薫風が頬を撫でるように掠め、見つめる庭も緑が萌えている。
「千早様、お食事をお持ちいたしました。それと今朝早くに、あの少年が届けに参りましたよ」侍女はお膳に手紙を添えて私の前に置いた。
「あら、ありがとう」
帥の宮様はあれから随分と熱心に手紙をくれる。それに私も時々、返事を差し上げる間柄になっていた。帥の宮様からの手紙は、皇子様を亡くした私の寂しさが、少しばかり慰められる。
ゆっくりと開いた今朝の手紙も、じんわりと優しさが沁みていた。

─かたらはばなぐさむこともありやせむ言ふかひなくは思はざらなむ

僕と会って話したら、貴女のは心慰められることもあるのではないでしょうか?まさか、僕と話してもつまらなくて、無意味だ。そんな事は思わないでくださいね。兄を偲んで、しんみりと貴女と一緒に語りたいのですが、今夕にでもいかがでしょう?

「えっ⋯今日?急に言われても⋯どうしましょう」
「千早様?何かありましたか?」
「ねぇ、帥の宮様が今日訪ねたいと言うの、急に来られても⋯困るわよね。私どんな顔してお会いすればいいの?」
「嫌でしたら、お断りになっては?」
「うん。そうね⋯でも⋯」
「もしかして、本当はお会いしてみたいのでは?」
侍女は優しく微笑み、椀に白米を盛った。
「少しだけよ?ほんの少しだけ⋯」
「お会いしたい気持ちですか?」
「違うわよ。ご飯よ。そんなに食べられないから⋯」
「はいはい。素直になられたらいいのに」

食事を終えると私は筆を取り、ゆっくりと滑らせた。  

─なぐさむと聞けばかたらまほしけれど身の憂きことぞ言ふかひもなき

心慰められると伺いましたら、帥の宮様とお話しをしてみたいのですが、私の身についたこの辛さは、誰かとお話したくらいでは帥の宮様のおっしゃるとおり「言う甲斐も無く」心が晴れることも難しいでしょう。
『何事もいはれざりけり身のうきはおひたる葦のねのみ泣かれて』この歌のように、私は泣くしかなく、貴方様に会ってもどうしようもありませんでしょう。

本当は会ってみたい。話を聞いて欲しいのです。
だけど、私の頭は許しても、心が許してはくれないのです。
皇子様はお優しいから、きっとこの逢瀬を許してくれるでしょうけど。

「お願い。急いで帥の宮様に届けてくれる?」
「分かりました。それで今宵は?」
「やっぱり、お断りするわ⋯だから至急頼みます」

僕は今日も相変わらずそわそわとしている。ようやく手紙のやり取りができる間柄になって、今朝にようやく勇気をだして千早殿の心に踏み込んでみたのだ。昼前に届いた返事を読み、僕は居ても立ってもいられず、今朝手紙を届けさせた右近尉(うこんのじょう)を呼びつけた。
「頼みがある。こっそり出かけたい。車の用意をしてくれ」
「どこに行くのですか?まさか千早様のところに行く。とは言わないでしょうね?」
「ん?そうだが?」
「他のものが知ったら⋯それに宮様には⋯」
「大丈夫だ。バレないようにするから。車はできるだけ質素なものを用意してくれ。目立たないように」

車を走らせ、道に揺られながら屋形の中で物思いにふけった。突然の訪問を許してくれるだろうか?逆に貴女を傷つけはしないだろうか?千早殿と何を話そうか?どんな声をしているのだろうか?ぐるぐると感情を起伏させながら、いろいろと考えた。僕は無鉄砲な性格だから、勢いよく屋敷を飛び出しては来たが、何度か引き返そうかとも思った。理由は明確で、千早殿に嫌われてしまいたくはなかったからだ。
「もう到着しますよ」
屋形の外から右近尉が僕に伝える。
もう後戻りはできない。
千早殿の屋敷の前で、顔を出した侍女に「千早殿にお目にかかりたく伺いました」と伝えるとたいそう驚いた顔で「千早様にお伝えしてまいります⋯」と足早に奥に引っ込んで行った。
幾分時間がかかっている。急な訪問に千早殿も差し障りがあるのだろう。僕を前に居留守を使う訳にもいかないはずだ。昼間に貰った返事も、決して乗り気ではなかったから察しがつく。
また侍女が姿を現し、千早殿からの言伝を僕に話した。内容はこうだ。「せっかく来ていただいたので、お話だけでも。西の端の妻戸にいらして下さい」と迎え入れてくれた。僕の心は踊った。
「妻戸で本当に宜しいのですか?」と不安そうに訊ねる侍女に、僕はすぐに返事をする。
「話ができるなら、どこでも構わない」
「分かりました」
侍女に連れられて、僕は屋敷の敷居をようやく跨いだ。


