お会計を済ませて店を出る。
結局あの後、試作品のスイーツだのドリンクだのを振る舞われて、気づけば外はすっかり夕暮れ時だ。
昼間、あんなにも強かった太陽の光は勢いを弱めて、私たちの影を長く伸ばすだけだ。少し風も吹いてきた。

「すいません、長居してしまって」
「いえいえ。こちらこそ、調子に乗っていろいろ試食をお願いしてしまいましたね」
「私も何だかんだととりとめない愚痴をお聞かせしてしまいましたし……お互い様ということで」

ふふ、と笑い合うと秘密を共有する悪友のような間柄になれた気がして、胸の奥があたたかい。
ちょっとしたご馳走にああでもないこうでもないと答えの出ない話ばかり繰り返していたが、無駄な時間だとは思わない。
ぐるぐると終着点のない、白と黒のマーブル模様のようなひと時が、あらゆるモノへの最適解を示す必要はないのだと教えてくれたような気がした。

ふと街並みに目を遣れば、東の空の麓に白い月が顔を見せている。

「ふふ、綺麗なまんまる」
「昨日が満月だったので、今日は十六夜の月ですね」

しばらくふたりで月を眺めていると、雲居さんは不意にぽつりと喋りだした。

「月は毎日姿を変えます。鋭い三日月、ぽってりした満月、様々です。雲に隠されて見えない時もあります。ただ──空に、そこにあることだけは変わりません。月は、月なのですから」

──望月であることに、気を張りすぎなくていいんですよ。

ね、と微笑まれて頷きかけるが、はたと気づく。

「わたしの、名前」
「ええ。望月環さん。うつくしく満ちているお名前ですね」
「えっと、私、言いましたっけ?」

少し苦しそうな顔をして、雲居さんはゆっくりとかぶりを振った。

「すみません。種明かしをします」

そう言った彼が見せてくれたのは、あのはっきりと見えない──お悩み映しプレートに使われている鏡だった。

雲外鏡(うんがいきょう)、をご存知ですか?」
「うんがいきょう……?」

どんな漢字を当てるかもわからず首を傾げる。しかし雲居さんは「ですよね」とさらりと流してくれた。どうやら私が特別無知な訳では無いらしい。

「雲の外の鏡と書く妖怪です」
「はあ、読んで字の如しですね……って妖怪?」

いきなりそんなことを言われては腰が引けてしまう。恐る恐る覗き込んでみるが、手足が生えている訳でも、ましてや喋ったりする訳でもなくただの鏡だ。

「ええと、何かの小道具? それともレプリカですか?」
「うーん、残念ですが本物です。魔を映す鏡とも呼ばれています。ですから、種明かしなんです」

ですから、の接続詞がまったく意味をなさないレベルで脈絡がない。
頭に疑問符しか浮かばないながらに必死に考えを巡らせていると──初めてここを見つけた時、恐ろしげな影に肝を冷やしたのを思い出した。

「あ……と、もしかして、あの黒い影みたいなものって」
「ご明察です。あの時は怖がらせてはいけないと思い誤魔化しましたが……あれは貴方に憑いていたモノ。簡単に言うと、ひとの心に湧く禍々しい陰の気。此岸を迷わせ彼岸に誘う抗えぬ誘惑。そういったモノを見定め、封印する役目を仰せつかっております」

アレももちろん封印しましたのでご安心を。と結んだ雲居さんは鏡を裏返し一礼した。

「このお悩み映しプレートも役目のひとつ。ここに映したものから悪しきモノを見い出すのです。映るものは対象のすべて……そう、氏名年齢趣味嗜好……昨日の夕飯から仕事の愚痴まで様々です」

告白するようにひと息に言い放ったそれを聞いて、咄嗟に後ずさりして電柱の影に隠れた。なんだそれ。だからあんなにも私に寄り添った言葉ばかりが出てきたのか。
私の表情を見て雲居さんは眉を八の字にして泣きそうな顔をした。やっぱり気持ち悪いですよね、すみません……と俯いてどんよりしている。彼自身が禍々しい陰の気になりそうだ。

「ボクも悪趣味だという自覚はあります。陰の気を呼びそうな澱んだお悩みだけを見て、その他は忘れるようにはしているのですが──ボクは、貴方の名前を知ってしまった」

望月環さん。

そう柔らかい声で呼びかけられて、そっと電柱から顔を出す。

「見定め封印したモノの浄化には、月の光が不可欠と代々口伝で教えられてきました。どこまでも静謐な月華。禍の輪郭を露わにする天満月こそが常世への道標を示す。どこまでも満ちゆく月輪を名に頂く貴方は、共にお役目を果たすパートナーに相応しい。そこでお願いです」

眼鏡を外してエプロンのポケットにしまった雲居さんが静かに近づく。
まるでワルツでも始めるように手を取られて電柱の影から抜け出すと、黄昏時の白い月を背景に雲居さんが私を見つめている。
余りに出来すぎなシチュエーションにときめいていいのか、訳の分からない厄介事から逃げ出さなければならないのか──浅い呼吸と乾いた瞳は教えてくれない。

「ボクは貴方を映してしまった。申し訳ないことに、忘れてしまうことはできません。だから、貴方にもボクを映して貰うことで責任を取りたい」
「映す、って」
「自分自身を映せない鏡を──雲外鏡を、貴方のお傍に」

雲居さんは静かに鏡を手渡した。金属の重みとひやりとした冷たさに腕が強ばる。

「ちょっと、私、まだ何も」

慌てて返そうと押しつけるも、鏡を持つ手ごと包まれて動かせない。どうしたものかと彼を見上げると、眼鏡に遮られていない瞳に私がくっきり映っていた。
その時初めて、彼の瞳が曇った鏡面と同じだと気がついた。
この鏡が雲外鏡なのではない。そうだ、だって彼の名前は──

「貴方から悪しきモノをはね返します。ボクの料理が好きならばいくらでもご馳走しましょう。だから──」

雲居カイの鏡面を、望月環で満たしてください。

それがとびきり重いプロポーズに聞こえたのは勘違いではなくて。
蕩け落ちそうな鏡面の奥に、白い満月が浮かんでいる。
その意味を一瞬で捉えた思考を塞ぐように、雲居さんは私たちの距離をゼロにした。

月と鏡が、重なり合った瞬間である。