定時で上がっているにも関わらず、どこの企業も考えることは同じなせいで結局混んだ電車を降りて歩く。
コンビニに寄ることも考えたが、最近はお昼もコンビニのおむすびで済ませてばかりなので、この上夜も──はなんだか憚られた。一日三十品目とはいかないまでも、多少は気にしておかないとマズイ気がする。
若いだけで乗り切れる年齢とはそろそろお別れも近いのだし。
街灯に照らされたガス工事の看板が遠くに見える。この時間だから工事は終わっているけれど迂回しておいた方がよさそうだ。
細道に入りながら頭の中で地図を描く。ここを真っ直ぐ抜けて奥に入れば合流できるはず──……
「あれ」
頭の中の地図は更新されていなかった。
覚えのないマンションが建っている。
そうか。この辺りは区画整理とやらで工事をしていた記憶がある。となるともうひとつ先の大通りまで歩かないといけない。いけないのだけれど。
「…………」
地面に張りついたように足が動かせない。
視線が吸い寄せられて離せない。
数メートル先の真正面──おそらく突き当たりであろう場所に、その影は立っていた。
人の形をしている。
そんなに大きい訳では無い。
ただ、輪郭が波打っているように定まらないのだ。私のことに気づいているのかいないのか、動き出す気配はない。
けれど、ここで動いて物音を立てたらどうなるか。
息を詰めていると、胸で暴れる鼓動が半鐘のように危機を告げている。
飛び出さんばかりの心臓を押さえつけると、ショルダーバッグのストラップがずり落ちた。
咄嗟に脇を締めてバッグを落とさないように押さえ込む。
けれど、擦れた音に、影が気づいて──
「……ッ!」
白く切り取られた空間が、影を追いやった。
「おや、お客様でしたか」
「……へ?」
白の四角に佇むのは──男性だった。
ふんわりカールした髪は半端な長さらしく後ろでまとめられている。
腕まくりした白いシャツから覗く腕は髪型の緩さとは違って筋張っていた。
「ご挨拶もせずに失礼しました。いらっしゃいませ」
「あ、あの……」
物腰柔らかに一礼され、柔和なテノールが浅い呼吸に浸透していくようだった。
二、三度ゆっくり瞬きして近づけば視界が広がって周りが見えてくる。
外開きのドアを開けた男性が不思議そうに首を傾げた。丸眼鏡のフレームを前髪がゆらりと撫でる。
「いかがしました? ご気分が悪いようでしたらどなたかお呼びしましょうか。その間、こちらでお休み頂くこともできますが……」
「あ、いいえ……その、影が──」
「影? ああ」
男性は丸眼鏡を軽く直してドアノブを少しだけ自分の方に引き寄せる。街灯に照らされた彼の輪郭がドアの磨りガラスにゆらゆら揺れた。
「驚かせてしまいましたね。申し訳ない」
「こ、こちらこそお騒がせして申し訳ございません……!」
勢いよく頭を下げる。変な勘違いを起こしてパニックを起こすなんて恥ずかしすぎる。
ぺこぺこと頭を下げる私の横で磨りガラスに映った影も、同じようにぐにゃぐにゃと形を変えた。
頭を上げてもう一度ガラスに映る自分を見る。
姿勢が悪い。片方だけ肩が下がってバランスの悪いことこの上ない。
ショルダーバッグに引きずられているせいだろうけど、ぺこぺこ頭を下げていたせいで髪型まで崩れていて、いかにもくたびれていますと全身が主張している。
「……なんだか、しんどそうですねぇ。宜しければひと休みしていきませんか?」
そんな私を見るに見かねたのか、眉を八の字にした男性はドアを大きく開けて中に招き入れる仕草をした。
「え! いえいえ大丈夫です。ただでさえご迷惑おかけしてしまったのに……本当にお邪魔しました」
最後にもう一度深くお辞儀をして踵を返した私の第一歩は、自分のお腹からの救難信号に儚くも足止めされた。
くぅ、とか高めの音ならともかく、どうしてよりによって地を這う恐竜が喉を鳴らすような音が鳴るんだ……!!
