この世界での「幸せ」の絶対条件は、異性と恋愛をして、結婚をして、子供をつくること。
それが"普通"のこと。
小学生……もっと言えばそれより小さい頃から。異性の相手を好きになって、追いかけたり、追いかけられたり。成長するにつれて男女のレベルが高まって、スキンシップも増えて、愛を深めて結婚に至る。
これが普通だとするならば、私はきっと、普通ではない。
*
「由世ちゃん、彼氏できた?」
これが母の口癖だった。中学生のころから茶化すように何度か聞かれたことがあるけれど、高校生になって特に聞かれる回数が増えたような気がする。私は「できてないよ」といつも通りの返事をしてソファを立った。
はやく部屋に戻ろう。
これ以上母のそばにいるとろくなことがないので早々に自室に戻ろうとすると、いつもはほのぼのと笑っている母がドアの前に立った。ずん、とふくよかな身体が私の行く手を阻む。
嫌な予感がする。今までは冗談のつもりで笑っていた母の顔が、最近、真剣な顔になったのが分かるから。
「由世ちゃんはもう高校生でしょ。彼氏の一人や二人くらい、できないの」
「二人いたらまずいでしょ」
「そうやって誤魔化して! べつに、いるならいいのよ。だけど、今まで一度も由世ちゃんからそんな話聞いたことがないから、お母さんは心配してるの」
適当な返事をする私に母は怒っているようだけど、そんなこと言われても仕方がない。心配されたところでどうしようもないことだから。
余計なお世話だよ、という言葉はすんでのところで飲み込んだ。
無意味な論争は避けるべきだと、頭の中の私が言っている。
「……そんなの、私の勝手でしょ」
ーーだからもう、放っておいて。
投げやりな言葉に、母は呆れたようにため息を吐く。
続くように告げられた言葉に、私のなかでプツリと何かが切れる音がした。
「お母さんが由世ちゃんくらいの時はね────」
「うるさいな! ほっといてよ!!」
我慢の限界だった。
嫌い。きらい、嫌い。
ぜんぶ、だいっきらい。
─────────
夕方は好きだ。夜に向けて時間がゆっくり進んでいって、今日という日を惜しむように太陽が沈んでいく時間。
公園のベンチで、母の言葉を思い出す。
『由世ちゃん、彼氏できた?』
できてない。欲しいと思ったこともない。
愛されるということは素晴らしいことだと思う。自分を肯定してくれる相手に出会う確率は、本当に少ない。まさに奇跡だ。
友達はほとんどが彼氏持ち、あるいは片想い状態。
少なくとも、「誰かから愛される」ことを欲している。恋愛によって。
「わっかんないな……」
私は外れている。みんなにとっての普通から、一般論から、社会から、外れている。
つまり、恋愛に興味がない私は「おかしい」のだと思う。
母が言っていることは何も間違っていない。それに反抗して、カッとなって家を飛び出した私が確実に悪い。
それはわかっているのだけど、素直に反省して帰ることができない自分の性格は、自分自身がいちばんよくわかっている。
しばらくぼうっと地面を見つめていたけれど、ただ時間が過ぎ去っていくだけで、何か解決策が生み出されるわけでも、母との和解方法がでるわけでもない。
いつまでもここで時間を潰していられるわけではなくて、結局高校生という自由の効かない身体では、家に帰るという終着点を迎えるより他なかった。
時計を見ると、十八時半を指している。ベンチから立ちあがろうと、仕方なく腰を浮かせたときだった。
「……場所チェンジ? だったらあのブランコんとこ、行かない?」
ふいに横から声がして、私は飛び跳ねた。その反応を見て「間抜け」と言いながら笑うのは、見知らぬ男の人。見た感じだと、私と同じ学生だろうか。
だからといって安心するわけではないけど、それでも大人ではなさそうで少し安堵が大きい。
それにしても間抜けってなんだ。失礼にも程がある。
「誰ですか」
「どっかのしがない学生」
「信用ないなぁ」
「うーん、学生証見せようか」
「見せてくれるなら」
私服なのに持ってるんかい。ツッコもうかと思ったけれど、そんな親密度ではないのでやめた。どうやらスマホケースの中にしまっていたらしい。
「ほい」
「……どうも」
一通り眺めてみる。間違いなく学生証だった。
私は思わずチッと舌打ちしそうになる。それを見ていた彼は「なに不満げな顔してんの」と笑った。
「イケメンっしょ、俺」
「学生証の写りじゃないでしょこれ」
普通、学生証って実物より不細工に写るものじゃないのか。こんなに実物そのままの造形でうつるなんて。これが、舌打ちをしたくなった理由の一つ目。
「んで、高校名見てビビったっしょ」
「この辺ではいちばん頭良いところですね。偏差値鬼高いところ」
「一応そこの学生っすね」
どうやら彼は頭がいいらしい。これが二つ目。
「……きれいな名前、してるんですね」
────咲間宵。彼の名は、そういうらしい。
名前負けしそうなくらいきれいな文字の羅列なのに、そんな名前がよく似合う容姿をしているから、これが三つ目の理由。
色々な方面から恵まれている彼が、暇つぶしに私にカマをかけてきたのだと理解したから、ムカついたのだ。
「信じてくれた?」
「はい、一応」
