トワイライト


「由世(ゆせ)ちゃん、彼氏できた?」


 スマホを触っていた手が、止まった。母の声がはっきりと耳に届いて、墨を溶かすような不快感がじわじわと心に広がっていく。

 ストン、と母が野菜を切る音が響いた。


 スマホに視線を落としたまま「できてないよ」と呟いて、画面をスクロールする。私たち結婚します、と並んで笑みを浮かべるインフルエンサーの指で、誇るように指輪がきらめいていた。

 母のため息が聞こえた。

 イヤホンに手を伸ばし、耳に押し込む。動画配信アプリを閉じて、音楽を再生する。何度も聴いた心地よい音楽に包まれた、その時だった。

 トントン、と肩のほうをたたかれる。振り返ると、母の口が「ゆ、せ、ちゃ、ん」とかたどるように動いていた。いつのまに料理を中断したのか。

 片方のイヤホンを外す。


「なに?」
「なに、じゃなくて。由世ちゃんはもう高校生でしょ。彼氏の1人や2人、できないの」
「2人いたらまずいでしょ」


 イヤホンをもう一度つけようとすると、ぱしっとその手を掴まれた。今日はなんだか、しつこい日だ。どう逃げきろうかと考えるだけで、辟易する。

「またそうやって誤魔化してばかりで。この歳にもなって、彼氏どころか、好きな人とかの話もしないじゃない。そんな調子で、あなた、どうやって結婚するつもりなの?」

 母の目がまっすぐに私を見ている。責められているような気持ちになって、思わず目を逸らした。


「……そんなの、私の勝手でしょ」


 言葉が落ちる。投げやりな言葉に、母は呆れ笑いをもらした。


「そもそも彼氏がずっといないっていうのが、お母さんからしたら考えられないのよ。もっと積極的に話しかけたらいいのに。愛嬌が足りないのかしら」


 頬に手を添えて首をかしげる母。
 母にはこういう節がある。よかれと思って発する言葉のなかに、どれほどの棘があるのか、気づいていない。


「由世ちゃんには普通に恋愛して、普通に結婚して、普通に幸せになってほしいのよ」
「……結婚するかどうかなんてわかんないし」
「何言ってるの? 一生孤独でいるつもりなの? そんなのもったいないわよ。女の子なんだから結婚して幸せになるべきだわ」


 口を閉ざす。喉元が熱くなる。
 ぷつり。今まで必死に保ってきたなにかが、切れる。そんな音がした。


 掴まれていた腕を振り払う。勢いよく跳ね除けた手を、母は驚いたように見つめていた。それから、ゆっくりと私に視線を戻す。
 瞳がかち合って、もう、止められないことを悟った。


「お母さんが高校生の時は……」
「うるさいな!! もうほっといてよ!」


 目を見開く母を睨みつけて、リビングを飛びだす。
 靴のかかとを踏みつけたまま、ドアを開ける。外に出ると、なまぬるい風が頬を撫でた。


 嫌い。きらい。

 ぜんぶ、だいっきらい。


─────────


 公園のベンチに座ったまま空を見上げると、薄い青色の向こうに、ピンク色が広がっていた。境目は曖昧で、絵の具が溶けているみたいだ。


『由世ちゃん、彼氏できた?』


 母の声がフラッシュバックする。唇を噛んだ。
 彼氏なんて、いない。欲しいと思ったことすらない。


 愛されるということは、素晴らしいことなのだと、思う。
自分を肯定してくれる相手に出会う確率は、本当に少ない。まさに奇跡だ。


 友達はほとんどが彼氏持ちか、あるいは誰かに片想い状態。
 少なくとも、「誰かを愛し、愛される」ことを欲している。"普通"の枠に、入っている。


「わっかんないな……」


 私は外れている。
 みんなにとっての"普通"から、一般論から、社会から、外れている。
 恋愛に興味がない私は「おかしい」のだと。そう後ろ指をさされているような気持ちになるのはなぜだろう。


『由世ちゃんには普通に恋愛して、普通に結婚して、普通に幸せになってほしいのよ』


 母の言葉は、きっとすべて善意でできている。そんなことは、わかっているのだ。でも。

 その善意が、今はまっすぐすぎて、痛い。


 だんだんと暗くなる空を眺める。母の顔が脳裏に浮かんだ。驚いたように丸くなった目が、私を見ていた。まるで理解できないものを見るような顔だった。

 もし今帰ったとしても、どんな顔で母に会えばいいかわからない。どんな反応が返ってくるかもわからない。また同じような説教が続くのは嫌だったし、逆に謝られるのも情けなくて嫌だった。
 じゃり、と足元の砂が音を立てる。行き場をなくした靴を地面に擦り付けて、ため息をつく。
 しばらくそうやって、地面を見つめたままやりすごす。