「っふふ」
笑い声にいたたまれず振り向くと、彼はまだドアを開けたまま俯いて肩を揺らしていた。私の泣き出しそうな視線に気づいて咳払いで誤魔化しつつ、それでもやはり笑顔で続ける。
「ボクも夕飯まだなんですよ。よろしければおつき合いくださいません?」
「え、あ、いや、知らないお宅に上がる訳には……」
言ってから中学生か。と脳内で突っ込んだ。
しかし彼はにこにこと人差し指で上を指す。
つられて見上げれば、木目が渦を描いた丸い看板に『喫茶雲居』の文字が記されていた。
「……喫茶店?」
「ええ。ボクはここの店長で、雲居カイと申します」
胸に手を当てて深く礼をした彼が顔を上げる。丸眼鏡がきらりと光って瞳を隠した。
「雲居、さん?」
「ええ。珍しい苗字ですよね。お気になさらず、呼び捨てでもカイくんでもお好きに呼んでください。さあ、どうぞ」
ドアを全開にした彼が脇に除けて私に通り道を譲る。
明るい店内の奥で何かがぱちりと瞬いた。
「え、っと」
それでも尻込みする私を雲居さんは笑顔で促す。
「此処を見つけてくださったのも縁のうち。とっておきの夕飯をご馳走しますよ」
「あ、あの私、そんなに持ち合わせがなくて」
「はは、そんなに敷居の高い店ではございませんのでご安心を」
雲居さんはエプロンのポケットからタブレットを取り出すと、お店のサイトを開いて見せてくれた。
メニューに並んだ金額はこの辺りとしては妥当で、パッと目を走らせたところ妙な但し書きは見受けられない。
そんな中、目を引いたのは「お悩み映しプレート」という一風変わったメニューだ。
バイキング形式で小鉢を選ぶとか、そういうタイプなのだろうか。
「お目が高い。映しプレートをご希望ですか」
「え、あ、えっと。このメニューってどういう」
「召し上がって頂くのが手っ取り早い。百聞は一“食”に如かずと申します」
コンビニに寄ることも考えたが、最近はお昼もコンビニのおむすびで済ませてばかりなので、この上夜も──はなんだか憚られた。一日三十品目とはいかないまでも、多少は気にしておかないとマズイ気がする。
若いだけで乗り切れる年齢とはそろそろお別れも近いのだし。
街灯に照らされたガス工事の看板が遠くに見える。この時間だから工事は終わっているけれど迂回しておいた方がよさそうだ。
細道に入りながら頭の中で地図を描く。ここを真っ直ぐ抜けて奥に入れば合流できるはず──……
「あれ」
頭の中の地図は更新されていなかった。
覚えのないマンションが建っている。
そうか。この辺りは区画整理とやらで工事をしていた記憶がある。となるともうひとつ先の大通りまで歩かないといけない。いけないのだけれど。
「…………」
地面に張りついたように足が動かせない。
視線が吸い寄せられて離せない。
数メートル先の真正面──おそらく突き当たりであろう場所に、その影は立っていた。
人の形をしている。
そんなに大きい訳では無い。
ただ、輪郭が波打っているように定まらないのだ。私のことに気づいているのかいないのか、動き出す気配はない。
けれど、ここで動いて物音を立てたらどうなるか。
息を詰めていると、胸で暴れる鼓動が半鐘のように危機を告げている。
飛び出さんばかりの心臓を押さえつけると、ショルダーバッグのストラップがずり落ちた。
咄嗟に脇を締めてバッグを落とさないように押さえ込む。
けれど、擦れた音に、影が気づいて──
「……ッ!」
白く切り取られた空間が、影を追いやった。
「おや、お客様でしたか」
「……へ?」
白の四角に佇むのは──男性だった。
ふんわりカールした髪は半端な長さらしく後ろでまとめられている。
腕まくりした白いシャツから覗く腕は髪型の緩さとは違って筋張っていた。
