漫画や小説で『恋』というものを知って、憧れていくうちに、命と似ているな……という、我ながらシビアな印象を受けた。

 どの恋も、いつか必ず『終わり』がくる。両想いになって、結婚しない限り。
 それでも、付き合いたての頃の熱は次第に冷めて、穏やかな甘い情が残れば幸いなものでしかない。

 だけど、私の初めての恋は、報われない片想いで、始まった時には……既に終わってた。

 想うのは、自由。諦めなければ、終わらない。
 そんなふうに強がってたけど、本当の『終わり』は、別にあったなんて……知らなかった。


 街灯の心細い明かりしかない、真夜中の帰り道。台風は来るのか来ないのか、梅雨明けはしたのかしないのか。そんな曖昧(あいまい)な日々が続く空気は、どこか気だるくて落ち着かない。
 そんな中、慣れない酔いと軽い頭痛に身をまかせ、事もあろうか、彼女持ちの男の子と二人きりで歩いてる。

 所属してる写真サークルの打ち上げの帰りだった。オールナイトカラオケでの飲み会。
 帰る時間はそれぞれご自由にって感じで、試験やレポート提出が全部終わった解放感で、先輩たちを中心に、部員のほとんどがすっかりできあがっていた。
 春に二十歳(ハタチ)になった私も、既にお酒の味は知っている。サークル内であまり目立たない存在だけど、一応、お祝いしてもらった日に、生まれて初めてビールを飲んだ。
 ……正直、とても苦く感じて、無理だった。おいしさが全くわからなかった私は、やっぱりまだ子供なんだろうか。憧れていた大人の味には、今でも慣れない。今夜も、アルコールの低いサワー二杯だけで、身体も心も酔ってる。

 隣で歩いてる同い年の成戸(なりと)くんは、その同じサークルの男子だ。言っちゃなんだけど、あまり知られていない私の好きな作家が彼も好きだった、というのがきっかけで話すようになった。
 新刊の感想とか、今度はどこに撮りに行くかとか、たわいない話をするだけだったけど。学科は違うし、あまり自分のことを話さない人だから、大抵SNSでのやり取りだった。
 そして、高校時代から付き合ってるという、一つ下の彼女がいるらしい。学科は彼と同じで、他のサークルに所属しているとのこと。彼を追いかけて頑張って入学したんだろう。
 二人でいるのを、何度か見かけた事があった。活発な感じの可愛い子。周りにも公認って感じで、お似合いだった。……私を除いて。


『打ち上げの時、少し話していい?』

 そんな思い切った一言を、前日の昨晩、アプリで送った。

『いいよ。明後日予定あるから、早めに帰りたいし』

 彼女さんとの約束か、どこかに撮りに行くのか…… 前なら気になって仕方なかった内容だけど、今となってはどっちでもいい。

『私も長くいないから。大丈夫』

『わかった。帰り一緒ついでで良ければ聞く』

 決して『送る』じゃないことが、ツキリ、と地味に痛んだ。下宿先の駅も同じだったのは本当にラッキーだったな……と、今改めて思った。全然、幸せな状況なんかじゃないけど。



 迎えた当日の深夜。日付が変わった頃、酔いで頬を少し赤くした成戸くんが、熱気とアルコールの臭いで充満した部屋を横切り、重いドアを開ける。

「じゃ、俺帰ります」

「え、成戸帰んの〜? 寂しい〜」

「予定あるって言ったじゃないすか」

 爆音と大音量の歌声にまぎれた軽いやり取りの中、私もショルダーバッグを手にして、彼の後に便乗する。こういう盛り上がってる空間を抜け出すのが、私にはタイミングがわからなくて難しい。目立たない存在だと言っても、変に水をさすのが怖いのだ。

「終電に乗りたいので……私も」

「あ、片切(かたぎり)さんも? そっか〜 じゃ、おつかれ〜」

 先輩たちにあっさり見送られながら、私達は熱くでき上がった部屋を抜け出した。これから下宿先の最寄り駅までの時間が、私に与えられた最後のチャンスだ。

 大学近くから最寄り駅までの道。急に頭が冷えた途端、緊張で夕飯をあまり食べられなかったお腹が、キュルキュル、とお約束のように鳴った。絶対聞こえたよね? 恥ずかし過ぎる……
 黙ったままの成戸くんが、こっちを見ないままゴソゴソ、とカーゴパンツのポケットを探る。一息つく間もなく、ずい、と私に握り拳を差し出して、目線を向けた同時に手を開いた。
 最近、新発売したガムだ。既に開封されてる。

