あれから寝入ってしまったらしく、気がつけば昼前だった。夢も見ないで深く眠れたのは久しぶりだ。
ぼうっとしながらカーテンを開ければ、太陽の燦々とした光が寝ぼけまなこを直撃した。
ようやく覚醒した気がする。
軽く朝食兼昼食を摂って身支度を整える。
今日は喫茶雲居に行ってみるのだ。

「あっつい」

週末はお出かけ日和でしょう、とお天気お姉さんが笑顔で伝えてくれた通りの快晴だった。
家を出てしばらくは天気の良さに気分が上がっていたものの、歩けども歩けどもお目当てが見つからない焦りを太陽がじりじりと煽ってくる。
あの夜、喫茶雲居を見つけるきっかけになったガス工事は終わっていて、目印を見失ったのが大きかった。

「うそでしょ、近所なのに……」

意気揚々と出てきたのが嘘のようにどんよりした気持ちで額の汗を拭う。
日傘でも差してくれば良かった。
はじめてのおつかいで迷子になった子どもが浮かぶ。見知ったはずの道でこんな心細さを感じたことはない。
いったん引き返そうと決めてふと隣を見る。窓ガラスに映った自分が不安そうな顔で見つめ返していた。

「……なんだかあの時みたい」
「鏡に映されたように同じ──でしょうか?」
「鏡って……え、ええ!?」

ひとりごとに突然割り込んで来られて後ずさると、アスファルトの僅かな段差に踵を取られて体が傾ぐ。

「危ない!」

ぐいと勢いよく引き寄せられて視界がエプロンの紺色一色になった。

「失礼しました……お怪我はございませんか?」
「い、いいえ大丈夫デス」

探していた場所──会いたかった張本人の腕の中にいるのが信じられなくて瞬きを繰り返す。

「すみません。貴方に会えたことに驚いて少々浮かれてしまいました」

すっと体を離されて見上げると、あの夜と同じ顔をした雲居さんが私を見下ろしていた。
その後ろに見える看板には喫茶雲居とある。
知らず知らずのうちにたどり着いていたなんて、私の記憶はどういう作りになっているんだろう。

「改めて、いらっしゃいませ」
「営業、されていたんですね」
「ええ。鏡はお休みなので映しプレートはできませんが、普通のメニューならご注文頂けますよ」
「お休みって……」

開かれたドアの向こうに足を踏み入れれば、温度と湿度が下がった空気に呼吸が楽になる。空調が稼働している音はしないので、元からそういう造りなのだろうか。
握りしめたままのハンドタオルで軽く額の汗を押さえていたが、ふと顔を上げて「お休み」の意味がわかった。
まさに──鏡のお休みだ。
壁に掛けられたものには布が掛けられ、置かれているものは伏せられている。
すべての鏡がそうなものだから、元から物言わぬはずのそれらがひっそり静まり返っている様に思えて、こちらまで声を潜めて「すごい」と漏らした。

「休館日の博物館みたいです」
「はは、言い得て妙ですね。古さなら引けを取りませんよ」

さらりと冗談で返されて、軽口を叩かれるようになっていると気づく。
彼の人となりが知りたくなって冗談に乗ることにした。

「博物館級の古さともなると筋金入りですね。ご老体をちゃんと労わってあげていますか?」

悪戯っぽく笑って問うと、雲居さんは一瞬眉を上げたものの、ふといつものように穏やかに微笑んで大袈裟に頷いた。

「ええもちろん! 人間と同じで、働いたら休息をとらないと。いざと言う時に使い物になりませんから」
「いざと言う時って……例えば?」
「ええと、そうですねえ……隠していた真実と向き合う時、とか?」

思わせぶりな言い回しはこの間の夜で慣れている。きっとこのお店はたくさんの不思議で隠されているからなかなか見つからないに違いない。
いささかファンタジーすぎる考えだけれど、そう考えるとしっくりきた。

