僕達の約束を交わして、彼女からの願いを聴いてから約二週間が経った。
 既に学校を卒業している僕は、もう二度と着ることはないと思っていた制服を纏っている。向かう場所は学校、ではなく彼女の病室。

「千春、おはよう。今日の体調はどう?」

「おはよう文弥君、今日は『超』がつくほど元気な日! 気持ちの問題かな、それくらい楽しみにしてたの」

 病室の扉の先で、彼女はここ数日間で最高の笑顔をして待っていた。
 青白い肌はいつもより少しだけ健康的な色にみえて、その色を映させるように唇に薄い赤が塗られている。肩のあたりまで伸ばされた髪は毛先が少しだけ巻かれていて、顔を動かすことでできる髪の隙間からは彼女の綺麗な輪郭が覗ける。
 十八年間彼女そのものをみてきたからこそ(かす)んでしまっていた、僕は改めてその美しい顔の造形に見惚れてしまいそうになる。

「それならよかった、荷物はその鞄にまとめてあるもので全部?」

「私が持っていくのはこれが全部だよ、あとは付き添ってくれる看護師さんが緊急時用の道具を車に積んでくれるって」

「わかった、それじゃあ行こうか。車椅子は僕が押すよ、一緒にあの通学路を辿っていこう」

 彼女の身体を支えて車椅子への移動を手伝う、遠慮がちに『重いでしょ? ごめんね』と呟く。少しくらい彼女を『重い』と思えるような身体であってほしかったなと、僕の腕にかかる重さを感じて思う。ただ『そんなこと気にしないの』と笑って言ってみる、これが今の最適解だった。 
 病室を出て、ロビーで僕達を待っていた看護師から最終確認事項の説明を受ける。昨晩と今朝の彼女の体調、なにかが起きてしまった時の連絡先、最悪の場合の応急処置。そして最後に『千春の最後の青春を味合わせてあげてね』という優しさを託され送り出された。
 ここから、僕と彼女にとって高校生活最後の一日が始まる。

「私が学校に行ける日は一緒にこの道を歩いてたんだっけ、この間あの四冊の後にみせてくれた高校三年間分のアルバムの中に写真があったよね」

「そうだね、それに千春はよく走ってたよ。僕がその後ろ姿が好きでね、それが写真に残ってる」

「そっかそっか、残しててくれてありがとう。記憶はないけど、それでも懐かしいに似てる感覚を抱いてる」

「それなら僕が写真を撮った意味があったね」

「文弥君が私のためにしてくれたことに意味がないことなんてひとつもないよ。今日だって、いろいろ考えて私を連れ出してくれたんでしょ?」

 彼女の言う通り、この二週間は僕の人生全てでみても最も頭を使った期間だったと思う。

 *

 あの日、高校生活での心残りを打ち明けられた僕はすぐに家へ帰ったふりをして彼女の主治医を訪ねた。彼女の病気がみつかってから五年間お世話になっている人で僕自身も何度か顔を合わせたことはあったけれど、自ら彼を訪ねたのはこれが初めて。医療知識なんてない僕からの提案はあまりに無謀なものと思われてしまうかもしれないと、案内された部屋の中で怯みそうになる。それでも僕へ打ち明けた瞬間の彼女の表情が何度も頭へちらつき、彼へ頭を下げた後にあるだけの誠意と共に僕と彼女の願いを口にした。


『彼女と一日だけ、一緒に学校へ行かせていただけませんか』


 頼りない姿勢だったと思う。目を合わせることなんてできず、震えないように保つことで必死になっている臆病な声。彼女の病状をわかっているからこそ、この提案を口にすることが怖かった。
 病室内での面会でさえも一時間に制限されている現状の中で、彼女を一日外に連れ出すことがどれだけリスクを伴うことか。それはきっと僕が、そして僕以上に彼女がよくわかっている。

「文弥君からの願いを了承したい気持ちは僕にだってあるよ。それでも僕は医師として、そのリスクを躊躇わずに許可を出すわけにはいかないんだ」

 彼からは、穏やかな声でそう告げられた。
 その返答に抵抗する言葉がみつからなかった、彼の言葉を理解できてしまったから。彼女の中の未練を拭いきれないことへの不甲斐なさを感じながら、僕はその言葉を呑むことしかできない。『お時間取らせてしまって申し訳ないです、聴いてくださってありがとうございました』と、そんな簡易的な言葉しか言えなくなってしまった。また日を改めて、今度は現実的な提案をしようと僕が席を立とうとした時、僕の手首を掴み呼び止めたのは他でもない彼だった。

「だから僕はひとりの人間として、心を持つ人間として、その願いを聴き入れたいと思うんだ」

 信じられなかった。この願いに希望と可能性を授けられたことが、僕は信じられないほど嬉しかった。
 彼の目は優しくて、それでいて覚悟を感じられるような視線を受けた。僕はもう一度席に着いて、彼の話の続きを聴く。

