一ヵ月前から駅の裏に一匹の黒猫が住み着いている。
 学校の下校時にふと目についたのが始まりだった。その日から学校に行く途中に黒猫の「クロ」にご飯をあげてから学校に行くのが日課になっている。
 昔から色のない、一本の線をつま先で渡っているような感覚だった。けれど、クロと出会ってから、ほんの少しだけ私の視界に色がついたような、そんな気がする。
「じゃあ、クロ、行ってくるね」
 いつものように持参していた猫用の餌をクロにあげ、頭を軽く撫でる。
 クロは「ニャーン」と愛らしい表情で鳴いた。
 照らされながら浴びる日差しや、心地よい風を直に感じるのが好きだ。今日も気持ちのいい春の風が首筋を撫でる。なにより、クロも幸せそうに地面にゴロゴロと背中を擦りつけている。
 ――もうすぐ三年間通った高校を卒業する。
 一歩一歩、高校の校舎へと続く道をリズミカルに歩いていると、背後から「長谷部」と、私を呼ぶ声がした。低く、落ち着いている声に私は足を止める。
「……はい?」
 後ろを振り返る。私の視界に入り込んできたのは体育の松武先生だった。
 松武先生は26歳。学校に勤めている先生の中では一番若いし、イケメンだ。生徒からの人気も高い、が、先生の目が真っ直ぐ私をとらえて離さない。
「あの、なんですか?」
 生徒から人気を博している先生が私になんだというのだ。先生とは違い、私はどちらかというと地味だ。なかなか伸びない髪はなんとか肩下まで伸びてくれたが、元々くせっ毛が強く、毎朝早く起きて丁寧にブロウをしている。校則が厳しいため化粧は薄く、ほぼスッピンに近い。誇れるところは努力の結晶ともいえる髪の毛の綺麗さしかない。まさか、髪がきれいですね、と褒めるために私を呼び止めたのだろうか。
「駅の裏に住み着いている黒猫、長谷部も面倒見てたのか」
「えっ? は、はい。朝、餌をあげるだけですけど……」
「俺も夜、餌あげに行ってたんだよ。昨日ご飯やり忘れてたから今日慌てて来たら長谷部がいて驚いた」
 先生は嬉しそうに目を細めて私に笑顔を向けた。その表情にほんの少しだけドキン、と、胸が高鳴る。先生もクロにご飯あげていただなんて知らなかった。
「……と、とりあえず歩きません? 遅刻しますよ?」
 そう促し、今度は先生と横並びでまた一歩を踏み出す。リズミカルに刻んでいた足は、先程とは一変、足枷でも付けているのかと思うくらい重く、歩きずらい。気分が変われば、足取りも変わるとはまさにこのことだろう。
「あのさ……」
 何かを言いたそうにしていた先生は、やっと声を発した。
「――は、い……?」
「あ、いや……な、なんか最近、寝れなくてな」
「不眠症ですか? 先生働きすぎなんじゃないですか? 病院に行ってみるとか……」
 首を傾げて問いかけると、先生はウンと、小さく頷いた。
 松武先生とは普段挨拶程度で、会話さえしたことがない。なので、「それ、私じゃなくて、他の誰かに相談した方がよくないですか」と、意地が悪い質問をすると、先生は長谷部じゃなきゃだめなんだよと、意味ありげな返しをした。
 とりあえず話の先を聞こうと、疑問は後回しに、また、問いかける。
「――で、どういう風に眠れないんですか?」
 ふぅっと息を吸うと先生は顔を歪めた。
「とりあえず、それ、やめないか? その深呼吸。気になるんだが……」
「……深呼吸はもう私の習慣みたいなものなので。メンタルにも反映しますし、ムリですね」
 明らかな校則違反、例えば短すぎるスカートの丈、靴下が白ではない、鞄に付けているキーホルダーが多すぎるなどで注意を受けるなら分かる。しかし、今、注意を受けている内容はそういうことではない。
「深呼吸をすると、体をリラックスにもできますし、自律神経のバランスを整えることができるんです」
 一石二鳥じゃないですか? と知っている豆知識を披露してみると、
「あまりしすぎると、体の中でつくられた二酸化炭素が出るんだよ。めまいや頭痛の症状も出てくる」
 それくらい知ってるよ、といった感じで、私が深呼吸をしすぎている程で返された。私の中にある豆知識を大豆くらいの勢いで返事をされたため、反論できずに口を閉ざす。