私は西の端の妻戸に藁座を用意して、簾の影でじっと待った。
苦肉の策で、まさかこんな場所に帥の宮様が座るはずないと思い指定した場所に来るというのだ。それに、私に求愛してくる男は多かれど、家まで尋ねてくる殿方は未だ一人たりともいなかった。今朝の手紙の優しさも、色恋へと惑わす方便では無いのかもしれない。帥の宮様は私と話をするためだけに、わざわざ出向いて下さったのかもしれない。緊張のあまり、ドキドキと胸が高鳴る。世間の人の評判を聴いているから、どんな美男子が現れるのかと相変わらずの好奇心も勝り、足音にじっと耳を傾けた。私は色男につくづく弱いようだ。床を布が擦る音がし、そっと顔を上げると、隙間から帥の宮様の艶めかしく優雅な姿が煌びやかに光って見えた。精悍な顔立ちに「あぁ、なんて美しい⋯」と、私はそのお姿に心奪われながら、軽く挨拶を交わした。
「初めてお目にかかります、千早です」
「こちらこそ、急に訪ねて済まない⋯」

「あぁ、その声に懐かしく想う。やはり、似ているのね⋯」

ゆっくりと会話をしていると、月がぼんやりと顔を出す。
優しい光が、二人を包み込む。まるで皇子様が安心して笑っているような、そんな感じがした。
皇子様の懐かしい話に花を咲かせ、次第に緊張がほぐれていく。私の知らない、幼い頃の皇子様の話を聞くのは楽しかった。

不意に、他愛もない会話を遮って、帥の宮様は真面目なトーンで話を切り出した。
「あの、千早殿⋯僕は古めかしく奥まったところに篭もり暮らす身なので、こんな人目に付く端近の場所に坐り慣れていないのです。なんだか気恥ずかしい。千早殿のいらっしゃるところに座らせてくださいませんか?これから先の私の振る舞いを見てほしい。決してこれまで千早殿がお逢いになっていらっしゃった男たちのよう振る舞いはしませんから。兄は別ですが⋯」
私は驚いてしまった。だから「帥の宮様⋯妙なことを。今宵だけお話し申し上げると思っておりましたのに。これから先とは⋯いったいいつのことをおっしゃるのでしょう」なんて、焦って口にしてしまった。少しばかり心に受け入れたとしても、あくまで心は皇子様を忘れてはいないのだ。だから、とりとめのないことのようにごまかしているうちに、夜はしだいに更けていった。このままむなしく夜を明かしてよいものかと、帥の宮様は私に焦りを隠しながら、ひとつ歌を詠んだ。

─はかもなき夢をだに見で明かしてはなにをか後の世語りにせん

はかない夏の短夜を仮寝の夢さえも見ないで夜を明かしてしまっては、いったい何を今宵一夜の思い出話にできましょう。

私も直ぐに返歌を詠む。

─夜とともにぬるとは袖を思ふ身ものどかに夢を見るよひぞなき

夜になって寝るというのは、私にとっては皇子様との仲を思い起こして涙で袖が濡れるということです、涙で苦しむ私にはのんびりと夢を見る宵などありません。まして、弟の帥の宮様と共に夜を過ごす心にはなれないのです。辛すぎるから⋯。

帥の宮様の焦りは増している様で、声に現れていた。
「私は軽々しく出歩いて良い身分ではないのです。兄の事は分かってる。兄を想っているのも知っている。僕の思いやりのない振る舞いと千早殿は思うかもしれない。だけど⋯本当に私の恋心は、誰にも止められないくらい、真っ直ぐに千早殿を見ているのだ」
それから、貴方様はおもむろに御簾の内にすべる様に入り、私の顔をじっと見つめた。
「帥の宮様⋯」
切なそうな顔を見上げて、私は固まってしまった。
「千早殿が気になって仕方ないのだ⋯。初めて顔を見ることが出来た。やっぱり、思った通りだ。そなたは美しい」

じっと傍に身を寄せ、私に触れることなく並んで語り合った。それ以上を求めることなく、ゆっくり時間をかけて話した。まことにせつないことの数々を私に囁いて、最後にひとつ「また会おう」と、約束を交わす。そして夜が明けた頃に、帥の宮様は帰っていった。
ふぅと息を吐き、緊張から解き放たれたのもつかの間、すぐに遣いが手紙を届けに来た。 

「今のお気分はいかがですか。私の方は不思議なまでにあなたのことが偲ばれます。」そう書かれた手紙の末尾に、和歌が添えられていた。

─恋と言へば世のつねのとや思ふらむけさの心はたぐひだになし

恋しくてたまらないと言ってもあなたは世間並みのありふれた恋心だとお思いでしょう。しかし、逢瀬の後の今朝の恋しさといったら、たとえようもない激しいものです。

正直に言えば、私の心は揺らいでいた。一夜にして、私は確かに帥の宮様に心をすっかり許してしまったのだ。帥の宮様の真っ直ぐな愛が、私の心の真ん中を射抜き、今も刺さったまま。あぁ、なんて無常だ。

