「業平様……」

あの日より、幾ばくか大人びた声が、御簾(みす)の内から流れて来る。

「ええ、そろそろ、参ります」

あれから、当然、高子は、屋敷へ連れ戻された。

業平は、成章の裏切りに会い、高子を奪われたのだ。

しかし、成章の行いも、それしか方法がなかったのだと、今の業平には、十分、分かる。

あの日、あのまま事を成していたならば、成章含め、屋敷の者達は路頭に迷うことになっただろう。

いや、仕える者どころか、業平自身、どうなっていたことか。

それは、最愛の人にも言えた。

どの道、二人は引き裂かれ、姫は、尼にでもさせられて、今より、厳しく世の中から隔てられたに違いない。

一瞬なりとも、知らぬ世界を、しらたまを、存分に見せて差し上げられただけ、幸いだったのだ。

耐えるに耐えられない想いに押され、業平は、成章に、どうか、道を外されますなと、釘を刺されながら、あれからも、高子の元へ通っている。

しかし、もう、あの日のように、触れあうことはなく、監視の目を掻い潜り、一言、二言、言葉を交わすだけだった。

形はどうあれ、遭えるだけで幸せなのだと、二人は、悟っていた。

「……姫様」

見張りが、此方へ向かっていると、女房が、そっと伝える。

言葉なく、業平は、頷き、立ち上がった。


 月やあらぬ
 春や昔の春ならぬ
 我が身ひとつはもとの身にして


高子への想いを詠い残し、業平は、部屋を出て行く。

その後ろ姿を、高子は、御簾の内から、目で追った。

「……業平様。高子も、同じでございます。歳月が流れ、 月も春もすべてが違ってしまったように感じられても、わが身だけは、ええ、わが身だけは、昔どおり……あなた様のことを……」

願わくば、この気持ちを、お伝えしたい。

返歌も渡せられない時が来ているのだと、高子には、分かっていた。

入内が迫っているのだと──。

高子は、そっと、口元へ手を添える。

いましがた、この唇は、あの方と触れあったと、想いを寄せつつ涙する。

決して、忘れまい。

あの日のことも。

今日の歌も。

「我が身ひとつはもとの身にして……」

──どうか、泣かないでください。これが、業平の気持ちでございます──。

歌を口ずさむ高子の耳元で、確かに、ささやきが聞こえた。