今後関わりがまったくなくなったとしても、咲間宵という名前はずっと覚えているんだろうな、と思った。それくらい印象深くて、美しい名前だから。
「ブランコんとこ行こ」
「どうしてですか」
「俺がブランコ漕ぎたいから」
なんだそれ、と思う。自分勝手レベル100みたいな発言なのに、なぜか嫌だとは思わなかった。帰ろうとしていたはずなのに、不思議と彼の話を聞いてみたいと思ったのは、この夕暮れの世界で黄昏ていたせいかもしれない。
ブランコなんて、いつぶりか。下手したら小学生ぶりかもしれない。
正しい漕ぎ方をすればいいものを、わざと左右に漕いで意地悪をしてくる男子生徒がいたからあまり好きじゃなかった。冗談抜きで、ブランコはかなり危険度が高いと思う。
「名前は?」
「由世です」
「どんな字書くの」
「知る由もないのヨシに、前前前世のセ」
絶対もっと他にあったよ、と言って咲間さんは笑っていた。おそらく説明の仕方を言っているのだろう。
わざとだ。どうせ彼なら分かるだろうと意地悪な言い方をしただけだ。
「だって咲間さん、頭いいから分かるでしょ」
「……宵」
「え」
「宵でいいよ。俺も由世って呼ぶから」
「あ、あと敬語もなし」と、釘を刺される。距離の詰め方に慣れを感じるのも、ムカつく。学生証を堂々と晒せるほどには整った顔なのだ、どうせ可愛い彼女がいるのだろう。私とは違う"普通"の人だから。
キイ、キイとブランコが悲鳴を上げる。
そういえば昔は、持ち手のところが急に千切れたらどうしよう、なんてことを考えながら漕いでいたっけ。
「由世」
「ん?」
「由世って、恋人いるの?」
ザリッ、と気づけば音を立てていた。途端に風が来なくなる。
ブランコを漕ぐのを止めたからだ。
いきなりぶっ込んでくるか?という言葉が喉元まで出掛かったけれど、口を開くギリギリのところでとどめた。私が慣れていないだけで、今のキラキラ陽キャ男子高校生は、こんな会話から距離を詰めてくるのかもしれない。
「どうして?」
「ふつーに、気になったから」
特に理由なんてないらしかった。宵はブランコを漕いだまま、まっすぐ前を見据えている。
「いないよ」
「そか」
宵の返事は、ひどくあっさりしていた。
もっと大袈裟な反応をされると思っていた。最悪、馬鹿にされるかもしれないと。けれど宵は何も言わずに、あいかわらず飄々とした表情でブランコを漕いでいた。
「……好きとか、よく分かんないから」
「わかるわー」
間延びした声で宵が言葉を返す。
絶対適当な共感だ。分かるわけないのに、彼は特に考えることなく共感するふりをしたのだ。
「嘘つき。宵はいるでしょ、そういう相手」
「いるね」
「そういう相手」という言葉に返ってきた肯定の返答。
ほら、やっぱり。意味のない共感なんてただの冷やかしだ。
「……その場しのぎの共感、やめたほうがいいよ」
「いやいや、ほんとに思ってるから」
「はぁ? 相手がいるのに何言ってるの」
彼も、私とは別の世界に生きる人だった。この瞬間に、彼と私の間には大きな壁が築かれた。
分かりきっていたことだった。
それなのに、心のどこかで期待をしてしまったから、無駄に心を痛めることになる。バカみたい。
私はまた孤独だ。
「好きって何か訊かれたら、どう答えていいか俺も分かんない」
いつのまにか、宵は漕ぐのをやめていた。
「好き、って概念的なものじゃん。具体的なことはよく分かんないけど、気づいたら『あ、好きだな』って思ってるわけよ」
あ、好きだな。
そう思う瞬間はたくさんある。クラスメイトは男女ともに皆優しい。素敵なところをいっぱい持っている。その度に私はトキメキを覚える。
けれどそれが恋愛的な好きには繋がらない。
大事にしたい人は身近にいる。そしてきっと、宵も、いずれはこの括りのなかに入ることになるだろう。
「大事にしたい、っていうのはまた違うの?」
「大事にしたいから好きってわけじゃなくて、好きだから大事にしたいんじゃね」
「やばい。ますます分からなくなった」
やはり恋愛上級者の言うことはよくわからない。
結局は、好きという感情が先にないとだめなのか。
「……羨ましいとか、思わないんだよね。正直」
ぽつりとこぼれた言葉に、宵は「ん」と少しうなずいただけだった。
「なんでかな。普通の人じゃないからかな。私がおかしいからなのかな」
本当は、嫌だ。
普通じゃない。そんなふうに毎日毎日自分を責め続けるのは。
なんでかな。どうしてかな。
声にしようとすればするほど、目の奥からあついものが込み上げてくる。
「周りはみんな好きな人がいて、ちゃんと付き合って青春してて。でもっ、私は……なにも、ない……からっ」
ぽろ、と堪えきれず涙がこぼれ落ちた。
「せめて、普通だったらなぁ……」
異性に恋をして、付き合って、結婚して、子供に囲まれる生活をして。
そのたびに幸せを噛み締めながら、たくさんの人に祝福してもらえる人生だったら。
そんなふうにいくら羨望しても、今の自分の考え方が変わるわけじゃない。
「由世が思う普通って?」
ずっと黙って聞いていた宵が、おもむろにブランコから降りて私の前に立った。沈む直前の太陽が、宵の影をつくる。
「異性に恋して、結婚して、子供を産むこと。それが普通だし、主流でしょ。昔も今も、たいして変わらないこと」
そうやって、人類は命を繋いできた。
