冷めた夕飯を温め直し、二人は食事をしながら話をした。
 最初はためらいがちに、颯太の顔色を伺いながら。だんだんと話のテンポがよくなってきたのは、きっと颯太はすでに話を聞くための心の準備ができている、と光も気づいたからだろう。

 解離性同一性障害は、心的外傷をきっかけに生じることが多いと言われている。親からの虐待や、性暴力の被害経験。自分の身に起きた辛い出来事を受け入れると心が壊れてしまうため、苦痛を引き受ける代わりの人格が生まれる。

 颯太の場合はたぶんあの事件だと光は言った。
 それは颯太も予想していたことだ。本当に颯太の中に他の人格があるならば、どうしてその人格は生まれたのか。耐え難いほどのショックといえば、やはり両親を殺害された事件が一番に思い浮かぶ。
 死んでいる両親を発見したときのことは覚えているのに、強盗が入ってきたときの記憶はなかったり、事件後もしばらくはふわふわした曖昧な記憶しかない。

 光の話を聞きながら、颯太はぼんやり考える。
 もしかしたら颯太は、両親が殺される瞬間を見ていたのかもしれない。その事実に耐えられず、別人格が生まれたのだとしたら? それならば、両親の死体を発見する少し前。強盗が入ってきたときの記憶がないことも、説明がつくのではないか。
 颯太の考えを置き去りにし、光の話は進んでいく。

「さっき颯太は人格が複数あるかもって言ってたけど、俺の知る限り、颯太の他にはニセくんだけだよ」
「光とニセくんは、面識があるんだよね?」

 この答えを颯太は知っている。カメラで撮影し、二人が話しているところを見たからだ。光は嘘を吐くこともなく「あるけど、仲はよくないかな」と答えた。
 友達を乗っ取ろうとしてるやつと仲良くなれるわけがない語る光に、颯太は目を丸くする。
 そういえば光はさっきも同じ言葉を使っていた。自分に別人格があると知ったら颯太がショックを受け、ニセくんに身体を乗っ取られるかもしれない、と。
 話を聞くうちにだんだん不安になってきて、颯太は眉を下げて光に訊ねる。

「もしかして、ニセくんってやばい人?」
「んー、目的のためなら手段は選ばないタイプ?」
「えっこわいんだけど」

 箸でつまんでいたほっけが、ぽと、と皿に戻っていく。颯太の顔色が変わったことに気づいたのだろう。光は笑いながら言葉を続けた。

「まあ、俺の前では極端なだけかもしれないけど。俺とニセくんは目的が真逆だからなー。俺はニセくんを消したい、ニセくんは颯太の身体を乗っ取りたい、って感じでさ」

 光は何か嘘を吐いた。気になったが、颯太は追求しなかった。もしかしたら颯太の別人格には、颯太を乗っ取る以上の目的があるのかもしれない。そう思ったからだ。
 それに嘘よりも、光の発言が気になった。

「ニセくんを……消す……?」

 思わず復唱すると、光は大盛りだったご飯を全て食べ終え、手を合わせるところだった。
 ご馳走様でした、と光が箸を置くのを見届け、颯太は改めて「どういうこと?」と訊ねる。

「ああ、消すって言い方がよくないか。人格を統合するんだよ」

 そうすれば颯太の身体は、ちゃんと颯太の元に返る、と。複数の人格を一つにまとめる、そんなことができるのだろうか。いや、それよりも。

「どうして光がそこまでするの。確かに僕としては、知らない間にニセくんが動き回ってたら困るし、気味も悪いけど。でも光は別に困らないでしょ」

 颯太の言葉に、光は大きなため息をこぼす。
 それから「ニセくんじゃない」と小さな声が響いた。

「……俺を救ってくれたのはニセくんじゃないんだよ」
「救った? 僕が光を?」

 記憶を探ってみたが、颯太が光を救うような状況は思い当たらなかった。立場が逆ならば何度も助けられているのに。
 颯太が頭を悩ませていると、光はやわらかく笑みを浮かべ、「颯太にとってはたぶん何気ないことだったから」と前置きして答えを教えてくれた。