 スマホに視線を落とすと、いつのまにか時刻は18時半になっていた。まだ、帰りたくない。


 ……散歩でもしようか。


 視線を下げたまま、重たい腰をゆっくりと浮かせる。


「──場所チェンジ? だったらあのブランコんとこ、行かない?」


 ふいに横から声がして、びくりと肩が跳ねた。それと同時に出た悲鳴が、静まり返る公園に響く。


「間抜け」


 声のした方を振り返ると、そこには見たことのない男の人が立っていた。すらりと伸びた背が、長い影を作っている。

……間抜け、と。聞き間違いでなければ、そう言われた。
 あまりに失礼だ。ベンチに座ったまま、彼を睨みつける。


「誰ですか」
「どっかのしがない学生」


 彼の口許がちいさく緩む。必死に睨みつけているのに、ものともしないような態度だ。
 紫色に変わりつつある空に、彼の髪が重なって、さらさらと風に揺れている。


「信用できないです」
「うーん、学生証見せようか」
「見せてくれるなら」


 彼は頷いて、スマホケースからカードを取り出した。ためらう素振りも見せず、それを差し出す。


「ほい」
「……どうも」


 一通り眺めてみる。それは、間違いなく学生証のようだった。顔写真と学校名を見て、思わず声が洩れそうになった。それを見ていた彼が「なに不満げな顔してんの」と笑う。


「学生証の写(うつ)りじゃない」
「結構イケてるっしょ、俺」


 普通、学生証って実物より劣るものじゃないのか。こんなに実物そのままの造形でうつるなんて。


「高校名見てビビった?」
「偏差値鬼高いところですよね」
「一応そこの学生っすね」


 どうやら彼は頭がいいらしい。
 一度彼の顔を見てから、学生証に目を落とす。そこに書かれた文字の羅列から、目が離せなくなる。


────咲間宵(さくまよい)。


 名前負けしそうなくらい綺麗な文字列なのに、よく似合っている。さくまよい、と口の中で転がすように呟いてみる。


「……きれいな名前、してるんですね」


 彼はふわりと微笑を浮かべた。


「信じてくれた?」
「はい、一応」


 学生証を差し出すと、彼はそれをまたスマホケースに挟んだ。
 ふ、とちいさく息をついて、彼が後ろを振り返った。ブランコを指差して、もう一度私を振り返る。


「ブランコんとこ行こ」
「どうしてですか」
「俺がブランコ漕ぎたいから」


 なんだそれ、と思う。全然理由になっていないのに、あまりにも彼が誇らしげにするから、思わず笑みが洩れた。

 ベンチから立ち上がり、ブランコまで歩く。ふたつの砂の音がした。

 ブランコに座ると、ひんやりとした感覚が太ももの裏に伝わる。金具を握って、地面を蹴る。ほんの少し、鉄のにおいがした。

 ブランコなんて、いつぶりだろうか。中学生のときにした記憶はないから、もしかすると小学生ぶりかもしれない。
 正しい漕ぎ方をすればいいのに、わざと左右に漕いで意地悪をしてくる男子生徒がいたからあまり好きじゃなかった。


「名前は?」


 ブランコを漕ぎながら、咲間さんが私の方を向いた。


「由世です」
「どんな字書くの」
「知る由もないのヨシに、前前前世のセ」
「絶対わざと難しい説明の仕方したでしょ。自由の由とか言ってよ」


 わざとだ。どうせ彼なら分かるだろうと意地悪な言い方をしただけだ。


「だって咲間さん、頭いいから分かるでしょ」
「……宵」
「え」
「宵でいいよ。俺も由世って呼ぶから」


 続くように「あ、あと敬語もなし」と、釘を刺される。距離の詰め方に慣れを感じる。学生証を堂々と晒せるほどには整った顔なのだ。どうせ可愛い彼女がいるのだろう。私とは違う"普通"の枠に当てはまることができる人間だから。

