目が覚めた芹香は、見慣れた板張りの天井に安堵の息を吐く。
 それも束の間、さっきまでの出来事を思い出して勢いよく起き上がった。

「芹香!」
「ひゃあっ!」

 人の姿をした紫苑がすぐそばにいて、芹香は悲鳴をあげてすぐさま布団に潜り込んだ。頭まですっぽりと覆ってうずくまる。恥ずかしさで顔が沸騰しそうだった。

 紫苑は、出会ってから喋ることもせずずっと狐だった。世津と葉奈から、霊狐の一族にはこのように狐の姿のままのものもいるのだと教えられていた。だから芹香は特に疑うこともなく、そばを離れない懐っこい紫苑をそれはそれは可愛がってきた。

 芹香が座っていると膝の上に乗り、どこかへ行けば後をついてきて。
 当然のように眠る時も一緒だった。

 だけど、それはあくまでも可愛い飼い猫──ならぬ飼い狐のような扱いであって……。

 ──信じられない……!

 これまでのあれこれを、狐ではなく人の姿の霊狐で想像してしまい、芹香は叫びたくなった。

「──芹香さま! 今の悲鳴はなにごとですか⁉」

 部屋の襖が無遠慮に開き、世津が駆けてきた。その後に、ゆっくりとした動作で葉奈が盆を手に入ってきた。

「世津、そんなに大声を立てては芹香さまのお耳に障りますよ。霊狐さまがご一緒なんですから、大丈夫に決まっているでしょう?」

 布団越しに聞こえる二人のやり取りに、心がほんの少し冷静さを取り戻すも、芹香は布団からは出ようとしない。恥ずかしすぎて、どんな顔で相対すればいいのかまったくもってわからない。

「霊狐さま、これは一体どういう状況です?」

 こんもりとした布団の山を見て、世津が紫苑に問いかけた。

「世津、芹香さまにもいろいろと思うところがおありなんですよ」

 問われた紫苑の代わりに答えたのは葉奈。紫苑は布団の山をただじっと見つめることしかできずにいた。するとその中からくぐもった声で芹香が叫ぶ。

「も、もうっ、紫苑の顔なんか見たくない! 出て行って!」
「……せ、芹香」

 聞こえてきた紫苑の声音に動揺の色を感じ取り、芹香の胸がきしむ。
 本心だけど、本心じゃない。
 だけど今はとてもじゃないけど、紫苑と顔を合わせたくなかったし、冷静に話を聞ける状態でもなかった芹香は、紫苑を拒絶した。

「──ということなので、霊狐さまはご退室願います。世津も」
「えぇー! どうしてぼくまで? 出てけって言われたのは霊狐さまだけだよ?」

 芹香に拒まれた事実を世津から追い打ちをかけられて気落ちした紫苑は、肩をがっくりと落としてしぶしぶ部屋から出ていく。

「世津は霊狐さまのお付きなんですから、ちゃんと役目を果たしなさい」
「ちぇ」

 ややしてトンと襖の閉まる音がして静かになり、芹香はそろりそろりと布団から顔を覗かせた。部屋に葉奈しかいないのを確認すると、芹香は布団を剥いで居住まいをただした。少し眉を下げて微笑む葉奈に少しだけ申し訳なさを感じつつも、芹香は口を真一文字に結ぶ。すると葉奈は、深々と頭を下げた。

「芹香さまを騙すような真似をして申し訳ございませんでした」
「やだ、頭を上げて、葉奈」

 そばに近寄り、葉奈の手を取って頭を上げさせる。
 謝ってほしいわけじゃない。
 葉奈も世津も……紫苑も、理由もなしにこんなことをするような人だとは思えなかった。ただ、ちゃんと納得できる理由を話してほしい、とは思う。
 芹香は、葉奈の言葉を待った。

「紫苑さまが霊狐さまだと黙っていたことは弁解の余地もございませんが……、この一年間、芹香さまと過ごした日々と私たちの気持ちに嘘偽りはありません。どうかそれだけはご理解くださいませんか」
「それは、理解してるつもりよ……。で、でも……っ、葉奈ならわかってくれるでしょ⁉ 私ずっと……ずーっと紫苑と一緒だったのよ⁉」

 気持ちがまた高ぶり、ずっとよ!と何度も繰り返して強調せずにはいられない。

「あぁ! 私もうお嫁にいけない!」

 顔を両手で覆った芹香に、「芹香さまはもう嫁がれているので大丈夫ですよ」と葉奈が苦笑する。

「あ、そうだった。……って葉奈、冷静な突っ込みはやめて」

 冷めた目で葉奈を見遣るが、葉奈は気にも留めない様子で言葉をつなぐ。

「芹香さまのお気持ちはお察ししますが……霊狐さまは、疚しいお気持ちで芹香さまのおそばにいたわけでは決してありません、ということだけはお伝えしておきます。黙っていた理由については、霊狐さまご本人の口から直接お聞きになるのがよろしいかと」
「うん……、わかった。そうする」
「ありがとうございます。──お腹が空いているんじゃありませんか? 去年仕込んだ梅で粥を作ってきたんですよ。冷めないうちに召し上がってください」

