寝れない夜が続いた。決して雨音のせいでは無い。ざあざあと降る雨よりも、心の臓が騒ぐ音の方が煩いのだ。考え事をしては、やがて朝を迎える毎日。だけど、たとえ貴方が横に添い寝をしてくれたとしても、私はきっと寝れないと思う。
回りくどい言い方で、慰めて欲しいと弱さを見せても、帰ってくるのは手紙ばかり。また近々、逢いに行くよ。と返事を貰ってから、もうずいぶんと日が経っている。私は少しばかり、期待をして待ち続けているのにな。

今晩も雨音が煩い。
ぼんやりと灯りを見つめ、想いを馳せているうちにうとうと、気を失うように眠ってしまっていた。
 

僕は、手紙の通り人目を忍び千早殿を尋ねた。
雨のせいか車の進みも悪く、じれったい思いだ。
きっと千早殿は僕が今日来るとは思っていないだろう⋯と、悪戯な笑みが零れてしまう。
千早殿の家に着くと、すぐに家来に門を叩くように命じた。
ドンドンドン。と三度叩き、「頼もう」と中に声をかけるが返事がない。また家来が門を叩くが、それを聞きつける人もいない様子だ。
「まさか⋯」と僕は不安になった。千早殿の数々の噂が頭をよぎる。信じていない訳では無いが、恋多き女と浮き名は言う。無理やりに尋ねてもし違う男がいたのなら⋯男と息を潜めて居留守を使っていたならば⋯僕は。
「もうよい、帰るぞ」
僕は家来を呼び戻し、そっと帰路についた。
見たくないものを見る勇気はなかった。しかし、腹の底から滾る感情を抑えることは難しく、屋敷に戻るとすぐ、嫉妬に取りつかれたように筆を取り我武者羅に墨を殴りつけた。

─開けざりし真木の戸ぐちに立ちながらつらき心のためしとぞ見し

昨夜はあなたが開けてくださらなかった真木の戸口に立ちつづけて、これがあなたの薄情な気持ちの証拠なのだ⋯と僕は思い知りました。恋の辛さはここに極まると思うにつけて、しみじみ悲しいことです。
 
その手紙は私を驚かせた。
「は?本当に昨夜尋ねてきたのね?あぁ、私はつい寝てしまっただけなのに。いつもは起きてるのに、よりによって⋯」と、後悔した。だけどもこの言い方は如何なものか。一度だけの過ちでここまで言われるとは。
「器の小さな殿方なのかしら⋯そんなとこも可愛いのね」

─いかでかは眞木の戸ぐちをさしながらつらき心のありなしを見む

どうして真木の戸を閉めたままで、貴方様は戸を開けてもいないのに、私の気持ちが薄情かどうかおわかりになるのでしょうか?何か、いろいろと変な邪推をなさっているようです。私の心を開けてお見せできれば誤解は解けるのに。

手紙に書き綴り、ふと、外を見る。
五月雨が降り続いている。
雲の切れ間もない長雨に、「帥の宮様と私の仲はどうなっていくのだろう?」と果てることのない考え事をした。相変わらず、言い寄って来る男たちはたくさんいる。私はそれをなんとも思っていないのに、世間の人は面白がってあれこれ妙な噂を立てている。『いづ方にゆきかくれなむ世の中に身のあればこそ人もつらけれ』という歌のとおり、私もいっその事どこかに隠れてしまいたいな⋯と思ってしまう。叶うならば愛しい人と一緒に。

相変わらず、雨音が寂しいそんな折りに「五月雨のものさびしさはどうやって過ごしていらっしゃいますか?」と返事が届く。

─おほかたにさみだるるとや思ふらむ君恋ひわたるけふのながめを

千早殿はいつも通りに五月雨が降っていると思ってるだろうが、実は貴女を恋い慕いつづける物思いで流す私の涙が、雨となり降りつづいているのです。今日の長雨だってそうなんだよ。

と、こんな和歌が綴られていた。
なんと女々しいことだろう。
帥の宮様が私のことを偲んで降る涙の雨とは聞こえはいいけど、
『数々に思ひ思はずとひがたみ身をしる雨は降りぞまされる』の歌にあるように、あれこれと私のことを想ってくれているのか?そうじゃないのか?全然分からないもん。伊勢物語では、男は蓑も笠も手にする余裕もないままに、ぐっしょりと濡れて、慌てふためいても想い人の元へやって来るんだもの。結局、私には手紙だけよ。それ程にしか思われていない私の涙の方が、雨を振らせているの。ほら、見てよ。酷いくらい土砂降りでしょ?我慢しても涙が溢れてくるの。だって⋯雨を理由に来てくれないじゃない。

私は筆を取り、贈るつもりもない哀歌を詠んだ。

─ふれば世のいとど憂さのみ知らるるにけふのながめに水まさらなん

この世に生きるにつれて、つらい思いばかりを思い知らされる。降り続くこの長雨の大水に、悲しみにくれる私が流されたら⋯誰か私を救ってくれるのかな。

私の涙が梅雨を呼び、雨は止まない。
窓を打つ雨の音を聞きながら、まだ一晩中眠れずにいる私は帥の宮様のことばかり考えてしまう。つまり、私の方が恋ってやつに振り回されている現実なのだ。『降る雨にいでてもぬれぬわが袖のかげにゐながらひぢまさるかな』なんて歌。まるで私のための歌だ。自分でも不思議なほど、会えない日々に袖は涙でびっしょり濡れている。