「ふぅん、なるほど」
「なんで笑うの」
宵は含み笑いを浮かべていた。
「じゃあ、こんなにカッコいい俺にも惚れないわけだ」
「……惚れない。素敵だとは思うよ、宵は」
「そりゃどうも」
彼女がいるくせに、平気でそんなことを言っていていいのか。
というか、自分に自信があるの、羨ましい。それだけのものを持っているから当然かもしれないけれど。
「でもさ、由世」
急に宵の息遣いが変わった。たったそれだけで、一気に雰囲気が変わる。
見上げた彼の表情は、少し、ほんの少しだけ、寂しそうだった。
「それが由世にとっての普通なら、俺も普通じゃないかもしれない」
「……え」
「俺も、一般論とは外れてるんだと思う」
何を言っているのか分からなかった。
宵には彼女がいる。それだけでも、私が思い描く『普通』の枠に当てはまっているのに。
「え、付き合ってる人いるんでしょ?」
「いるよ」
「じゃあどうしてそんなこと言うの?」
だったら何の問題があるのか。くだらない嘘で振り回すのはやめてほしい。
宵は小さく息を吸った。夕暮れに染まる世界を取り込むように。
「俺、彼女いないからさ」
一瞬、思考回路が停止する。しばらくして「あぁ、そういうことか」と理解した。思いのほかストンと胸に届いたことにびっくりする。
思えば、彼は『彼氏いる?』とは聞いてこなかった。『恋人』という表現をしていた気がする。当事者ほどその話題に敏感なのはよくある話だ。
そういう細かな気遣いがあったから、私はこうして彼に思いを打ち明けることができているのかもしれない。
「ビビった?」
「ビビるってか、どっちかというと感動?してる。まさか打ち明けてくれるなんて思わなかったから」
「なんだそれ」
宵の反応的に、私が受け取った情報は間違っていないらしい。慎重に言葉を選ぼうとすると、どうしても唇がかさついて重たくなった。
「それって、つまりさ」
「きっと由世の思う通りで合ってるよ。そういうこと」
つまるところ、宵は同性の恋人がいるというわけだ。
「ごめん。私てっきり、宵は……」
「いーよ。俺たちどっちも普通じゃないだろ」
「本当にごめんなさい」
"普通じゃない"と宵は強調するように繰り返した。自分を否定するために発した言葉が、どれほど棘を持っていたのか今になって自覚する。
異性じゃないと普通じゃないとか。無責任な発言をしすぎた。
最低だ、私。
「べつに謝ることじゃないよ。俺が何も言わなかったから、そう思うのも当然だし」
「ほんとに、ごめん」
「いいって。少数派なのにかわりないから」
同性のことが好きな人。学校の先生がそんな言い方をしていたことがある。私はあまりその言い方は好きじゃない。
好きになった人が偶然同性だっただけ。偶然異性だっただけ。
たったそれだけの違いだと思うのだ。
もう一度ブランコに座った宵は、そのまま空を見上げる。私も真似をした。
今日の空は、青と紫と桃色が混ざり合った色をしている。境界線がぼやけてみえない。
どこから青と紫に別れていて、それから桃色に変わっているんだろう。
目を凝らしてみても、明確なラインはわからなかった。
空を見たまま、となりにいる宵にたずねる。
「宵の好きな人は、どんな人?」
「すごい綺麗なやつ。そんで、俺を肯定してくれるやつ」
「……宵?」
宵は唇を噛んで、前を見据えていた。
「俺、昔から身体弱くて。いつも『顔と勉強は完璧なのにね』って言われてきたから。そんだけ頑張ってるのに、どうして認められないんだろうって」
宵がブランコを漕ぎ出す。繊細な彼の髪が、風を受けてなびいた。
「体育祭とか出られないし。部活もできないし。女子は運動ができたほうがかっこいいって思うのかもしれないけど、応えられないし」
「うん」
「一回走ってみてよって強制されて、走ったら案の定倒れて救急車。女子大泣き。散々な言われようだった」
見えている部分がすべてではない。
私には恋人がいない。だけどそれはただの事実であって、その事実に辿り着くまでの私の気持ちは、すべて無視されている。
それと同じで、いろんなものを持っていて困りごとなんて何もなさそうな宵も、心の奥底でたくさんの気持ちを抱えている。見えていないだけで。
「だけど、そいつだけ」
宵は、あ、クラスメイトの奴なんだけど、と説明を加えながら言葉を続ける。
「宵は宵だから、そのままでいいんだよって言ってくれて。よく聞く言葉じゃん、これ。定型文? 常套句? そんなやつ」
「うん、わかるよ」
ありのままでいい。
たしかによく聞く言葉だ。とくに学校では、人と違えば省かれたり憐れみの対象になるのに、呪文のように唱えられる綺麗事。
「わかってたんだよ、よく使われる言葉だって。でも、そいつに言われたとき、すげえ救われたんだ。そいつの言い方なのか、雰囲気なのか、俺が追い込まれすぎてたからなのか。とにかく、俺は俺なんだって再認識できて、そのときからだな」
ーーそいつのこと好きだって思ったのは。
そう言った宵の顔は、とても清々しかった。
ふうん、と適当に聞こえる相槌を打ちながら、私は宵のことを猛烈に羨ましく感じていた。
宵の恋愛というのは、たしかに私が言っていた"一般論"とは少し違うものなのかもしれない。けれど、目の前にいる彼は今、とても幸せそうな顔をしている。
