滝波くんが大学を休んだのは、その後すぐのことだった。
大学の講義なんて、サボる人もたくさんいるということを聞いていたので、最初は彼も一日サボっているのかと思った。でもやっぱりちょっとした違和感はあって、滝波くんは講義をサボるような人間ではないと感じていたのだ。
病気かもしれない。
心配だったけれど、なにせ私たちはいまだに連絡先を交換していない。交換するタイミングを失っていたのだ。
滝波くんとはいくつか講義が被っていたので、彼がいないとなれば私はまた一人ぼっちだ。自然と、心は『なないろ』に癒しを求めるようになってしまう。
【最近、初めてできた友達が休みがち。もしかしたら私、愛想を尽かされてしまったのかも】
滝波くんに限って絶対にそんなことはないと分かっているはずなのに、つい悪い方向へと考えが及ぶ自分に辟易とする。
滝波くんがいない松葉大学で、私はまた、無音の世界に取り残された。
昼休みに、味のしない食堂のご飯を食べる。滝波くんと並んで食べるお昼ご飯は、枯れていた私の心に水を垂らすように胸にもお腹にも染み渡っていた。数日ほど食堂で食事を一緒にしていただけなのに、こんなにも気分が変わってしまうなんて。
私は、手慰みについ『なないろ』を覗いてしまう。さっきの投稿にコメントがついていることに気がついた。
【08075683244 kano】
なにこれ……?
kanoさんから送られてきた数字の羅列に、目が釘付けになった。
ぱっと見、打ち間違いかと思ったのだけれど、数字の先頭が「080」であることに気づく。
さらに、数字は全部で11桁。
間違いない。これって、携帯の番号だ!
でも、どうして? どうしてkanoさんは、携帯番号なんてコメントで送ってきたのだろうか。
kanoさんからの何かのメッセージだということはすぐに分かった。電話をして、ということだろうか? でもkanoさんは、私が場面緘黙症だということを知っている。場面緘黙症の人で電話ができるかできないは人によるが、私は電話ができない方だ。同じ緘黙症を患っていたというkanoさんなら、電話が困難なことも分かっているはず。
電話じゃないとして、この番号、何に使うの……?
私は、いつものように立ち食い席で啜っていた、かけうどんを食べる手を止めて考え込んだ。
kanoさんと、直接話してみたいという気持ちは、私の中で確かに芽生えていた。『なないろ』の掲示板でのコメントでやりとりするのではなく、DMのようなかたちで会話ができたらどんなに楽しいだろうかって。でもあいにく、『なないろ』にはDM機能がない。あくまで自分が投稿したいことをつぶやいて、それに反応をもらうだけだ。マイノリティの人間たちは繊細な人が多いから、可能な限りユーザーのプライバシーを守ろうという方針なのだろう。もちろん、個人で連絡先を交換するようなコメントをするのも、アプリの規約に反することになる。だからもし、連絡先を交換するとすれば、運営にバレないようにするしかないのだが——。
そこまで考えて、私はkanoさんが残した数字の羅列をコピーしていた。
無意識のうちにSMSを開き、新規メッセージのページにコピーした数字を貼り付ける。トクン、トクン、と脈が少しずつ速くなる。期待の鐘の音だ。私は、kanoさんと直接メッセージをやりとりできるかもしれないということに、思いの外心が浮き足立っている。
【突然すみません。初めまして。『なないろ』で仲良くしていただいている、ミトと申します。kanoさんでお間違いないでしょか……?】
大きな期待と、少しの恐怖心が全身の血液を侵食していくみたいだ。自分の電話番号を知られるのは確かに怖い。もしkanoさんじゃなかったら、即連絡先を削除しなければ。でも、わざわざ『なないろ』に11桁の数字を晒したkanoさんだって、相当の勇気がいったはずだ。私と、本気で会話をしたいと思ってくれている。kanoさんの気持ちが、私の背中をドンと押してくれる。
そこまで考えているうちに、ピコンと通知音が鳴った。SMSだ。
通知は先ほど私が送ったメッセージへの返信で間違いない。
kanoさんだ。本当に、あの電話番号はkanoさんのものだったんだ!