そのご返事に私は、ひとつ詠む。

─世のつねのことともさらに思ほえずはじめてものを思ふあしたは

帥の宮様がおっしゃるとおり、まったくありふれたことだとは私にも思われません。あの夜、私は貴方様と情を交わした後の思いに苦しみ、今朝、はじめて恋のせつなさを知りました。

書き上げた恋歌を読み返し、感嘆の息を吐いた。なんと不思議な私の運命なのだろう。皇子様があんなにも私を好いてくれたのに。私は未熟者だ。頭ではわかっていても、筆が正直すぎて嫌になる。

次の日、あの少年がやって来た。
「こんにちは。宮様とお会いになられたそうで」
少年は嬉しそうに挨拶をする。
「もう噂になってるの?」
「いえ、こっそり宮様が教えてくださったので」
「そう⋯。ねぇ、今日はあなたが帥の宮様からの手紙を持ってきてくれたの?」
「すみません⋯今日は千早様のお顔を見に来ただけで⋯」
少年は申し訳なさそうに顔を伏せた。
「あっ、ごめんね⋯違うの。顔を上げて。ほら、あなたが来ると手紙がいつも一緒だったから聞いてみたの。来てくれただけでも嬉しいわ」
少年との世間話に花を咲かせながらも、手紙がないのは寂しいな⋯と私の心に不安が募る。だから私は少年の帰り際にこう伝言を託した。

─待たましもかばかりこそはあらましか思ひもかけぬけふの夕暮れ

いつ貴方様が来てくれるかな?と馳せながら待つとは思っていましたが、これ程までに辛く寂しいとは思いませんでした。貴方様が来ることも期待していない今日の夕暮れを見ながら、お手紙もないので思いもかけない寂しさを募らせております。

寂しく陽が陰り、夜の帳が寂しさを連れてくる。
机の上で、すっかり枯れてしまったあの橘の枝を撫でながら、私は「ごめんなさい」と呟いた。


庭を見つめながら、僕は千早殿の歌に「あぁ、辛いな。僕が苦しめてしまっている⋯」と思ったが口には出せなかった。あの無鉄砲な行動が、これほどまでに千早殿に辛い思いをさせてしまっている。だけど、僕には夜歩きできない理由があった。
「あなた、夕飯の用意が出来ましたよ」
妻が優しい笑みを浮かべ、そっと寄り添う。これが理由だ。
政略結婚とは言え、僕には正妻が居るのだ。
「あぁ、すぐに行くよ」
「何を読まれていたのですか?」
僕は咄嗟に手紙を折り、袖に隠した。
「なんでもない。友からの手紙だ」
「⋯そうですか」
妻はくるりと背を向け、部屋に戻って行った。
自分が情けないものだ。正妻とは何とか体裁を保ってはいるが、仲むつまじくはない。つくづく僕は女運がないのだ。最初の妻は思い出すのも億劫なぐらい、破天荒な女だった。高貴な女性ほど、御簾の内側に隠れてしまうものだが、人前で着物をはだける様な女だった。見るに見かねて恥ずかしく、家臣に合わせる顔もなかった程だ。詩作の会を開けば、学生に砂金束を投げつけたり。自分の学才に自信があるのか詩に点数と評価を付けて声高々に笑っていた。僕はその奇行に愛想を尽かし、いとも簡単に別れた。それほどまでとは言わないが、今の妻といても何も感じない。心が枯れたようにおもうのだ。ただ、世間の評判を重んじて慎重に行動をしていたはずだったが、千早殿の前ではそうはいかなかった。最初は仲を親密なもの深めようとは思っていなかったのに。友として近くにいたかったのに。彼女は瞬く間に僕の心を揺らしたのだ。その和歌と、その声と、美しい姿で。

暗くなるころ、僕は返事を書いた。

─ひたぶるに待つとも言はばやすらはでゆくべきものを君が家路に

ただ、ひたすら待っていると貴女が言うのなら、僕は貴女の家に向けてためらわず行くのに。僕が来ることを期待していない⋯なんて言われたら寂しいじゃないか。僕の想いがいいかげんなものだと、貴女が思うのは残念なことだよ。

その手紙の千早殿からの返事はすぐに来た。
僕はその和歌を慈しむ。

─かかれどもおぼつかなくも思ほえずこれもむかしの縁こそあるらめ

ごめんなさい。あのような歌を差し上げましたが、こうして会えなくて不安だとは思ってはいませんよ。これも皇子様が下さったご縁で、貴方様と結ばれているからでしょう。わかっています。わかっておりますが、『なぐさむる言の葉にだにかからずは今も消ぬべき露の命を』この歌のとおりです。」

慰めてくれるお言葉さえも掛からないなら、今にも消えてしまいそうな露のような私の命⋯か。
僕はすぐにでも、傍に行ってやりたいと思った。
だけど、だけども。そうすることが出来なかったんだ。