それがすべてなんじゃないか。
この世界での「幸せ」の絶対条件は、異性と恋愛をして、結婚をして、子供をつくること。
それが"普通"のこと。
ーーいや、待って。それは違うんじゃないの、由世。
この枠に当てはまらない自分を、ずっと責め続けて、惨めだと思い続けて、普通じゃないと決めつけて自分の首を絞めていた。けれど、枠に当てはまることが本当に幸せなことなのか。枠から外れてしまえば、不幸せなのか。
空を見上げておだやかに笑う宵を見ていると、そんな答えをいちいち探す必要などない気がした。
「俺たちはまだ学生だろ? これからもっといろんな人に出会って、色んなこと経験して、もちろん別れもあるけどさ。そうやって大人になっていくだろ」
「……うん」
「由世がこの先ずーっと恋人がいないまま生涯を終えるのか、それとも誰かに出会えるのかは分かんないけど。少なくとも自分の生きたいように、由世のやりたいように生きた道は、無理して彼氏つくって普通の枠に囚われた道よりも幸せなものだと思うよ」
宵の言葉選びが好きだ。
ずっと心に溜め込んでいた気持ちが流されて、洗われていくような気がするから。
「家出、してきたんだろ?」
問われて、母との口論を思い出す。家に帰ったら、母はどんな顔をしているだろう。もしかすると口論の続きが始まるかもしれないし、案外ケロッと忘れて私を迎えてくれるかもしれない。たとえ口論になったとしても、宵と出会う前よりは冷静に話すことができるような気がした。
「そっかぁ、もう帰んなきゃだ」
「不服そうな顔されてますね、おじょーさん」
「なんで茶化すの」
恋愛感情ではない。けれど、このまま帰ってしまえば宵とはもう一生会うことがないかもしれない。それが少し惜しかった。いや、かなり惜しい気持ちになった。
宵はとても素敵な人だ。
できることなら、これからもこうして顔を合わせて、話がしたい。
「また、会う?」
押し黙っているとふいにそんな言葉が落ちてきて、目を見開く。私の心を見透かされたみたいだった。
「ダメ。宵の恋人さんに悪い」
「なに、俺のこと恋愛対象としてみてんの?」
「そんなわけない。百パー、ない」
「実は俺がここに来てんの、知ってるんだよね。あいつ」
宵が指をさしたほうに視線を移すと、宵闇のなかで立っているひとりの男性の影を見つけた。
「……え」
「行ってきていいよって許可もらって、俺は由世に会いにきた」
「まって、ありえない。じゃあずっと恋人さん待たせたままってこと?」
さも当然のように、悪びれた様子もなくうなずく宵のみぞおちにパンチを決めた。さすがに情けで位置を少しずらしたけど。
「そういう大事なことは早く言ってよ! 私、最低女じゃん!」
「俺、身体弱いって言ってなかったっけ。みぞおちは結構クるんだけど」
腹部をさすりながら顔を歪めていた宵は、遠くにいたその影に手招きする。現れたのは、顔立ちの整った男性だった。宵が言っていた『すごい綺麗なやつ』という言葉に納得してしまう。
「あの、待たせてしまってすみません。私、知らなくて」
「いいんです。あなたが少しでも楽になったのなら」
微笑まれて、思わず息を呑む。となりで「明に惚れるなよ」と声を上げる宵に「大丈夫だよ」と返した。
「僕は二人が会うこと、そんなに気にしませんよ」
会話が聞こえていたのか、それとも表情から読み取ったのか。宵の恋人……明さんはそう言ってまた笑った。
「支え合える存在というのは、必要ですから」
明さんは大人だ。宵はとても大人だと思ったけれど、それ以上に。
「私と宵が友達になっても、いいですか?」
「いいですよ。罪悪感とかは必要ないです、気にしないので」
ちょっとは気にしてほしいんだけど、と不貞腐れている宵に、明さんが何かを耳打ちする。途端に頰を染め「それもそうだな」と呟く宵は、完全に恋人にデレるそれだった。私は顔をしかめそうになるのをなんとか堪えてそれを見守り、空を見上げる。
もうすっかり藍色になっていた。
夕暮れと、夜の間。
この時間帯のことを、たしか【宵】と呼ぶ。
「……トワイライト」
「え?」
「夕暮れどきの薄明かり。トワイライトって言うらしい」
宵が少し自慢げに教えてくれた。
私たちは子供と大人の狭間を生きている。自分が何者かも分からないまま、曖昧な世界を生きている。
空のように、境界線のない色を交えながら。
「トワイライト。宵。どっちも忘れずに、覚えとく」
そう言って笑った私の頭を、宵がくしゃっと乱暴に撫でた。
恋愛感情には結びつかないけれど、私は宵が好きだ。明さんのことも好きだ。
きっとこれから、大事にしたい人になっていく。
私は、私だけの道を見つけていきたい。普通であることなんて、幸せをはかる基準にはならない。
辺りが暗くなっていく。日が沈んで、ゆっくり、ゆっくり夜になる。
「またな、由世」
「またね、宵。明さん」
家へと続く道を踏みしめた。
今はまだ曖昧で不確かな感情に左右され、揺らめき、何度も挫けそうになるかもしれないけれど。
それでも私は、私らしく自分の道を生きるよ。
《了》
トワイライト【twilight】
たそがれ(時)、薄明
〔薄明時などの〕薄明かり、ぼんやりとした明るさ
〔人生などの〕たそがれ(時)、衰退期