「貴方はそうやって笑うんですね」
「……え」
「ご自分が普段どうやって笑って、泣いて、怒っているか、ご存知ですか?」

案内してくれたのはあの夜と同じカウンター席。
傍らに立つ雲居さんの眼鏡が光の加減できらりと反射する。

「あまり、意識したことないかも……」
「そうですよね。自分の目で自分の顔を見ることはできませんから」

だから鏡が必要なんです。そう続けた彼の瞳はよく見えない。

「鏡の中の自分も大切にしてあげてください。自分自身を見ることのできない鏡の分まで」

そう言い終えると雲居さんはふっと遠くを見た。
まるで布の向こうにある鏡の顔を見つめてあげるように。

「──さて、気を取り直してご注文をお伺いしましょう。お昼ご飯は召し上がりましたか? ランチもご用意できますが」
「あ……と。アイスコーヒー、ありますか?」

そういえば暑い中歩いて喉が渇いていたのだ。それにアイスコーヒーで頭をすっきりさせたかった。

「かしこまりました。貴方は本当に運がいい。とっておきのコーヒーを、ご用意できますよ」

僅かに語尾が跳ねている。
カウンターに入った雲居さんは大切な客人を紹介するように手のひらで合図する。
身を乗り出してみれば、カウンターの奥には理科の実験で使われそうな大きなガラス器具の中でコーヒーが抽出されていた。
上のタンクに湛えられた水が管を下ってコーヒーの粉を湿らせる。
そこから一滴ずつしたたるコーヒーがフラスコを少しづつ満たしていく様は、途方もなく時間の贅沢な使い方をしているようだ。

「これは……確かに、とっておきですね。いつもこうやって淹れているんですか?」
「ええ、贅沢な気持ちになれるでしょう? 特に昨日は満月でしたからね。影ができるほど明るい月の光を受けた水で出すコーヒーは、至高の味わいなんですよ」

さらりと肯定されて口を開ける。もっぱらインスタント派な私はそんな優雅な暮らしを考えたこともない。
しかも満月って──恥ずかしいことに、月を見上げてみるなんて余裕が消え失せている私には、そんな風流さは欠片も持ち合わせていなかった。
そんな感想が顔に出ていたのか、雲居さんは砂糖と塩を同時に含んだような表情を見せたかと思うと苦笑した。

「いや冗談です冗談。今日は暑くなると天気予報で知ったので、今シーズン初めて、器具の調整がてら淹れていたんですよ。満月なのも天気予報で知りました。いつもはお手軽に水道水を沸かしてドリップしてます」

いやまさか、本当に信じるとは。そんなひとりごとを零されて気恥ずかしくなる。

「もう! からかわないでくださいよ。私、雲居さんのこと信用してるんですから。たいていのこと信じちゃいますよ」
「そのようですね、ありがたい限りです」

けろりと返した雲居さんはフラスコに一滴ずつ落下する雫を見つめている。八割程まで満たされているが、それには途方もない時間が必要だったろう。

「それって、全部淹れ終わるまでどのくらいかかるんですか?」
「ん? ええと……これは夜明け前に始めていますから、六、七時間ってところでしょうか」
「そんなに!?」

贅沢、というか気の長い話だ。
ひええと漏らした悲鳴に雲居さんはくすくす笑う。

「そうですね。便利さを求めるならインスタントやコーヒーメーカーで充分です。それだって美味しいですからね。けれど、便利ばかりじゃ味気ないでしょう」

そこで雲居さんは言葉を切る。
管から一滴の雫がフラスコに飛び込み、アイスコーヒーの一部となる音がはっきり聞こえた。

「この雫──今はただの一滴でしたが、やがて貴方の喉を潤して糧になる。無くてはならない、大切な役割を背負った一滴です。その瞬間に、貴方は立ち会っているんですよ」

雲居さんのひと言ひと言を噛み締める。
フラスコを揺らす波紋のように、心にじんわり沁みていくようだ。
すると、雲居さんはコックを捻り水を止めた。フラスコを取り出して氷を入れたグラスにコーヒーを注ぐ。

「召し上がれ」

ガムシロップとミルクも添えられてはいるが、ひとまず何も入れずにストローで啜れば、意外なことに強く苦さを感じなかった。

「美味しい!」
「それは良かった。お湯で熱しないから渋みや苦味が減ってまろやかな口あたりになるんです」

渇いていた体に沁み渡っていく。
あっという間に飲み干してしまうと、グラスに映る自分は縦に伸びて歪んでいた。

「仕事に熱くなりすぎるのも、考えものなんでしょうか」

愚痴を零すつもりは無かったのに、つい口をついてしまう。こんなの、構ってちゃんみたいで恥ずかしいのに。

「何か──ありましたか?」

優しい雲居さんはやっぱり耳を傾けてくれる。自分の分もコーヒーを注いで、あの夜と同じようにカウンターの向こうから出てきてくれた。

「とばっちり食らって部署異動したんですけど……アイディア出しとか諸々の調整とかテンパっちゃって。良かれと思った根回しも私の独り善がりだったりして。ちゃんと仕事をこなしてるつもりでも、周りが見えてないんでしょうね。先輩の尻拭いばかりさせられてると思ってたけど、最早それすら余計なお世話で、体のいい厄介払いだったのかもしれなくて……」

消しゴムのカスのように言わなくてもいい言葉がぽろぽろ出てくる。一番気づきたくない胸の内を自分で暴いてダメージを受けているなんて、とんだピエロだ。
それでも涙だけは零したくなくて、唇を真一文字に引き結ぶ。わななく唇が情けなくて奥歯を噛み締めていると、目の前に小さなガラスの器が置かれた。

