卑怯な手口だということをわかっていながら造り上げた妄想を、ついに実行してしまった。
昨日投稿した二作目の楽曲は、僕自身の初投稿のデータを少しだけ改変した物だった。音質も映像も音の並びも全て最低限しか調整していない、今の作品とはかけ離れた作品。
ここまでわかりやすい変化を与えれば生々しさの欠片くらいは感じられるのではないかという期待に賭けている反面で、ここまで変えなければ気づいてもらうことすらできないのかという無力感に襲われる。
『新しい雰囲気だけどこれも神曲だな』
『結局何作ってもそれっぽくなるRINNEは天才』
『いつも通り最高』
変わらずに賞賛を獲られている現状を嘆く行為は贅沢だと非難されてしまうだろうか。気づいてもらえないことを悲しく思ってしまうことは許されないことだろうか。届けられる言葉を読んでいく度に息が詰まる。どこを探しても温度を感じる言葉が出てこなかった。
『初投稿の曲と不思議なくらい一致してる。これは新曲じゃない。何かの叫びに聴こえる』
この言葉に出逢うまでは。
既に数年前削除されている初投稿の曲の存在を覚えていてくれたこと。惰性の称賛だけを並べたような言葉の中に、この言葉だけは『ここで息をしている』という存在の主張を強く感じた。この感覚はきっと僕の単なるフェチで、快楽の形。それに依存し続けた結果が今の生ぬるさへの不満。この生ぬるさを心地よいと感じられない僕の違和感。
活動を始めた当時は、ただ賞賛が欲しかった。幼少期、僕を取り囲む人間は皆、生まれつきの疾患の影響で声をうまく発せられない僕を、幼さ故の悪意のない嗤いで指を刺した。年を重ねるごとに彼らは『気味が悪い』と僕の存在そのものを煙たがるようになった。学校での対人的問題を担任の若い女性教師はなんの配慮もなくに両親へ逐一報告した。
『クラスで〇〇君だけ馴染めていないんです』
僕が輪の外に放り出しているのが彼女自身だということに気づいていないのだろうか。気づいていながらもその現状を寸劇だと勘違いし楽しんでいるのだろうか。答えはおそらく後者だろう。当時『話す』というコミュニケーションの方法を持ち合わせていなかった僕は、人より表情で心情を感じ取ることが得意だった。僕が独りになった時、彼女はいつも同じ言葉を口にした。
『みんなのところに行かないの?』
心配しているような台詞が漏れ出す口の外側の口角はいつも、隠し切れないほど楽しそうな角度をしていた。それを見る度確信した。僕はただ独り、何も発することない従順な人間を演じることが求められていると。
家庭内でも立ち位置と役割は変わらなかった。出来のいい兄と社交的な双子の妹。両親は、あからさまに扱いに差を生み出していたわけではないけれど、雰囲気と選ばれる言葉から無意識下で蔑まれていたことは感じ取っていた。兄も妹も幼い頃から徐々に僕と距離をとるようになった。食事の時間を極力ずらし、廊下ですれ違ってしまった時には白々しい会釈をした。そのせいなのか今の僕には彼らの声を思い出すことができない。
僕が生きていることを唯一許される空間は六畳の自部屋と十二回目の誕生日に与えられたパソコンだけだった。最初は触れようとすらしなかった無機質な板に縋ってしまう程、誰かを必要としていた。
電源を入れ青白いライトを浴びた瞬間、自然光では味わえない心地よさと中毒性を覚えた。多種多様に制限のない創作物が更新され、思想を書き散らすように言葉が投げられていた。現実では絶対にあり得ない空間がそこには当たり前のように広がっていた。『この人に従わなければいけない』という存在もなく、全員が自由に好きなものだけを追い、好きなものを好きだと讃え、嫌いなものを嫌いだと語る。踏み入れてはいけない廃墟の扉を開けたような背徳感がたまらなく気持ちよかった。
近くの公園で子供の笑い声が聞こえる中、爆音で機械音に乗った音楽と、感情の代わりに妙な聞き取りやすさを持ち合わせたアニメーションを聴き続けた。僕自身の世界の色が強く固められていくにつれて世間とのズレを強く感じるようになった。
『あいつは頭がおかしい』
そんな言葉を後ろ指と共に刺されるようになった。きっと僕が変わったことは、数年前からほとんどない。声を発せられるようになったものの必要最低限しか発していないし、誰かに反抗するということは一度もしたことがない。自発的な人間関係を築こうと無駄な希望を抱いたこともない。それなのに軽蔑されてしまうのはきっと、変わらないことが悪だという風潮が僕の周りで芽生え始めているからだろう。その風潮がどこまで広がろうとも無需要な僕自身の変化を大々的に宣伝するような行為はしない。