「今の千春を一日外へ連れ出すことは確かにリスクを伴う、それでも不可能ではない。僕や看護師、それに文弥君が力を尽くせばできないなんてことはない」

「どうしてそこまで、力を尽くそうとしてくださるんですか」

「文弥君もわかっていると思うけど、千春にはきっと思っている以上に時間が残されていない。僕は医師として、千春を生かしたい。ただそれ以上に千春をそばでみてきた人間として、この世に未練を残してほしくないという願いが強くあるんだよ」

 彼の言うことと僕が内側で思っていることが、奇妙なほどに重なる。
 彼女の時間が長くないことを知っているからこそ、受け入れなければいけないからこそ望んでしまうこと。きっとこの人なら、僕と彼女の願いを諦めずに叶えるための手を差し伸べてくれる。
 彼へ感謝を伝えたい、それでもその感謝を『ありがとう』で表してしまうことは与えられた希望と釣り合わないような気がした。僕は立ち上がって頭を下げる、言葉は出てこなかった。そんな僕の手を彼が取る、顔をあげると彼がなにかを告げようとしていることがわかった。

「文弥君。僕は、何度も千春に光を見せてもらってきたんだ」

「光、ですか」

「明日どうなっているかすらわからないような千春は、何度も僕へ生きていることで光をくれた。それこそ不可能な話だけれど完治しない大脳圧迫腫瘍という病を患っている千春へ『この子なら完治するかもしれない』と、思ってしまうほどにね」

「先生がそんなことを思うくらい、なんですね」

「千春は僕の中の当たり前を壊し続けてくれた、それでも最後は死という当たり前に従ってしまう。僕はそれがあまりにも悔しくてね」

「死という当たり前……」

「でもそんな段階になった今でも千春は当たり前を壊そうとしてる。ただその時を穏やかに待つという当たり前を壊して、僕や文弥君と未練をなくしていく……千春は最後まで『今』を生きることに必死なんだよ」

「今を生きることが、千春にとって一番大切なことだと僕は思います」

「そうだね、医師としても人間としてもそう思うよ。だから文弥君、最後まで諦めずに千春のそばにいて欲しいんだ。僕と約束してくれるかな」

 取られた手に力が入る、彼の力と温度が伝う。
 僕が必ず、彼女の願いを叶える。そして未練を残させない。
 そこからの二週間は病院と学校を行き来して彼女との高校生活最後の日へ向けた話を重ねた。主治医の彼を筆頭に病院側は快く話を受け入れてくれて、学校側は少し恐れながらも『千春のためなら』と最大限のことを尽くしてくれた。
 その二週間で彼女は担任教師と、養護教諭、そしてひとりの看護師の記憶をなくした。そして忘れられた三人は口を揃えてこう言う。


『千春が私を忘れたとしても、千春は千春のままだから。私が千春の願いを叶えたいって思いは変わらない』

 
 その言葉からも、彼女の人望が垣間見える。
 彼女の記憶から誰かが消えても、その人の記憶に『千春』という人間が素敵に残っている。
 言葉を借りるのなら、彼女が与え続けてきた『光』が今の彼女へ向けられている。僕はこんなにも愛され、素敵な人を好きになれたことが誇らしくなった。そしてそんな人のために、人生最高の一日を創ることを心に決めた。

 *

「千春、学校のことは少し覚えてたりする? 教室の雰囲気とか、些細なことでもいいんだけど」

「クラスの子の顔とかはぼんやりとしか思い出せないけど、それこそ雰囲気とかはちゃんと覚えてるよ」

「それなら少し、本当の意味で懐かしくなれるね」

「そうだね、私もその感覚に触れられることが嬉しい」

 ゆっくり進んでいたはずの通学路の終わりがみえてくる、彼女が校門を指差す。
 まっすぐ前を向いて車椅子に乗っていた彼女が顔を上へ向けて、僕へ嬉しさを散りばめた表情をみせる。遊園地のゲートを潜るように、校門を通り抜け昇降口へ入る。
 僕と彼女の上靴だけが、まだ靴箱に取り残されている。

「ここから最初はどこに行くの?」

「教室に行こうと思ってたよ、靴を履き替えたらそのままね」

 運よく僕達の教室は一階にあり、車椅子での移動を考えても問題なく辿り着くことができる。
 誰もいなくなった校舎には、数週間前の卒業の雰囲気が残っていた。昇降口のすぐそばにある掲示板には出身中学や進路先からの祝辞が貼られていて、柱や窓ガラスには在校生が施したであろう花を(かたど)った装飾品で色が添えられている。