曖昧さ、不明瞭さ
出典 英辞郎
それが"普通"のこと。
小学生……もっと言えばそれより小さい頃から。異性の相手を好きになって、追いかけたり、追いかけられたり。成長するにつれて男女のレベルが高まって、スキンシップも増えて、愛を深めて結婚に至る。
これが普通だとするならば、私はきっと、普通ではない。
*
「由世ちゃん、彼氏できた?」
これが母の口癖だった。中学生のころから茶化すように何度か聞かれたことがあるけれど、高校生になって特に聞かれる回数が増えたような気がする。私は「できてないよ」といつも通りの返事をしてソファを立った。
はやく部屋に戻ろう。
これ以上母のそばにいるとろくなことがないので早々に自室に戻ろうとすると、いつもはほのぼのと笑っている母がドアの前に立った。ずん、とふくよかな身体が私の行く手を阻む。
嫌な予感がする。今までは冗談のつもりで笑っていた母の顔が、最近、真剣な顔になったのが分かるから。
「由世ちゃんはもう高校生でしょ。彼氏の一人や二人くらい、できないの」
「二人いたらまずいでしょ」
「そうやって誤魔化して! べつに、いるならいいのよ。だけど、今まで一度も由世ちゃんからそんな話聞いたことがないから、お母さんは心配してるの」
適当な返事をする私に母は怒っているようだけど、そんなこと言われても仕方がない。心配されたところでどうしようもないことだから。
余計なお世話だよ、という言葉はすんでのところで飲み込んだ。
無意味な論争は避けるべきだと、頭の中の私が言っている。
「……そんなの、私の勝手でしょ」
ーーだからもう、放っておいて。
投げやりな言葉に、母は呆れたようにため息を吐く。
続くように告げられた言葉に、私のなかでプツリと何かが切れる音がした。
「お母さんが由世ちゃんくらいの時はね────」
「うるさいな! ほっといてよ!!」
我慢の限界だった。
嫌い。きらい、嫌い。
ぜんぶ、だいっきらい。
─────────
夕方は好きだ。夜に向けて時間がゆっくり進んでいって、今日という日を惜しむように太陽が沈んでいく時間。
公園のベンチで、母の言葉を思い出す。
『由世ちゃん、彼氏できた?』
できてない。欲しいと思ったこともない。
愛されるということは素晴らしいことだと思う。自分を肯定してくれる相手に出会う確率は、本当に少ない。まさに奇跡だ。
友達はほとんどが彼氏持ち、あるいは片想い状態。
少なくとも、「誰かから愛される」ことを欲している。恋愛によって。
「わっかんないな……」
私は外れている。みんなにとっての普通から、一般論から、社会から、外れている。
つまり、恋愛に興味がない私は「おかしい」のだと思う。
母が言っていることは何も間違っていない。それに反抗して、カッとなって家を飛び出した私が確実に悪い。
それはわかっているのだけど、素直に反省して帰ることができない自分の性格は、自分自身がいちばんよくわかっている。
しばらくぼうっと地面を見つめていたけれど、ただ時間が過ぎ去っていくだけで、何か解決策が生み出されるわけでも、母との和解方法がでるわけでもない。
いつまでもここで時間を潰していられるわけではなくて、結局高校生という自由の効かない身体では、家に帰るという終着点を迎えるより他なかった。
時計を見ると、十八時半を指している。ベンチから立ちあがろうと、仕方なく腰を浮かせたときだった。
「……場所チェンジ? だったらあのブランコんとこ、行かない?」
ふいに横から声がして、私は飛び跳ねた。その反応を見て「間抜け」と言いながら笑うのは、見知らぬ男の人。見た感じだと、私と同じ学生だろうか。
だからといって安心するわけではないけど、それでも大人ではなさそうで少し安堵が大きい。
それにしても間抜けってなんだ。失礼にも程がある。
「誰ですか」
「どっかのしがない学生」
「信用ないなぁ」
「うーん、学生証見せようか」
「見せてくれるなら」
私服なのに持ってるんかい。ツッコもうかと思ったけれど、そんな親密度ではないのでやめた。どうやらスマホケースの中にしまっていたらしい。
「ほい」
「……どうも」
一通り眺めてみる。間違いなく学生証だった。
私は思わずチッと舌打ちしそうになる。それを見ていた彼は「なに不満げな顔してんの」と笑った。
「イケメンっしょ、俺」
「学生証の写りじゃないでしょこれ」
普通、学生証って実物より不細工に写るものじゃないのか。こんなに実物そのままの造形でうつるなんて。これが、舌打ちをしたくなった理由の一つ目。
「んで、高校名見てビビったっしょ」
「この辺ではいちばん頭良いところですね。偏差値鬼高いところ」
「一応そこの学生っすね」
どうやら彼は頭がいいらしい。これが二つ目。
「……きれいな名前、してるんですね」
────咲間宵。彼の名は、そういうらしい。
名前負けしそうなくらいきれいな文字の羅列なのに、そんな名前がよく似合う容姿をしているから、これが三つ目の理由。
色々な方面から恵まれている彼が、暇つぶしに私にカマをかけてきたのだと理解したから、ムカついたのだ。
「信じてくれた?」
「はい、一応」
今後関わりがまったくなくなったとしても、咲間宵という名前はずっと覚えているんだろうな、と思った。それくらい印象深くて、美しい名前だから。