それにあの扉を開ければ、その変化を痛い程浴びられる。
止まることなく動き続ける匿名の掲示板に、動画を横切るコメントの数々。単体が感情を持ち意思のままに動く画面の中で、時々奇跡的な団結力を見せる。『〇〇件の反応が来なければ飛び降りる』という投稿には、なんの力も持たない単体の集まりが命を繋ぎ止めた事例もあった。ここには味わったことのない『生』が埋められている。そしてその波を起こす先頭に立った存在が神のように見えた。決して驕らず、無意識に人を巻き込み見たことのない景色を創り出してしまう、この世界の神。
十八回目の夏、僕もそちら側へ行きたいと強く思った。
数え切れない人を渦の中に引きづり込み『生』を感じたい。思いつきで創った曲を完全なる匿名で投稿した。秀でた音楽技術もないその曲に唯一あるものは『波を起こしたい』という願望だけだった。才能か運があれば僕は神になれるのかもしれない。この世界でひとつの波を起こすことは並大抵のことではない。処理し切れないほどの情報が更新され続ける中に流されずそこにあり続けなければならない。多くの人の感性と自我を刺激しなければいけない。そんな聖域の頂点に立つのだと、思春期真っ只中な現実味の薄い空想に息が上がった。
数週間後、僕は神になった。
ー*ー*ー*ー*ー
神になった瞬間、内臓を全て燃やされるような熱さに襲われた。
その熱さは数十年経った今でも忘れない。脳に、体に強くこびりついているあの感覚。『生』を感じる言葉と、全身を貫通する程の熱狂的な批判的視線。それに抗うように上書きされる画面上に崇拝すら感じる賞賛の羅列。全瞬間に熱があり、鼓動を感じる。
きっと今の僕が欲しているものの全てがそこにあった。そしてその欠片があの言葉だった。
『これは新曲じゃない』
どこの誰かもわからない人間単体の記憶と主張。これこそ僕が愛した言葉の形。これの集合体こそ在るべきSNSの姿。形骸化し、『SNS』という名前だけが残った死体倉庫を変えられるのは今なのかもしれない。
最後にこの投稿をして眠ることにする。
『RINNEの生命線を絶つ瞬間がきたみたいです』
昨日投稿した二作目の楽曲は、僕自身の初投稿のデータを少しだけ改変した物だった。音質も映像も音の並びも全て最低限しか調整していない、今の作品とはかけ離れた作品。
ここまでわかりやすい変化を与えれば生々しさの欠片くらいは感じられるのではないかという期待に賭けている反面で、ここまで変えなければ気づいてもらうことすらできないのかという無力感に襲われる。
『新しい雰囲気だけどこれも神曲だな』
『結局何作ってもそれっぽくなるRINNEは天才』
『いつも通り最高』
変わらずに賞賛を獲られている現状を嘆く行為は贅沢だと非難されてしまうだろうか。気づいてもらえないことを悲しく思ってしまうことは許されないことだろうか。届けられる言葉を読んでいく度に息が詰まる。どこを探しても温度を感じる言葉が出てこなかった。
『初投稿の曲と不思議なくらい一致してる。これは新曲じゃない。何かの叫びに聴こえる』
この言葉に出逢うまでは。
既に数年前削除されている初投稿の曲の存在を覚えていてくれたこと。惰性の称賛だけを並べたような言葉の中に、この言葉だけは『ここで息をしている』という存在の主張を強く感じた。この感覚はきっと僕の単なるフェチで、快楽の形。それに依存し続けた結果が今の生ぬるさへの不満。この生ぬるさを心地よいと感じられない僕の違和感。
活動を始めた当時は、ただ賞賛が欲しかった。幼少期、僕を取り囲む人間は皆、生まれつきの疾患の影響で声をうまく発せられない僕を、幼さ故の悪意のない嗤いで指を刺した。年を重ねるごとに彼らは『気味が悪い』と僕の存在そのものを煙たがるようになった。学校での対人的問題を担任の若い女性教師はなんの配慮もなくに両親へ逐一報告した。
『クラスで〇〇君だけ馴染めていないんです』
僕が輪の外に放り出しているのが彼女自身だということに気づいていないのだろうか。気づいていながらもその現状を寸劇だと勘違いし楽しんでいるのだろうか。答えはおそらく後者だろう。当時『話す』というコミュニケーションの方法を持ち合わせていなかった僕は、人より表情で心情を感じ取ることが得意だった。僕が独りになった時、彼女はいつも同じ言葉を口にした。
