土曜日の午後の公園は、小さな子供を連れたお母さんや、椅子に座ってゆっくりしているおじいちゃんたちで溢れていた。私は滝波くんと並んでベンチに腰掛ける。ようやく男に連れ去られそうになった恐怖心が安らいできた頃だ。

「ずっと、本間さんに隠してたことがあるんだ」

 滝波くんは遠くのブランコに揺られる小さな女の子を眺めながらつぶやいた。私も、あれぐらい小さい頃は外でも普通に友達と会話をすることができていたんだっけ。お母さん、見て! と女の子の声が晴れた空の下で大きく響く。彼女の母親と思しき人物が、スマホでカメラを構えて笑っていた。

『隠してたこと?』

 スマホで打った文字は、滝波くんにどれくらい届いているのだろう?
 教室でノートに書き綴った気持ちも、ぜんぶ。滝波くんは私と会話をして楽しいと思ってくれているのだろうか。

「ああ。たぶん聞いたらびっくりすると思うし、なんなら信じてもらえないと思う。でも、本間さんになら話してもいいかなって、思って」

 滝波くんの身体が、よく見たら小刻みに震えていることに気がついた。
 ああ、私、知ってる。この感覚、何度も経験したことがある。
 怖いんだ。
 滝波くんは、これから私に話そうとしていることを、私に受け入れてもらえないんじゃいかって不安になっているのだ。だったら私は。私は、喋れない私にも普通に接してくれた彼に、何ができる?

『話してほしい。絶対信じるから』

 ひとつひとつの文字を打つのに、相当時間がかかった。大学の講義室で、感情が昂っていたとはいえ、滝波くんに『気持ち悪い』と言ってしまったときのことがフラッシュバックする。滝波くんが、私の言葉に傷つかなかったはずがない。それでも今日、私を助けてくれた。その時思ったのだ。私は、この人のことを信じたい、と。

「ありがとう」

 私の返答を見た滝波くんの瞳が、決意に満ちたものに変わる。彼の目に映る自分の顔が、少しだけ強張っている。でも、受け止めなくちゃいけない。何を言われても、きちんと耳を傾けよう。私は滝波くんに、間違いなく心を救われたんだから。

「僕さ、人とは違う能力を持ってるんだ」

「……」

 人とは違う能力。それって、特殊能力ってこと?

「多分、信じてもらえないって言ったのはそういうこと。僕、人が書いた文字に色が付いて見えるんだ。色は、書いた人のその時の感情によって変わる。暗い気分の時は暗い色に、明るい気分の時は明るい色に見える」

 文字に、色が付いて見える?
 初めて聞くその能力に、私は確かに混乱した。大学の心理学の講義で、「共感覚」というのを習ったことがある。“ある感覚刺激によって、ほかの感覚を得る現象”だと教えてもらった。例えば、「A」という文字が赤色に見えるというようなものだ。
 でも、滝波くんの言う能力は、共感覚とは違っているように思える。

『すごい……変わった力だね』

「ああ。僕も、初めてこの能力に気づいた時はびっくりした。小学生の頃だったかな。友達からもらった手紙の文字が黄色に見えてさ。母さんに伝えたんだよ。そしたら、『それ、誰にも言ったらダメよ』って母さんが言うんだ」

 滝波くんは目を細めて、当時の母親の言葉を鮮明に思い出している様子だ。

「僕が『どうして?』って聞くと、母さんは『みんなと違うから』って答えた。僕はその時母さんの言うことに分かったふりをして頷いたけれど、心の中ではずっと疑問が消えなかった。『どうして、みんなと違ったらいけないんだろう』って」

 とくん、とくん、とくん。
 身に覚えのある感覚に私の鼓動が反応している。場面緘黙症になったばかりの頃、周りの友達に冷ややかな視線を向けられていたことを思い出す。
 みんなと違ったらダメだ。
 それは私が場面緘黙症になってからずっと、心のどこかで思い続けてきたことだ……。

