夢よりも儚きこの世の中を、私は愛に生きた。
私の取り柄は、愛の言葉を綴り歌を紡ぐだけ。
愛おしそうに耳を傾け歌を聴く貴方が、ただ愛しかった。
私の生きた証を、この日記に記す。
この世界は和歌が力を持つ。
才能ある歌を詠む歌人は、たちまち財を成した。
私もその端くれだ。名を千早という。だけど、傍から見たら私の評価はこんなもんだ。「浮かれた女」と浮き名が付きまとう嫌われ者。先日も「浮かれ女の扇」と書かれた落書きを見つけ、私は「なによ。私の夫でも恋人でもないくせに。陳腐ね」と鼻で笑ってはみたけど、いい気はしない。私が得意とするのは恋歌だ。その落書きに、つらつらと書いて突っ返した歌が、また私の浮き名に拍車をかけた。性格の悪い女だと。
そんな私に、ある女流歌人は「恋文や和歌の才能はあるくせに素行は最低ね。男癖が悪すぎる」と陰口を叩く。
しかしその反面、「あの者が歌う恋歌には情熱的な秀歌が多い」と大歌人の男に評価を受ける。
結局は男と女だ。女は嫉妬し、男は欲情するのだ。
現に私はモテた。自分で言ってしまうと恥ずかしいが、男の心を射止める和歌が湧き水のように溢れ出すし、言葉選びが天才的に上手かったのだ。容姿にも自信がある。それらの才を活かして、私は男に媚びた。いつも心の寂しさを埋めてくれる相手を欲した。口説き文句の書かれた手紙が届く度に優越感に浸る。そんな日常が、いつも男の噂が絶えない恋多き女と言われる私を生んだんだ。寄ってくる男も罪。それにしても、浮かれた女なんて評価をするとは⋯世は私を確然たる眼で見透かしている。私には和歌さえあれば良い。歌を詠むことで私は私の居場所を見つけられた気がしたのだ。だけど、なんとも言い難い寂しさもある。その頃の私は本物の愛を知らなかったのだ。
私は筆を置くと、日記をパタンと閉じた。
天井を見上げ、ひとつ溜息を吐き出す。
ようやく巡り会えた好きな人を亡くしてから、私の心はずっと真冬だ。悲しみと名前のついた雪がしんしんと積もり、心を凍らせてくる。
皮肉なものだ。あのお方との思い出を書き連ねようと始めた日記が、自分の悲観で溢れかえっているなんて。
私は18歳で初めて結婚を経験したが、上手くいかず残ったのはこの屋敷だけ。相手は裕福な名家で、普通に考えれば私は恋愛事を卒業してセレブな新婚生活を送るもんだと考えていた。それなのに、蓋を開ければこの生活は飽きが来るほどにつまらない。たぶん、お互いにそうだったんだろう。夫も早々に外に女を作り、私もそれを咎めることなく自然消滅。まさに利害の一致と言うやつだ。私は程なくして、このつまらない世界から開放されたのだ。
この頃から自覚はある。恋は私に必要不可欠なエッセンスであり、人生そのものだと思い始めた。恋歌を詠むにも、経験と体験は必要不可欠なのだから。
夫と別れてすぐに出会った男を初めて見た瞬間に、私は自分の生きがいを取り戻した。心が天を舞うほどの一目惚れだった。その瞬間から私は、いわば水を得た魚。恋文の様な和歌が次々と溢れ出す。この天賦の才が惚れ惚れしいほどに、ひとつ詠んで、ふたつ詠んで。程なくしてこの男は私に堕ちた。浮き名はまた私をこう言う。「あの娘が皇子様なんかと⋯身の丈をわきまえなさいよ」と、女たちの僻みが絶えず私の耳を汚した。
「余計なお世話よ⋯悔しかったら私以上の歌を詠んだらいいわ」と、頭の中で嫌味を返したけど。
あの日、私の家に遣いでやってきた少年は「千早様。今夜空いていますか?皇子様が歌合でもどうだ?と尋ねております」と私に伝えた。何かの間違いではないか?と私は首を傾げたが、促されるまま車に乗りこみ、拒む暇もなく屋敷に向かっていた。私を納得させるものがあるとしたら、噂に聞くその男を一目見てみたいという好奇心だった。車が止まり、豪華絢爛の門を見た時に、あぁ⋯場違いな所に来てしまったと私はやっと後悔をした。
「こちらです」
「待って、まだ心の準備が⋯」
「皇子様をお待たせする訳にはいきませんから」
少年はスタスタと歩みを早め、庭の方に向かう。木々が生い茂る小さい森のような立派な庭だ。
