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 離縁という通常ならば祝されぬようなことを行うその日は、清々しいほどに晴れ渡っていた。
 厳しい父の元を離れ、新たな家へと旅立つと考えれば良いことなのかもしれないが……。

(少し、複雑な気分ね)

 外の明るさを眩しく思いながら苦笑した琴子は、【離縁の儀】のための着物に袖を通した。
 真っ白な絹の着物には、金糸と銀糸で悪趣味にならない程度に蓮の刺繍が施されている。
 白、金、銀は風水の観点から縁切りに良いとされる色で、蓮の花言葉は『離れゆく愛』なのだそうだ。
 いくら【離縁の儀】とはいえ、ここまで徹底的に別れを意識した衣裳でなくとも良いのではないだろうかと呆れる。
 まあ、縁を切り新たな縁をという意味もあるので悪いものばかりではないが。

 女中の手を借りしっかりと着付けてもらうと、最後に父から貰った白い桔梗の髪飾りをいつもの下げ髪に添えた。
 記憶にある限りでは、はじめての父からの贈り物だ。
 地味な装いしか許されなかった身としては、華やかで可愛らしい桔梗の髪飾りは嬉しいものだった。
 だが、白い桔梗の花言葉は【従順】。
 桐矢家でも従順に、母のように付き従えという意味が込められているのだろう。
 この贈り物を持ってきた母の言葉からもそれは現れている。

『桐矢家でも、家長に逆らうようなことはしてはいけませんよ。従順にお役目を全うしなさい。それが旦那様の願いでもあります』

 どこまでも従順に付き従う母らしい言葉ではある。
 だが、母と自分は違うのだ。
 家長に逆らうことは家を出されても仕方のないこと。だから不満を呑み込み逆らわずに生きてきた。
 それでも不満をなくすことなど出来はしない。

(綺麗だけれど、意味を知ると嬉しさも半減ね)

 いつものように、不満は心の内だけに留め琴子は支度を終えた。

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 守護鬼・朱縁の屋敷へはいつものように鬼花専用の馬車で向かう。
 異性との距離が近いだけで気分が悪くなる鬼花は、他の移動手段ではまともに外へ出られないのだ。
 徒歩や人力車は勿論、最近増えてきた自動車などは運転手が同じ車内にいるのだからもってのほか。
 通常の馬車も御者が近くにいるが、この鬼花専用の馬車は特殊らしく中に異性がいなければ距離が近くとも大丈夫らしい。

 いつもより長めの距離を馬車に揺られ着いた朱縁の屋敷は、立派な門構えの邸宅だった。
 帝が遷都した頃からある屋敷だと聞いているが、少なくとも何度か建て替えられたのだろう。和風建築ではあるが、鎧戸など所々洋風を思わせる様式があった。
 出迎えてくれたのは黒い髪を耳隠しにした糸目の女中だ。

(女中……女中よね? あまり見ない服装だけれど)

 その女中はカフェーなどで見かける女給が身につけているようなエプロンを着けていた。
 ただ、着物ではなく黒い裾の長いワンピース姿だ。

(こ、これって……洋館で働く女中であるメイドの制服ではないかしら?)

 話に聞く程度の知識しかないが、聞いたままの格好をしている。
 古来から都を守っていた鬼の邸宅だと言うからさぞ古めかしい場所だろうと思っていたが、真新しいものがあることにとても驚いた。
 華やかなものに憧れのある琴子にとって、心惹かれてしまう装いだった。
 とはいえ今日は【離縁の儀】のために訪れたのだ。感情のまま行動するわけにはいかない。
 躍るような心持ちを何とか抑え、その女中――メイドの案内するままに屋敷に足を踏み入れる。

 少し遅れてやってくる兄の藤也は別室にて待機する予定だ。
 【離縁の儀】などと大層なことを言っても結局のところはいつも身につけていた数珠を返すだけ。それほど待たせることにはならないだろう。

