うつむきがちに、歩を進める。駅までの道を、ぽつり、ぽつりと。

 たしか入学してからはしばらくは、こんな感じで歩いていた。前を向くことが、つらくて。たったそれだけのことでもものすごく体力と気力を使うから、こうして下を向いているのがいちばん楽だった。
 すっかり元に戻ってしまったみたいだ。色のない日々がわたしの日常。もともとこれがわたしにとっての"普通"なのだから。
 先輩と過ごした束の間の幸せは、わたしが死ぬまでのちょっとした休息だったのかもしれない。そんなふうに、馬鹿げたことを思うようになっていた。
 だから、もう悔いはないのかもしれない。このまま先輩と会うことがなければ、学校に通う意味も、生きる意味すらも分からなくなってしまう。

「……重すぎる」

 自分が思っている以上に、わたしはひとに対して重い気質なのかもしれない。そんなことを思いながら、雨で散ってしまった桜の木を見上げる。それからゆっくりと地面に視線を落とすと、花びらが桜色の絨毯のように広がっていた。

「なにが重いんだ?」

 なにより耳が欲していた音色に、息が止まる。ついに幻聴まできこえるようになってしまったのか。そんな説はどうにか否定してほしくて、この目で存在を確かめたくて、ゆっくりと振り返る。

「よっ、元気?」

 変わらない笑顔がそこにあった。数日間会わなかっただけで、ずいぶん懐かしいと感じてしまう。
 
「先輩……!」
「そんな嬉しそうにされると照れるわ」

 照れ笑いを浮かべながら後頭部を掻く先輩は、「会えなくてごめんな」と小さくなった。慌てて首を振ると、安堵したように緩められた頰が、わずかに桃色に染まる。

「もうすぐ電車くるよな。一緒に行こう」
「はい……!」

 前に視線を移した瞬間、景色にパッと色がついた。桜も、空も、道も、風ですら、すべてが鮮やかに彩られて世界が一気に華やいだ。わたしの世界が色づくためには、やはり彼が必要らしいのだ。

「桜散ったな」
「ですね……少し寂しいです」

 手を伸ばせば簡単に届いてしまう、心音が聞こえてしまいそうな距離。
 二人並んで歩く時間は、もっとを求めてしまうほどに、和やかなものだった。

─────

 いつものように電車に乗り、空を眺めながら揺られること数分。
 ふとこちらを見た先輩が小さく首を傾げた。

「今日、これから時間ある?」
「え……ありますけど、どうしてですか」
「ちょっと一緒に行きたいところがあって」

 ニッ、と笑う先輩は、秘密基地に向かう子供のような、そんな無邪気な顔をしていた。唇の隙間からちらりと覗く八重歯が可愛らしいな、なんて。頭の片隅をよぎる言葉。
 そんな思想を脳内から追いやり、問い返した。

「どこですか?」
「それはまだ内緒」

 唇の前で指を立て、目を細める先輩。艶っぽい仕草に、心臓がトクンと音を立てる。

「ついてきてくれる?」
「はい。行きたいです」

 素直にうなずくと、嬉しそうに笑った先輩は「じゃあ次の駅で降りるから」と告げた。そんな場所で降りたことはないので、やや緊張気味に降車し、電車を見送る。
 あっという間に走っていってしまった電車。思っていたよりもあっさりしたものだった。

 周りを見渡すと、緑が多い。風の音がやけに大きく感じられる。
 きっと都会に住む人が理想とする田舎の形がそこにあった。それくらい、のどかで、落ち着いていて、こんな場所が通学までの停車駅にあったのだと驚いてしまうほど。

「ここから少し歩く。行こう」

 鞄を掛け直したタイミングで手を取られる。骨張った手の感覚に、思わず心臓が跳ねた。触れ合った左手が妙に熱くて、神経がそればっかりに集中してしまうのに、先輩はなんでもないように平然としていた。それどころか、「綺麗な空だな」なんて景色を楽しむ余裕まであるみたいだ。
 手を引かれながら黙って歩く。ドッ、ドッという胸の鼓動が、指先を伝わって先輩に届いていないか心配だった。
 汗が噴き出すように、全身が熱い。

 手を繋いでいる。
 この行為自体に意味なんてきっとない。意識しているのはわたしだけで、先輩にとっては当たり前のことなのかもしれない。異性とのスキンシップに慣れていないわたしにとっては、ハードルが高すぎるくらいだけれど。

 でもきっと先輩は……。


 こんなことを考えてしまう自分が嫌だ。打ち消すように首を振り、前を向く。歩くたび先輩の髪が揺れるのを見ながら、歩くこと十数分。


「ついた」
「わあ……っ」

 そこには、真っ青な海が広がっていた。その美しさに思わず感嘆の声が洩れるけれど、それと同時に何か引っかかりを覚える。モヤモヤとしていて、うまく言葉に表せないけれど、何かを忘れているような、そんな不思議な感覚だった。

「どうした?」
「……いえ、なんでも」

 不思議そうにわたしを覗き込む先輩。どうせならもっとしっかりリアクションしたかった。違和感に流されてしまう前に、感動を伝えたかったのに。
 やるせない気持ちになっていると、眉を寄せた先輩がわたしの顔をのぞき込んだ。

