まっさらで静かな銀盤を切り裂くように、七生は飛び出していく。くたびれた黒いスケート靴のブレードが氷をとらえ、あっという間にトップスピードにのる。

 七生はいつだって、リンクに闘いを挑みに行く。この広いリンクを支配し、自分のものにするのだ。十四歳までは負けなしだった。ほかの選手に負けることはあっても、リンクとの勝負はいつも七生が勝利していた。

 だけど今は……すべてのジャンプのなかでもっとも得意とするサルコウの軌道に入る。なにも考えず、かつてのように跳べばいい。わかっているのに……。

(四回転、いや三回転に……)

 スケート靴はものすごく正直だ。七生の迷いをそのまま反映して、わずかにスピードが落ちる。いつものジャンプから数ミリのズレが生じる。迷ったとおり、四回転には足らず三回転には回りすぎの中途半端な着氷。バランスを崩した七生の身体は、冷たく固い氷に叩きつけられた。

「ってぇ」

 慣れた痛みではあるが、痛いものは痛い。フィギュアスケートなんてマゾでなくては、やってられないスポーツだ。

「七生! 迷った時点で成功率はゼロになる。何度言えばわかるの?」

 コーチである桐子(とうこ)の厳しい声が飛んでくる。

「すみません。もう一度跳びます」

 生物学上、彼女は七生の母親でもある。しかし、『氷の上では母子と思うな』とはっきり宣言されている。

 七生はもう一度、四回転サルコウに挑む。今度はいっさい迷わなかった。にもかかわらず転倒した。その瞬間、わぁっと大きな歓声があがる。もちろん自分の失敗に対してかけられたものではない。

「四回転アクセルだ!」
「すげ~。片手ついたけど、回りきってるぞ」
「シーズン後半には試合に入れられるんじゃないか?」

 すぐ近くで練習していた、ひとつ年下の八神瞬太(やがみしゅんた)が現在のフィギュア界では最高難度の大技である四回転アクセルに挑み、回りきったのだ。

 四回転アクセル、少し前までは人間には不可能と思われていたジャンプだ。だが、一年前にアメリカの選手が公式戦で成功させた。彼が『できる』と証明したことで、チャレンジする選手も増えた。今は先駆者である彼以外にも、カナダの選手とそして日本の瞬太のふたりが練習では成功させている。

「来シーズンに控えるオリンピック、うちのエースは瞬太でほぼ決まりかなぁ」
「おいっ」

 瞬太を称えていた選手たちがジャンプに失敗し氷に寝転んだままの七生に気がついて、慌てて声をひそめる。
 わかっている、彼らに悪意はない。七生をおとしめる意図なんてなかった。だって、エースが瞬太であることは誰がどう見ても揺るがない事実なのだから。

 七生は聞こえないふりで立ちあがる。彼らに向かって「自分がエースだ」と反論するほどの負けん気はもう失っていた。かといって、一緒に瞬太を称えられるほどには自分を諦めきれてもいない。