「こちらです。朱縁様はすでに中でお待ちになっております」

 そう声を掛けたメイドは、襖を開け琴子を促した。
 緊張の面持ちでゆっくりと畳を踏みしめながら進んだ琴子だが、その歩みは途中で一瞬止まってしまう。
 なぜなら、上座に座している銀髪の男は人を出迎えるような格好をしていなかったのだ。
 唐紅の着流しを着崩し、気怠げに肘掛けへ体を預けている。

 儀式のためにしっかりと身だしなみを整えてきた琴子とは真逆な様子に、思わず頬が引きつった。
 しかも琴子が部屋に入ってきたというのにその瞼は軽く伏せられたまま。
 琴子の存在など気にも留めていないということだろう。

(確かに、会ったこともない相手と別れの挨拶をするためだけなのだから、やる気もなにもないでしょうけれど……)

 だが、花嫁を求めているのは朱縁の方だったはずではないだろうか?
 別れるとはいえ、求めていた相手とはじめて顔を合わせるのだ。
 いくら何でもこの態度はないだろう。

(いっそ数珠を叩き返してやろうかしら)

 怒りにも似た心地に右手を拳にするが、流石にそれは不味いだろうと理性が歯止めを掛ける。
 ゆるゆると息を吐き出し、不満を押さえ込んだ琴子は再び歩みを進めた。

 下座に座り、改めて正面から朱縁を見上げる。
 一段高い上座に座る美しき守護鬼。
 気怠げな様子でもその存在感は圧倒的であった。

 滑らかな白磁の肌は清らかな乙女のようにシミ一つなく、細身だがしっかりと筋肉のついた体は紛れもない男のもの。
 絹糸のように繊細な美しさを持つ銀の髪は瞳の赤をとても良く引き立てた。
 異性をここまでしっかり見たことのない琴子は、ついまじまじと見てしまう。
 だが、男の色香を醸し出す朱縁に徐々に気恥ずかしさが増し、そっと視線をそらす。
 そんな状況でも微動だにしない朱縁に、また不満が湧き上がる。

(この方は私に興味などないのね。早く儀式が終われば良いとでも思っているのかしら? まったく、ならばはじめから花嫁など求めなければ良いのに!)

 不満は怒りとなり、琴子はもはや感情を抑えることなく朱縁をキッと睨んだ。

(お望み通り、さっさと離縁して差し上げましょう)

「お初にお目にかかります。櫻井琴子と申します。本日は【離縁の儀】を取り行うために参りました」

 棘を含ませた声音で淡々と告げると、琴子は座して礼をする。
 頭を上げると、朱縁はやっとこちらに顔を向けていた。
 その血のような赤い瞳に琴子の姿を映した人ならざる鬼は、そのまま息を呑み目を見開く。
 驚きを表した顔が何かを呟くと、気怠げだった様子が嘘のように俊敏に動いた。

 素早く側へ来た朱縁は、そのまま琴子の右手を掴み驚く彼女をじっと見る。
 紅玉を思わせる瞳に自身の顔が映っていることを確認した琴子は、掴まれた右手がとても熱いと感じた。
 女とは違う硬い手。
 女には持ち得ない力強さ。
 触れたことのない男という存在に、琴子は強い戸惑いを覚える。
 そして何より男が側に在り、触れているというのに怖気が湧き上がるどころか気分が悪くなることもない。
 そのことにとても困惑していた。

「……これだけ妖力を流してもなんともないのか?」
「え?」

 静かに驚く朱縁の言葉に、自分は今何かされていたのだろうかと首を傾げる。
 朱縁の言葉通りであるならば妖力を流されていたのだろうが、よくわからない。
 戸惑い困惑する琴子を朱縁は改めてその目に映す。
 無機質だった紅玉の中に光が差し、煌めき赤が濃く色づいた。
 そして、薄い唇の端を軽く上げ笑みを浮かべた朱縁は、低くよく通る声で琴子に告げる。

「琴子といったな? お前は私の唯一の伴侶だ」
「え?」

 ふわりと柔らかに笑った朱縁の続く言葉に、琴子の頭の中は真っ白になる。

「私はお前と離縁などしない」
「…………え?」