「そんな疑問もさ、中学に上がる頃には解決したよ。僕は母さんの言いつけを守らずに、友達が書いた文字が青色に見えた時、『何か悩みがあるの?』って聞いた。ピンクに見えた時は『彼女でもできた?』って。最初はみんな、『滝波ってすげえな。エスパーみたい!』って僕のこと褒めてくれたんだ。僕も、調子に乗っていろんな人の感情を言い当てていた。でも、さすがにやりすぎたんだ。みんな、次第に僕のことを『気持ち悪い』って言うようになった。人の気持ちを読めるなんて、どうかしてるって」

 じわり、じわり、と生ぬるい液体が服の下の肌を伝うように、気持ち悪さを覚えた。

「ようやく分かったんだ。母さんが僕に『みんなと違うから、能力について喋っちゃだめだ』って言った理由が。僕は、浅はかだった。みんなと違うことが、こんなにも自分を追い詰める牙になるなんて、思ってなかった」

 拳を握り締め、唇を噛んで悔しそうに顔を歪める滝波くん。私は、今にも決壊してしまいそうな想いが、喉元まで迫っていた。

「それからはもう、二度と能力のことは口にしないって誓った。おかげで高校生活は普通に友達と楽しむことができたんだ。大学に入っても、僕は“普通”でいよう。そう、思ってたんだ。でも」

 滝波くんは私の瞳をじっと見つめる。私は、声にならない悲鳴をあげたくなった。

「……初めて本間さんに会った時、あれは確か『ジェンダー論』の講義だったよね。僕は本間さんの斜め後ろの席に座っていた。たまたま、本間さんが一生懸命ノートに板書しているのが見えて。その文字が、灰色だったんだ。シャーペンの鉛色の黒じゃない。くすんだ灰色をしていた」

 灰色。
 私はあの日、大学でも友達ができないことにひどく落ち込んでいた。その気持ちが、文字に表れていた。滝波くんにしか見えない、色を帯びてしまっていた。

「最初は無視しようと思ったんだ。でも、本間さんが一生懸命ノートを書いているのを見て、やるせなくなった。彼女の悩みを、僕が聞いてあげたい。馬鹿だよね。その時はまだ、友達でもなんでもないのに、心が勝手に叫んでたんだ。だって、本間さんが抱えているものを、僕しか気づいてあげられないかもしれない。もしここで無視したら、本間さんが大学に来られなくなって、後悔するかもって。そこまで考えて」

「あの」と滝波くんは勇気を出して私に声をかけてくれた。

——あ、突然話しかけてすみません。僕、滝波新っていいます。一年生です。すごい熱心にノート書いてたから気になって。

 滝波くんが、平静を装って私に話しかけてくれた時のことを思い出す。私はただ、滝波くんがものすごく社交的で、一人ぼっちで可哀想な私に声をかけてくれたんだと思っていた。でも、違ったんだ。

「びっくりさせたことは悪かったって思ってる。でも、きみのノートの文字が灰色なのがどうしても気がかりで。……僕と知り合って、大学で会うたびに、灰色だったノートの文字は少しずつ明るいものに変わっていったのが分かった。だから本間さんはもしかしたら、友達がいないことに悩んでたのかなって。自惚れだけど、そう思ってたんだ」

 間違っていない。私は、友達ができないことに悩んでいた。
 それを、場面緘黙症のせいにしている自分が嫌いだった。
 滝波くんは、見抜いていたんだ……。

「『なないろ』のアプリの存在を知った時、何か他にもヒントがあるかもしれないって思った。そこで初めて、きみが場面緘黙症だって知った。正直びっくりしたよ。でも、それもきみの個性の一つだと思って、それ自体はそこまで気にならなかった。でも、kanoっていうユーザーのコメントを見て震えそうになったんだ。kanoが書くコメントの文字が、どす黒く、澱んでいたから」

「……」

 なんということだろう。 
 滝波くんは、私のスマホで『なないろ』を見た時、kanoさんの文字の異様さに気づいていたなんて。

「kanoの文字が真っ黒なのに対して、kanoに返信するきみの文字はだんだん明るくなっていたんだ。一目で、kanoがきみに何か企んでいるんじゃないかって分かった。kanoに今日のことを誘われたって言った時、きみのノートの文字はピンク色だった。だから、何かいいことがあったのかなって気づいたんだけれど。それがkanoとの約束だって分かって、僕は鳥肌が止まらなかった。kanoは間違いなくきみを騙そうとしてる。そう思ってたから」

