廃人のような生活の中に唯一『この世界に生きている』という感覚を引き戻してくれるのは聞き慣れた無機質な通知音だった。奇跡的に採用されたバイトは一週間の無断欠勤によって解雇されてしまった。働く意欲も、外の世界を知りたいという好奇心も持ち合わせていなかった僕はまた自堕落な生活に戻った。生きた先での夢もお金もなく惰眠を繰り返す日常に、ただひとつ不定期に姿を現す光こそがこの通知だった。
『RINNEの新曲が投稿されました』
『RINNE』は十数年前からSNS上に楽曲を投稿している覆面アーティスト。顔も性別も年齢も職業も全てが非公開で、全てが謎に包まれたその存在に僕は心を奪われた。
その曲に出逢った十数年前の瞬間を僕は今でも鮮明に覚えている。終わりもなく繰り返された夫婦喧嘩が終戦を迎えた日、そして母が家族を離脱した日。追いかけることもなく頭を抱えた後に、ガラスの破片を拾い集める父の背から必死に目を逸らし現実から逃げ込むために開いた動画投稿サイトに流れた広告。
大抵の広告は成人向けの怪しげな漫画が流されていた当時、その旋律が流れた瞬間に広告を飛ばそうと準備していた指が自然と画面から遠のいた。今思うとその旋律に惹かれた理由は、秀でた音楽的技術でも、感動を訴える歌詞でもなく。誰とも似つかない音の羅列と全方位を敵視したように棘のある言葉、そして何より感じたことのない異臭感を覚えたからだろう。その感覚に取り憑かれ、瞬間的に全五感を乗っ取られた。
当時はSNS上での『活動者』と言われる人が数々デビューし始めていた時代だった。機械音に乗せて曲を作る者。その曲を好きに歌いアレンジする者。音声配信アプリを通し画面越しのコミュニケーションを図る者。その中のひとりに『RINNE』がいた。
他の活動者を蔑むわけではないけれど、身内ネタの延長線上が主流となっていたSNS上での活動文化の中に『RINNE』は作品同様、その存在からも異臭感を放ち続けた。数字を稼ごうと個人情報を擦り減らし、偽りながら重ねられる自己像を確立させていく風潮の中、ただひたすらに曲を創り、正体を明かさず、受け取る側の想像の中で無意識に『RINNE』の像が確立されていく。恐怖すら覚えるほどのカリスマ性を感じた。
そんな『RINNE』が活動を続けていく中で変わることも数えきれないほどあった。投稿するコンテンツの変化、映像技術の発展に沿ったクオリティーの変化、活動範囲の変化。その中で最も大きな変化は世間が『RINNE』に向ける視線の変化だと思う。
以前は曲自体に惹かれ、紡がれる旋律を追いかけ、聴き手からの純度高い言葉で愛を語られていた楽曲も、時が経つにつれ自分を主役とするためのファッションとして扱われるようになった。
『エモい』
『一生聴き続ける』
『神』
原稿用紙の一行にすら及ばないほどの単語で、その曲の命が語り尽くされてしまう。
以前は好んで行っていたコメントを追うという行為に、いつの日からか嫌悪感を抱くようになった僕は画面を暗くして伏せ、音だけを聴くようになった。ただ今日は無性に、気味が悪いと避けていたコメントを追いたいという衝動に駆られた。当時吐き気すら感じたあの空間に以前のような空気が戻っているのではないかと、どこか期待をしてしまった。
『この人の作るPV全部神』
『世界観推すわ』
『今度のライブ一緒に行ける人いませんか?』
『この人の古参とか本当に人生レベルの誇り』
期待した僕が馬鹿だったと呆れて声も出なかった。どこかから借りてきたような言葉で自分を着飾ろうとする欲に取り憑かれた形がそこには並べられていた。
違和感はそれだけではない。それは全て肯定的なコメントだということ。以前は個人の感想を思ったままに届けようという意思の感じられる言葉が連ねられていたこの場所に、全く温度を感じない。
保守的な、盲目的な台詞に反吐が出そうになった。
それでも投稿を辞めない『RINNE』は一体この変化に何を感じているのだろう。そもそも気づいていないのか、ただ『RINNE』の曲の中に盲目的な思考を卑下した楽曲がある。ならばこの変化をしかたのないものだと諦め、妥協の中にいるのか。このSNSでしか息ができない程の孤独を背負って生きているのか。いくら考えても本当のことはわからない。
答えのない問いに思考を巡らせていると本日二度目の通知がなった。『RINNE』の活動で一度もされなかった二作連続投稿。送られてきたリンクの先へアクセスする。違和感を感じた。確かに感じていながらも、その感覚が正しいものなのか疑ってしまう自分がいた。共感を求めコメントを追う。
『二作続けて神曲だな』
『耳が幸せ』
『供給過多本当に感謝です』
違う、そうじゃない。この曲は僕が初めて聴いたあの曲を少しだけ、ほんの少しだけアレンジした曲。今は消されていて聴きにいく手段はないけれど、確実にまっさらな新曲であるはずがない。それでも概要欄には『今までにない新しい曲を生み出しました』と記載されている。
聴き手を試しているのか、過去を消し去りたいという『RINNE』自身の願いか。どんな意図が込められていたとしても、僕は僕の記憶と想いを届けたい。