『みんなのところに行かないの?』
心配しているような台詞が漏れ出す口の外側の口角はいつも、隠し切れないほど楽しそうな角度をしていた。それを見る度確信した。僕はただ独り、何も発することない従順な人間を演じることが求められていると。
家庭内でも立ち位置と役割は変わらなかった。出来のいい兄と社交的な双子の妹。両親は、あからさまに扱いに差を生み出していたわけではないけれど、雰囲気と選ばれる言葉から無意識下で蔑まれていたことは感じ取っていた。兄も妹も幼い頃から徐々に僕と距離をとるようになった。食事の時間を極力ずらし、廊下ですれ違ってしまった時には白々しい会釈をした。そのせいなのか今の僕には彼らの声を思い出すことができない。
僕が生きていることを唯一許される空間は六畳の自部屋と十二回目の誕生日に与えられたパソコンだけだった。最初は触れようとすらしなかった無機質な板に縋ってしまう程、誰かを必要としていた。
電源を入れ青白いライトを浴びた瞬間、自然光では味わえない心地よさと中毒性を覚えた。多種多様に制限のない創作物が更新され、思想を書き散らすように言葉が投げられていた。現実では絶対にあり得ない空間がそこには当たり前のように広がっていた。『この人に従わなければいけない』という存在もなく、全員が自由に好きなものだけを追い、好きなものを好きだと讃え、嫌いなものを嫌いだと語る。踏み入れてはいけない廃墟の扉を開けたような背徳感がたまらなく気持ちよかった。
近くの公園で子供の笑い声が聞こえる中、爆音で機械音に乗った音楽と、感情の代わりに妙な聞き取りやすさを持ち合わせたアニメーションを聴き続けた。僕自身の世界の色が強く固められていくにつれて世間とのズレを強く感じるようになった。
『あいつは頭がおかしい』
そんな言葉を後ろ指と共に刺されるようになった。きっと僕が変わったことは、数年前からほとんどない。声を発せられるようになったものの必要最低限しか発していないし、誰かに反抗するということは一度もしたことがない。自発的な人間関係を築こうと無駄な希望を抱いたこともない。それなのに軽蔑されてしまうのはきっと、変わらないことが悪だという風潮が僕の周りで芽生え始めているからだろう。その風潮がどこまで広がろうとも無需要な僕自身の変化を大々的に宣伝するような行為はしない。
それにあの扉を開ければ、その変化を痛い程浴びられる。
止まることなく動き続ける匿名の掲示板に、動画を横切るコメントの数々。単体が感情を持ち意思のままに動く画面の中で、時々奇跡的な団結力を見せる。『〇〇件の反応が来なければ飛び降りる』という投稿には、なんの力も持たない単体の集まりが命を繋ぎ止めた事例もあった。ここには味わったことのない『生』が埋められている。そしてその波を起こす先頭に立った存在が神のように見えた。決して驕らず、無意識に人を巻き込み見たことのない景色を創り出してしまう、この世界の神。
十八回目の夏、僕もそちら側へ行きたいと強く思った。
数え切れない人を渦の中に引きづり込み『生』を感じたい。思いつきで創った曲を完全なる匿名で投稿した。秀でた音楽技術もないその曲に唯一あるものは『波を起こしたい』という願望だけだった。才能か運があれば僕は神になれるのかもしれない。この世界でひとつの波を起こすことは並大抵のことではない。処理し切れないほどの情報が更新され続ける中に流されずそこにあり続けなければならない。多くの人の感性と自我を刺激しなければいけない。そんな聖域の頂点に立つのだと、思春期真っ只中な現実味の薄い空想に息が上がった。
数週間後、僕は神になった。
ー*ー*ー*ー*ー
神になった瞬間、内臓を全て燃やされるような熱さに襲われた。
その熱さは数十年経った今でも忘れない。脳に、体に強くこびりついているあの感覚。『生』を感じる言葉と、全身を貫通する程の熱狂的な批判的視線。それに抗うように上書きされる画面上に崇拝すら感じる賞賛の羅列。全瞬間に熱があり、鼓動を感じる。
きっと今の僕が欲しているものの全てがそこにあった。そしてその欠片があの言葉だった。
『これは新曲じゃない』
どこの誰かもわからない人間単体の記憶と主張。これこそ僕が愛した言葉の形。これの集合体こそ在るべきSNSの姿。形骸化し、『SNS』という名前だけが残った死体倉庫を変えられるのは今なのかもしれない。
最後にこの投稿をして眠ることにする。
『RINNEの生命線を絶つ瞬間がきたみたいです』