次第にふわりと柑橘の香りが私を包んだ。小さい花が、ゆらりと踊るように風と遊んでいる。その庭の真ん中に男は立っていた。大層立派な出で立ちで、皇族の気品を纏っている。私に気がつくと、パッと顔に笑顔を浮かべ「そなたが千早殿か?」と訪ねた。私は萎縮したまま、小さく何度も頷く。
「急に呼び出してすまない。そなたは優秀な歌人と聞く。是非、私の傍でひとつ詠んで聞かせて欲しくて呼び出したのだ⋯迷惑だったか?」
これが噂に聞く美男子。その甘い顔に女はすぐに堕ちると聞く。それは十分に分かる気がする。だが、特に色気のあるこの声が心を惑わす。甘く、私の心に響くものだから、平常を装うのに必死だった。夜な夜な女性と遊び歩いていると聞いたが、逆に言葉遣いや振る舞いからは誠実さを感じる。
「私なんて⋯そんな大したものでは」
「私は和歌が好きでね。[五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする]⋯私が特に好きな和歌だ。だからこの庭を作ったんだよ」
男は嬉しそうに空を仰ぐ。
「これが⋯橘の花ですか?」
「あぁ、いい香りだろう?」
「はい。なんだか癒されますね」
「花も可愛いだろ?小さくて儚げで⋯いつ見ても美しい」
「花橘と言えば、私も好きな歌があります[橘の花散る里のほととぎす片恋しつつ鳴く日しそ多き]⋯これがその花なのですね」
「その歌、私も好きだ」
「こんな素敵な香りに包まれる庭⋯誰か想い人の為ですか?」
男は堪えきれずに笑いだした。
「面白いことを言うのだな。いや⋯ただ好きなだけだ。男が花を愛でるのは変か?」
「花好きの殿方と初めてお会いしたもので⋯すみません」
「構わないよ。花合わせもよく嗜むんだ。どうだろう?今、ひとつ詠んでくれまいか?」
「少し考えても⋯?次お会いする時までにきちんと」
「あぁ、千早殿の歌が聞けるなら、待つよ」
私はわざと茶を濁した。このドキドキと高鳴る胸にもう少しだけ酔いしれていたかったのだ。「また会いたい⋯」と思ってしまったから。今この場で歌を詠めば、恋文のような甘美な歌になってしまいそうで、私は咄嗟に逃げてしまった。気丈な私が逃げ腰になったのだ。この男を相手に、直ぐに媚びるのは烏滸がましい。
二度目の逢瀬で、私は男に歌を贈った。
日に日に増してしまった、恋歌を。思い出す度に募る気持ちを。男は顔を紅くし、純白の花橘が咲き誇る庭の真ん中で、私をきつく抱きしめた。
「千早殿⋯」
「そんなに私がお好きですか?」
私は試すような笑顔で男を見つめる。
「わかっているくせに⋯そんな顔で見つめるな」
「ちゃんと言ってくれないとわからないです。あなたの周りには女の人が多いから」
「千早殿が、1番好きだ⋯」
甘酸っぱい香りの中で、唇が重なった。ふっと離れた男の、その照れた笑顔を私は忘れないだろう。
それからしばらくだった夜のこと。
平安の京は疫病に見舞われた。道に屍人がごろごろと転がり、人々は恐れ、不安に憔悴しきっていた。私も外を出歩かず屋敷で男からの手紙を待っている。疫病の不安よりも、高貴な血筋と、お顔も国宝の様な皇子様だ。こうして待っている間にも、他の女といるのではないか?離れていると、そっちの方が胸をザワザワと騒ぎ立てる。私が1番だと言ったのも、所詮は口約束に過ぎないから。
侍女が「千早様、手紙にございます」と渡された手紙を読み、私は絶望に打ちひしがれた。26歳の若さで、あの男が死んだと言うのだ。すぐに噂は広まり、私の耳にも届いたから死んだのは事実なのだろう。その噂では、夜な夜な遊び歩いていたのが祟って、あっさりと病に伏したそうだ。私にはそれが信じられなかった。信じたくもなかった。あの日の皇子様はそんな人ではなかったから。
「皇子様は、女遊びのために毎日夜歩きをしていたから病に冒されたんだわ。皇子様も問題だけど、誘惑する女も罪よね。特にほら、男たらしで有名なあの女とか⋯」
浮き名は時に残酷だ。誰もその本質なんて見やしない。
ぽつり、ぽつりと涙が日記に落ちる。
墨がじんわりと染みてゆく。私の心を蝕むように。