「誰もいないはずなのに、みんないるみたい。文弥君がいてくれてるからっていうのもあるけど、雰囲気が全然寂しくないね」

「そうだね、ここでにぎやかな時間が流れてたことがちゃんとわかるように残ってる」

 僕にとってのただの日常は、彼女にとっての紛れもない非日常。
 卒業式後の最後のホームルームからなにも変わっていない教室へ入る。黒板には『祝卒業』と大きく凝られた字体で書かれていて、その下には担任教師からのメッセージが添えられている。教卓の花瓶にあった花は少し色褪せていて、下の方からは新たな蕾が開こうとしている。確かに流れている時間の中で、思い出だけが変わらずに浮遊している空間。それが今の教室だった。

「私の席、どこだっけ」

「この列の前から四番目の席だよ、座ってみる?」

 頷く彼女を抱えて、体勢を崩さないように椅子へ移動させる。
 机に優しく触れて、まっすぐ黒板をみつめている彼女はあるだけの記憶を辿っているのだと思う。なにを思い出したのかはわからないけれど、時々懐かしむように微笑む横顔に安心している僕がいる。

「文弥君の席はどこ?」

「僕の席はここ、一列挟んだ斜め後ろの席だね」

「座ってみてほしいな、どんな距離に感じるんだろうって気になっちゃった」

 久しぶりにみる、僕の席からみた彼女。
 彼女が登校してきた日は、座っている彼女の周りをクラスメイトの女子を中心に囲む構図がよく出来上がっていた。にぎやかな集団が去ったかと思えば、入れ替わるように落ち着いた雰囲気の数人が彼女に声を掛けるのだ。その全員と彼女は笑って言葉を交わす。制限された登校日数の中で出会った数えるほどしか言葉を交わしていない相手の名前を、彼女はしっかり覚えて呼んでいた。そういう優しさが形に表れている構図が僕は好きで、クラスメイトの間を覗くようにして彼女をみつめていた。
 今、ふたりだけになった教室で僕は彼女だけをみつめている。
 僕の視界に割り込む存在もなく、まっすぐに彼女が映っている。『近いのに遠いね』と彼女は無邪気に僕の机の方へ手を伸ばす。

「そうだよね、僕もそう思う。近いのに遠いよ」

 同じ言葉なのに、僕と彼女ではきっとその言葉に込めた意味が違う。
 僕は机の位置に対して言葉を向けたわけではない。長い歳月の中を隣で生きてきたはずなのに、数十センチ先にいる彼女の手にすら触れられない距離感が遠く感じて僕はその言葉を返した。

「ねぇ、手、なんで伸ばしてくれないの?」

「え」

「文弥君の手だよ。私の手はここまでしか伸ばせないから」

 差し出された手に、僕の手を重ねる。
 久しぶりに彼女の手の感覚と温度に触れる、不思議な気持ちの動き方をしていることがわかる。
 なにも言えないまま彼女をみる『なんだ届いたじゃん』と、繋いだままの手を揺らしながら笑う。そんな彼女の表情と、手に触れているという事実に溢れ落ちそうになる感情の形を目の奥へ押し込む僕がいた。彼女の前では、笑っていたい。
 席を立ち、手を繋いだまま彼女の席の隣へしゃがむ。もっと近くで彼女を感じたいと思ってしまったから。

「文弥君にとっての教室ってさ、どんな場所?」

「僕にとって……考えたこともなかったよ、日常そのものなのかもね」

「そっか、そもそも考えないくらい当たり前にあるものなんだよね。教室って」

 僕の言葉に彼女の表情が曇る、寂しそうに影がかかる。
 その表情の理由はわからないけれど、彼女が必死になにかを抑え込もうとしていることだけはわかった。言葉を、気持ちを、隠すようにしまい込んでいく彼女の横顔は苦しかった。

「千春?」

「ごめんね、わかりきってたはずのことに改めて感じてちょっと悲しくなっちゃってさ」

「わかりきってたはずのこと……?」

「私はみんなが当たり前に過ごしてきた日常を、当たり前って感じられなかったこと。この教室、私にとっては非日常的で特別な場所だけど文弥君にとってはどんな場所か考えることもないくらい当たり前な場所ってこと……私の中で再認識しちゃって、それがちょっと寂しく感じたんだ」

 その表情の説明を彼女にさせてしまった僕自身の情けなさに嫌気がさす。
 せめて優しさでその寂しさを包めるような言葉を渡してあげたかった、俯いた彼女に少しだけ前を向いてほしい。考えても僕の中から気の利いた言葉なんて出てこなかった。
 ただひとつ僕の中の記憶が言葉になって溢れてくる予感がして、その感覚のまま僕は口を開く。