 キイ、キイとブランコが悲鳴を上げる。
 そういえば昔は、持ち手のところが急に千切れたらどうしよう、なんてことを考えながら漕いでいたっけ。


「由世」
「ん?」
「由世って、恋人いるの?」


 ザリッと靴が擦れた音がする。気づけばブランコを止めていた。途端に風が来なくなる。

 唐突すぎて驚いたけれど、私が慣れていないだけで、今のキラキラ陽キャ男子高校生は、こんな会話から距離を詰めてくるのかもしれない。


「どうして?」
「ふつーに、気になったから」


 特に深い意味などないらしい。宵はブランコを漕いだまま、まっすぐ前を見据えている。


「いないよ」
「そか」


 宵の返事は、ひどくあっさりしていた。
 もっと大袈裟な反応をされると思っていた。最悪、馬鹿にされるかもしれないと。けれど宵は何も言わずに、あいかわらず飄々とした表情でブランコを漕いでいた。
 唇の隙間から、声がこぼれ落ちる。


「……好きとか、よく分かんないから」
「わかるわー」


 間延びした声で宵が言葉を返した。呼吸が止まる。
 今のは、絶対に適当な共感だ。分かるわけないのに、彼は特に考えることなく共感するふりをしたのだ。


「嘘つき。宵はいるでしょ、そういう相手」


 もう一度地面を蹴って、ブランコを漕ぎ出す。キイ、キイ、とブランコが鳴る。どうせなら、もっと大きく鳴ってくれたっていいのに。宵の声が、聞こえなくなるくらいに。


「いるね」


 宵はしばらく黙っていた後、ひとこと、そう言った。

 頭を殴られたような感覚になる。
 ほら、やっぱり。意味のない共感なんてただの冷やかしだ。
 手すりを掴む手に力がこもる。


「……その場しのぎの共感、やめたほうがいいよ」
「いやいや、ほんとに思ってるから」
「相手がいるくせに、なに言ってるの」


 彼も、私とは別の世界に生きる人だった。この瞬間に、彼と私の間には大きな壁が築かれた。

 分かりきっていたことだった。
 それなのに、心のどこかで期待をしてしまったから、無駄に心を痛めることになる。バカみたい。

 私はまた孤独だ。



「好きって何か訊かれたら、どう答えていいか俺も分かんない」


 いつのまにか、宵は漕ぐのをやめていた。微かな息遣いの合間に、ぽつぽつと言葉を落とす。


「好き、って概念的なものじゃん。具体的なことはよく分かんないけど、気づいたら『あ、好きだな』って思ってるわけよ」


 あ、好きだな。
 そんなふうに思ったことが、一度でもあっただろうか。
 素敵だな、と思うことがある。優しいな、と思う人がいる。だけど。


「……好きだな、か」


 それが恋愛感情かと言われると、素直に頷くことができない。


「大事にしたい、っていうのはまた違うの?」
「大事にしたいから好きってわけじゃなくて、好きだから大事にしたいんじゃね」
「ますます分からなくなった」


 やはり恋愛上級者の言うことはよくわからない。首を捻ると、宵は腕を組んだ。


「理屈じゃないって言うか……大事にしたい人が好きな人、とか。大切に思うから恋だとか、そういうんじゃないんだよね」
「……どういうこと?」
「うまく説明しろって言われたらむずいんだけど、俺の場合は、好きっていう感情がどかんと先にくる感じ? それで、大事にしたいなって思うわけ」


 人を好きになるという感覚がいまだによく分からない。いくら説明されても、好きがどかんと先に来るなんて、経験したことがない。

 深く息を吐きだす。


「……羨ましいとか、思わないんだよね。正直」


 ぽつりとこぼれた言葉に、宵は「ん」と少しうなずいただけだった。


「素敵だなとは思うけど、誰かと付き合いたいとか、結婚したいとか、今はまだ思えない。だけどみんなは当たり前みたいに恋愛してるのに、私は、ずっとなにもなくて。それって、私がおかしいからなのかな」


 本当は、嫌だ。

 普通じゃない。みんなとは違う。
 私は正しくない。
 そんなふうに毎日毎日自分を責め続けるのは。


 声にしようとすればするほど、目の奥からあついものが込み上げてくる。


「周りはみんな好きな人がいて、ちゃんと付き合って青春してて。失恋とか、片思いとか、そういうのばっかり。でもっ、私は……なにも、ない……からっ」


 ぽろ、と堪えきれず涙がこぼれ落ちた。


「せめて、普通だったらなぁ……」


 恋をして、付き合って、結婚して、子供に囲まれる生活をして。
 そのたびに幸せを噛み締めながら、たくさんの人に祝福してもらえる人生だったら。
 もっとはやいときから、誰かと付き合うことができていたら。そうしたら今よりもっと生きやすくて、ちゃんと"普通"に生きられたかもしれない。


