「今年の5年生はあまり素行がよくないですね」

顔を顰めながらそう言ったのは学年主任の小林先生だ。5年生を受け持つ先生たちは各自のデスクに座ったまま何も言えず顔を俯かせた。自覚はあったからだ。

だが何も知らないふりをして俺は生徒たちの宿題に『よく頑張りました』のスタンプを押していく。スタンプに描かれているクマは呑気に笑っていた。

そして学年主任の小林先生が分かりやすいため息をついて、流れるように「長谷川先生」と俺を呼ぶ。


「きいていますか」

「…はい」


手を止めて顔を上げた。まるで自分を問題児をみるようなそんな瞳で見つめてくる。
悔しくて、憎たらしいとは思ったが周りが自分をそういう目でみるのも無理はなかった。
朝の予鈴のチャイムが鳴り、慌ただしく席を立って逃げるように職員室を先生たちが出ていく中、俺も荷物をまとめてゆっくりと立ち上がる。

「長谷川先生」

「はい」

「何事も慎重に、ですよ」

学年主任のその言葉はきこえは良いが、要は「余計なことをするな」という大きな釘だった。
「分かりました」と消えいるような返事をして職員室を出る。


「長谷川先生」

後ろから追いかける足音と跳ねるように言葉を揺らしたその声が耳に届く。そして俺の隣に並んだそいつが肩に手を回してきた。
思わず顔を顰める。


「あんま色々気にしない方がいいっすよ、今年の何年生は〜って小林先生の常套句みたいなもんじゃないっすか」


「別に気にしてないよ」


「そうっすか?ならいいですけど」


肩に回った手をおろしながら俺は歩みを早める。
同じ5年生の担任をもつ片瀬だ。
いつもジャージで明るく、ノリをもいい片瀬は生徒から好かれている。
去年まではよく2人で飲みに行っていたが、今ではめっきりなくなってしまった。俺が避けているというのもある。


「まだあのこと、引きずってます?長谷川先生」


引きずってるよ。そりゃあもう地面にめり込みそうなくらい。とは言えず俺はあげたくもない口角を少しあげた。
俺はここ最近、この場所でちゃんと笑っていない気がする。


「引きずってないけど他にやり方があったんじゃないかってずっと後悔はしてる」


「それを引きずってるって言うんすけどね」


苦笑いを浮かべた片瀬に俺は「そうかな」とそっけなく返事をする。
ズカズカと人の気持ちに土足で踏み込んできて荒らしていくやつが教卓で道徳を教えていることが不快でたまらない。


「別にいいじゃないですか、誰も死んでないんだから」


思わず足を止めた。
精一杯のなぐさめのつもりか、だとしたら間違っている。
確かに誰も死んでいない。だけどあの時、彼の気持ちを、信念を殺したのはまぎれもなく俺であったのだろう。


「最近の子やその親は頻繁な家庭訪問とかで自分たちのテリトリーに赤の他人をいれることを拒みますからね」


「そうですね」


「学校も、先生も、生きづらい世の中になったっすよね」


その言葉には少なからず共感があったので小さく頷いた。しばらく歩くと『5年3組』という黒い文字が見えた。


「じゃ、今日も1日頑張りましょうね、長谷川先生」


ぽん、と俺の肩を叩いたあと、片瀬は1つ向こうの教室へと歩き出して行った。
その背中姿をしばらく見送ったあと、俺は教室の戸をあける。
視界に入った生徒たちの光景に思わずため息をついた。
職員室で学年主任が言っていた『素行が悪い』とは至極的を得ている。

クラスの中でも目立つグループの男の子たちが机の上に乗って遊んでいた。
それを周りの子たちが囃し立てるように手を叩いて笑っている。


「机の上から降りなさい。危ないから」


「…げっ、先生きてんじゃねぇか教えろよな。

てか、先生影薄過ぎんだろ」


机に乗って遊んでいた1人が言ったそれ。聞こえないように小声のつもりなのか俺の耳にはしっかりと届いている。もしかしたらわざとなのかもしれない。

聞こえないふりをして、俺は教卓に立つ。

いつからだろう、ここから生徒たちの目を見なくなったのは。

いつからだろう、ただ何もせず平穏に毎日がすぎること、問題が起きないことを願うようになったのは。

あの子は今日、誰かに「おはよう」と言えたのだろうか。


「みなさん、おはようございます」


毎朝、少し声が震える。