「僕の大好きな人が言ってたんだ『特別じゃないことを特別に感じられる方が日常は幸せなはずでしょ』って」

 思い出した、この状況になっても僕はまだ彼女の言葉に支えられている。
 僕の大好きな人が言っていた言葉、今鮮明に思い出した言葉。
 まだ僕との記憶を失っていない頃の彼女が、何気なく、当たり前のように呟いたこと。彼女の表情をみて、その言葉を本人が覚えていないことがわかった。でもそれでよかった、もし覚えられてしまったいたら僕のもうひとつの本心も同時に伝わってしまうことになるから。

「確かに、その人が言うことも一理あるね。それに……」

「それに?」

「こんなにも素敵な文弥君が好きになった人からの言葉なら信じられるって思った。本当に、文弥君は好きになる人すら素敵な人を選んじゃうんだね!」

 戸惑う心を隠しながら『そうだね、素敵な人だよ。ずっと』と返す。
 彼女の口角が上がる『いいなぁ! 私もそんな素敵な人を好きになってみたいよ』と呑気なふりをして僕からの言葉を咀嚼している。全てじゃなくていい、ほんの一部でもいいから言葉の意味に彼女自身を重ねてもう一度、彼女の中にある日常の特別に触れてほしい。

「文弥君の好きな人が言ってた言葉、勝手に私に当てはめて考えちゃったよ」

「いいんだよ、僕だって勝手に言葉を借りてるわけだし。それで、当てはめた時に千春はなにを思った?」

「私の日常は特別だらけ! ってとんでもなく都合のいいことを考えちゃったよ」

「それはどんでもないね、でもいいと思うよ。きっと彼女もそう思ったからその言葉を発したんだと思うから」

 満足そうに笑いながら、彼女はもう一度教室を見渡す。
 あの日も同じだった。僕の切り取った日常をみて、それを特別だと受け取った。記憶がなくなったとしても、やっぱり彼女は彼女のまま変わらない。

「体調に変わりはない? そろそろ次の場所に移動しようかと思ってるんだけど」

「問題なし! 次はどこに連れてってもらえるのかなぁ」

 再び車椅子へ移った彼女と共にまだ肌寒さの残る風が吹き込む渡り廊下を通る。
 車椅子での移動には適していない段差の多い渡り廊下を選んだのは、完全に僕のエゴだ。彼女が登校してきた日、久しぶりの学校に張り切りすぎたことで移動教室の間に身体の異変を感じることが何度かあった。その時に一緒に立ち止まって、座りながら彼女が落ち着くまで話をした思い出が僕の中にある。彼女はそんなこと覚えているはずがないけれど、僕達の高校生活には欠かせない場所だと思う。それが次の目的地への行き道の選択肢が複数ある中で、僕がこの道を選んだ理由。

「次はどこに行くの?」

「この渡り廊下をまっすぐ言って曲がった先に体育館があるんだ、その中に今日のメインがあるよ」

 待ちきれない様子で彼女の弾んだ声の相槌が返ってくる。
 今日のための準備は全てこのためといっても過言ではないほど、僕はここからの時間に懸けている。
 角を曲がる、彼女に目を瞑るよう言う。体育館の扉を開いて、改めてその空気感を感じる。息を吸って、彼女の肩に手を乗せる。

「千春。目、開けて」

「これ……これって、嘘でしょ」

 体育館を囲むように垂らされた紅白幕、進む道を示すように敷かれたレッドカーペット、壇上に向かって規則正しく並べられる鮮やかな花、そして中央にふたつ並んだパイプ椅子。

「千春の卒業式を僕にさせてくれないかな」

 卒業式に出席したかったという彼女の願いを叶える方法、それはこのひとつしかないと思った。
 時間を巻き戻すように、取り戻すように、ふたりだけの卒業式を思い出として記憶に保管したい。しゃがんで少しだけ覗き込むような姿勢で彼女の表情を確かめる。なにかを堪えるように唇に力が入っていて、丸くて大きい瞳が少しだけ細くなっている。僕と目が合う、声に出ていないけれど唇の動きでわかった『ありがとう』と、まっすぐに僕からのサプライズを受け入れてくれた。

「鞄の中に制服持ってきてくれたでしょ? ステージの横の幕が降りてるところで着替えてきてほしいんだ、手伝ってくれる人もいるし時間は気にしなくていいから最後の制服、一緒に着ようよ」

 頷く彼女をステージ袖へ連れて行き、見送る。
 ちなみに『手伝ってくれる人』は僕達の三年目の高校生活を担任として見守ってくれていた教師。数日前彼女の記憶からは消えてしまったけれど、なにか最後の思い出作りに力を貸せることはないかと『担任教師』という肩書きを伏せて式を支えてくれることとなった。
 幕越しに緊張まじりにも彼女の楽しげな声が聞こえてくる。教室内でのふたりの会話が蘇る、はっきりとした言葉は覚えていないけれど当時と似た雰囲気が流れている。
 数分して、幕の内側から僕を呼ぶ声がした。

