あの日、喫茶雲居で現実味のない体験をしたというのに、翌日以降は地続きの現実だった。
相変わらずの目まぐるしさと、喉の奥にたまる言いようのないモヤモヤが固まる不快感。
叫び出したくなるほど不快ではないけれど、そう感じる神経がすり減っているのだろうか。
ディスプレイを集中線のように彩るフセン。時計の針から周回遅れで提出された書類。
そんなものはまあいい──良くはないけれどこなせば終わる仕事だ。
しかし給湯室の前で聞こえてしまったものはまだ振り払えない。べちゃべちゃとした話し声が耳の奥にへばりついている。

「望月さんって──×××××××」

誰の声だったかわからない。
わかってもわからないことにしておく。
秘密を共有している者同士で交わされる特有のトーンは、愉悦に意地の悪さをトッピングした悪趣味なアイスクリームのようにどろどろしていた。
それ以上、記憶を掘り返してもろくな事がないのは経験済みだ。
謗られるようなことはしていないのだから、胸を張ればいい。理性はそうやって支えてくれるし、実際その通りなのだけれど──

寝る前に深呼吸を一回。気を取り直してもう一回。
ぽすんとベッドに仰向けに寝転がると、放ってあったスマホの通知がチカチカと目に煩い。逃げるように背を向ける。
この通知色は社内グループからのメッセージだ。

──望月さん、何でも先回りしちゃうから。
──でも、この間客先とトラブったらしいよ。パーフェクトなんじゃなかったの?

違う、トラブルじゃない。あれだって先輩の置き土産を調整しなくちゃいけなくて。

──前任の……あの先輩も大概めちゃくちゃだったけど、望月さんだって強引さでは大して変わらなくねぇか?
──はは、言えてる。

あのひとと一緒にしないで。
ここまで引っ張ってくるの、どれだけ大変だったか知らないくせに。

目を瞑ると頭の芯から厭な記憶が漏れだして覆いかぶさってくるようで息苦しい。
いやだ、思い出したくない。
誰かの声も、あの時見ていた壁の模様も、古い給茶機から漂ってきた油臭いコーヒーの匂いも、全部全部はっきり思い出してしまう。

忘れてしまった方が楽なのに。
どうして、こんな、苦しい──

──今の鏡みたいに、なんでもくっきりはっきり見えて当たり前が続くのもしんどいものでしょう。

突然、雲居さんの声が耳元で聞こえた気がして飛び起きた。
部屋を見回しても彼はいない。
当たり前だ。雲居さんが我が家に居たらそれはそれで別の問題が生まれる。
ただ、あの日聞いた言葉が頭の中で脈打っていた。
咄嗟にベッドの下に手を伸ばした。バッグに手を突っ込んでポーチを、その中から手鏡を取り出す。
自分の姿を移す前に息を吹きかけて、曇らせてから覗き込んだ。
ぼんやりとしか映らない私。
つまり、私を苛む厭な記憶すら──鏡の中では曖昧になれるのだ。
実際存在している私は馬鹿みたいにみっともなく悩んで、こんなおまじないもどきに縋っている。
けれど、鏡の中ならすべての輪郭は意味をなさない。
曖昧であることで何かが許された気がして、ようやく息をついて口角を上げる。

白く濁った鏡面は少し晴れてきていた。