その日から私は、大学に行くことができなかった。
 あらゆる講義が滝波くんの履修と被っていて、大学に行くことは彼に会うことを意味していた。部屋に引きこもっていると、お母さんから「大丈夫?」と扉の向こうから声をかけられた。

「うん、大丈夫……」

 大丈夫、大丈夫、大丈夫。
 これまで外の世界に出るたびに、何度もそう言い聞かせてきた。

「大丈夫よ。私にはkanoさんがいるから」

 お母さんの息遣いが聞こえなくなってからそっとつぶやいてみる。

【今日、学校で友達と喧嘩しちゃった……】

 気がつけばkanoさんにSMSを送っていた。ものの数分後に返信が来た。

【え、それはつらいね。今度ゆっくり話聞くから】

 優しい言葉に涙が滲む。私はもう、滝波くんと友達の仲を修復することができないかもしれない。だって、滝波くんは“普通”の人間だから。
 私やkanoさんとは違う。私たちは結局、どうしたって『なないろ』でしか息を吸えない。  羽ばたけないんだ——。


 kanoさんと約束をした週末の土曜日。私はとうとう金曜日まで大学に出ることができなかった。もし、滝波くんと連絡先を交換していれば、お伺いのメッセージでも来ていたかもしれない。それ以外で、私のことを心配してくれる人はきっといないだろう。

【今から友達と初めて遊びにいく。楽しみだな】

『なないろ』でkanoさんと遊びにいくことをつぶやいてから、私は玄関で靴を履いた。
五月半ば、初夏の香りのする爽やかな風が、外の世界へと飛び出した私をまるく包み込んだ。今日、お母さんは職場の同僚たちと珍しく遊びに出かけるとのこと。お父さんは家の中でのんびりしている。私は一人、待ち合わせ場所のカフェである『アメンボ』へと向かった。
 松葉大学の正門と反対側の路地裏にある『アメンボ』に行き着くまで、かなりの距離を歩いた。到着したのは待ち合わせの十分前。お店の前で待っている人はいない。
 事前に聞いていた話だと、kanoさんは自分だと分かるように花柄のワンピースを着てくるらしい。私もわかりやすいように服装は伝えてあった。
 kanoさんまだかな。
 路地裏なので、通り過ぎる人はあまりいない。時々、犬の散歩をしているお姉さんや、子供を連れた母親が歩いていく。どの人もkanoさんでないことはすぐに分かった。
 ふと頭上を見上げると、もうもうと立ち上る雲がゆっくりと流れていくのが目に入ってきた。私の人生も、あの雲のように穏やかに流れていけばいいのに。そんなことをぼんやりと考えていた時だ。

「ミトさん」

 後ろから声をかけられて、私は振り返る。
 目の前にいたのは、花柄のワンピースを着た同い年くらいの女の子——ではなかった。
 黒いTシャツにジーパンを履き、黒いキャップを目下まで深く被る、知らない男だ。

「……?」

 声の出せない私は、頭の中で浮かぶ疑問を、口にすることもできずその場で固まっていた。

「じゃあ、行こうか」

 kanoさん——いや、男は私の腕を強引に引っ張り、その場から私を引きずるようにして歩き出した。
 な、なに、これ。どういうこと……?
 真昼間の路地裏で、訳もわからず男に引きずられる私。
 kanoさんは?
 ねえ、kanoさんはどこ?
 心の中で叫んだ言葉が男に聞こえたのか、男は「ああ」と口の端を歪めて、薄く笑った。

「僕が、kanoさ」

 血の気がサーっと引いていく。男の言うことがどういうことなのか、じわじわと理解してしまった。
 咄嗟に思ったのは、騙されたということだった。
 私はkanoさんのことをずっと女性だと思っていた。
 口調や子供の頃に見ていたアニメなど、どう考えても女性っぽかったから。
 でも確かに、はっきりと女性だと言われたわけではない。私が勝手に、勘違いしていたんだ……。
 男が私の腕を引っ張る力は思ったよりも強く、私は必死に抵抗をするも、圧倒的な力の差に、どうすることもできなかった。
 助けて、誰か。
 助けて……!
 悲鳴を上げたいのに上げることができない。もともと緘黙症であることもそうだが、恐怖心が私の喉を締め上げているみたいに、身体が言うことを聞いてくれなかった。

「大丈夫だよ、ちょっと楽しいことするだけだから」

 いつの間にか『アメンボ』の前からかなり離れてしまっていた。このままどこかに連れて行かれるのだろうか。車に乗せられる……? そうしたらもう今度こそ、私はどんな目に遭わされるか分からない。
 怖くて身体がガクガクと震えていた。人気のない道がずっと続いている。助けてと、大声を出すことができたらどんなにいいだろう。私は無力だった。

「さあ、あの車に乗ろう」

 男が指差した先に、一台の軽自動車が止まっている。まずい。あれに乗せられたら、何もできなくなる——。
 必死に男から腕を振り解こうとするも、女の力では無謀だった。私は、覚悟をしてぎゅっと目を瞑る。どうか、どうか。せめて、命だけは奪われませんように、と心の中で祈った時だ。

「本間さんから離れろっ!」

 後ろから、慣れ親しんだ人の声が振りかけられた。私は咄嗟に声のした方を見る。
 そこには、息を乱しながら私たちの方へと走ってくる滝波くんの姿があった。普段、さらさらと靡かせている髪の毛が振り乱れ、見たこともないような怒りの表情を浮かべている。顔は真っ赤で、ここまで相当頑張って走ってきたことが分かった。
 滝波くんの姿を見て、私はほっとしたと同時に、目の淵にじわりと涙が溜まっていくのを感じた。

「お前……誰だ」

 思わぬ障害がやってきたことに焦った様子の男が、ギロリと滝波くんを睨みつける。

「本間さんの友達だ。警察を呼んである。今すぐ本間さんを離せ!」

 いつものように落ち着いた口調ではなく、声を荒げて叫ぶ滝波くんが、まぶしいほど光って見える。滝波くんだって怖いはずなのに、どうしてそんなふうに必死になれるの。

「チッ……なんてことを。お前、覚えてろよっ」

 捨て台詞を吐いて、意外にもあっさりと男は私の腕を離して車に乗って逃げていった。私は、呆気にとられたままその男の後ろ姿を見つめていた。

『警察……本当に来るの?』
 
 スマホのメモ帳に、私は文字を綴った。

「いや、来ない。通報する余裕なかった」

『やっぱりそうなんだ……』

 どうやら、警察に通報したというのは滝波くんのハッタリだったようだ。
 私は、張り詰めていたものがぷつんと切れてその場にへたり込んでしまった。

「遅くなって、ごめん」

『ううん。むしろ、助けてくれてありがとう……』

 滝波くんが私の手を取って、その場に立たせてくれた。私は、恥ずかしさやら不安だった気持ちやらで心の中がぐちゃぐちゃになっている。

『でも、どうして? どうして助けに来てくれたの?』

 当然の疑問だった。
 一体なぜ、滝波くんはピンチに陥っていた私の前に現れたんだろう。
 今日、kanoさんと待ち合わせをしていることは伝えていた。でも、だからと言って私が危険な目に遭うってどうして分かったんだろう。
 私は、彼のほうから何か主張があるだろうと思ってじっと滝波くんの言葉を待っていた。彼は、しばらく沈黙して、唇を噛み締める。やがてその重たい口を開いてこう言った。

「向こうの公園で、ちょっと話さない?」