「どう? 制服、ちゃんと似合ってる?」

 以前より痩せてしまったことで余白の目立つセーラー服の裾と、器用に動かすことが難しい中でも健気に頑張った跡のわかる不恰好に結ばれた胸元のリボン。着た回数の少なさから目立った汚れがない。それでも周囲と同じように高校生活を楽しめた瞬間が形として残っているスカートを折った線の跡。
 彼女の抱えられるだけの青春と、僕の中の女子高校生である彼女の要素が全て詰め込まれたような制服姿に目を奪われる。
 卒業式という言葉が誰よりも似合っている、そして誰よりも美しくて消えてしまいそうに儚い。

「綺麗だよ、この制服が千春のためにつくられたって言われても不思議じゃないくらい似合ってる」

「それは大袈裟だよ、でも嬉しい。ありがとう」

 久しぶりの制服に少し強張った様子で僕に微笑む。
 そんな彼女に視線を合わせて『ちょっとごめんね』と言葉を添え、胸ポケットのあたりに桃色の花のコサージュをつける。これでやっと、僕と彼女の卒業式への準備が整った。
 といって時間は限られていて、当然ながら本来の式と全く同じことを再現することは叶わなかった。彼女の記憶上での混乱を防ぐために参加者も僕と彼女のふたりだけ、少し寂しいような気もするけれどこれが今の僕達にできる精一杯の願いの形だった。
 中央に並んだパイプ椅子の片方に僕が座り、その隣に彼女の車椅子を停めた。準備の段階から不安定なパイプ椅子に彼女を座らせないことは決まっていたけれど、それでも椅子をふたつ並べたのは演出、かっこいい言葉で飾るのなら少しでも『彼女の描く卒業式』を創るため。並んで席についた僕達は、目すら合わせずに言葉を交わし始める。

「卒業式、本当は長くて難しい話がいっぱいあるんだよ。千春、知ってた?」

「それは知ってるよ、校長先生からの話でしょ? 式辞だっけ、あれ最後までちゃんと聴いたことある人いるのかな」

「どうだろうね、僕は少なくとも聞き流しちゃうな」

「私も。でもきっと、大切な人からの話ならちゃんと全部聴けちゃうんだろうね。聴けちゃうというより、聴いちゃうのかもね」

 卒業式という特別な場所でも僕達は、そんな他愛の無い話をしている。
 その話が僕達にとっては大切なのだろうと思う。同じ記憶をつくっていくこと、時間を重ねていくこと、それがどれだけ奇跡的なことかを痛感している僕達だからこそ手放せない。
 きっと彼女がいなくなった先でも、僕が思い出すのはこんな他愛の無い瞬間の連続なのだと思う。

「でも私、卒業式っぽい話聴きたいな」

「卒業式っぽい話?」

「長くて小難しいような……でもちゃんと意味があるような話! そういう話が聴きたいの」

「それはつまり……」

「文弥校長! お願いします!」

 急な無茶振りに困惑する、それでも期待に満ちた彼女の視線を拒むわけにはいかなかった。
 僕の小さすぎる頭を回す。小さいのなら『意味のある話』のひとつやふたつ、探す間もなくみつかりそうだけれど僕の頭にはそもそも『意味のある話』なんて便利なものは内蔵されていなかった。
 彼女を前に、僕が伝えたいこと。僕だから伝えられること、卒業式という特別に身を任せて吐き出してしまいたいこと。

「それじゃあ僕から『秘密』についての話をしようかな」

「秘密……?」

「これは僕の友人の話なんだけどね、その人には好きな人がいたんだよ」

 僕の話を素直に受け取っている彼女には申し訳ないけれど、ここから先の話は紛れもない僕の実話だ。
 大抵『友人の話』と切り込まれた話は本人の話とバレてしまうのだけれど、純粋すぎる彼女にはその嘘がバレそうにない。その性質に頼りながら僕自身の本当と、少しの嘘を交えながら高校生活最後の話をする。

「でもその好きな人は重い病気を患っていてね、残された余命が五年だったんだ。それでもその人のことが好きで、隣にいたいと心から思っていたんだって」

「まっすぐで素敵な人だね、そういう恋こそ報われてほしい」

「僕もそう思うよ。でもその子は好きな子に『好き』を伝えないことを選んでる、秘密にしてるんだよ」

「それはどうして?好きな人に時間が迫っているなら、待っている余裕なんて……隠している時間なんてないように思えるけど」

「好きだから隠してるんだって。その人のことが好きだから治療の負担にならないように、そして残されている時間の短さを知っているからこそ好きな人に『先に死んでしまう』っていう罪悪感を背負わせないために隠してるって言ってたよ」