 もしかして先生は深呼吸のしすぎで不眠症になってしまったんだろうか。体育の先生だし、あり得なくもない。
 まだ納得はできないけど、一向に話す気配がない不眠症の話とやらは、ただ私を呼び止める理由付けだったのかもしれないと納得した。
 「私急ぐんで」と、距離を取り逃げるように走った。先生が「おい、まだ……」と、なにか話をしたそうにしていたけれど、そんなことは私には関係ない。
 学校に着くと真っ先にベランダに続く窓をカラカラと開ける。ベランダに出ると、 風の爽快感と耳元で唸る感覚が気持ちよかった。ひんやりとした風が、頬をそっとかすめた。



「長谷部、おはよう」
「……あっ、おはようございます」
 松武先生が私に話しかけてきて早一週間になる。今日もこの挨拶は繰り広げられている。この、挨拶を主とした登校は今や、前からそうしていただろうというほど当たり前になっていた。
 今日も松武先生は、この間言ってた不眠症なんだけどさー、と、まだ懲りずに切り出すが、やはり今日も何を言いたいのか分からないままだった。
 今や、不眠症という話題を程として、私とコミュニケーションを図りたい先生ということで、私の中では落ち着いている。もしかしたら良く話す生徒一人一人に違う話題をして、話題から生徒を覚える人なのかもしれないと、先生の人格を勝手に疑ってしまうほどだ。
 ――先生との会話は楽しいからなんでもいい。クラスではもっぱら聞き役の私は、先生に些細な話を聞いてもらっている。そんな、中身がない話ができるのが凄く、凄く、楽しい。
「もうすぐ学校着きますね、では、また!」
 学校の門に着く前に、私は先生の元から離れる。学校に着いてしまえば松武先生は、色んな生徒から話しかけられるため、私の出る幕はない。
 教室のドアを開け、いつものように自分の席へと着くと、彩花が顔を歪ませながら近寄ってきた。私の前の席の生徒はまだきていなかったため、彩花はそのイスに乱暴に座る。
 どうしたんだろう、こんな彩花は珍しい。
 「どうしたの?」と、問いかけると彩花はまた眉をピクリとひくつかせ、口を尖らせた。そして、溜めに溜めましたといった具合に声を吐き出した。
「りさって、マツとデキてんの?」
 質問をされて、なるほどなと納得した。マツとは松武先生のことで、皆から「マツ」という愛称で慕われている。
 私と松武先生が一緒に登校している姿を他生徒が見ていないわけない。もしかしたら良くない噂が広まるかもしれないと、心のどこかで思っていたし、心構えはできていた。けれど、私は先生と話すのをやめなかった。
 彩花は「私がマツのこと好きなの知ってたよね」とでも言いたそうな目を向けている。目が大きいから見入ってしまうし、その目で睨まれたら怯んでしまう。今こんな状況にも関わらず、彩花の目は宝石みたいだなと、一人羨望した。
「デキてないよ、なんで? もしかして噂になってる?」
 それとなく、校内で広がっているのか探りを入れると、彩花は、ちがう、と否定した。
「……噂にはなってないよ。マツ、他生徒ともいるし、りさとマツが一緒に登校してるのよく見かけてたから不安になっただけ」
「学校に行くときにいつも途中で会うの」
 あえて、これからは一緒にいないようにするから、とは言わなかった。
 やっと見つけた心安らげる時間なのに、彩花の一方的な恋愛感情で奪われたくはない。こんな気持ちになるのは初めてだった。
 彩花は私がこれ以上、口を開く素振りを見せないのが気に入らなかったようで、更に深く、眉間に皺を寄せている。
「マツ、先生なんだから。いくら私達がもうすぐ卒業するからっていっても、誤解されるようなことしない方がいいんじゃない?」
「………そうかな」
「うん、そうだよ。学校でも喋るのやめた方がいいよ」
 せっかく言わないようにしていたのに、強要されてしまった。自分が先生と話せないことを、私に嫉妬されても困るんだけど……と思いながらも、そうだね、一緒にいないようにするね、と、心安らげる場所を手放してしまった。同時に押し寄せる苛立ち。こうなってまで人に意見を言えない私は、どれほど弱いのか思い知らされる。



