◇◆◇◆◇◆◇◆
キンバリーがラティアーナとの婚約を破棄してから一か月が経った。
サディアスは小さく息を吐き、背筋をピンと伸ばして、金張りの執務室の叩き金を鳴らす。
この執務室は、王太子キンバリーの執務室である。
コンコンコンコン――
「兄上、サディアスです」
重々しい扉越しに声をかけると、中から「入れ」と聞こえてきた。
キンバリーの声に違いはないが、どこか力なく聞こえた。
「失礼します」
扉を開けて一歩足を踏み入れる。もわんと淀んだ空気がサディアスを招き入れた。
黒茶を基調とした室内はどことなく暗い。雰囲気が暗い。
艶感溢れる銀鼠色の執務席の上には、たんまりと書類がある。向こう側にいるキンバリーの姿が見えないほどにまで、高く積み上げられている。
サディアスは「はぁ」とため息をついて、首を横に振った。
予想はしていたが、これは予想を超える状況でもある。
「兄上。なんなんですか、この状態は。くるべきはずの書類がこないと、財務大臣が嘆いておりましたよ」
だからサディアスはこの部屋に足を運んだ。ここ数日、財務大臣のぼやきが酷く、とうとう痺れを切らして、状況を確認しにやってきたのだ。
「急ぎの書類があるなら、そこから抜き取って持っていってくれ」
キンバリーの声は聞こえるのに、彼の姿は見えない。書類が喋っているようにしか見えない。
「そういう問題ではありません。どうしてこんな状態になっているんですか? 今までの兄上は、こんなに仕事を溜め込むような人間ではありませんでしたよね」
書類の向こう側から、深いため息が聞こえた。
きっと、机の上に肘をついて両手で頭を抱え込んでいるのだろう。
その姿が容易に想像できる。
「ラティアーナがいなくなったからだ……」
まるで胸の奥から絞り出すような、苦しそうな声である。
だが、まさかここで、彼女の名が出てくるとは思わなかった。
「なぜラティアーナ様がいなくなると、兄上の執務が滞るのですか?」
そもそもラティアーナに別れを告げたのはキンバリーのほうだ。彼女はその言葉に素直に従っただけにすぎない。
キンバリーが深く息を吐いた。それでも、書類の山はびくともしない。
サディアスは黙って書類の束を見つめている。正確には、書類の向こう側にいるであろうキンバリーを見ているのだ。
「彼女に手伝ってもらっていた。彼女は神殿にいただけあって、国内の情勢に詳しかった」
閉鎖的なイメージのある神殿であるが、ラティアーナはしっかりと国内、いや国外も含めて目を向けていた。慈善活動の合間には書物を読み、有識人から教えを乞い、くるべき厄災に備えていたのだ。
過去にどのような厄災が訪れたのか。それに対してどのような対応をしたのか。
また国を庇護する竜も神殿にいる。その世話をするのも聖女の役目。毎日でなくてもよいが、最低でも数日に一度は竜のうろこを磨く必要があると、ラティアーナは言っていた。
だからキンバリーと婚約が決まっても、神殿で暮らしていたのだ。
それらの合間をぬって王城に足を運んでいた。
だが、彼女に執務まで手伝わせていたとはサディアスは知らなかった。キンバリーもラティアーナも、何も言っていない。
「でしたら、今の兄上の婚約者はアイニス様ではありませんか。彼女に頼んだらどうですか? 彼女は侯爵家の令嬢でしょう? むしろラティアーナ様よりもしっかりと教育を受けているのでは?」
執務席をぐるりと大きく回り、キンバリーの隣に立った。
彼は頭を抱えたまま横に振っている。金色の髪がさらりと揺れ、形の整っているきれいな耳が見え隠れする。その姿すら痛々しく見える。
「あれは、ウィンガ侯爵家の養女だ」
その一言でキンバリーの言いたいことを察した。
「なるほど」
アイニスは、もとは男爵家の娘であった。それももっとさかのぼれば商売人の娘だ。一代で財を築き商売を成功させた彼女の父が、爵位をもらった。
その後、十五歳になったアイニスは、ウィンガ侯爵家の養女となった。その理由も、傾きかけた侯爵家に金の援助を言い出したのが男爵であると噂されている。いや、それは噂ではなくもはや事実だろう。
その過程はどうであれ、最終的にアイニスは、未来の王太子妃の座を手に入れたのだ。
「つまり、アイニス様では力不足だと?」
「みなまで言わすな」
キンバリーは顔をあげない。どうやら図星のようだ。
「そういえば、アイニス様のお姿が見えませんね。彼女はどうされたのですか?」
キンバリーと婚約する前は彼にまとわりついていた彼女も、婚約してからというもの姿を見る機会が減ったように感じる。
「今は、王太子妃となる教育を受けている。侯爵令嬢というのも名ばかりだからな。張りぼての令嬢だったのだよ」
「ですが、ラティアーナ様を捨て、アイニス様を選んだのは兄上でしょう?」
「だから、あの張りぼてに騙されたのだ」
ため息をつきたくなったサディアスは、それを堪えた。これ以上キンバリーを責めても、問題は解決しない。むしろ、彼を追い詰めるだけ。
