そうして、遂に私は店内に足を踏み入れた。
明るい照明、ベージュを基調とした落ち着きのある色合いのインテリア、かすかに聞こえてくるのは一昔前に流行った曲のピアノアレンジだろう。
しかし、それらセンスの良い──悪く言えばありきたりな内装を吹き飛ばしてしまうものがあった。

鏡だ。

ドアの真正面に姿見。壁に掛けられたもの、棚に置かれたもの、出窓に伏せられているのは手鏡だ。
二、三歩進んだところで何か動く気配を感じて、私以外にも客がいたのかと会釈をすれば壁掛け鏡に映った自分自身だった。
雰囲気に呑まれてしまい、ただただ鏡を見つめ返していると、「この反応、新鮮ですね」と含み笑いをする雲居さんがそっとドアを閉めた。
カウンター席に案内されて座っていると、棚からまた別の鏡を手に取ってこちらに見せた。
両手で恭しく掲げた丸いそれは普段見慣れているものとは違い、ぼんやりと影のようにしか映らない。

「さあ。映しプレートをご希望されるならこちらをご覧ください」

ちらちらと角度を変えて見せるそれを覗き込む。
どれだけ近づいてもやっぱり朧気にしか映らなくて首を傾げていると、頭上で小さく何かが動く気配がした。そっと雲居さんを見上げると、彼は安心させるような微笑みを見せてくれる。

「うん。溜まった罪悪感、お野菜で流してしまいましょう」

鏡の奥で一瞬像が形を結んだかと思えば、雲居さんはくるりと鏡を裏返してしまった。
鏡の裏面は暗く、ぼこぼこと波打っていて何か思わせぶりな模様が彫られているように見える。
しかしそれがなんなのか判別するより先に、雲居さんは鏡を元の場所に戻してしまった。

「えっ、今の……」

何だったんですか? と問い質すより先にまたしてもぐううとお腹が鳴り響いて、居たたまれずにカウンターに突っ伏した。
なんでこんな時に限ってこんなに……!

「そこまで催促されると作りがいがありますね。慌てず急いで迅速にご用意致しましょう」

鼻歌交じりに雲居さんは調理に入る。
カウンターの奥に居るので料理の手際を直接見ることはできないけれど、すいすいと迷いなく立ち働いている姿には無駄がない。
さっきまで見せていた柔和な顔立ちもすうと温度を低くして、冷たい金属の上で滑っているような鋭い目つきだった。
じっと見ているのも失礼かと思い視線を外す。やはり鏡と──正しくは鏡に映る自分と目が合った。

「鏡は……どうしてこんなに飾ってあるんですか」
「ううん。ボクが“雲居カイ”だから……ですかね」

答えになっていない。
鏡を見つめたまま聞かされる答えは自問自答しているようで、答えが出ないのも仕方ないのかと思えてしまう。しかし聞こえてくる声は確かに穏やかなテノールなのだけれど。
はぐらかそうとしているにも関わらず、その声音は誠実に聞こえてしまう。
気づけば質問を重ねていた。

「さっき見せてくれた鏡……あれだけ映りが悪いのはどうしてなんですか」
「なんでも見えてしまったら、背負い込んで苦しくなるばかりですので」

背負い込んで、苦しく……
重いはずのそのひと言は、節をつけた歌うような口調のせいで、羽根を生やして軽くなる。
深刻になるばかりが全てではないと言わんばかりだ。

「それに、昔の鏡はあのくらいしか映りませんでしたから」
「え! そうなんですか?」
「ええ。今、流通しているものはガラスにメッキを施していますが、遥か昔は青銅を磨いたものでした。時を遡れば水鏡ですからね。映りが良くなったのはほんの最近ですよ」

つい最近と言われても、少なくとも文明開化以降として軽く150年は超えるだろう。それをさらりと最近に喩えてしまうのは些か乱暴ではないだろうか。

「ありのままをぽんと見せてそれっきり。想像を働かせるには味気ないところもありますが、残酷なまでに正直です」

言い終わると同時にフライパンを熱したらしい。ジュ、と言葉の尻尾に火が移った。