私の取り柄は、愛の言葉を綴り歌を紡ぐだけ。
愛おしそうに耳を傾け歌を聴く貴方が、ただ愛しかった。
私の生きた証を、この日記に記す。
この世界は和歌が力を持つ。
才能ある歌を詠む歌人は、たちまち財を成した。
私もその端くれだ。名を千早という。だけど、傍から見たら私の評価はこんなもんだ。「浮かれた女」と浮き名が付きまとう嫌われ者。先日も「浮かれ女の扇」と書かれた落書きを見つけ、私は「なによ。私の夫でも恋人でもないくせに。陳腐ね」と鼻で笑ってはみたけど、いい気はしない。私が得意とするのは恋歌だ。その落書きに、つらつらと書いて突っ返した歌が、また私の浮き名に拍車をかけた。性格の悪い女だと。
そんな私に、ある女流歌人は「恋文や和歌の才能はあるくせに素行は最低ね。男癖が悪すぎる」と陰口を叩く。
しかしその反面、「あの者が歌う恋歌には情熱的な秀歌が多い」と大歌人の男に評価を受ける。
結局は男と女だ。女は嫉妬し、男は欲情するのだ。
現に私はモテた。自分で言ってしまうと恥ずかしいが、男の心を射止める和歌が湧き水のように溢れ出すし、言葉選びが天才的に上手かったのだ。容姿にも自信がある。それらの才を活かして、私は男に媚びた。いつも心の寂しさを埋めてくれる相手を欲した。口説き文句の書かれた手紙が届く度に優越感に浸る。そんな日常が、いつも男の噂が絶えない恋多き女と言われる私を生んだんだ。寄ってくる男も罪。それにしても、浮かれた女なんて評価をするとは⋯世は私を確然たる眼で見透かしている。私には和歌さえあれば良い。歌を詠むことで私は私の居場所を見つけられた気がしたのだ。だけど、なんとも言い難い寂しさもある。その頃の私は本物の愛を知らなかったのだ。
私は筆を置くと、日記をパタンと閉じた。
天井を見上げ、ひとつ溜息を吐き出す。
ようやく巡り会えた好きな人を亡くしてから、私の心はずっと真冬だ。悲しみと名前のついた雪がしんしんと積もり、心を凍らせてくる。
皮肉なものだ。あのお方との思い出を書き連ねようと始めた日記が、自分の悲観で溢れかえっているなんて。
私は18歳で初めて結婚を経験したが、上手くいかず残ったのはこの屋敷だけ。相手は裕福な名家で、普通に考えれば私は恋愛事を卒業してセレブな新婚生活を送るもんだと考えていた。それなのに、蓋を開ければこの生活は飽きが来るほどにつまらない。たぶん、お互いにそうだったんだろう。夫も早々に外に女を作り、私もそれを咎めることなく自然消滅。まさに利害の一致と言うやつだ。私は程なくして、このつまらない世界から開放されたのだ。
この頃から自覚はある。恋は私に必要不可欠なエッセンスであり、人生そのものだと思い始めた。恋歌を詠むにも、経験と体験は必要不可欠なのだから。
夫と別れてすぐに出会った男を初めて見た瞬間に、私は自分の生きがいを取り戻した。心が天を舞うほどの一目惚れだった。その瞬間から私は、いわば水を得た魚。恋文の様な和歌が次々と溢れ出す。この天賦の才が惚れ惚れしいほどに、ひとつ詠んで、ふたつ詠んで。程なくしてこの男は私に堕ちた。浮き名はまた私をこう言う。「あの娘が皇子様なんかと⋯身の丈をわきまえなさいよ」と、女たちの僻みが絶えず私の耳を汚した。
「余計なお世話よ⋯悔しかったら私以上の歌を詠んだらいいわ」と、頭の中で嫌味を返したけど。
あの日、私の家に遣いでやってきた少年は「千早様。今夜空いていますか?皇子様が歌合でもどうだ?と尋ねております」と私に伝えた。何かの間違いではないか?と私は首を傾げたが、促されるまま車に乗りこみ、拒む暇もなく屋敷に向かっていた。私を納得させるものがあるとしたら、噂に聞くその男を一目見てみたいという好奇心だった。車が止まり、豪華絢爛の門を見た時に、あぁ⋯場違いな所に来てしまったと私はやっと後悔をした。
「こちらです」
「待って、まだ心の準備が⋯」
「皇子様をお待たせする訳にはいきませんから」
少年はスタスタと歩みを早め、庭の方に向かう。木々が生い茂る小さい森のような立派な庭だ。