僕は、千早殿が心配でたまらなかった。
手紙の返事が来たり、来なかったり。
どこかもの寂しげな文字と和歌に、僕は不安に駆られている。
理由はきっと僕だ。
自意識過剰と言えばそうなのだが、僕のせいに違いない。
「すぐに会いに行かないと」
人目につかない夕刻を待ちながら部屋で香を焚き、その時を待つ。
「少しよろしいですか?」
侍従の乳母の声がした。
「あぁ、どうした?」
「どこかにお出かけになるのですか?最近こそこそと落ち着かない様子ですが⋯。その事を、お側の者らがとやかくお噂申し上げているようです。噂の女は、特に高貴な身分ではありません。お使いになろうとお思いなら、お邸に召しいれてお使いになってください。軽々しく足をお運びになるのは、宮様の身分に不相応です。そんな中でも、あの女には、男たちがたくさん群がる。そんな恋多き女です。宮様に不都合なことがあったら⋯。お兄様の事もお忘れではないでしょう?宮様までも、夜の夜中までお出歩きなさったら⋯また。こんな軽率なご外出はなさらないで下さい」と乳母は静かに釘を刺した。
「心配するな⋯僕がどこに行くと言うのだ?今だって気持ちを落ち着けようと、なんとなく遊びで香を焚きしめているだけだ。だけど、千早殿の悪口は僕の前では言わないでくれ。大事な友人だから」
「そうですか⋯失礼いたしました」
乳母がゆっくりと背を向け、部屋を出ていくのを見送ると、僕はやっと胸をなでおろした。
しとしとと、雨が小雨に変わり音が止んでいく。
しんと静まり返った屋敷を音を立てずに歩き、僕は用意した車に逃げるように乗り込んだ。
いつもの家来に部屋の見張りを頼み、新しく用意した家来を引連れ僕はいそいそと出かけた。
もう、この恋は引き返せないところまで来ている。


「あら、雨が止んだわ⋯」
「千早様、見てください。久しぶりに月が出ていますよ」
「綺麗な月ね⋯」
私は侍女と庭で月を眺めながら、想いを馳せた。
ドンドンドンと三度門が叩かれる。
「頼もう」
「こんな時間に誰でしょう⋯」
侍女が首を傾げながら門に向かう。私は少しだけ期待して、すぐに侍女の背中を追いかけると、門の隙間を外を伺った。
「こんな時間にすまない⋯千早殿はご在宅か?」
「えっと⋯」
躊躇う侍女を押しのけて、私は「ここに⋯」と返事をした。
「ごめん、来るのに時間がかかってしまった。言い訳はたくさんあるのだが⋯会えてよかった」
「帥の宮様にも立場があるでしょうし⋯大丈夫です」
「では、後でゆっくり話すとしよう」
そう言った帥の宮様は私の手をとり、ギュッと握る。
「一緒にいよう、今宵だけは。貴女と一緒にいたいんだ。誰にも見つからない場所を見つけた。ゆっくり二人きりで話そう」
「え?今から⋯?準備が⋯」
「いいから、早く。さぁ乗って」
私は言われるままに車に乗り込んだ。隣にすぐ帥の宮様も乗り込んでくる。袖が重なる距離に私は見をぎゅっと身を強ばらせた。誰かに見られてしまったら⋯と不安が襲う。私の浮き名ならいくらでも悪く言われてもいい。だけど、帥の宮様に悪い噂が立っては欲しくないのだ。それに、さっきから手はずっと繋がれたままだ。


しばらくして、そっとひとけのない廊に車が止まる。
「行こうか」
優しい顔で帥の宮様は言うが、二人で外で会うのは初めてだし、本当に誰かに見られたら⋯と辺りを伺うが、ずいぶんと夜も更けているせいか人の姿は無い。ハッと見上げた空で、あの月が私たちを照らしている。
「大丈夫でしょうか⋯私なんかと居る所を見られたら⋯」
「ここには誰も来ないよ。心配ない。だから今日みたいに誰にも知られないように、ここで会おう。千早殿の邸で他の男に出くわしてしまったら⋯僕は嫉妬してしまうから」
「えっ⋯私は他の男となんて会ってないのに⋯」
「そうなのか⋯?」
「⋯はい」
「そっか⋯僕はずいぶん弱気になっていたんだね」
「そうですよ。この雨は僕の涙⋯なんて。ずいぶんと」
「言わないでくれ⋯面と向かって言われると、つらい。恥ずかしくて、千早殿の顔を見られない」
「⋯そんな所も可愛かったですけど」
「年下だからって、僕に向かって可愛いとは。無礼な」
「褒め言葉ですよ?褒め言葉」

私たちは朝まで傍に寄り添い、やっぱりそれ以上を望むことなく、手だけをずっと繋いでいた。安心してしまうその温もりだけで十分に幸せだった。
やがて朝日に向かって鶏が声を高らかに鳴く。
「もう朝が来てしまった⋯」
そう言うと帥の宮様は車を寄せて私を乗せると「家まで見送りたいのだが、もう朝だと私の外出が誰かにバレてしまうのは都合がよくなくて」と頭を搔いた。
「大丈夫ですよ。一人で帰れますから」
「すまない。楽しい夜だった。また逢おう」
大きく手を振る帥の宮様が見えなくなって私は、なんとも優しい逢瀬だったな。だけど、この逢瀬を人はどんなふうに思うのだろう?とふと思った。もう恋人と言っていいのか?それとも⋯。夜明けに、別れる際の宮様はなみなみでなく艶めかしく見えた。それを思い出すと、私の頬は見る見る紅く染まった。

何度か深夜の逢瀬を重ねる度に、朝を告げる鶏の声に腹が立った。もう別れの時間だと忠告されるようで、嫌気がさす。いっそ鶏がこの世から消えてしまえばいいとさえ願った。

それほどまでに、今、私はこの人を好いている。