『初投稿の曲と不思議なくらい一致してる。これは新曲じゃない。何かの叫びに聴こえる』
生ぬるくなったSNSではこの言葉すら『批判』と捉えられて袋叩きにされてしまうのだろうか。
ただ本心を届けただけなのに。
『RINNEの新曲が投稿されました』
『RINNE』は十数年前からSNS上に楽曲を投稿している覆面アーティスト。顔も性別も年齢も職業も全てが非公開で、全てが謎に包まれたその存在に僕は心を奪われた。
その曲に出逢った十数年前の瞬間を僕は今でも鮮明に覚えている。終わりもなく繰り返された夫婦喧嘩が終戦を迎えた日、そして母が家族を離脱した日。追いかけることもなく頭を抱えた後に、ガラスの破片を拾い集める父の背から必死に目を逸らし現実から逃げ込むために開いた動画投稿サイトに流れた広告。
大抵の広告は成人向けの怪しげな漫画が流されていた当時、その旋律が流れた瞬間に広告を飛ばそうと準備していた指が自然と画面から遠のいた。今思うとその旋律に惹かれた理由は、秀でた音楽的技術でも、感動を訴える歌詞でもなく。誰とも似つかない音の羅列と全方位を敵視したように棘のある言葉、そして何より感じたことのない異臭感を覚えたからだろう。その感覚に取り憑かれ、瞬間的に全五感を乗っ取られた。
当時はSNS上での『活動者』と言われる人が数々デビューし始めていた時代だった。機械音に乗せて曲を作る者。その曲を好きに歌いアレンジする者。音声配信アプリを通し画面越しのコミュニケーションを図る者。その中のひとりに『RINNE』がいた。
他の活動者を蔑むわけではないけれど、身内ネタの延長線上が主流となっていたSNS上での活動文化の中に『RINNE』は作品同様、その存在からも異臭感を放ち続けた。数字を稼ごうと個人情報を擦り減らし、偽りながら重ねられる自己像を確立させていく風潮の中、ただひたすらに曲を創り、正体を明かさず、受け取る側の想像の中で無意識に『RINNE』の像が確立されていく。恐怖すら覚えるほどのカリスマ性を感じた。
そんな『RINNE』が活動を続けていく中で変わることも数えきれないほどあった。投稿するコンテンツの変化、映像技術の発展に沿ったクオリティーの変化、活動範囲の変化。その中で最も大きな変化は世間が『RINNE』に向ける視線の変化だと思う。
以前は曲自体に惹かれ、紡がれる旋律を追いかけ、聴き手からの純度高い言葉で愛を語られていた楽曲も、時が経つにつれ自分を主役とするためのファッションとして扱われるようになった。
『エモい』
『一生聴き続ける』
『神』
原稿用紙の一行にすら及ばないほどの単語で、その曲の命が語り尽くされてしまう。
以前は好んで行っていたコメントを追うという行為に、いつの日からか嫌悪感を抱くようになった僕は画面を暗くして伏せ、音だけを聴くようになった。ただ今日は無性に、気味が悪いと避けていたコメントを追いたいという衝動に駆られた。当時吐き気すら感じたあの空間に以前のような空気が戻っているのではないかと、どこか期待をしてしまった。
『この人の作るPV全部神』
『世界観推すわ』
『今度のライブ一緒に行ける人いませんか?』
『この人の古参とか本当に人生レベルの誇り』
期待した僕が馬鹿だったと呆れて声も出なかった。どこかから借りてきたような言葉で自分を着飾ろうとする欲に取り憑かれた形がそこには並べられていた。
違和感はそれだけではない。それは全て肯定的なコメントだということ。以前は個人の感想を思ったままに届けようという意思の感じられる言葉が連ねられていたこの場所に、全く温度を感じない。
保守的な、盲目的な台詞に反吐が出そうになった。
それでも投稿を辞めない『RINNE』は一体この変化に何を感じているのだろう。そもそも気づいていないのか、ただ『RINNE』の曲の中に盲目的な思考を卑下した楽曲がある。ならばこの変化をしかたのないものだと諦め、妥協の中にいるのか。このSNSでしか息ができない程の孤独を背負って生きているのか。いくら考えても本当のことはわからない。
答えのない問いに思考を巡らせていると本日二度目の通知がなった。『RINNE』の活動で一度もされなかった二作連続投稿。送られてきたリンクの先へアクセスする。違和感を感じた。確かに感じていながらも、その感覚が正しいものなのか疑ってしまう自分がいた。共感を求めコメントを追う。
『二作続けて神曲だな』
『耳が幸せ』
『供給過多本当に感謝です』
違う、そうじゃない。この曲は僕が初めて聴いたあの曲を少しだけ、ほんの少しだけアレンジした曲。今は消されていて聴きにいく手段はないけれど、確実にまっさらな新曲であるはずがない。それでも概要欄には『今までにない新しい曲を生み出しました』と記載されている。
聴き手を試しているのか、過去を消し去りたいという『RINNE』自身の願いか。どんな意図が込められていたとしても、僕は僕の記憶と想いを届けたい。
『初投稿の曲と不思議なくらい一致してる。これは新曲じゃない。何かの叫びに聴こえる』
生ぬるくなったSNSではこの言葉すら『批判』と捉えられて袋叩きにされてしまうのだろうか。
ただ本心を届けただけなのに。