「食う? 腹にはたまらないけど」

「え……いいの?」

「あんま、好みじゃなかった」

 嘘。これは、いかにも彼が好きそうな、刺激の強いミント味が売りのやつ。自分の好きな物のこと、私がよく知ってるなんて、思ってもいないんだろうな。

「……ありがと」

 袋から遠慮がちに一枚引き出して、ゆっくり口に入れた。ビールの苦さもだけど、こういう刺激的なのは、昔から苦手だ。皆、よくおいしそうに食べられるなって、不思議に思う。
 けど、噛みしめながら味わった。鼻の奥がツン、として視界が揺れる。左胸の奥だって、さっきからずっとバクバク暴れてて、痛い……

 ――ダメだ。決意がにぶる前に、切り出そう。でも、なんて言えばいい? 一応、色々考えてきたのに。
 口の中に広がる、やたら辛いミントの強い刺激と、酔いのせいだけじゃない熱い顔が、全部消してしまった。

「……あの、言ってた話だけど」

「ああ、うん。何?」

 おいしくない、だけど、特別(スペシャル)な味。神様が私にくれた、ラストチャンス――
 包み紙で、噛み残したガムを口から取り出す。

「――『最後の晩餐(ばんさん)』って、知ってる?」

「……は? まあ、うん」

「知ってるんだ」

 よかった。『コイツ何言ってんだ』って思われて流される、ダメ元で聞いたから。

「レオナルド・ダ・ヴィンチの名画でしょ」

「そうだけど」

「一応、美術史とってるし。片切さんもじゃん」

 知ってる。建築デザイナー目指してることも。

「学科内でも知らない人、結構いたから」

「処刑前夜のキリストが、十一人の弟子と晩餐会してる絵だろ。てか、急にどしたの」

 軽く一息ついて、今日の戦いの火ぶたを、落とした。

「――こういうのも……そうなのかなって」

 既に、意味不明と書いてある大好きな顔に向かって、祈るような、挑むような気持ちで口を開く。試すような気持ちもあった。
 今から話すことに、この人はどんな反応をしてくれるだろう……なんて、虚しい期待とセットで。

「今日で、サークル来るの……最後だから」

 ポーカーフェイスだった彼の顔が、石膏像みたいに固まった。一応、驚いてはくれたらしい事に、内心ホッとする。「ふーん」なんて返されたら、ここで惨敗して……終わってた。とりあえず、第一関門はクリアしたらしい。

「……なんで?」

「皆には、秘密にしてくれる?」

「いいけど…… それ、聞いていいやつ?」

 戸惑ってるのが、明らかにわかる。そりゃそうだ。今まで何気ない趣味の話しかしてなかった相手が、突然カミングアウト匂わしてるんだから。
 それでも聞いてほしかった。これだけは……どうしても。彼にとってはどうでもいい事、私の自己満足な慰めでしかない、愚かな行為だったとしても。

「――大学、辞めないといけなくなったんだ」

 一瞬の間の後、パチパチ、と彼の(まぶた)が微かに瞬く。口元がちょっと引きつってるのが、暗がりでもわかった。

「親が身体悪くして、仕送りとか厳しくなって。元々、共働きで無理して通わせてもらってたんだ。私もバイト掛け持ちして、まだ決めてないけど、一回地元帰って…… もっと学費かからないとこ、受け直す」

「……いつ?」

「夏休み入るタイミング。まだ二年目だったのが……救いかな」

 ようやく事情を飲み込んだらしい彼に、なるべく明るく、軽い口ぶりを意識して、一気に吐き出す。……上手くできてるかな。

「だから、今日みたいに皆で会うのも……最後」

 うっかり、トーンを落としてしまった。沈黙が続いて、気まずい空気が生まれる。彼が答え方に困ってるのは、明らかだ。どうしよう。やっぱり言うんじゃなかった。


「――もう、撮らない?」

 短くて長い沈黙に続いた言葉に、今度は、私が返答に詰まった。多分、さっきまでの彼と同じような顔をしているだろう。
 予想外過ぎた言葉。『残念だな。頑張れ』って、励ましの言葉もらえたら、それだけで十分な位の勢いだったから。
 そんな私に畳み掛けるように、成戸くんは続ける。