「兄上、一度休みましょう。僕でよければ話を聞きますから」
サディアスの明るい口調で、やっとキンバリーが顔をあげた。
「サディアス……」
キンバリーは机の上の呼び鈴を鳴らして侍従を呼びつけると、二人分のお茶を準備するように言いつける。
言われた通りお茶とお菓子を準備した侍従は、控えの間へと下がる。
二人はソファ席に移動した。お茶とお菓子が置かれているテーブルを挟んで、向かい合って座る。
「それで、兄上はどうしてラティアーナ様との婚約を解消されたのですか?」
紅茶のカップに手を伸ばそうとしていたキンバリーは、一瞬、その手を止めた。だが、すぐにカップを手にすると、一口飲む。
その動作がひどくもどかしく感じる。
「身体が、貧相だからだ……」
やはりそれが理由だったのか。
何をどう言葉にしたらいいのか、サディアスは悩んだ。口元を押さえてみたり、視線を外してみたり、そうやって意味のない動きをした挙句、やはり白磁のカップに手を伸ばした。
あたたかな液体が喉を通り過ぎていく感覚に、頭の中もすっきりとしていく。
「まぁ、兄上も僕も男ですから。そういった女性の容姿に関心を持つのはわからなくもないですが……。ですが、ラティアーナ様の身体が貧相というのは、どういった意味で言っているのですか?」
キンバリーはこめかみを震わせる。
「お前は、あれを見て何も思わなかったのか? あの身体では本当に子が望めるのかと不安になるだろう? 他の女性と比べても、細すぎるだろう? それに、いつも顔色が悪かった……」
てっきり女性の象徴の大きさや柔らかさを強調されるのかと思っていた。だが、キンバリーは違うことを言いたいらしい。
「食事はきちんととっているのか。夜はきちんと休めているのか。神殿ではどのような扱いを受けているのか。それを彼女に聞いたのだ」
わりとまともなことを口にしている彼に、サディアスは驚愕する。だが、それを表情には出さない。
「お前は知っていたか? 神殿でラティアーナがどのように扱われていたか」
彼女と共にした時間が少ないサディアスが、そういった踏み込んだ内容を知るはずもない。
いいえ、と小さく首を横に振る。
「私は、ラティアーナに聞いたのだ。神殿ではどのような物を食べているのかと。彼女はここで出したお茶菓子をけして口にはしなかった」
そう言ったキンバリーの視線は、目の前の焼き菓子を捕らえている。きっと、同じようなものをラティアーナにも出したのだろう。
キンバリーがラティアーナとの婚約を破棄してから一か月が経った。
サディアスは小さく息を吐き、背筋をピンと伸ばして、金張りの執務室の叩き金を鳴らす。
この執務室は、王太子キンバリーの執務室である。
コンコンコンコン――
「兄上、サディアスです」
重々しい扉越しに声をかけると、中から「入れ」と聞こえてきた。
キンバリーの声に違いはないが、どこか力なく聞こえた。
「失礼します」
扉を開けて一歩足を踏み入れる。もわんと淀んだ空気がサディアスを招き入れた。
黒茶を基調とした室内はどことなく暗い。雰囲気が暗い。
艶感溢れる銀鼠色の執務席の上には、たんまりと書類がある。向こう側にいるキンバリーの姿が見えないほどにまで、高く積み上げられている。
サディアスは「はぁ」とため息をついて、首を横に振った。
予想はしていたが、これは予想を超える状況でもある。
「兄上。なんなんですか、この状態は。くるべきはずの書類がこないと、財務大臣が嘆いておりましたよ」
だからサディアスはこの部屋に足を運んだ。ここ数日、財務大臣のぼやきが酷く、とうとう痺れを切らして、状況を確認しにやってきたのだ。
「急ぎの書類があるなら、そこから抜き取って持っていってくれ」
キンバリーの声は聞こえるのに、彼の姿は見えない。書類が喋っているようにしか見えない。
「そういう問題ではありません。どうしてこんな状態になっているんですか? 今までの兄上は、こんなに仕事を溜め込むような人間ではありませんでしたよね」
書類の向こう側から、深いため息が聞こえた。
きっと、机の上に肘をついて両手で頭を抱え込んでいるのだろう。
その姿が容易に想像できる。
「ラティアーナがいなくなったからだ……」
まるで胸の奥から絞り出すような、苦しそうな声である。
だが、まさかここで、彼女の名が出てくるとは思わなかった。
「なぜラティアーナ様がいなくなると、兄上の執務が滞るのですか?」
そもそもラティアーナに別れを告げたのはキンバリーのほうだ。彼女はその言葉に素直に従っただけにすぎない。
キンバリーが深く息を吐いた。それでも、書類の山はびくともしない。
サディアスは黙って書類の束を見つめている。正確には、書類の向こう側にいるであろうキンバリーを見ているのだ。
「彼女に手伝ってもらっていた。彼女は神殿にいただけあって、国内の情勢に詳しかった」