「由世が思う普通って、なに?」


 ずっと黙って聞いていた宵が、おもむろにブランコから降りて私の前に立った。沈む直前の太陽が、宵の影をつくる。


「恋愛して、結婚すること。それが普通だし、主流でしょ。昔も今も、たいして変わらないこと」


 そうやって、人類は命をつないできた。それなのに私は、その命のつながりすら放棄する可能性を秘めている。結婚しない、という選択肢をとる可能性だってある。
 それは人間として。


「なにか、間違ってる……?」


 目頭が熱い。苦しい。こころが、痛い。


「ふぅん、なるほど」
「なんで笑うの」


 宵は含み笑いを浮かべていた。
 その表情から、宵の感情を掴むことはできない。


「じゃあ、こんなにイケてる俺にも惚れないわけだ」
「……惚れない。素敵だとは思うよ、宵は」
「そりゃどうも」


 おどけた口調の宵を、横目で見る。
 彼女がいるくせに、平気でそんなことを言っていていいのか。
 俺にも惚れないのか、なんて自信家にもほどがある。彼はどこまでが本気でどこまでが冗談なのか、よくわからない。


「でもさ、由世」


 急に宵の息遣いが変わった。公園の空気が、凛と張る。
 見上げた彼の表情は、少し、ほんの少しだけ、寂しそうだった。





「それが由世にとっての普通なら、俺も普通じゃないかもしれない」
「……え」
「俺も、一般論とは外れてるんだと思う」



 何を言っているのか分からなかった。
 宵には彼女がいる。それだけでも、私が思い描く"普通"の枠に、じゅうぶん当てはまっているのに。


「付き合ってる人、いるんでしょ?」
「いるよ」
「じゃあどうしてそんなこと言うの?」


 くだらない嘘で振り回すのはやめてほしい。視線が絡み合う。一拍の間の後で、宵の目がすっと細くなった。








「俺、彼女がいるわけじゃないから」

 






 言葉はちゃんと聞き取れたはずなのに、何を言われたのかわからなかった。

 付き合っている人は、いる。彼女は、いない。
 対極にあるようなことを告げられて、戸惑う。おそるおそる宵の顔を見上げると、宵はすぐに目を逸らした。


「……え、っと」


 彼女枠じゃないけれど、付き合っている人がいるということなのだろうか。交際の形はとっているけど、本当に好きなわけじゃない、とか。特定の相手はいないけど、恋愛ごっこをする相手が何人もいる、とか。

 そんな考えは、宵の表情を見たらすぐに消えていった。
 今にも消え入りそうな、そんな顔をしている。そんな彼が、遊んでいますみたいな宣言をわざわざするだろうか。

 そんなわけ、ない。


 宵には付き合っている人がいて、だけどそれは彼女ではない。


『由世って、恋人いるの?』


 頭に浮かんだひとつの可能性を、反芻する。

 思い返せば、宵は『彼氏いる?』とは聞いてこなかった。『恋人』という表現をしていた気がする。
 そういう細かな気遣いがあったから、私はこうして彼に思いを打ち明けることができているのかもしれない。

 宵がへらりと笑う。それは笑っているはずなのにどこか怯えているようにも見えた。
 複雑に絡まっていた糸がほどけて、たったひとつの答えに集約する。


「ビビった?」
「ビビるっていうか……いや、うん。びっくりはした。まさか打ち明けてくれるなんて思わなかったから」
「由世だって、自分の気持ち打ち明けてくれたじゃん。俺だけ黙ってるなんて、フェアじゃないだろ?」


 宵がケラケラと笑う。
 宵の反応的に、私が受け取った情報は間違っていないらしい。慎重に言葉を選ぼうとすると、どうしても唇がかさついて重たくなった。


「それって、つまりさ」
「きっと由世の思う通りで合ってるよ。そういうこと」


 宵の唇が、きれいな三日月の形を作る。


──つまるところ、宵には同性の恋人がいるというわけだ。


「ごめん。私てっきり、宵は……」
「いーよ。俺たちどっちも普通じゃないだろ」
「本当にごめんなさい」


 "普通じゃない"と宵は強調するように繰り返した。自分を否定するために発した言葉が、どれほど棘を持っていたのか今になって自覚する。

 恋愛とか、結婚とか。普通じゃないとか。無責任な発言をしすぎた。
 最低だ、私。


「べつに謝ることじゃないよ。俺が何も言わなかったから、そう思うのも当然だし」
「ほんとに、ごめん」
「いいって。目で見てわかるもんじゃないから、由世はなにも間違ってないよ。それに、少数派なのにかわりはないから」