「写真集、出すの夢なんだろ」

「……何で、知って」

「誕生祝いの時、部長に言ってたの聞こえた」

 確かに、何気なく入部動機を聞かれた時に言った。そんなこと、覚えててくれてたんだ。

「無理だよ。もう……そんな余裕ないし」

 声が震えてしまいそう。写真はお金がかかる。撮りに行く旅費、機材のメンテ、真剣にやろうと思えば、思うほど。

「もったいないし。続けていくなら方法は何でもいいじゃん。SNSとかで、地道に」

「何で、そんな……」

 相手が誰だか忘れて、思わず声が荒立ってた。そんな、簡単に……言わないで……

「才能、あると思うから」

 また、嘘。前に見せてくれた彼の作品データ。私よりクオリティーもバリエーションも抜群に高い。去年、サークル全員で参加したコンテストで賞をとったのは、一回生だった彼とベテラン先輩の二人だけ。私よりもずっと……彼の方が才能も、実力もある。皆にも尊敬されてる。

 ――そう。私自身も彼のファンで、憧れてて、推してたんだ。ちょっと悔しいくらい。あんなふうに撮れるように……なりたかった。
 なのに、本人はいたって謙虚。『運が良かっただけ』なんて言って、鼻にかける素振りがない。
 いつも一眼レフを持ち歩いて、専門書を読みふけっている。彼も口数は少ないけど、私と違って人気者だ。いつも誰かと一緒で、囲まれてる。もっと遊んだりしても良さそうなのに。

 だけど、そういうところが…… 何より、好きだった。一番なりたかったのは、彼の……『彼女』だって、今更ながら自覚する。

「……いいの。最近、わかってきたんだ。私のレベルじゃプロにはなれないって」

「あきらめんのは、まだ早いんじゃない」

 きっぱりと言い切る口調に、返す言葉を失った。黙ったまま、うつむいて首を振る。嬉しいはずの言葉なのに、予想以上の激励なのに、なんでこんなに悲しいんだろう。
 そんな私に、彼も何も言わなくなった。真夜中の暗がりの中じゃ、わずかな表情や仕草までは、さすがにわかりにくい。

 そんな私をチラ見してから、肩に掛けてたリュックを急に直して、成戸くんが顔を背ける。心臓が跳ねて、ビクつく。呆れた? 怒らせたかな。

「……あ、の」

「コンビニ寄るか。ほしいもんある? おごる」

 彼の意図がわからない。今の私、すごく変な顔してそう。

「食うの、どうするかな。……嫌じゃなければ、近くの公園で」

「――最後の……晩餐?」

 少し気まずそうに、視線が泳いでるのがわかる。彼にしては珍しい反応。余計なことだったろうか……と、大好きな眼差しが言ってる。
 それが今の私には、過去最高のサプライズディナーに見えた。そこまで特別じゃない人間の、こんなめんどくさい展開を受け入れてくれている。
 ……そうだ。わかってた。彼は、こういう人だ。だから、皆に好かれるんだ。そして、私も……

「――マカロン。クリームとフルーツたっぷり乗ったやつ」

「片切さんて、そういう冗談言う人だったっけ」

 ふは、と苦笑した。そんな顔も初めて見た。今になって次々に、ご馳走(ちそう)がやってくる。治まってきたはずの目まいが、ぶり返してきた。

「……酔ってるから」

「じゃ、酔い覚ましがてら行くか」

 私がうなずくと同時に、彼はスタスタ、と軽快に歩き出した。結構ビール飲んでるはずなのに、酔ってる素振りはあまり感じない。足取りもしっかりしてる。

 真夜中に二人きりでスイーツ食べるなんて、ささやかなデートみたいだけど、あくまで、同情でしてくれてるってわかってる。
 私が彼の優しさにつけ込んだようなもので、はた迷惑な話だ。浮かれてるのは私だけ。けど、これくらいのワガママなら(ゆる)されるかなって……思ったんだ。