「みえない優しさだね、すごく素敵だけど残酷だよ」

「そうだよね、僕もそう思う。もし自分のことだったら、って想像しただけでちょっと胸が痛いよ」

 嘘と本当をいい具合に混ぜながら、彼女へ言葉を注いでいく。相変わらず、お互い目を合わせないままで。
 見切り発車で始めた話だけれど、意外にも僕の中でこの話の終着点がみえてきてような気がした。

「その友人の好きな人の余命が迫ってきたんだって。今年の夏って言ってたよ、十九歳の夏がその人の余命」

「今が三月の終わり際だから……その通りに進んじゃったら、あと半年も残されてないよ。そのお友達は、その子に『好き』って伝えられたの……?」

「いい質問だね、今からその話をしようとしてたよ。結果から言うと、その子は好きな人が自分の前からいなくなってしまうまで『好き』を伝えないままでいることを心に決めたんだ」

「それは、やっぱりその好きな人の身体とか心が大切だから……?」

「僕もあえて詳しくは聴いてないけど、きっとそんな理由だと思うよ。ここまでの話を聴いた千春に、僕からひとつ質問をしようと思う」

 この質問に返ってくる彼女の言葉で、僕の中の決心が揺らぐことはない。
 友人の話と題をつけた僕の話の結末の通り、僕の彼女への好意は隠したままで終わる気持ち。今からの質問はただ、彼女へ好意を伝えられない僕が最大限伝えられる未来へ向けた言葉のために必要なこと。

「千春は『誰かを想ったまま秘密を隠し通す結末』か『全ての想いを伝えようと秘密を打ち明けられる結末』、どっちが幸せな結末だと思う?」

 少し難しそうな顔をして、彼女は選択肢を繰り返し呟く。
 秘密を明かすか、明かさないか、その二択のどちらが幸せか。彼女が感じるままに出した答えを僕は待っている。
 彼女が僕の肩を叩く『答え、出たよ』と、またもや目を合わせずに言う。僕は頷いた後に『聴かせて』とだけ返す。彼女の手が肩から離れていく、答えを告げられる瞬間が迫っているのを感じる。

「私は、どっちも幸せな結末だと思う。でも同時に不幸だとも思う」

「理由を聴いてもいいかな」

「まず、報われない気持ちが残ったままなんて悲しいから不幸だと思った。でも隠し通すことも、打ち明けることも、それほど誰かのことを想ってひとつのことを抱えられるなんて素敵なことだと思うし限られた人しか抱けない感情だよ。だから過程も含めて、幸せな結末だって答えを出した」

 彼女の言葉が、僕の中にある模範解答に重なった。
 こんな準備もしていない即席の小話を『意味のある話』と言えたのはきっと、僕の中にその模範解答が無意識のうちに芽生えていたからだと思う。
 僕にとって彼女を好きでいることは幸せなことで、それでいて伝えられずにいることは残酷で言葉を変えるのなら不幸なことだった。それでもその気持ちを抱き続けることを選んだのは、彼女を好きでいるという事実が伝えられない時間すらも愛おしく感じてしまうほど幸せなことだったから。
 だから僕はこの話の最後に、彼女へ僕らしくない真面目なメッセージを送る。

「そうだね、僕もそう思うよ。だからこの話で伝えたいことは『秘密』の結末をどう選択するかじゃなくて、そんな秘密を抱えてしまうほどに素敵な相手に今後千春が生きていく中で出逢っていってほしい。そこで抱いた秘密を愛でるように大切にしていてほしいっていうことなんだ。未来を生きていく千春にとって、少しは意味のある話だったと思わない?」

「らしくないね、文弥君らしくない。でも、その言葉の優しさは文弥君の温度が通っている気がして私にまっすぐ響いたよ。素敵な話をありがとう」

 目を合わせていなくてよかった、と心から思った。彼女の声の震え方、そして僕の目元の違和感、きっと今はお互いに顔を合わせることができない。
 気づかれないように視線だけ彼女の方を向く。横顔に髪が掛かってよくみえなかったけれど、小刻みに上下している彼女の細い肩の動きからみえないはずの表情がみえた。普段彼女がみせる表情とは正反対の表情。残された期限が迫っている彼女へ、僕はあえて未来を生きることを前提とした話をした。きっと彼女自身の中で現状と未来の間に意識する部分があったのだろう。
 僕はそれに気づかないふりをして目を瞑る。この卒業式が彼女にとって、意味のあるものになれたらいいと願いを込めながら。

 *

 数分して、僕は卒業式最後の心の準備を整える。
 落ち着いた様子の彼女をみて僕自身の緊張を鎮める。幼馴染だからこそ意識したことがなかった、今から僕は生まれて初めて彼女の名前をフルネームで呼ぶ。