「かなり前の話だけど……颯太が、俺みたいになりたい、って。言ってくれたじゃん」
「それは今も普通に思うけど。……えっ、それだけ?」
「それだけ。俺はそれがめちゃくちゃ嬉しかったんだよ」

 悪いか! と頰を膨らませる光は、珍しいことに少し幼く見えた。
 光みたいになりたい、だなんて、光と関わったことのある人なら誰でも考えそうなことだ。それなのに光は、颯太の口にしたその言葉に救われたという。

 誰からも憧れられるような存在なのに、光は颯太に特別優しい。それこそ元彼女の西野花梨に、『光は颯太くんがいないとダメだから』と言われてしまうくらいには。
 ずっと前から不思議だった。どうしてたくさん友達がいるのに、いつも光は颯太に合わせてくれるのか。自分のためだ、と光は言っていたけれど、颯太が口にした言葉をずっと大事に思ってくれていたからなのだ。
 颯太の視線に気づき、光は照れたようにそっぽ向く。そして話を戻すけど、と言って再びニセくんの話を始めた。

「颯太が颯太として安心して暮らせるようになるためには、対策が必要だと思うんだよ」
「僕が僕として、か……」
「うん。手っ取り早いのは入れ替わるトリガーを引かないことかな」

 光は自分の持っている情報を丁寧に語り出す。
 颯太の中の別人格、ニセくんは、颯太が強い恐怖心や不安を感じたときに現れる。だから光はホラー映画の克服と称して、颯太に恐怖心への耐性をつけようとした。ホラー映画鑑賞会を二人でよく開いていたが、裏にそんな目的が隠されていたとは知らず、颯太は目をまたたかせる。

「ちなみに効果あった……?」
「……ちょっとだけ? ホラーとかびっくり系はマシになったよ。前は見るたびに毎回入れ替わってたけど、普通のホラーならビビるけどギリギリ入れ替わらない」

 ただ血液が出てくるとほぼ確実に入れ替わるな、と光は呟く。
 血を見ると、それがフィクションだと分かっていても颯太の頭の中では連想されてしまうからだ。両親が殺害されたあの日、死体に縋り付くあのときの光景が。
 颯太の意思とは関係なく、連想ゲームのように、血液を見ると、強盗が入ったあの日にトリップしてしまう。ひどいときにはショックが大きくて、気を失ってしまうこともある。だからグロテスクなシーンは苦手だと思っていたが、まさか人格が入れ替わるトリガーだったなんて。

 話をしているうちに、颯太はふと思い出す。確か優姫が颯太のドッペルゲンガーを見た、という日は、光とホラー映画鑑賞会をしていたのだ。
 つまり映画の最中、耐え難い恐怖で颯太はニセくんと入れ替わってしまった。光とニセくんは仲がよくないので、ニセくんが勝手に行動するのを光は止めなかった。
 そしてなぜか颯太の大学まで足を運んだニセくんは、優姫に目撃され、ドッペルゲンガーかもしれない、と勘違いされたというわけだ。
 推理した流れを言葉にすると、光は困り眉で「あれはマジで止めておけばよかったよな」とため息をこぼす。

「確かにニセくん一人で出かけたけど、まさか大学に行くとは思わなかったんだよ」
「前から勝手に行動することはあったの? ニセくん一人で」
「あるよ。気づいたらいなくなってる、なんてしょっちゅう。でも怪我とか危ないことするわけじゃないから放っておいたんだよな」