閉鎖的なイメージのある神殿であるが、ラティアーナはしっかりと国内、いや国外も含めて目を向けていた。慈善活動の合間には書物を読み、有識人から教えを乞い、くるべき厄災に備えていたのだ。
過去にどのような厄災が訪れたのか。それに対してどのような対応をしたのか。
また国を庇護する竜も神殿にいる。その世話をするのも聖女の役目。毎日でなくてもよいが、最低でも数日に一度は竜のうろこを磨く必要があると、ラティアーナは言っていた。
だからキンバリーと婚約が決まっても、神殿で暮らしていたのだ。
それらの合間をぬって王城に足を運んでいた。
だが、彼女に執務まで手伝わせていたとはサディアスは知らなかった。キンバリーもラティアーナも、何も言っていない。
「でしたら、今の兄上の婚約者はアイニス様ではありませんか。彼女に頼んだらどうですか? 彼女は侯爵家の令嬢でしょう? むしろラティアーナ様よりもしっかりと教育を受けているのでは?」
執務席をぐるりと大きく回り、キンバリーの隣に立った。
彼は頭を抱えたまま横に振っている。金色の髪がさらりと揺れ、形の整っているきれいな耳が見え隠れする。その姿すら痛々しく見える。
「あれは、ウィンガ侯爵家の養女だ」
その一言でキンバリーの言いたいことを察した。
「なるほど」
アイニスは、もとは男爵家の娘であった。それももっとさかのぼれば商売人の娘だ。一代で財を築き商売を成功させた彼女の父が、爵位をもらった。
その後、十五歳になったアイニスは、ウィンガ侯爵家の養女となった。その理由も、傾きかけた侯爵家に金の援助を言い出したのが男爵であると噂されている。いや、それは噂ではなくもはや事実だろう。
その過程はどうであれ、最終的にアイニスは、未来の王太子妃の座を手に入れたのだ。
「つまり、アイニス様では力不足だと?」
「みなまで言わすな」
キンバリーは顔をあげない。どうやら図星のようだ。
「そういえば、アイニス様のお姿が見えませんね。彼女はどうされたのですか?」
キンバリーと婚約する前は彼にまとわりついていた彼女も、婚約してからというもの姿を見る機会が減ったように感じる。
「今は、王太子妃となる教育を受けている。侯爵令嬢というのも名ばかりだからな。張りぼての令嬢だったのだよ」
「ですが、ラティアーナ様を捨て、アイニス様を選んだのは兄上でしょう?」
「だから、あの張りぼてに騙されたのだ」
ため息をつきたくなったサディアスは、それを堪えた。これ以上キンバリーを責めても、問題は解決しない。むしろ、彼を追い詰めるだけ。
「兄上、一度休みましょう。僕でよければ話を聞きますから」
サディアスの明るい口調で、やっとキンバリーが顔をあげた。
「サディアス……」
キンバリーは机の上の呼び鈴を鳴らして侍従を呼びつけると、二人分のお茶を準備するように言いつける。
言われた通りお茶とお菓子を準備した侍従は、控えの間へと下がる。
二人はソファ席に移動した。お茶とお菓子が置かれているテーブルを挟んで、向かい合って座る。
「それで、兄上はどうしてラティアーナ様との婚約を解消されたのですか?」
紅茶のカップに手を伸ばそうとしていたキンバリーは、一瞬、その手を止めた。だが、すぐにカップを手にすると、一口飲む。
その動作がひどくもどかしく感じる。
「身体が、貧相だからだ……」
やはりそれが理由だったのか。
何をどう言葉にしたらいいのか、サディアスは悩んだ。口元を押さえてみたり、視線を外してみたり、そうやって意味のない動きをした挙句、やはり白磁のカップに手を伸ばした。
あたたかな液体が喉を通り過ぎていく感覚に、頭の中もすっきりとしていく。
「まぁ、兄上も僕も男ですから。そういった女性の容姿に関心を持つのはわからなくもないですが……。ですが、ラティアーナ様の身体が貧相というのは、どういった意味で言っているのですか?」
キンバリーはこめかみを震わせる。
「お前は、あれを見て何も思わなかったのか? あの身体では本当に子が望めるのかと不安になるだろう? 他の女性と比べても、細すぎるだろう? それに、いつも顔色が悪かった……」
てっきり女性の象徴の大きさや柔らかさを強調されるのかと思っていた。だが、キンバリーは違うことを言いたいらしい。
「食事はきちんととっているのか。夜はきちんと休めているのか。神殿ではどのような扱いを受けているのか。それを彼女に聞いたのだ」
わりとまともなことを口にしている彼に、サディアスは驚愕する。だが、それを表情には出さない。
「お前は知っていたか? 神殿でラティアーナがどのように扱われていたか」
彼女と共にした時間が少ないサディアスが、そういった踏み込んだ内容を知るはずもない。
いいえ、と小さく首を横に振る。
「私は、ラティアーナに聞いたのだ。神殿ではどのような物を食べているのかと。彼女はここで出したお茶菓子をけして口にはしなかった」
そう言ったキンバリーの視線は、目の前の焼き菓子を捕らえている。きっと、同じようなものをラティアーナにも出したのだろう。