次第にふわりと柑橘の香りが私を包んだ。小さい花が、ゆらりと踊るように風と遊んでいる。その庭の真ん中に男は立っていた。大層立派な出で立ちで、皇族の気品を纏っている。私に気がつくと、パッと顔に笑顔を浮かべ「そなたが千早殿か?」と訪ねた。私は萎縮したまま、小さく何度も頷く。
「急に呼び出してすまない。そなたは優秀な歌人と聞く。是非、私の傍でひとつ詠んで聞かせて欲しくて呼び出したのだ⋯迷惑だったか?」
これが噂に聞く美男子。その甘い顔に女はすぐに堕ちると聞く。それは十分に分かる気がする。だが、特に色気のあるこの声が心を惑わす。甘く、私の心に響くものだから、平常を装うのに必死だった。夜な夜な女性と遊び歩いていると聞いたが、逆に言葉遣いや振る舞いからは誠実さを感じる。
「私なんて⋯そんな大したものでは」
「私は和歌が好きでね。[五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする]⋯私が特に好きな和歌だ。だからこの庭を作ったんだよ」
男は嬉しそうに空を仰ぐ。
「これが⋯橘の花ですか?」
「あぁ、いい香りだろう?」
「はい。なんだか癒されますね」
「花も可愛いだろ?小さくて儚げで⋯いつ見ても美しい」
「花橘と言えば、私も好きな歌があります[橘の花散る里のほととぎす片恋しつつ鳴く日しそ多き]⋯これがその花なのですね」
「その歌、私も好きだ」
「こんな素敵な香りに包まれる庭⋯誰か想い人の為ですか?」
男は堪えきれずに笑いだした。
「面白いことを言うのだな。いや⋯ただ好きなだけだ。男が花を愛でるのは変か?」
「花好きの殿方と初めてお会いしたもので⋯すみません」
「構わないよ。花合わせもよく嗜むんだ。どうだろう?今、ひとつ詠んでくれまいか?」
「少し考えても⋯?次お会いする時までにきちんと」
「あぁ、千早殿の歌が聞けるなら、待つよ」
私はわざと茶を濁した。このドキドキと高鳴る胸にもう少しだけ酔いしれていたかったのだ。「また会いたい⋯」と思ってしまったから。今この場で歌を詠めば、恋文のような甘美な歌になってしまいそうで、私は咄嗟に逃げてしまった。気丈な私が逃げ腰になったのだ。この男を相手に、直ぐに媚びるのは烏滸がましい。
二度目の逢瀬で、私は男に歌を贈った。
日に日に増してしまった、恋歌を。思い出す度に募る気持ちを。男は顔を紅くし、純白の花橘が咲き誇る庭の真ん中で、私をきつく抱きしめた。
「千早殿⋯」
「そんなに私がお好きですか?」
私は試すような笑顔で男を見つめる。
「わかっているくせに⋯そんな顔で見つめるな」
「ちゃんと言ってくれないとわからないです。あなたの周りには女の人が多いから」
「千早殿が、1番好きだ⋯」
甘酸っぱい香りの中で、唇が重なった。ふっと離れた男の、その照れた笑顔を私は忘れないだろう。
それからしばらくだった夜のこと。
平安の京は疫病に見舞われた。道に屍人がごろごろと転がり、人々は恐れ、不安に憔悴しきっていた。私も外を出歩かず屋敷で男からの手紙を待っている。疫病の不安よりも、高貴な血筋と、お顔も国宝の様な皇子様だ。こうして待っている間にも、他の女といるのではないか?離れていると、そっちの方が胸をザワザワと騒ぎ立てる。私が1番だと言ったのも、所詮は口約束に過ぎないから。
侍女が「千早様、手紙にございます」と渡された手紙を読み、私は絶望に打ちひしがれた。26歳の若さで、あの男が死んだと言うのだ。すぐに噂は広まり、私の耳にも届いたから死んだのは事実なのだろう。その噂では、夜な夜な遊び歩いていたのが祟って、あっさりと病に伏したそうだ。私にはそれが信じられなかった。信じたくもなかった。あの日の皇子様はそんな人ではなかったから。
「皇子様は、女遊びのために毎日夜歩きをしていたから病に冒されたんだわ。皇子様も問題だけど、誘惑する女も罪よね。特にほら、男たらしで有名なあの女とか⋯」
浮き名は時に残酷だ。誰もその本質なんて見やしない。
ぽつり、ぽつりと涙が日記に落ちる。
墨がじんわりと染みてゆく。私の心を蝕むように。