「試作品のコーヒーゼリー、よろしければ」

ありがとうございます、と言いたいのに涙声になってしまうのが嫌で、懸命に深くお辞儀をしてゼリーを見つめる。
焦げ茶色のサイコロ、としか言えないそれは飾り気もなく素っ気ないけれど、下手に言葉を尽くされるより心地よい。
ひとつを口に入れれば見た目以上に素っ気ない味がした。シロップも添えられていないので甘さ控えめというか、ただのコーヒーそのものなのだ。

「いかがです?」

小さく眉間に皺を寄せたのを目ざとく発見したのか、雲居さんがそっと覗き込む。
口の中で転がして歯を立てれば、想像以上に弾力があり過ぎて一瞬涙を忘れた。

「…………か、固い……」

そう正直に答えれば、雲居さんはあちゃーと言わんばかりに額を押さえてかぶりを振ってテーブルに突っ伏した。
大袈裟すぎる仕草に面食らう。

「く、雲居さん?」

正直に答えたのがそんなに悪かっただろうか。いやでも、試作品とて客に提供するからには味見もしているはず。そこで気づかなかったならそれはそれで──
言い訳とも心配ともつかぬ心持ちがぐるぐると入れ損なったガムシロップのように渦を巻いていると、雲居さんはゆっくり顔を上げて髪を掻きあげた。
額を見せると途端に男性を意識してしまって、こんな時なのに胸が高鳴る。

「はは、失敗作──だけど、貴方の涙は引っ込んだので成功にしてください」

失礼しますね、と断りを入れてから雲居さんもコーヒーゼリーを口に運んだ。「ああ、ゼラチン入れ過ぎました」とひとりで嘆いている。

「コーヒーって、薬だったんです」

唐突に言い出した雲居さんに目を丸くする。私が何も言わずに首を傾げると、雲居さんはフラスコからおかわりを注ぎながら言葉を続けた。

「遙か昔、遠い国で発見された時も睡魔に打ち勝つ秘薬でしたし、この国に入ってきた時も「寒気を防ぎ、湿邪を防ぐ」──なんて薬効を求めて偉い人が振舞ったりしたそうですよ。今だって様々な研究が続いていて、血圧とか代謝とか効果があるそうですよね」

ほう、と改めて目の前のグラスを見つめる。
再び黒い液体で満たされたそれは、コースターの上でものも言わず汗をかいていた。

「けれど、過ぎれば毒です」

ばっさりと断言する声音は低い。
雲居さんの話は心地よいくせに緩急がつきすぎていて、振り落とされそうになるのが玉に瑕だ。
それでも彼の話を聞きたい心が手綱を握りしめさせる。
これでは彼の言葉が毒みたいだ。依存性の高い毒。
わかっていて耳を傾ける馬鹿な私は添えられたミルクピッチャーを傾けた。毒を薄めて少しでも長く摂取していようと目論む無駄な足掻きだ。
とろりと円を描く白い道筋が止まったところでストローで掻き混ぜる。
良いコーヒーは悪魔のように黒い、と喩えた言い回しを聞いたことはあるけれど、眼前で揺れる甘いベージュ色は、掴みどころのない雲居さんにぴったりだった。

「そう。コーヒーに限らずですが、過ぎたるは及ばざるが如し。けれど、過ぎてしまった時には追いつけません。そうしたら──」
「そうしたら?」
「こうして立ち止まって、鏡をご覧ください。鏡に映るのは、反転した望みの世界。あからさまな現実の顔をしていても決して触れられない、一番身近な異世界です。お悩み映しプレートは、そんなお客様のためにあるのですよ」

──貴方にとって、立ち止まる場所がここであれば嬉しいのですが。

悪戯っぽく首を傾げた雲居さんが口角を上げて私を見る。
眼鏡の奥がちかりと光った気がして瞬きをした。
恐る恐る口を開く。

「──それ、リップサービスにしては誤解されると思うんですけど?」

負けじとこちらも精一杯虚勢を張って、強気に微笑んでみせる。予防線と牽制にも似たひとことだが、雲居さんはたやすく突破してきた。

「はは、お好きなように受け取ってください。ご贔屓さんになってほしいのは本当ですよ」

──完敗だ。
誤魔化すようにグラスを傾ける。
飲み口がスッキリして、これが水出し特有の味なのかと感心した。

「そう。月を冠する貴方は──ボクが探し求めていた、ただひとり」

雲居さんがぽつりと滴らせたその言葉は、グラスで氷が遊ぶ音に流されて私の耳まで届かなかった。