『卯月 千春』


 マイクすら通していない、彼女の隣で僕の声がふたりきりの体育館へ響く。
 僕の行動を察したのか、彼女は僕と同じくらいの声量で『はい』と応える。あの日、僕が聴くことのできなかった声。彼女は無意識のうちに僕の未練まで塗り替えてしまった。
 僕が席を立ち、彼女を壇横の階段まで連れていく。そこから彼女の腕を僕の肩へ回し、預けられるだけの体重を僕へ委ねて一緒に三段の階段を登り壇上に用意された椅子へ腰掛ける。
 そして手を離し、僕は向かい合うように彼女の前へ立つ。彼女の卒業を証明する瞬間が訪れる。

「卒業証書、卯月 千春 殿」

 この台詞を僕が言うことになる未来は僕自身も、そして受け取る彼女自身もきっと想像していなかった。
 僕らにとってイレギュラーと未知で続いてきた三年間を象徴したような最後の瞬間だと思う。そう考えるだけで、よりこの瞬間が感動的なことに思えてきた。
 そして彼女の卒業という僕達にとって奇跡のような事実を前に、僕は証書に書かれているテンプレートな言葉を全て取り払いたくなった。形式的な言葉では語りきれないほどの功績を彼女は『生きる』という形で残し続けてきたのだから。

 ***


 卒業証書 卯月 千春 殿

 貴女は三年間の高校生活の中で、そしてこの瞬間十八年間の人生の中で出逢った人の光となり続けました。
 その笑った顔や弾んだ声には貴女の優しさや暖かさが込められていて、それに励まされた人、救われた人は数えきれないほどいるでしょう。
 明日の行方すら不確かな貴女は、常に『今』を見続け決して生きることを諦めませんでした。
 その姿勢でもまた、貴女は誰かの光になっています。
 日常を特別と感じながら、きっと最大限貴女にとっての高校生活を過ごしてきたことは今の貴女の表情が証明していることと思います。
 綺麗ですよ、誰よりも。

 十八歳が終わる春を目指していた中で、千度の春すらも超えてしまうのではないかと可能性を感じさせてしまうほど、貴女は逞しく、そして美しく生き続けましたことをここに証します。
 生きていてくれてありがとう、そして。

 卒業おめでとう、千春。


 ***

 彼女の細い腕が僕の方へ伸びる。証書を両手で受け取った後、彼女の華奢な身体が僕の身体と重なる。
 彼女の体温が伝わる、溢れてしまいそうな鼓動が聴こえる、彼女が生きていることを今までで一番強く深く感じている。僕を抱きしめて離さない彼女を僕がそれより強い力で包む。誰もいない、ふたりきりの卒業式の特別。
 彼女の名前を呼ぶと『まだこのままでいて』と返ってくる、そして『文弥君と一緒に卒業できてよかった』と振り絞ったような声で呟かれた言葉が僕の中へ響いた。僕も同じことを思っていたよと、不器用に告げる。
 お互いの身体が離れて、おそらく今までで一番近くでみた彼女の潤んだ瞳の綺麗さに息を呑む。その瞳は彼女が与える続けてきた光の全てを詰め込んだような輝き方をしていた。

「私の夢、叶えてくれてありがとう」

 泣きながら、笑う。儚くも逞しい。彼女はそんな矛盾だらけの表情をしてみせる。
 僕がこの十八年間でもらったものを並べたら、この卒業式ひとつでは返しきれないほどの数になると思う。それでも残された時間の中で彼女の中の夢を叶えられたことが嬉しかった。ただ少しだけ、未練がなくなったことで彼女が遠くへいってしまうことが現実味を帯びたようにみえて素直に喜びきれない僕がいた。彼女の中の未練がなくなっていく度に、きっと僕の中の名残惜しさが積もっていく。

「文弥君」

「どうしたの?」

「私、高校は卒業するけどまだ人生を卒業する気はないからね」

 そうだ、そうだった、彼女は底なしに生きることを望んでいるのだった。
 忘れていたわけではないけれど、きっと僕は心のどこかで彼女が生き続けるという可能性に諦めたふりをしてしまっていたのかもしれない。明日、彼女がいなくなった時の悲しさを少しでも軽くするために最初から彼女の死を受け入れたふりをしようとしていた。
 今、彼女の体温と泣いて乱れた息遣いを感じて思う。僕が最期まで、一番近くで、彼女が生きていることを望んで、それを彼女と同じくらい喜んでいたい。それが僕にできる最大限の光返しなのかもしれない。きっと恩返しという言葉を使うと『私はそんなにすごいことなんてしてないよ』と返されてしまうから、あえて『恩』という言葉は使わない。