逸る気持ちを抑えて、kanoさんからの返信を開く。
【こんにちは。ミトさん! よかったあ。『なないろ』に隠しメッセージみたいにしてコメント残したけど、気づかれなかったどうしようって思ってたから。あ、kanoで間違いないです。改めて、よろしくお願いしますっ】
目に飛び込んできたkanoさんからの返信は、思っていたよりもずっと快活で、少しの不安は一気に吹っ飛んだ。
私は昼ごはんを食べるのも忘れて、kanoさんからの返信に、さらに返信を重ねる。
【ご返信ありがとうございます。kanoさんと無事に繋がれてこちらこそよかったです。どうぞよろしくお願いします】
kanoさんからの返信は思いの外早かった。
やりとりをしていくうちに、kanoさんも同じ大学生だということが分かって、今は昼休憩中なのだと教えてくれた。「私もです。学食でぼっち飯してます」と言うと、kanoさんも同じなのだと言う。
私たちはひとしきり、他愛もない話で盛り上がった。好きな本や好きな映画、昔見ていたアニメなど、共通の話題が多く、まるで、隣でkanoさんと一緒に会話をしているみたいに話が弾んだ。
この感覚、いつぶりだろう。
滝波くんとも仲良くさせてもらってはいるが、彼と会話をするときはいつも私がテキストで、彼が口で話すので、どうしてもタイムラグが生まれてしまう。その点、kanoさんとの一分おきのSMSのやりとりは、テンポが良くて相手に対して不便をかけて申し訳ないという気持ちにもならない。
【ねえミトさん、よかったら今度お茶でもしない? 実はさ、今度ミトさんの通ってる大学のそばまで遊びに行こうと思ってるんだ】
会話が進んできたところで、kanoさんが驚くような提案をしてきた。私は、思わず「えっ」と口から漏れる。他人の前でなければ、こういう声は普通に出すことができた。
kanoさんが、私の街に?
何か別の用事でもあるのだろうか。kanoさんとは『なないろ』で出会い、こうしてSMSを始めたばかりだ。正直、ネット上で知り合った人と直接会うのはどうなんだろうかと疑問に思う。
でも、ともう一度自分の胸に問いかけてみる。
私、会ってみたい。
他の誰かならまだしも、kanoさんならばきっと、楽しく会話ができる。
同じ場面緘黙症の辛さを知ってるからこそ、気を遣わずに筆談と口で会話することだってできるはずだ。
ごくりと生唾を飲み込み、私はスマホに返事を打ち込んだ。
【ぜひ……会いたいです。よろしくお願いします】
言ってしまた後に、どんどん鼓動が速くなるのを感じた。でも嫌な感触じゃない。蝶がサナギの殻を少しずつ破っていく。私はサナギ。もう少しで、別の新しい自分に生まれ変われる気がするんだ。
【ありがとう! 場所と時間は——】
会ったことのないkanoさんの明るい笑顔が脳裏に浮かぶ。想像でしかないけれど、きっとkanoさんはこんな愛らしい笑顔を見せてくれるだろうと勝手に考えた。
いつのまにか、手元のうどんの麺が伸びきって。
私はその日、三限目の講義に五分だけ遅刻してしまった。
それなのに、心はどうしてかとてもワクワクしてたまらなかった。
大学の講義なんて、サボる人もたくさんいるということを聞いていたので、最初は彼も一日サボっているのかと思った。でもやっぱりちょっとした違和感はあって、滝波くんは講義をサボるような人間ではないと感じていたのだ。
病気かもしれない。
心配だったけれど、なにせ私たちはいまだに連絡先を交換していない。交換するタイミングを失っていたのだ。
滝波くんとはいくつか講義が被っていたので、彼がいないとなれば私はまた一人ぼっちだ。自然と、心は『なないろ』に癒しを求めるようになってしまう。
【最近、初めてできた友達が休みがち。もしかしたら私、愛想を尽かされてしまったのかも】
滝波くんに限って絶対にそんなことはないと分かっているはずなのに、つい悪い方向へと考えが及ぶ自分に辟易とする。
滝波くんがいない松葉大学で、私はまた、無音の世界に取り残された。
昼休みに、味のしない食堂のご飯を食べる。滝波くんと並んで食べるお昼ご飯は、枯れていた私の心に水を垂らすように胸にもお腹にも染み渡っていた。数日ほど食堂で食事を一緒にしていただけなのに、こんなにも気分が変わってしまうなんて。
私は、手慰みについ『なないろ』を覗いてしまう。さっきの投稿にコメントがついていることに気がついた。
【08075683244 kano】
なにこれ……?
kanoさんから送られてきた数字の羅列に、目が釘付けになった。
ぱっと見、打ち間違いかと思ったのだけれど、数字の先頭が「080」であることに気づく。
さらに、数字は全部で11桁。
間違いない。これって、携帯の番号だ!
でも、どうして? どうしてkanoさんは、携帯番号なんてコメントで送ってきたのだろうか。
kanoさんからの何かのメッセージだということはすぐに分かった。電話をして、ということだろうか? でもkanoさんは、私が場面緘黙症だということを知っている。場面緘黙症の人で電話ができるかできないは人によるが、私は電話ができない方だ。同じ緘黙症を患っていたというkanoさんなら、電話が困難なことも分かっているはず。
電話じゃないとして、この番号、何に使うの……?