 傍らに置いてあった盆をすっと差し出し、土鍋の蓋が開けられる。梅干しの酸味と米の甘い匂いがふわりと鼻をかすめていった。去年の春の終わり、庭の梅の木から取れた梅の実は、半分は梅シロップにして残りの半分を梅干しにしたのだ。
 つまようじで一粒一粒へたを取り除き、丁寧に洗って漬けたそれは真っ赤でしわしわで美味しい梅干しになってくれた。
 酸味に刺激され、じゅわりと唾が滲みでる。

「美味しそう!」
「一緒に漬けた赤紫蘇も入れてありますよ」

 お盆ごと膝の上に乗せて、芹香は匙を手に取り粥を口に運ぶ。適度な塩気と酸味とに食欲を刺激され、食べる手が止まらなくなる。

「うーん、美味しい。この赤紫蘇がまた癖になるしょっぱさ」

 気付けば気分はすっかり上を向いていて、我ながら単純だなと呆れる芹香だった。


 翌朝、朝餉を済ませてようやく自室から出た芹香は、縁側に腰かけて空を見上げていた。
 そうすれば、きっと紫苑が姿を現すだろうと思って。

「──座ったらどうですか、霊狐さま?」

 案の定どこからともなく視界の端に映ったその人に、芹香は振り向かずに声をかけると、おずおずと近づいて芹香の隣に腰を下ろした。ひだまりの風がふわりとそよいだ。その馴染みのある香りは、落ち着くような胸を騒がせるような、なんとも言いがたい心地を芹香に与えた。

 隣に座った青年を芹香は見上げる。惜しげもなく風に靡く白金の髪は、最高級の絹糸のように細く艶やかに輝いていてとても眩しい。少し上を向いた目尻は狐姿の時のキリっとした美しさを滲ませていて、どこからどう見てもあの狐の紫苑だと芹香は腹落ちする。
 芹香の言葉を受けた紫苑は、ゆっくりとその琥珀色の瞳に芹香を映すと口を開いた。

「ずっと黙っていて、すまなかった」

 紫苑の端正な顔が苦し気に歪む。

「代替わりしたばかりの霊狐は、先代から受け継いだ力が強すぎて姿が一時的に子どもに戻るんだが、その力を自身に馴染ませて元の姿に戻るためには、(つがい)である華狐の持つ強い霊力が必要なんだ」
「霊力……」

 初耳ばかりの情報に頭が追い付かない。そもそも華狐にそんな役割や霊力なんてものがあることを、芹香はというより村の誰しも知らなかった。それどころか、華狐はそもそも生贄として認識されていたのだから、昔からの伝承がいかに当てにならないかがよくわかる。

「俺も例外なく子狐になり、華狐である芹香を迎えるにあたって、最初は一年だけ芹香の助けを借りて、力が安定したら芹香は村に帰そうと思っていた」

 だから子狐が霊狐であることも、華狐の役割についても話さなかったのだと言った。世津と葉奈に口留めしたのもすべては自分の決めたことだから、彼らを責めないで欲しいとも。
 芹香は、手元に視線を落とす紫苑の横顔をじっと見つめている。

「だけど、芹香のそばで過ごす日々は心地よくて、離れがたくなってしまった」

 それは自分も同じだと、芹香は胸の裡でつぶやく。

「かと言って、どう切り出せばいいのかわからなくなって……、今更本当のことを言ったら芹香が呆れて帰ってしまうのではと、情けなくも今の今まで言い出せずにいたんだ」

 紫苑の視線が、芹香に向けられる。
 なにもかもを見通すような琥珀色をした瞳に見つめられて、芹香の胸は高鳴った。これまで毎日のように見てきた紫苑の瞳なのに、こんなに苦し気に揺れる瞳は知らない。

 まるで、紫苑が自分にいなくなってほしくないと、そばにいて欲しいと言っているように聞こえて、芹香は着物の衿合わせに指先をひっかけるようにして胸元を握りしめた。
 もう片方の手に、紫苑の手がそっと触れる。線は細いが大きな手は男性のそれで、芹香の身体がびくりと跳ねた。
 紫苑は芹香の反応に一瞬身を固くしたが、そのまま芹香の手を取りまっすぐ見つめる。

 中庭では、木々に止まった鳥たちのさえずりが響いて時折風が葉を揺らす音がするくらいで他に音はない。この場所で、狐の紫苑と過ごす穏やかな時間は芹香の大好きなひと時でもあった。それらの時間がつぎつぎと浮かんできて、触れてくる紫苑を拒めないでいた。

「どうか、俺のそばにいてほしい」

 愛の告白のようにも取れる懇願に、体温が上がっていき顔が火照った。
 しかし、

「霊狐の華狐として……、正式に俺と番になってほしい」

 ──霊狐の華狐として。

 その言葉を聞いた瞬間、昇り詰めていた熱が瞬時に冷めていく。
 紫苑は霊狐として華狐の力が必要だと言っているのだと、芹香は冷静に受け止める。

 お前なんかいらないと言われなくてよかったと安堵しているのに、心の底に流れる冷たい空気はなんだろう。
 考えてもわからない芹香は、見て見ぬふりをして蓋をした。
 どうせ村に帰ったところで、自分を待ってくれている人も歓迎してくれる人もいないのだから、自分を必要としてくれる紫苑のそばにいたい。それはまぎれもない自分の願望だ。
 芹香は、紫苑を見てゆっくりと頷く。

「わかりました。華狐としての役目を果たします」