 すう、はあ、すう、と滝波くんの呼吸音が大きく震える。私は生唾をごくりと飲み込んだ。

「きみに嫌われてもいいから、今日の約束のことを反故にしてほしいって思った。だから、
kanoと遊びに行くなって言ったんだ。不快にさせてごめん。でも、僕はきみを放っておけなかった。きみの傷ついた心の文字の色を、もう見たくないって、思ったんだ……」

 滝波くんの声だけじゃなくて、身体も震えていた。
 どうして気づかなかったんだろう。
 文字の色について、確かに私は気づけるはずもない。滝波くんだけが持っている特殊能力だから。そうじゃなくて、どうして私は、滝波くんが私を想ってくれていることに気づかなかったのか。『なないろ』というアプリの向こうの顔も知らない人物より、彼の言うことをまっすぐに信じていたのなら。今日、滝波くんが怖い思いをして私を助けなくてもよかったんだ……。

「ううっ……」

 気がつけば、口から嗚咽が漏れていた。私の声を初めて聞いた彼の瞳が大きく見開かれる。
 滝波くん。ごめん、ごめんね。私はあなたのことを信じていなかった。
 悔しいよ。だって、初めてできた友達だったのに。
 もう失いたくない。言葉にして伝えたいという想いが、腹の底からぶわりと湧き上がる。私は、すうっと大きく息を吸った。苦しくない。大丈夫だ。滝波くんは私を信じてくれていた。私を救おうと、能力を明かす恐怖心と闘って、もがいてくれていた。だから私だって。この恐怖に、立ち向かうんだ——。

「……ありがとう」

 蚊の鳴くようなか弱い声だった。自分の声かと疑うくらい、ひ弱で、震えていた。家でお母さんと話す時とは全然違う。今にも壊れてしまいそうな音。消えてしまいそうな言葉。でも、そんな私の小さな声を、滝波くんはしっかりと拾い上げてくれた。
 彼が、目を瞬かせて私をじっと見つめる。

「助けてくれてありがとう、滝波くん」

 今度は少しだけはっきりと、彼の目を見て伝えることができた。
 小学校で場面緘黙症になって以来、初めて外で他人に自分の気持ちを伝えられた。心臓の音がトクトクと速くなるのが分かる。滝波くんの表情が、一気に泣き笑いみたいに崩れた。

「本間さん……すごい、すごいよ。喋れるようになったんだね。本間さんはやっぱり、強いよ。僕のほうこそ、友達になってくれてありがとう」

 滝波くんが私に右手を差し出す。私は、その手を掴みながら鼻を啜った。
 公園ではしゃいでいた子供の声が消えた。いつのまにか、夕暮れのまぶしい光が公園を橙色に染め上げている。

「滝波くんの連絡先、教えてもらってもいいかな?」

「いいよ。あ、でも、メッセージだとやっぱり文字の色が気になっちゃうかも」

「それなら……電話にしない?」

「ああ、本間さんさえよければ」

 滝波くんに私の電話番号を伝えると、彼が私に電話をかけてくれた。かかってきた番号を、私は連絡先に登録する。
 滝波新。
 私の、新しい友達の名前だ。
 連絡先に刻まれた彼の名前を見た時、私は狂おしいほどの愛しさが込み上げてきた。

「あの、もしよければ呼び方も……その、新って名前で呼んでもいい?」

 もし自分に友達ができたら、名前で呼び合うのに憧れていた。滝波くん——いや、新は私の目をじっと見て、それから大きく頷いた。

「もちろん。これからもよろしく、美都」

 彼が、柔らかな笑みを浮かべて私を見ている。この人と、私はずっと友達でいたいと心から思った。
 橙色の空が、群青色に変わり始める。私たちは、変わりゆく空を、二人並んで見上げていた。お互いの体温は、すぐ近くにあった。