「ブランコんとこ行こ」
「どうしてですか」
「俺がブランコ漕ぎたいから」
なんだそれ、と思う。自分勝手レベル100みたいな発言なのに、なぜか嫌だとは思わなかった。帰ろうとしていたはずなのに、不思議と彼の話を聞いてみたいと思ったのは、この夕暮れの世界で黄昏ていたせいかもしれない。
ブランコなんて、いつぶりか。下手したら小学生ぶりかもしれない。
正しい漕ぎ方をすればいいものを、わざと左右に漕いで意地悪をしてくる男子生徒がいたからあまり好きじゃなかった。冗談抜きで、ブランコはかなり危険度が高いと思う。
「名前は?」
「由世です」
「どんな字書くの」
「知る由もないのヨシに、前前前世のセ」
絶対もっと他にあったよ、と言って咲間さんは笑っていた。おそらく説明の仕方を言っているのだろう。
わざとだ。どうせ彼なら分かるだろうと意地悪な言い方をしただけだ。
「だって咲間さん、頭いいから分かるでしょ」
「……宵」
「え」
「宵でいいよ。俺も由世って呼ぶから」
「あ、あと敬語もなし」と、釘を刺される。距離の詰め方に慣れを感じるのも、ムカつく。学生証を堂々と晒せるほどには整った顔なのだ、どうせ可愛い彼女がいるのだろう。私とは違う"普通"の人だから。
キイ、キイとブランコが悲鳴を上げる。
そういえば昔は、持ち手のところが急に千切れたらどうしよう、なんてことを考えながら漕いでいたっけ。
「由世」
「ん?」
「由世って、恋人いるの?」
ザリッ、と気づけば音を立てていた。途端に風が来なくなる。
ブランコを漕ぐのを止めたからだ。
いきなりぶっ込んでくるか?という言葉が喉元まで出掛かったけれど、口を開くギリギリのところでとどめた。私が慣れていないだけで、今のキラキラ陽キャ男子高校生は、こんな会話から距離を詰めてくるのかもしれない。
「どうして?」
「ふつーに、気になったから」
特に理由なんてないらしかった。宵はブランコを漕いだまま、まっすぐ前を見据えている。
「いないよ」
「そか」
宵の返事は、ひどくあっさりしていた。
もっと大袈裟な反応をされると思っていた。最悪、馬鹿にされるかもしれないと。けれど宵は何も言わずに、あいかわらず飄々とした表情でブランコを漕いでいた。
「……好きとか、よく分かんないから」
「わかるわー」
間延びした声で宵が言葉を返す。
絶対適当な共感だ。分かるわけないのに、彼は特に考えることなく共感するふりをしたのだ。
「嘘つき。宵はいるでしょ、そういう相手」
「いるね」
「そういう相手」という言葉に返ってきた肯定の返答。
ほら、やっぱり。意味のない共感なんてただの冷やかしだ。
「……その場しのぎの共感、やめたほうがいいよ」
「いやいや、ほんとに思ってるから」
「はぁ? 相手がいるのに何言ってるの」
彼も、私とは別の世界に生きる人だった。この瞬間に、彼と私の間には大きな壁が築かれた。
分かりきっていたことだった。
それなのに、心のどこかで期待をしてしまったから、無駄に心を痛めることになる。バカみたい。
私はまた孤独だ。
「好きって何か訊かれたら、どう答えていいか俺も分かんない」
いつのまにか、宵は漕ぐのをやめていた。
「好き、って概念的なものじゃん。具体的なことはよく分かんないけど、気づいたら『あ、好きだな』って思ってるわけよ」
あ、好きだな。
そう思う瞬間はたくさんある。クラスメイトは男女ともに皆優しい。素敵なところをいっぱい持っている。その度に私はトキメキを覚える。
けれどそれが恋愛的な好きには繋がらない。
大事にしたい人は身近にいる。そしてきっと、宵も、いずれはこの括りのなかに入ることになるだろう。
「大事にしたい、っていうのはまた違うの?」
「大事にしたいから好きってわけじゃなくて、好きだから大事にしたいんじゃね」
「やばい。ますます分からなくなった」
やはり恋愛上級者の言うことはよくわからない。
結局は、好きという感情が先にないとだめなのか。
「……羨ましいとか、思わないんだよね。正直」
ぽつりとこぼれた言葉に、宵は「ん」と少しうなずいただけだった。
「なんでかな。普通の人じゃないからかな。私がおかしいからなのかな」
本当は、嫌だ。
普通じゃない。そんなふうに毎日毎日自分を責め続けるのは。
なんでかな。どうしてかな。
声にしようとすればするほど、目の奥からあついものが込み上げてくる。
「周りはみんな好きな人がいて、ちゃんと付き合って青春してて。でもっ、私は……なにも、ない……からっ」
ぽろ、と堪えきれず涙がこぼれ落ちた。
「せめて、普通だったらなぁ……」
異性に恋をして、付き合って、結婚して、子供に囲まれる生活をして。
そのたびに幸せを噛み締めながら、たくさんの人に祝福してもらえる人生だったら。
そんなふうにいくら羨望しても、今の自分の考え方が変わるわけじゃない。
「由世が思う普通って?」
ずっと黙って聞いていた宵が、おもむろにブランコから降りて私の前に立った。沈む直前の太陽が、宵の影をつくる。
「異性に恋して、結婚して、子供を産むこと。それが普通だし、主流でしょ。昔も今も、たいして変わらないこと」
そうやって、人類は命を繋いできた。
「ふぅん、なるほど」
