滝波くんが再び大学にやってきたのは、翌日のことだった。
 彼はまる一週間大学を休んだ。『日本文学史』の講義で彼を見かけたとき、久しぶりに見る彼の背中が、少しだけやつれているような気がした。
 私は、真ん中の方の席に座っている滝波くんの肩をトントンと叩く。
 彼は振り返り、「やあ」と右手を軽く挙げた。

「本間さん久しぶり。ずっと休んでてごめん。インフルエンザにかかってたんだ」

 私は急いで席につき、鞄からノートを取り出す。そこに、『大丈夫?』と書き記した。

「うん。もうこの通りすっかり治ったよ。一人暮らしだしちょっと参ったけどね。急に休んで心配かけて本当にゴメン」

 両手を擦り合わせるようにして私を見つめる滝波くんの目が、本当に申し訳なさそうに湿り気を帯びていた。私は大丈夫と首を横に振った。

『心配したけど、無事に治ってほっとしたよ』

 ノートに返事を書いている最中、なぜか頭に昨日のkanoさんとのSMSのやりとりが浮かんだ。
 私がノートにペンを走らせる様子をいつものようにじっと見つめていた滝波くんが、大きく目を見開く。どうしたんだろう。何か、重大な事実を発見してしまったかのような顔が、脳裏に焼き付いた。

「本間さん、何かいいことでもあった?」

 私の心の内を勘ぐるような視線だった。私は、なぜか息苦しさを覚えて滝波くんから目を逸らす。

『どうしてそう思うの?』

「いや……、本間さんの書くノートの文字が、踊ってるように、見えたから」

『踊る?』

 不思議な表現をする滝波くんに、私は純粋な気持ちで聞き返す。
 気持ちが文字に現れるなんて、私ったら、どんだけ浮かれてるんだろう。

「ああ。気のせいだったらごめん。何か、嬉しいことがあったみたいに、本間さんの字が活き活きして見えたんだ。いつもと違って」

 滝波くんの言う通り、私の頭の中はkanoさんとの約束でいっぱいだ。kanoさんと会うのが楽しみで、昨日だってよく眠れなかった。だからその気持ちが、無意識のうちに筆跡にまで影響していたのかもしれない。自分じゃ分からないけれど、滝波くんはそういう他人の繊細な機微に気がつけるんだろう。

『正解、だよ。実は昨日、ある人からお茶しないかってお誘いを受けたの』

 私が答えると、滝波くんの瞳がふるりと揺れた。

「ある人って、誰か聞いてもいい?」

『この間、「なないろ」っていうアプリを見せたよね? そこでたくさんコメントをくれていたkanoさんって覚えてる?』

「ああ。覚えてるよ。本間さんの投稿に逐一反応してたよね」

『そう! そう人から、電話番号が送られてきて。ちょっと怪しいなって思ったけど、kanoさんに限って変なことはないだろうって、SMSをしてみたの。そしたら、すごい会話が弾んじゃって。今度の週末、「アメンボ」っていうカフェで、待ち合わせしてるの。知ってる? 大学の裏にあるカフェ』

 「アメンボ」は、松葉大学の正門と反対側の路地裏にある小さなカフェだ。私が、場所を提案するよりも前に、kanoさんが事前に松葉大学付近のカフェを調べてくれていたのだ。その用意周到さにあっと驚かされた。
 滝波くんは、私が意気揚々と書き綴る文字をじっと凝視していた。それこそ、目に穴が開くほどの勢いで。
 しばしの沈黙が私たちの間を流れる。やがて『日本文学史』の抗議が始まる時間となり、チャイムが響いた。講義室に教授がやってくる。学生たちが、まばらに席に座っていた。

「……その人とは、遊びに行くな」

 はっきりと否定の響きを帯びた声が、チャイムの音をかき消すほど強く、私の胸に突き刺さる。ジワリと広がる痛みが、なんの痛みなのか、瞬時には理解することができなかった。
 咄嗟に浮かんだのは、「どうして?」という疑問だ。
 どうして。
 どうして滝波くんが、kanoさんとの会合を否定するのだろう。
 滝波くんの目は、全然笑っていない。冗談で言っているのではないのだ。何より、ずっと柔らかい口調で話していた彼が、突然強い口調になったことが、気持ちの本気さを表している。
 混沌、戸惑い、不信感。
 いろんな負の感情が胸の中で真っ黒い塊をつくっていく。私はとうとうその塊を自分ではどうすることもできなくなって、ノートにこう書き殴っていた。

『なんで私がkanoさんと会っちゃいけないって、滝波くんが決めるの? 彼氏でもないくせに……気持ち悪いっ!』

 言ってしまった。言葉は、たとえ口で言おうが文字で伝えようが、一度発言してしまえば、取り消すことなんてできない。分かってる。でも、滝波くんにkanoさんのことを否定されたのがつらかった。私がようやく手に入れた唯一の友達が滝波くんで、私が初めて晒した病気のことに寄り添ってくれた人物がkanoさんだ。どちらも大切な友達なんだ。私が、蝶へと生まれ変わる後押しをしてくれた人たち。だから滝波くんに、kanoさんとの仲を応援してほしかった。
 そうだ。私は、滝波くんもkanoさんも、二人とも大切なんだ。
 だからどちらかに、否定なんかしてほしくなかった。

「……っ」

 潤んだ瞳で私を見上げる滝波くんを見ていられなくて、私はバッと席を立つ。学生たちが、教授の講義を聞くために、ノートを広げてペンを握っていた。そんな彼らの中で、私はどれだけ異質な存在に映っていることだろう。

「待って本間さんっ。僕の話を——」

 滝波くんが私を引き止めようとするのも構わず、私は講義室を後にした。
 講義室の扉の前で、鞄を抱きすくめながら、私は泣いた。

「ううっ……うあああああ」

 大学で、誰とも喋れないのに、泣き声だけは廊下に大きく響き渡る。
 滝波くんは、私とkanoさんとの仲を応援してはくれないのだ。
 滝波くんは所詮、みんなと同じ“普通”の人間だから。
 私やkanoさんが抱えている悩みを共有することなんてできない。
 今まで、目を背けていた事実がゆっくりと毒を垂らすみたいに全身を支配する。
 私はこの大学で、最初からひとりぼっちだった。