 それから三日経った。この三日間、私は先生に会いたくないことを理由にクロに餌をあげに行っていなかった。私が餌をあげなくても松武先生が夜ちゃんとご飯をあげてくれる。他に餌をあげる人がいるんだから、私がもう、クロに会いに行く理由はない。
 ――と思っているけれど、学校で全く先生と会わないわけじゃない。日直の私は昼休み時間を利用してクラスの皆のノートを運ぶ。落さないようにしっかりと手で持ち廊下を歩いていると、遠くから歩いてくる人物に心がざわついた。シルエットがぼんやりしていても分かる。松武先生だ。今日は眼鏡を掛けていた。近づくにつれ先生も私に気づいたらしい、「お、長谷部。ノート大変だなー」と、私に話しかけてきた。だが、私はもう先生と話すことは許されない。中途半端に喋ってしまえば、それこそ自分が苦しくなるし、先生を振り回してしまう。
 何も言わずにペコッと頭を下げ、先生の隣を横切る。先生がどういう表情なのかは見ていなかった。
 私が一言も喋らず、通り過ぎたのが気に入らなかったのだろうか。先生は背後から「長谷部!」と、私の名前を呼び、また引き止める。一応頭は下げたじゃない、と思いつつも、今だけ先生と会話をすることにしようと思った。
 ――けれど、いつものような中身がない会話ではない。先生の元へ振り返り、思ってはいない言葉を発する。
「私、先生と話すのやめます。今後金輪際、私に声かけないでください」
 ――胸が痛い。上手く嘘がつけているだろうか。先生は、また私の目をまっすぐ見つめて言葉を返した。
「……なんで?」
 なんでと返ってくるとは思わず、一瞬戸惑う。彩花のことを言うわけにはいかないし、と、頭の中の言い訳をフル回転させながらあれやこれやと考える。
「先生、ファン多いんで。厄介事になる前に……ですよ」
 言葉を詰まらせてしまったし、上手く言えた気がしない。先生は顔を酷く歪ませた。まるで、話さなくなるのは嫌だ、と、言われているような錯覚さえ起こしそうになる。これだから私みたいに浮つく生徒が出てくるわけだし、彩花みたいに恋愛感情になってしまったりする。先生の唯一の欠点はこういうどっちつかずなところだ。
「それでは失礼します」
 と、先生の元から姿を消すことだけを考え、早歩きをしてその場から立ち去った。
 今日は厄日、いや、三日間クロを放置していた報いが返ってきたのかもしれない。普段校内で会うことがない松武先生と鉢合わせしてしまうなんて考えたくはなかった。息が詰まる。もっと広い場所に行きたかった。普段は閉まっているけれど、今日は開いているだろうか。鞄とスクールバッグを手に持ち教室のドアを閉める。
 期待と不安を胸に屋上までの階段をコツコツと音を立てながら上がる。扉が見えた。閉まっているかどうか、肉眼では判断しにくいが、風が漏れていることから開いているなと確信した。胸を高鳴らせながら近づくと、やっぱり、少し開いていた。
 扉を開くと、松武先生が屋上のフェンスに体を預け、風に当たっている。先生とは最後の会話を交わした後だということは、すっぽり頭から抜け去っていた。
「屋上失礼しまーす」
 わざと怒られないように声を発しながら足を踏み入れる。
 松武先生はまるで私がここにくることを分かっていたような表情で特に注意することもなく、私の方へと顔を向けた。そして、一言、「黒猫のことなんだけど……」と、問いかけてきた。
「は、はい?」
「昼間、黒猫のことを言いたくて声を掛けたんだ。無神経なことをして悪かったな」
「――い、いえ。私は三日クロにご飯をあげれていません。スミマセンでした」
 深々と頭を下げると、先生は、
「長谷部が飼ってるわけじゃないんだし、気にしなくていいよ。むしろ今までご飯あげてくれてありがとうって言いたいくらいだし」
 ――柔らかい笑顔を向けてくれた。先生はご飯のことを言いたかったんだとばかり思っていたのに、「で、黒猫のことで……」と、また話を続けた。
「朝の……クロのご飯のことじゃないんですか?」
「いや、違う。不眠症で寝れないって言ってたのは黒猫のことで……昨日引き取り人が来て、黒猫を引き取って行った」
 ……引き取り人?