「ご挨拶もせずに失礼しました。いらっしゃいませ」
「あ、あの……」
物腰柔らかに一礼され、柔和なテノールが浅い呼吸に浸透していくようだった。
二、三度ゆっくり瞬きして近づけば視界が広がって周りが見えてくる。
外開きのドアを開けた男性が不思議そうに首を傾げた。丸眼鏡のフレームを前髪がゆらりと撫でる。
「いかがしました? ご気分が悪いようでしたらどなたかお呼びしましょうか。その間、こちらでお休み頂くこともできますが……」
「あ、いいえ……その、影が──」
「影? ああ」
男性は丸眼鏡を軽く直してドアノブを少しだけ自分の方に引き寄せる。街灯に照らされた彼の輪郭がドアの磨りガラスにゆらゆら揺れた。
「驚かせてしまいましたね。申し訳ない」
「こ、こちらこそお騒がせして申し訳ございません……!」
勢いよく頭を下げる。変な勘違いを起こしてパニックを起こすなんて恥ずかしすぎる。
ぺこぺこと頭を下げる私の横で磨りガラスに映った影も、同じようにぐにゃぐにゃと形を変えた。
頭を上げてもう一度ガラスに映る自分を見る。
姿勢が悪い。片方だけ肩が下がってバランスの悪いことこの上ない。
ショルダーバッグに引きずられているせいだろうけど、ぺこぺこ頭を下げていたせいで髪型まで崩れていて、いかにもくたびれていますと全身が主張している。
「……なんだか、しんどそうですねぇ。宜しければひと休みしていきませんか?」
そんな私を見るに見かねたのか、眉を八の字にした男性はドアを大きく開けて中に招き入れる仕草をした。
「え! いえいえ大丈夫です。ただでさえご迷惑おかけしてしまったのに……本当にお邪魔しました」
最後にもう一度深くお辞儀をして踵を返した私の第一歩は、自分のお腹からの救難信号に儚くも足止めされた。
くぅ、とか高めの音ならともかく、どうしてよりによって地を這う恐竜が喉を鳴らすような音が鳴るんだ……!!
「っふふ」
笑い声にいたたまれず振り向くと、彼はまだドアを開けたまま俯いて肩を揺らしていた。私の泣き出しそうな視線に気づいて咳払いで誤魔化しつつ、それでもやはり笑顔で続ける。
「ボクも夕飯まだなんですよ。よろしければおつき合いくださいません?」
「え、あ、いや、知らないお宅に上がる訳には……」
言ってから中学生か。と脳内で突っ込んだ。
しかし彼はにこにこと人差し指で上を指す。
つられて見上げれば、木目が渦を描いた丸い看板に『喫茶雲居』の文字が記されていた。
「……喫茶店?」
「ええ。ボクはここの店長で、雲居カイと申します」
胸に手を当てて深く礼をした彼が顔を上げる。丸眼鏡がきらりと光って瞳を隠した。
「雲居、さん?」
「ええ。珍しい苗字ですよね。お気になさらず、呼び捨てでもカイくんでもお好きに呼んでください。さあ、どうぞ」
ドアを全開にした彼が脇に除けて私に通り道を譲る。
明るい店内の奥で何かがぱちりと瞬いた。
「え、っと」
それでも尻込みする私を雲居さんは笑顔で促す。
「此処を見つけてくださったのも縁のうち。とっておきの夕飯をご馳走しますよ」
「あ、あの私、そんなに持ち合わせがなくて」
「はは、そんなに敷居の高い店ではございませんのでご安心を」
雲居さんはエプロンのポケットからタブレットを取り出すと、お店のサイトを開いて見せてくれた。
メニューに並んだ金額はこの辺りとしては妥当で、パッと目を走らせたところ妙な但し書きは見受けられない。
そんな中、目を引いたのは「お悩み映しプレート」という一風変わったメニューだ。
バイキング形式で小鉢を選ぶとか、そういうタイプなのだろうか。
「お目が高い。映しプレートをご希望ですか」
「え、あ、えっと。このメニューってどういう」
「召し上がって頂くのが手っ取り早い。百聞は一“食”に如かずと申します」