「なんで笑うの」
宵は含み笑いを浮かべていた。
「じゃあ、こんなにカッコいい俺にも惚れないわけだ」
「……惚れない。素敵だとは思うよ、宵は」
「そりゃどうも」
彼女がいるくせに、平気でそんなことを言っていていいのか。
というか、自分に自信があるの、羨ましい。それだけのものを持っているから当然かもしれないけれど。
「でもさ、由世」
急に宵の息遣いが変わった。たったそれだけで、一気に雰囲気が変わる。
見上げた彼の表情は、少し、ほんの少しだけ、寂しそうだった。
「それが由世にとっての普通なら、俺も普通じゃないかもしれない」
「……え」
「俺も、一般論とは外れてるんだと思う」
何を言っているのか分からなかった。
宵には彼女がいる。それだけでも、私が思い描く『普通』の枠に当てはまっているのに。
「え、付き合ってる人いるんでしょ?」
「いるよ」
「じゃあどうしてそんなこと言うの?」
だったら何の問題があるのか。くだらない嘘で振り回すのはやめてほしい。
宵は小さく息を吸った。夕暮れに染まる世界を取り込むように。
「俺、彼女いないからさ」
一瞬、思考回路が停止する。しばらくして「あぁ、そういうことか」と理解した。思いのほかストンと胸に届いたことにびっくりする。
思えば、彼は『彼氏いる?』とは聞いてこなかった。『恋人』という表現をしていた気がする。当事者ほどその話題に敏感なのはよくある話だ。
そういう細かな気遣いがあったから、私はこうして彼に思いを打ち明けることができているのかもしれない。
「ビビった?」
「ビビるってか、どっちかというと感動?してる。まさか打ち明けてくれるなんて思わなかったから」
「なんだそれ」
宵の反応的に、私が受け取った情報は間違っていないらしい。慎重に言葉を選ぼうとすると、どうしても唇がかさついて重たくなった。
「それって、つまりさ」
「きっと由世の思う通りで合ってるよ。そういうこと」
つまるところ、宵は同性の恋人がいるというわけだ。
「ごめん。私てっきり、宵は……」
「いーよ。俺たちどっちも普通じゃないだろ」
「本当にごめんなさい」
"普通じゃない"と宵は強調するように繰り返した。自分を否定するために発した言葉が、どれほど棘を持っていたのか今になって自覚する。
異性じゃないと普通じゃないとか。無責任な発言をしすぎた。
最低だ、私。
「べつに謝ることじゃないよ。俺が何も言わなかったから、そう思うのも当然だし」
「ほんとに、ごめん」
「いいって。少数派なのにかわりないから」
同性のことが好きな人。学校の先生がそんな言い方をしていたことがある。私はあまりその言い方は好きじゃない。
好きになった人が偶然同性だっただけ。偶然異性だっただけ。
たったそれだけの違いだと思うのだ。
もう一度ブランコに座った宵は、そのまま空を見上げる。私も真似をした。
今日の空は、青と紫と桃色が混ざり合った色をしている。境界線がぼやけてみえない。
どこから青と紫に別れていて、それから桃色に変わっているんだろう。
目を凝らしてみても、明確なラインはわからなかった。
空を見たまま、となりにいる宵にたずねる。
「宵の好きな人は、どんな人?」
「すごい綺麗なやつ。そんで、俺を肯定してくれるやつ」
「……宵?」
宵は唇を噛んで、前を見据えていた。
「俺、昔から身体弱くて。いつも『顔と勉強は完璧なのにね』って言われてきたから。そんだけ頑張ってるのに、どうして認められないんだろうって」
宵がブランコを漕ぎ出す。繊細な彼の髪が、風を受けてなびいた。
「体育祭とか出られないし。部活もできないし。女子は運動ができたほうがかっこいいって思うのかもしれないけど、応えられないし」
「うん」
「一回走ってみてよって強制されて、走ったら案の定倒れて救急車。女子大泣き。散々な言われようだった」
見えている部分がすべてではない。
私には恋人がいない。だけどそれはただの事実であって、その事実に辿り着くまでの私の気持ちは、すべて無視されている。
それと同じで、いろんなものを持っていて困りごとなんて何もなさそうな宵も、心の奥底でたくさんの気持ちを抱えている。見えていないだけで。
「だけど、そいつだけ」
宵は、あ、クラスメイトの奴なんだけど、と説明を加えながら言葉を続ける。
「宵は宵だから、そのままでいいんだよって言ってくれて。よく聞く言葉じゃん、これ。定型文? 常套句? そんなやつ」
「うん、わかるよ」
ありのままでいい。
たしかによく聞く言葉だ。とくに学校では、人と違えば省かれたり憐れみの対象になるのに、呪文のように唱えられる綺麗事。
「わかってたんだよ、よく使われる言葉だって。でも、そいつに言われたとき、すげえ救われたんだ。そいつの言い方なのか、雰囲気なのか、俺が追い込まれすぎてたからなのか。とにかく、俺は俺なんだって再認識できて、そのときからだな」
ーーそいつのこと好きだって思ったのは。
そう言った宵の顔は、とても清々しかった。
ふうん、と適当に聞こえる相槌を打ちながら、私は宵のことを猛烈に羨ましく感じていた。
宵の恋愛というのは、たしかに私が言っていた"一般論"とは少し違うものなのかもしれない。けれど、目の前にいる彼は今、とても幸せそうな顔をしている。