 数日前の出来事なのに、元はといえばクロがキッカケで先生から声を掛けられたことをすっかり忘れていた。もちろん、引き取り人がくることも知らなかった。
「……先生は知ってたの?」
「うん」
「そ、そんな……じゃあもうクロに会えないの?」
「うん……そういうことになるな」
 先生は悪くない。それは分かっているのに、怒りの矛先が先生へ向いてしまう。
 なんで最初に教えてくれなかったの? 知ってたら最後の最後までご飯あげに行ってたのに。知ってたらもっとクロと一緒にいたのに……先生を責めてしまう気持ちが出てくるけど、全部私が悪いことは分かっていた。先生に会いたくないからという理由付けをしてクロを避けてしまっていた罰だ。
 ――先生は好きになってはいけない人なのに、変に意識をしていたせいだ。
「ごめん、先生。ごめん、クロ……」
 自分の仕出かしたことの重大さを言葉にならない感情で抑え込む。こんなことになるなら、親を頑張って説得して家で飼えばよかった……
 溢れる涙を拭うので精一杯の私に、
「……これ、その人のSNS。一応長谷部に渡しとこうと思って」
 先生は一枚の紙を差し出してきた。
「……SNS?」
「たまにUPするから覗いてくださいって言ってたよ」
 こんな紙を渡されてもどうしようもない。こんなことになるならと悔やんでいたのに、このSNSを開いたら、クロの幸せをマジマジと見せつけられるのかもしれないと考えると、見る勇気がなかった。
 翌日、もうその場にはいないと分かっているのに、朝学校に行く際に駅の裏に行ってはクロを探していた。
 ……やっぱりいない。やっぱりクロはいなかった。先生の言う通りだった。ふと、SNSが脳内にチラついたがそれでも見る勇気はなく、ゆっくりと立ち上がり歩き出す。
 背後から「長谷部!」と、松武先生の声が聞こえた。
「……は、はい」
 後ろを振り返ると、私に急かしく駆け寄ってくる松武先生。ぜぇぜぇと息を切らしている。
「見た? 黒猫のSNS!」
「い、いえ……スミマセン、見る勇気がなくて……」
「俺見たけど、結構元気にしてるよ。ホレ」
 見る勇気がないと言っているにも関わらず、先生は「ほら」と、私に引き取った人のSNSを見せてきた。
 クロが美味しそうにご飯を食べていて、その横には部屋着姿の松武先生……って、え!? 松武先生!?
「な、なんで松武先生がクロを!?」
「俺が引き取ったから」
 フフンと鼻を鳴らしながら誇らしげにクロの家での画像をSNSを使って見せてくる。クロはどれもとても安心した顔をしていた。
 クロの嬉しそうな顔は私も嬉しい。だけど、先生が引き取るだなんて聞いていない。なので、
「引き取るなんて一言も言ってなかったじゃないですか! それに、不眠症って……不眠症を提にして話しかけてくる先生だとばかり思ってたんですよ!」
 これでもかと食ってかかると先生は「なんだそれ」と笑っている。
「ちゃんと毎日更新するからさ、見て、コメントしてよ。なんならいいねも押して」
 図々しくお願いする先生を見て、怒りがどこかへ消えてしまった。
「分かりました。ちゃんと更新してくださいね!」
「うん。なんなら俺の家に来てクロの様子見てっていいよ」
「…………えっ!?」
「あ、長谷部がちゃんと高校を卒業したらの話だけどな。それまでSNSで我慢して」
 ベッと子供みたいに舌を出してからかってくる松武先生。
 ――まるで私の気持ちも全部、見透かされているようだ。
「なっ……SNSで十分です!」
 今、この瞬間、私の視界がキラキラと輝き始めた。もうクロのときみたいに後悔はしたくなくて、先生を誰にも取られたくなくて、
「先生が私を彼女にしてくれるんなら、卒業後、先生の家に向かいます!」
 同じくベッと舌を出し告白染みたことを言ってみると、先生は「えっ!?」と顔を真っ赤にした。
「今は生徒と先生の関係ですし連絡先は交換できないけど、返事は卒業してからSNSを通してよろしくお願いしますね!」
 ――卒業まで後少し。それまで、今度は先生が思う存分困ればいい。

―END―