 マイノリティ。
 同性のことが好きな人。学校の先生がそんな言い方をしていたことがある。私はあまりその言い方は好きじゃない。

 好きになった人が偶然同性だっただけ。偶然異性だっただけ。

 人を好きになる、ということは共通していて、今の私にはない感情だ。


 もう一度ブランコに座った宵は、そのまま空を見上げる。私も宵の真似をした。

 今日の空は、青と紫と桃色が混ざり合った色をしている。依然として、境界線がぼやけてみえない。

 どこから青と紫にわかれていて、それから桃色に変わっているんだろう。
 目を凝らしてみても、明確なラインはわからなかった。

 空を見たまま、となりにいる宵にたずねる。


「宵の好きな人は、どんな人?」
「すごい綺麗なやつ。そんで、俺を肯定してくれるやつ」
「……宵?」


 宵は唇を噛んで、前を見据えていた。


「俺、昔から身体弱くてさ」


 宵がつぶやく。それから唇の端をあげて、おどけたように笑った。
 

「ほら、俺ってイケてるじゃん?だから、身体弱いのってすごい致命的っていうか。もったいないって言われることが多くてさー」


 語尾に笑みを混ぜ込む宵が、今にも泣き出しそうな顔をしていたから。


「……宵」


 名前を呼ぶと、彼はこちらを向いた。その目は透き通っていて、今にも溢れ出しそうな感情がそこにあった。


「おどけたりしないでいいよ。私、ちゃんと聞きたいよ。宵の話」


 息を吸って、吐きだす。ふたりの呼吸が交差する。宵は唇を噛んだ。その瞳から、透明な雫がこぼれ落ちる。


「頑張ってるのに、どうして"もったいない"なんて言われないといけないんだろうって」


 繊細な彼の髪が、風を受けてなびいた。


「体育祭とか出られないし。部活もできないし。女子は運動ができたほうがかっこいいって思うのかもしれないけど、応えられないし」
「うん」
「一回走ってみてよって言われて、断れそうになかったから試しに走ったら案の定倒れて救急車。女子大泣き。散々な言われようだった」


 いろんなものを持っているように見えて、困りごとなんて何もなさそうな宵も、心の奥底でたくさんの気持ちを抱えている。


「俺がこんなだからだめなのかなとか、もっと丈夫な身体だったらよかったのにとか、自分のことすごい恨んだ。悔しくて、苦しくてさ。自分のこと嫌いになりかけたときもあった」
「……うん」
「だけど、そいつだけ」


 宵は、クラスメイトの奴なんだけど、と説明を加えながら言葉を続ける。


「『宵は宵だから、そのままでいいじゃん』って言ってくれたんだ。よく聞く言葉じゃん、これ。定型文? 常套句? そんなやつ」
「うん、わかるよ」


 たしかによく聞く言葉だ。とくに学校では、人と違えば省かれたり憐れみの対象になるのに、自分らしく、ありのままでいろだなんて、呪文のように唱えられる綺麗事。


「わかってたんだよ、よく使われる言葉だって。でも、そいつに言われたとき、すげえ救われたんだ。それが当たり前みたいな顔で言われた時に、俺は俺なんだって再認識できて、そのときだったと思う」


──そいつのこと好きだって思ったのは。


 そう言った宵の顔は、とても清々しかった。
 相槌を打ちながら、私は宵のことを猛烈に羨ましく感じていた。


 宵の恋愛というのは、たしかに私が言っていた"一般論"とは少し違うものなのかもしれない。けれど、目の前にいる彼は今、とても幸せそうな顔をしている。


「そいつは、俺が嫌いになりそうな俺を、好きでいてくれた」


 普通という名の枠に当てはまらない自分を、ずっと責め続けて、惨めだと思い続けて、自分の首を絞めていた。けれど、枠に当てはまることが本当に幸せなことなのか。枠から外れてしまえば、不幸せなのか。
 そもそも普通の枠なんて、誰が決めたのか。