それがすべてなんじゃないか。
この世界での「幸せ」の絶対条件は、異性と恋愛をして、結婚をして、子供をつくること。
それが"普通"のこと。
ーーいや、待って。それは違うんじゃないの、由世。
この枠に当てはまらない自分を、ずっと責め続けて、惨めだと思い続けて、普通じゃないと決めつけて自分の首を絞めていた。けれど、枠に当てはまることが本当に幸せなことなのか。枠から外れてしまえば、不幸せなのか。
空を見上げておだやかに笑う宵を見ていると、そんな答えをいちいち探す必要などない気がした。
「俺たちはまだ学生だろ? これからもっといろんな人に出会って、色んなこと経験して、もちろん別れもあるけどさ。そうやって大人になっていくだろ」
「……うん」
「由世がこの先ずーっと恋人がいないまま生涯を終えるのか、それとも誰かに出会えるのかは分かんないけど。少なくとも自分の生きたいように、由世のやりたいように生きた道は、無理して彼氏つくって普通の枠に囚われた道よりも幸せなものだと思うよ」
宵の言葉選びが好きだ。
ずっと心に溜め込んでいた気持ちが流されて、洗われていくような気がするから。
「家出、してきたんだろ?」
問われて、母との口論を思い出す。家に帰ったら、母はどんな顔をしているだろう。もしかすると口論の続きが始まるかもしれないし、案外ケロッと忘れて私を迎えてくれるかもしれない。たとえ口論になったとしても、宵と出会う前よりは冷静に話すことができるような気がした。
「そっかぁ、もう帰んなきゃだ」
「不服そうな顔されてますね、おじょーさん」
「なんで茶化すの」
恋愛感情ではない。けれど、このまま帰ってしまえば宵とはもう一生会うことがないかもしれない。それが少し惜しかった。いや、かなり惜しい気持ちになった。
宵はとても素敵な人だ。
できることなら、これからもこうして顔を合わせて、話がしたい。
「また、会う?」
押し黙っているとふいにそんな言葉が落ちてきて、目を見開く。私の心を見透かされたみたいだった。
「ダメ。宵の恋人さんに悪い」
「なに、俺のこと恋愛対象としてみてんの?」
「そんなわけない。百パー、ない」
「実は俺がここに来てんの、知ってるんだよね。あいつ」
宵が指をさしたほうに視線を移すと、宵闇のなかで立っているひとりの男性の影を見つけた。
「……え」
「行ってきていいよって許可もらって、俺は由世に会いにきた」
「まって、ありえない。じゃあずっと恋人さん待たせたままってこと?」
さも当然のように、悪びれた様子もなくうなずく宵のみぞおちにパンチを決めた。さすがに情けで位置を少しずらしたけど。
「そういう大事なことは早く言ってよ! 私、最低女じゃん!」
「俺、身体弱いって言ってなかったっけ。みぞおちは結構クるんだけど」
腹部をさすりながら顔を歪めていた宵は、遠くにいたその影に手招きする。現れたのは、顔立ちの整った男性だった。宵が言っていた『すごい綺麗なやつ』という言葉に納得してしまう。
「あの、待たせてしまってすみません。私、知らなくて」
「いいんです。あなたが少しでも楽になったのなら」
微笑まれて、思わず息を呑む。となりで「明に惚れるなよ」と声を上げる宵に「大丈夫だよ」と返した。
「僕は二人が会うこと、そんなに気にしませんよ」
会話が聞こえていたのか、それとも表情から読み取ったのか。宵の恋人……明さんはそう言ってまた笑った。
「支え合える存在というのは、必要ですから」
明さんは大人だ。宵はとても大人だと思ったけれど、それ以上に。
「私と宵が友達になっても、いいですか?」
「いいですよ。罪悪感とかは必要ないです、気にしないので」
ちょっとは気にしてほしいんだけど、と不貞腐れている宵に、明さんが何かを耳打ちする。途端に頰を染め「それもそうだな」と呟く宵は、完全に恋人にデレるそれだった。私は顔をしかめそうになるのをなんとか堪えてそれを見守り、空を見上げる。
もうすっかり藍色になっていた。
夕暮れと、夜の間。
この時間帯のことを、たしか【宵】と呼ぶ。
「……トワイライト」
「え?」
「夕暮れどきの薄明かり。トワイライトって言うらしい」
宵が少し自慢げに教えてくれた。
私たちは子供と大人の狭間を生きている。自分が何者かも分からないまま、曖昧な世界を生きている。
空のように、境界線のない色を交えながら。
「トワイライト。宵。どっちも忘れずに、覚えとく」
そう言って笑った私の頭を、宵がくしゃっと乱暴に撫でた。
恋愛感情には結びつかないけれど、私は宵が好きだ。明さんのことも好きだ。
きっとこれから、大事にしたい人になっていく。
私は、私だけの道を見つけていきたい。普通であることなんて、幸せをはかる基準にはならない。
辺りが暗くなっていく。日が沈んで、ゆっくり、ゆっくり夜になる。
「またな、由世」
「またね、宵。明さん」
家へと続く道を踏みしめた。
今はまだ曖昧で不確かな感情に左右され、揺らめき、何度も挫けそうになるかもしれないけれど。
それでも私は、私らしく自分の道を生きるよ。
《了》
トワイライト【twilight】
たそがれ(時)、薄明
〔薄明時などの〕薄明かり、ぼんやりとした明るさ
〔人生などの〕たそがれ(時)、衰退期
曖昧さ、不明瞭さ
出典 英辞郎