 私達は、特に親しい訳じゃない。彼にとって私は、ただのサークル仲間の一人。辞めた後は、こんな風には二度と会えないかもしれない。今だって、たまにSNSで話せる程度で、それすらもいつか切れて……忘れられるんだろうな。
 薄い友達関係なんてそんなもんだって、今までの経験で、嫌という程、知った。……そもそも、彼女さんと今後どうなるかなんて、私には関係ないことなんだ。彼は私を『好き』ではないんだから。
 頑張って勉強して、やっと受かった大学、思い描いていた目標、おまけにささやかな甘い願いまで、今夜で全部、失う……

 酔いのせいもあってか、自暴自棄になっているのが、自分でもわかる。卑屈になって、ネガティブの沼にどっぷり沈んでいって、もうどうにでもなれって、勝手に落ち込んで……


「ベンチにでも座って、待ってて」

 いつの間にか、いつもは通り過ぎる小さな公園に着いていた。足早に通りの向こうに駆けて行く音が、たまらなく嬉しくて、痛い。胃もたれしそう。

 もし、今夜、告白なんてしたら彼女さんに悪いかな。どうせフラレるんだし、あの子とは友達ってわけじゃないんだから、言ってしまってもいいかもしれない。
 でも、友達としてキレイな思い出にして、このまま終わった方がいい気もする。既に迷惑なやつって、内心思われてるかもしれないけど。
 こんなのは初めてで、何が正解なのか分からない。元々、人付き合いが下手くそだ。もっと色々経験してたら、上手くやれたんだろうか。

 今夜、潔く散るか。朝になってから、自然に枯れて終わっていくか。なんだか花の生き死にの話みたいだ。大袈裟で、酔ってて、重い感傷だけど、この恋は、私にとってそのくらい鮮やかで、短くて、儚かった。
 死に際を自分で決められるだけ、キリスト様よりはずっと恵まれてて救いがある分、マシだとは思う。とんでもなくバチあたりだけど。


「――お待たせ。限定プリンとシュークリーム……あと普通のマカロンならあった」

 ベンチでそんなこと考えてうつ向いてたら、上から降ってきた声と、軽い息切れの音で我に返った。虚ろな眼差しを向ける。視界も足元もフワフワ、浮いてる。
 淡々とした調子で、ベンチに並べられていくお酒の缶と小さなスイーツ達。ビニール袋から微かに漂う、バニラみたいな微かな甘い香りと、ヒヤリとした空気が、そろって私を惑わせにかかってきた。

「サワーならイケたよな? 確か」

 遠慮がちに差し出された、冷気をまとうレモンサワーの缶。結露して濡れてる。それに絡みついた長い指に触れたい。そのまま手を繋いで……なんて大胆な妄想が、慣れない酔いでおかしくなった脳裏にわき出す。
 ……ダメだ。クラクラ……してきた。

『――悪酔いしたフリして、この後抱きついちゃえば?』

『――恥だけど、もう二度と会わないなら、いいじゃん?』

 そんなワルイ(ささや)きが、耳元でザワザワ、響く。

『――悪魔の誘惑とか、魔がさすって、こういうのを言うのかもね』

 すかさず、もう一人の賢者の自分がツッコミを入れた。彼女持ちの男の人と二人きり。真夜中の公園で、このまま一夜を過ごす。それ以上でも以下でもない。私から仕掛けない限り、きっと何もないだろう。
 ……けど、何だか悪いことをしているみたいだ。

「……なぁ。大丈夫か?」

 ぼんやりとして反応の無い私に、何もわかっていない彼が心配そうに尋ねる。自分の方がずっとアブないのに。今の私に、アルコール追加するなんて……ダメだよ。
 この晩餐(ディナー)が終わったら、その時……私はどうなるんだろう。何がしたいんだろう。

 ――ああ……でも、いわゆる『誘う』のは出来ないだろうな。そんな度胸も勝算もないからってのは、もちろんだけど……
 大事な彼女がいるのに、他の女の誘惑にのるような人だったなら……こんなに好きになってなかった。
 いっそ魔がさしてくれたら、いい? この不毛な恋も冷めるし、彼に触れてもらえる……

 ――もう、めちゃくちゃだ。アルコールの侵食が進んで止まらない。思考が完全におかしくなってる。

 とりあえず今は、いわゆるプライスレスってやつの……過去最高に甘くて、苦くて、背徳的なこのデザート達を、終わった恋ごと、まるごと――味わいたい。


【了】