 失敗だった、と再び肩を落とす光に、颯太は慌てて「光のせいじゃないよ」とフォローを入れる。
 そもそもニセくんがどうして大学に行ったのかは分からないし、それ以外の行動の意図も読めない。
 たとえば優姫とデートをしたとき。あの日もきっと、映画の最中にトリガーが引かれた。入れ替わったニセくんは、なぜか優姫と親しくなろうとしたのだ。恋人になろうと告白をし、家の合鍵を作って渡したのだから、おそらく間違いないだろう。
 しかし、それがなぜだか分からない。どうしてそんなことをする必要があったのか。大学で優姫に目撃され声をかけられたときのように、無視をしてもよかったはずだ。デートなんて知るか、と好き勝手に振る舞ってもおかしくなかったのに、わざわざニセくんは颯太のふりをして、デートを続行したのだ。

「どうしてニセくんは、倉橋さんと仲良くなろうと思ったんだろう。ニセくんにメリットがあるとは思えないけど……」
「…………倉橋さんに合鍵を渡せば、いつかはああいうことが起こるって分かってたからじゃん?」

 ああいうこと。つまり、優姫が無断で颯太の家の中に入ってくる、ということだ。
 そんなことをしてどんな意味があるのだろう、と少し考え、颯太はハッと気がついた。

「もしかして、僕を怖がらせて、入れ替わろうとした……?」
「まあ俺もニセくんに直接聞いたわけじゃないから本当のことは分かんないけど。でも、颯太を怯えさせて身体を乗っ取ろうとしてるなら、説明つくよな」

 颯太の心に形容しがたい不安が生まれる。今は颯太が強い恐怖を感じたときに、人格が入れ替わるだけで済んでいる。
 しかし、もしも肉体の主導権をニセくんに奪われてしまったら。そのとき、颯太の意識はどこへ行ってしまうのだろうか。

 たとえば光が言った通り、颯太の人格にニセくんを統合できるのだとしたら。逆もまた、可能なのではないか。ニセくんの人格に颯太が吸収されてしまう。そんな可能性も、ないとは言い切れない。

 自分が消えてしまうかもしれない。
 唐突に突きつけられた危険に、颯太の中で恐怖が生まれた。表情の変化に気づいたのか、光が「大丈夫だから落ち着け」と颯太に声をかけてくれる。

「怖いって感じること自体は防げないじゃん? でも恐怖を感じた後に、『怖いけど大丈夫』って思えれば入れ替わらないんじゃないか?」

 ほら、倉橋さんが家に乗り込んできたときみたいに、と光に言われ、颯太は思い出す。
 確かにあのとき、颯太は強い恐怖心を抱いていたはずだ。しかし、人格の交代はしなかった。

 それはどうしてか。
 どうにかして光の家まで逃げられれば。光の元まで辿り着ければ、きっと大丈夫だ、と無意識に思っていた。

 颯太は深く呼吸をし、自分の心に襲ってくる不安と恐怖を、まっすぐ受け止める。
 ニセくんは颯太の身体を乗っ取ろうとしている。そして、優姫を使って罠を仕掛けたように、また颯太を陥れようとするかもしれない。
 人格の入れ替わりを何度も繰り返し、颯太のショックが大きければ、ニセくんに飲み込まれてしまう可能性もある。
 大丈夫、と颯太は自分に言い聞かせた。
 そんな最悪な事態が起きてしまったとしても、戻ってこられるはずだ、と。

「……もしもニセくんに入れ替わって、僕がなかなか戻ってこられなかったら……光が、僕の名前を呼んでよ」
「名前?」
「うん。光はニセくんのことを、『颯太』とは呼ばない。光が『颯太』って呼べば、それは僕のことでしょ?」

 人格が入れ替わったときのための、命綱。他の誰でもなく、光が握ってくれていれば、颯太は安心できる。
 何か恐怖を感じることがあっても、『怖いけど大丈夫』と思うことができるはずだ。
 光は数回目をまたたかせ、首を傾げる。

「そんな大事な役目、俺でいいのかよ」
「光じゃなきゃダメなんだよ」

 颯太は真面目に頼んだのに、光は少し照れたように笑った。