──自分だ。
 普通を強制されることに嫌悪感を抱くふりをしながら、いちばんそれを気にしていたのは、紛れもなく私。



「俺たちはまだ学生だろ? これからもっといろんな人に出会って、色んなこと経験して、もちろん別れもあるかもしれないけどさ。そうやって大人になっていくじゃん」
「……うん」
「由世がこの先ずーっと恋人がいないまま生涯を終えるのか、それとも誰かに出会えるのかは分かんないけど。少なくとも自分の生きたいように、由世のやりたいように生きたらいいよ」


 宵の言葉選びが好きだ。
 ずっと心に溜め込んでいた気持ちが流されて、洗われていくような気がするから。


「家出、してきたんだろ?」


 問われて、母との口論を思い出す。家に帰ったら、母はどんな顔をしているのだろう。

 そのとき、ピロンとスマホが鳴った。通知を見ると、母からのメッセージだった。


【由世ちゃん。もう外暗いから帰っておいで】
【今夜はハンバーグにするよ】


 母の声で再生される。脳裏に母の顔が浮かんだ。


「もう帰んなきゃだ」
「不服そうな顔されてますね、おじょーさん」
「なんで茶化すの」


 このまま帰ってしまえば、宵とはもう一生会うことがないかもしれない。それがなんだか惜しかった。

 宵はとても素敵な人だ。
 できることなら、これからもこうして顔を合わせて、話がしたいと思ってしまうくらいに。


「また、会う?」


 押し黙っていると、ふいにそんな言葉が落ちてきて、目を見開く。私の心を見透かされたみたいだった。


「ダメ。宵の恋人さんに悪い」
「なに、俺のこと恋愛対象としてみてんの?」
「そんなわけない。100パーセント、ない」
「実は俺がここに来てんの、知ってるんだよね。あいつ」


 宵がそう呟いた。


「……え」
「行ってきていいよって許可もらって、俺は由世に会いにきた。公園でずっと暗い顔してる人、気になって仕方なかったし」
「なにそれ」


 そんなに長い間居たつもりはないのに。まさか見られていたなんて。


「じゃあ早く帰ってあげて。私なんかに時間使ってる暇ないよ」


 宵はケラケラと笑う。


「心配しなくても、明(めい)との時間はとってありますから」
「めいさん、っていうんだ」
「そうだよ」
「……そっか。それなら、よかった」


 宵の表情がふっと和らぐ。
 人は誰かを想う時、こんなにも優しい顔をするんだ。


「俺、よくここに散歩しに来るから。また会えるかもな」
「宵の恋人さんにも、いつか、会ってみたいな」
「別にいいけど、もし惚れてもやらないから」
「大丈夫だってば」


 空を見上げると、もうすっかり藍色になっていた。

 夕暮れと、夜の間。
 この時間帯のことを、【宵】と呼ぶ。



「……トワイライト」
「え?」
「今みたいな、夕暮れどきの薄明かり。トワイライトって言うらしい」


 宵が少し自慢げに教えてくれた。


 私たちは子供と大人の狭間を生きている。自分が何者かも分からないまま、曖昧な世界を生きている。
 空のように、境界線のない色を交えながら。



「トワイライト。宵。どっちも忘れずに、覚えとく」



 そう言った私に、宵は満面の笑みを浮かべた。
 宵闇に溶けるような微笑みが、目に届く。


 普通であることなんて、幸せをはかる基準にはならない。

 普通の枠にとらわれるのは、もうやめる。
 幸せの基準は、私が決めたい。


 辺りが暗くなっていく。日が沈んで、ゆっくり、ゆっくり夜になる。


「またな、由世」
「またね、宵」


 家へと続く道を踏みしめる。

 今はまだ曖昧で不確かな感情に左右され、揺らめき、何度も挫けそうになるかもしれない。
 正解なんて分からない道の中で、もがき続けるかもしれない。

 けれど。


 スマホの画面をタップし、耳に当てた。



「もしもし、お母さん。今帰ってるとこ。うん、心配してくれて、ありがと……いろいろ」




 ──自分が自分であるかぎり、私はきっと、大丈夫だ。



《了》





トワイライト【twilight】

 たそがれ(時)、薄明
〔薄明時などの〕薄明かり、ぼんやりとした明るさ
〔人生などの〕たそがれ(時)、衰退期
 曖昧さ、不明瞭さ


出典 英辞郎