一心不乱に商店街を走り抜けた。はあはあと白い息を吐くたびに、肺がキリリと痛む。
気が付くとストリートピアノの前にいた。
私が幼いころは栄えていて、春は咲き誇るソメイヨシノの桜に人が集まり、夏は七夕まつりが開催され、子どもたちの願い事に溢れた。秋は作り物でもカラフルな紅葉の飾り物が並び、冬はクリスマスソングが流れる煌びやかな空間に彩られた。
商店街のちょうど真ん中に鎮座するストリートピアノでは、老若男女が思い思いの楽曲を演奏していた。
役目の無い今、もの悲しさだけが漂っている。
私もかつて、このストリートピアノで何度演奏したことか。
お父さんは、自分が諦めたピアニストの夢を押し付けてきたし、お母さんも連れ立って私を鼓舞した。
そもそも私の名前だって、ピアノにちなんで奏音と名付けられている。一番嫌いな曲は、パッヘルベルのカノン。勝手に父が付けたのだろう、名前の由来になった曲。
しかし、私にピアノの才能は無かった。先生やお父さんに手を叩かれながら血のにじむ努力をしても、本番になると何故か練習の成果が出ない。
でも、どうしてあの男はそれを知っているのだろう。
――「私はあなたが奏でる優しい音色が大好きですよ」
私のピアノは、優しい音色なんかじゃない。弱いんだ。細いんだ。
小学校の卒業式。
私は式典のピアノ演奏担当に推薦された。学年全体の代表とあって、父も相当な気合が入っていたのだろう。来る日も来る日も、夜中まで練習をした。そして迎えた卒業式当日。スーツ姿の親に囲まれ、先生が涙を流し、クラスメイトが一心に私を見つめる。
私の鼓動は、極限まで加速した。加速して、加速して、加速して、真っ白な頭のまま演奏をした。一切の記憶が無い。
式典を終えてトイレに籠っていた時、誰かが笑い合う声がした。
「ピアノの音、何も聞こえなかったよね」
「うん。めっちゃ小さくて、弱かった」
「先生が、細い音って言ってたよ」
「みんな指揮者見て、必死に歌のリズム合わせてたもんね」
「その指揮者もさ、眉間にしわ寄せながらピアノ見てたよ。多分、聞こえなかったんだよ」
あの日はじめて、心臓に鋭い刃物が刺さるような痛みを覚えた。それからというもの、私はピアノを弾くと必ずあの痛みを追体験するようになった。
でも、ピアノを弾くたびに胸が痛むことを誰にも話したことはない。それなのにどうしてあの男は、あんな言葉を使ったのだろう。
――「私はあなたの胸の痛みを知っている」
え……何。やっぱりファン? ストーカー? と身震いする体をさすったけれど、冷静になろう。そういえば私は、ファンがつくようなプロのピアニストではないから思い上がりだし、あの食卓の映像も家の外から撮れるような画角じゃない。
だとすると。
あの記憶屋では、本当に人の記憶を自由に見られるということ。そしてあの男は、私の記憶を見て、私の過去を全て知っているということになる。
そう考えたら、全ての合点がいく。
勢いで飛び出して来てしまったけれど、もう一度話だけでも聞いてみようか。
両親と喧嘩をして家を飛び出した手前、すぐに帰宅するのも格好がつかない。なけなしのプライドもあり、私はすぐに来た道を引き返した。