私は、いつものように立ち食い席で啜っていた、かけうどんを食べる手を止めて考え込んだ。
kanoさんと、直接話してみたいという気持ちは、私の中で確かに芽生えていた。『なないろ』の掲示板でのコメントでやりとりするのではなく、DMのようなかたちで会話ができたらどんなに楽しいだろうかって。でもあいにく、『なないろ』にはDM機能がない。あくまで自分が投稿したいことをつぶやいて、それに反応をもらうだけだ。マイノリティの人間たちは繊細な人が多いから、可能な限りユーザーのプライバシーを守ろうという方針なのだろう。もちろん、個人で連絡先を交換するようなコメントをするのも、アプリの規約に反することになる。だからもし、連絡先を交換するとすれば、運営にバレないようにするしかないのだが——。
そこまで考えて、私はkanoさんが残した数字の羅列をコピーしていた。
無意識のうちにSMSを開き、新規メッセージのページにコピーした数字を貼り付ける。トクン、トクン、と脈が少しずつ速くなる。期待の鐘の音だ。私は、kanoさんと直接メッセージをやりとりできるかもしれないということに、思いの外心が浮き足立っている。
【突然すみません。初めまして。『なないろ』で仲良くしていただいている、ミトと申します。kanoさんでお間違いないでしょか……?】
大きな期待と、少しの恐怖心が全身の血液を侵食していくみたいだ。自分の電話番号を知られるのは確かに怖い。もしkanoさんじゃなかったら、即連絡先を削除しなければ。でも、わざわざ『なないろ』に11桁の数字を晒したkanoさんだって、相当の勇気がいったはずだ。私と、本気で会話をしたいと思ってくれている。kanoさんの気持ちが、私の背中をドンと押してくれる。
そこまで考えているうちに、ピコンと通知音が鳴った。SMSだ。
通知は先ほど私が送ったメッセージへの返信で間違いない。
kanoさんだ。本当に、あの電話番号はkanoさんのものだったんだ!
逸る気持ちを抑えて、kanoさんからの返信を開く。
【こんにちは。ミトさん! よかったあ。『なないろ』に隠しメッセージみたいにしてコメント残したけど、気づかれなかったどうしようって思ってたから。あ、kanoで間違いないです。改めて、よろしくお願いしますっ】
目に飛び込んできたkanoさんからの返信は、思っていたよりもずっと快活で、少しの不安は一気に吹っ飛んだ。
私は昼ごはんを食べるのも忘れて、kanoさんからの返信に、さらに返信を重ねる。
【ご返信ありがとうございます。kanoさんと無事に繋がれてこちらこそよかったです。どうぞよろしくお願いします】
kanoさんからの返信は思いの外早かった。
やりとりをしていくうちに、kanoさんも同じ大学生だということが分かって、今は昼休憩中なのだと教えてくれた。「私もです。学食でぼっち飯してます」と言うと、kanoさんも同じなのだと言う。
私たちはひとしきり、他愛もない話で盛り上がった。好きな本や好きな映画、昔見ていたアニメなど、共通の話題が多く、まるで、隣でkanoさんと一緒に会話をしているみたいに話が弾んだ。
この感覚、いつぶりだろう。
滝波くんとも仲良くさせてもらってはいるが、彼と会話をするときはいつも私がテキストで、彼が口で話すので、どうしてもタイムラグが生まれてしまう。その点、kanoさんとの一分おきのSMSのやりとりは、テンポが良くて相手に対して不便をかけて申し訳ないという気持ちにもならない。
【ねえミトさん、よかったら今度お茶でもしない? 実はさ、今度ミトさんの通ってる大学のそばまで遊びに行こうと思ってるんだ】
会話が進んできたところで、kanoさんが驚くような提案をしてきた。私は、思わず「えっ」と口から漏れる。他人の前でなければ、こういう声は普通に出すことができた。
kanoさんが、私の街に?
何か別の用事でもあるのだろうか。kanoさんとは『なないろ』で出会い、こうしてSMSを始めたばかりだ。正直、ネット上で知り合った人と直接会うのはどうなんだろうかと疑問に思う。
でも、ともう一度自分の胸に問いかけてみる。
私、会ってみたい。
他の誰かならまだしも、kanoさんならばきっと、楽しく会話ができる。
同じ場面緘黙症の辛さを知ってるからこそ、気を遣わずに筆談と口で会話することだってできるはずだ。
ごくりと生唾を飲み込み、私はスマホに返事を打ち込んだ。
【ぜひ……会いたいです。よろしくお願いします】
言ってしまた後に、どんどん鼓動が速くなるのを感じた。でも嫌な感触じゃない。蝶がサナギの殻を少しずつ破っていく。私はサナギ。もう少しで、別の新しい自分に生まれ変われる気がするんだ。
【ありがとう! 場所と時間は——】
会ったことのないkanoさんの明るい笑顔が脳裏に浮かぶ。想像でしかないけれど、きっとkanoさんはこんな愛らしい笑顔を見せてくれるだろうと勝手に考えた。
いつのまにか、手元のうどんの麺が伸びきって。
私はその日、三限目の講義に五分だけ遅刻してしまった。
それなのに、心はどうしてかとてもワクワクしてたまらなかった。