「文弥君、私ね、伝えないといけないことがあるんだ」

 落ち着いた様子で、彼女が僕の全感覚を独占する一言を発した。
 寂しそうに、それでいてどこか希望に満ちたような雰囲気の彼女がなにを僕に伝えるのか声を聴けるまでの間がもどかしい。
 大丈夫だよ、と言うように僕の手に触れて包み込むように握る。

「一週間後の今日、私は人生最後の手術を受けることを決めたよ」

「人生最後の手術__」

 その最後が示しているのが希望か絶望か、言葉を濁さずに言うのなら生か死か。
 彼女の表情から探ろうとしてみるけれど、僕には難しすぎた。笑っていられるような状況にない今でも彼女は笑顔のままだから、それなのに瞳からは絶えずに滴が溢れているから。言いかけた言葉を押し込んで、彼女からの説明を待つ。

「記憶が失われてるっていうことは、腫瘍が大きくなってる……つまり、病状が悪化してるってことなんだよね。そして、私の病気は完治しない、腫瘍が小さくなることも無くなることもない」

「それは……僕もよく理解してるよ」

「それでも私は、この世界でまだ生きていたい。まだまだ卯月 千春として笑っていられる時間がほしい……十八年間も生きてこられたのに欲張りだよね」

「そんなことない、もっと欲張ってよ。千春がいなくなるなんて考えたくもないからさ」

「私も考えたくないよ。眠る前にいつも思うの、ちゃんと明日が来てくれるかなって……最近はそんなことを考えて夜は不安でいっぱいになる」

 彼女からの告白に息が詰まる。
 言葉に詰まる彼女の背をさすることしかできない僕を無力だと思った。どれだけ日中に彼女と時間を過ごしても、夜の彼女を救うことはできない。そんな当たり前のことにどうしようもない悔しさを抱く。

「前にも少し話したけど、日に日に身体が動かなくなって誰かのことを忘れていくの。こんなこと言いたくないけど、私はいつ死んじゃっても全然不思議じゃないんだ」

「……」

「でもね、私はそんなに諦めがいいタイプじゃないみたいで、こんな状態になっても『生きたい』って思ってる」

「そんなの、僕が一番よくわかってるよ……」

「そうだよね? だって私の唯一の幼馴染だもん。だから私は一週間後に手術することを決めた。腫瘍を無くす手術でも直接病気を治せる魔法みたいな手術でもない、これから少しだけでもこの世界で生きられる時間を延ばす希望を懸けた手術」

 なにかが吹っ切れたように彼女は前を向いた。
 希望を懸けた手術、彼女らしい言葉だと思う。ここまで奇跡を紡いできた彼女だからこそ口にできるような言葉。
 僕よりも遥かに恐怖と不安を背負っているはずの彼女の前で涙を止められずにいる、せめてもと思い彼女の頬を伝っている涙を指で拭う。お揃いだねと笑いながら、彼女が僕の頬を指で拭う。この時間が永遠に続いてほしい。

「その手術は、成功するの?」

「わからない。でも私だから、成功させてみせるよ。もしうまくいかなかったらこれが最後の会話になっちゃうからね、最後の会話が泣き顔なんて嫌でしょ?」

「縁起でもないことを言わないでよ」

「でも本当のことだから、それに私なら大丈夫。信じて待ってて?」

 彼女の身体は頼りない、それでもその言葉と表情は僕の心をどこまでも安心させてくれる。
 千春なら大丈夫だと、根拠のない信じ方をしてしまいそうになるけれどきっと今はその信じ方がなによりの正解なのかもしれないと思った。言葉はない、時々を目を合わせて頷くだけで通じ合える想いがある。

「私にひとつ、願い事を言ってみてよ」

「願い事?」

「そう、願い事。なんでもいいよ?」

「千春の手術が成功して、一日でも長く一緒に生きていたい。それ以外はなにも望まないよ」

「よくぞ言ってくれた! 文弥君が私の願いを今日叶えてくれたでしょ? だから今度は私が文弥君の願いを叶えるよ」

 彼女が僕の願いを叶えてくれたら、僕はその先に待っている時間の全てを彼女に捧げたい。
 生きたいという大きな願いの前に(かす)んでしまっている小さな願いすらも、全て隣で叶えるのは僕がいい。
 彼女が言うに、次に会えるのは四月二十日。手術が成功すればという条件はこの際、揺らぐことのない前提として置いておく。
 その日は彼女の十九度目の誕生日であり、僕達の約束が果たされる日。
 希望に満ち溢れた表情の彼女の容姿が、再入院が決まった数ヶ月前より確かに弱々しくなっていることに改めて気付かされる。僕は信じていたい、彼女がこの先も生き続けられる未来をなくさずにいたい。

「必ず会おうね、千春」

 そんなことしか言えない僕を、彼女はあるだけの力で抱きしめてくれた。