い。颯太の家を訪れる前、優姫は『彼氏の家に行く』と絵梨花に連絡していたという話だ。颯太の部屋でショックな出来事があったために、優姫はスマートフォンを忘れて部屋を出てしまった。そう考えれば不自然なことはない。

 全て仮説だ。仮説だが、事実であってくれ、と颯太は強く願っていた。
 ベッドの下や棚の隙間、隅々まで探したが、優姫のスマートフォンは見つからない。諦めきれずに颯太は、一人で持つには重すぎる家具を無理矢理動かしたりもした。
 颯太の家に見覚えのないスマートフォンが落ちていれば、一つの可能性を否定できる。
 あるかも分からないスマートフォンの捜索に、二時間ほど費やしたが、結局颯太の部屋にそれらしきものは落ちていなかった。

 泣きたい気持ちになりながら家具を元の位置に戻し、颯太はノートを開く。
 確認すること、と自分で書いた項目の中の一つ、倉橋さんのスマートフォンという文字の隣に、颯太はばつ印をつけた。

 颯太は少し休憩を挟んだ後、パソコンを起動させる。
 スマートフォンでもできる作業だったが、画面は大きい方がよかった。颯太は以前購入した小型カメラのサイトにアクセスし、パソコン用の動画再生ツールをダウンロードする。

 そこから颯太は動画を見続けた。
 光の家のリビングを隠し撮りした映像。ニセくんの存在に気づいたのも、この動画がきっかけだ。花梨のアドバイスで購入して設置したが、親友の家のリビングを盗撮する罪悪感は耐え難かった。
 だから以前カメラを回収して少し再生したときは、映像の一部を倍速で流して確認しただけだ。早送りで映像を見ながら、たまたま気になったところを改めて見返し、光とニセくんの会話が記録されているのを見つけたのだ。

 今回の動画チェックの目的は、光とニセくんの会話を見つけることではない。もちろん見つけたら確認させてもらうが、颯太にはもっと優先的に確認したいことがあった。

 まずはカメラを設置した、日曜日の夜。リビングのテーブルに突っ伏して眠る光が映っている。かなり疲れている様子で、全く起きる気配がない。一時間ほど眠った後、光は画面から消えた。音を大きくして確認すると、どうやらキッチンで料理をしているらしい。
 しばらくして戻ってきた光は、テレビを観たり、スマートフォンを眺めて時間を潰しているようだった。そして何度か時計を確認し、スマートフォンで電話をかける。

 動画を一時停止して確認すると、月曜日の午前二時過ぎ。颯太がバイト終わり、帰宅中に絵梨花から連絡をもらったのは、確か深夜の一時頃だった。照らし合わせてみると、光が電話をかけた相手は颯太で間違いないだろう。念のため自分のスマートフォンの着信履歴を確認する。優姫の死を知らされた後、光からの着信の時刻と、動画に残っている時間が一致した。

 再び動画を再生すると、光は少し会話をした後、家を飛び出していった。しばらくの間、静止画のように何も変化のない映像が流れ続ける。
 次に映像が動いたのは月曜日の午前三時半頃。光がぐったりした颯太の身体を支えるようにリビングに入ってきた。颯太を椅子に座らせてから、二人分の靴を持って光は玄関に戻る。いくら颯太が細身だとはいえ、男一人抱えた状態で靴を脱ぐ余裕はなかったのかもしれない。
 光は颯太に温かい飲み物を飲ませた後、今度は颯太を光の部屋に連れていった。この辺りの記憶は定かではないが、きっと颯太にベッドを貸してくれたのだろう。
 リビングに戻ってきた光は床を拭き、食器を片付けると、ソファーで眠りに落ちた。

 颯太は続けて、火曜日からカメラを外した金曜日までの映像をチェックする。
 光がニセくんと話していた通り、この期間、颯太はたびたびニセくんと入れ替わっていた。ニセくんと光の会話は少なく、全て内容を確認したが特に気になるものはなかった。

 動画を確認したことで、新たな事実が判明する。花梨が事故に遭う前、一緒にお酒を飲んでいた相手。颯太はそれが顔を隠したニセくんかもしれないと疑っていたが、どうやら違ったらしい。
 水曜日の夜、光の家のリビングに設置されたカメラに、颯太の姿がずっと映っていたのだ。このとき表に出ていた人格が颯太なのか、ニセくんなのか、誰とも会話をしていないので判別は難しい。
 確かなことは、颯太が光の家を出ていないこと。そして、それは同時に花梨が会っていた相手もニセくんではないという証明になった。

 颯太はノートを開き、確認することリストとして挙げた動画の二項目の隣に結果を書き込む。続いて動画から得られた情報をノートにまとめ、颯太はしばし考える。
 導き出された一つの可能性は、颯太をさらなる絶望に追いやるものだった。


 その日の夕飯は、光と一緒に食べることになった。颯太から声をかけようと思っていたが、光が自宅に招いてくれたのだ。
 食生活が乱れている颯太のことを、心配してくれているのだろう。せっかく光が夕飯を作ってくれても、颯太はいつも食べ切ることができない。普段から食をおろそかにしているせいで、少食になってしまっているのかもしれない。
 しかし、どんなに食事を残してしまっても、颯太が食事を摂っているだけで、光は嬉しそうにしていた。友人が心配してくれる気持ちは、いつだって颯太の身も心も支えてくれている。

「今日はまたずいぶん豪華だね」
「そうか? 一部昨日の残りものだけど」
「でも追加も作ったわけでしょ? いつもありがとね」
「まあ、俺は料理好きだし。趣味ついでに颯太にメシも食わせられる。一石二鳥じゃん?」

 楽しそうに笑う光は、テーブルに数々の料理を並べていく。颯太も取り皿や箸、飲み物の準備をして、二人でテーブルを囲んだ。
 光の作った料理はいつも通り美味しい。しかし、颯太は話の切り出し方を考えていて、なかなか食事に集中することができなかった。
 食べ始めてしばらくすると、颯太が話を始めるより先に、光が口を開いた。

「颯太、久しぶりに実家に行ってきたんだろ。大丈夫だった?」

 光の問いに、颯太は勇気を振り絞り、その言葉を口にした。

「…………虐待、されてた」
「……」
「はっきりと記憶が戻ったわけじゃない。でも、過去の日記とか……動画が見つかったんだ」

 親友は目を伏せたまま、何も言わなかった。颯太は言葉を選びながら、慎重に訊ねる。

「間違ってたらごめん。僕は……その、光に…………助けを求めた? 光が前に言ってた僕に思い出してほしいことって、そのこと…………?」

 違うよ、と言ってほしかった。
 でも颯太にはもう答えが分かっていた。

 光はしばらく黙っていたが、はは、と小さく笑みをこぼす。持っていたフォークを手放し、光は自分の両手で顔を覆った。
 そして颯太の顔を見ないまま、光はごめんと呟く。

「なんで謝るんだよ…………」

 目頭が熱くなり、颯太も自分の手で口元を覆った。そうでもしなければ、嗚咽がこぼれてしまいそうだった。
 ごめん、ともう一度響いた親友の声に、颯太の目から涙が溢れる。
 僕の方こそ、ずっと光を苦しめていてごめん。そう言わなければいけないのに、颯太の口からは震える呼気がこぼれるばかりで、どうしても言葉にはならなかった。