「なんでちょっと残念そうなんだよ」
「ち、違います」

 なんでもお見通しの先輩は、またわたしの額を弾いた。これでは、落ち込んでいる理由までバレていそうだ。

「こっち座って少し話そう」

 先輩に促され、海と少し離れた、草が茂る場所に座る。しばらく沈黙が降りるけれど、決して嫌な空間ではなかった。気まずさとか、寂しさとか、怖さとか。そんなものをいっさい感じないから不思議だ。
 遠くのほうから、サア────と心地のよい波音がきこえてくる。波の音は1/fゆらぎだったはず。それは、人間が心地よく感じるゆらぎのことだ。まったくその通りだな、と納得してしまう。

「俺、実は医者志望なんだよ」

 ゆらぎの一部にするように、先輩はそれだけを淡々と告げた。聞き間違いを疑う必要がないほど、はっきりと。医療系の志望者が多い学校であることは理解しているので、特別驚くわけではない。それでも、自分には到底無理だということだけは分かるので、素直に感心してしまう。

「勉強が行き詰まってどうしようもなくなったとき、ここにいると落ち着くんだ。だから瑠胡も同じだったらいいなって。少しだけでも息抜きになったら、またいつもみたいに笑ってくれよ」

 先輩には医者というはっきりとした目標がある。終着点(ゴール)が定まっているのが、ほんの少しだけ羨ましかった。たどり着くべき場所が決まっている人は、そこまでの道のりがどんなに険しくて茨の道だったとしても、諦めずに進んでいく強さを持っているのだから。
 視線を落としていると、急に顔を覗き込まれて肩が跳ねた。美形の接近は心臓に悪いからやめてほしい。

「元気ないのは、なんで?」

 ここ数日、先輩に会えなかったからですよ、なんて。そんなこと恥ずかしくて言えるはずがない。ぶんぶんと首を横に振る。

「せ、先輩は最近なにしてたんですか」

 妙に早口になってしまう。質問に質問で返してしまったのに、先輩は気分を害した素振りもなく、柔らかく笑っていた。それからじっとわたしを見つめたあと、ゆっくりと息を吐いて目を伏せる。

「図書館で勉強してた。あとは学校に残って講習会の日もあったな」
「あ……なるほど」
「寂しい気持ちにさせて悪かったな」
「……別に、大丈夫です」

 つい、言葉が出てしまう。本当は何も、大丈夫なんかじゃないのに。
 ふっ、と口許を緩ませた先輩は「素直じゃねーの」なんて言って笑っていた。すべてバレている。わたしが今日まで元気がなかった理由も、先輩の返答からしてバレてしまったようなものだろう。
 先輩が小さく息をついて、前を向いたまま口を開く。

「なにか、悩みごとがあるんじゃねえの?」
「……」
「大丈夫だ。ここなら、ぜんぶ海が受け止めてくれる」

 その言葉を聞いた瞬間、また妙な引っかかりを覚えた。今度ははっきりと、何かが引っかかる音がした。


 わたし、何を忘れてるの?

 さっきの言葉を、わたしは今初めて聞いた。そのはずなのに、なぜだか記憶のどこかに同じ言葉が眠っている。思い出せそうで、思い出せない。


 ……そう思うのも、二度目だ。


 ────あ。


 違和感の正体がばちっと繋がる。どうして気づかなかったのだろう。こんなに分かりやすいのに。
 そう思った次の瞬間、無意識のうちに、口がその名前を呼んでいた。

「ハクトく……」
「ここは、俺の思い出の場所なんだ」

 けれど、言葉をかき消すようなタイミングで先輩がぼそっとつぶやく。それが意図されたものなのか、偶然なのかは分からなかった。わたしの口から出た名前は、先輩の耳に届くことはなかった。完全にタイミングを逃してしまい、気分を落としながら、慎重に問いかける。

「特別な場所、ってことですか」
「特別な……まあ、そうだな」

 うなずく先輩は、草の上に視線を落とした。なんとなくそれ以上は踏み込んではいけないような気がして、喉元にある言葉を飲み込む。
 その代わりに、ずっと胸の中で溜め込んできた、たったひとつの思いがこぼれた。
 『特別』とは対照的な、その想いが。


「わたしは……普通になりたいんです」


 そう呟いた瞬間、先輩の目がわずかに大きくなった。
 こんなこと、誰にも言ったことがなかった。だけど、小さい頃からの切実な思いだった。わたしが理想とする自分の姿は、普通でいられることなのだ。

「何でもできるようになりたいだなんて、そんな図々しいこと言わないから、すべてが人並みにできるようになりたいんです。目立たず、浮かず、ただ平穏に普通に生活できるなら、わたしは誰かの特別になる必要だって、万人に好かれる必要だってないんです。ただ、嫌わないでいてくれれば」

 初めて口にした、今まで出せなかった鉛のような感情が、胸の奥深くから吐き出されていく。それと同時に、ぽろぽろと涙が溢れだす。それは、こんなふうに暗い気持ちを抱えてしまう自分の情けなさと、それから、

(やっと、言えた)

 という、安堵からだった。

「人よりも劣りたくない。なんでも要領よくこなせるような、そんな楽な人間になりたい。どうでもいいことに悩んで落ち込んで、苦しむこんな性格大嫌いなんです。どうして自分だけうまくできないのか分からない。みんなはもっと楽しそうに生きてるのに、わたしだけ取り残されてるみたいなんです」

 無論、それはわたしが見ている世界。周囲の人たちにもそれぞれに苦悩があって、わたしには見えない部分がたくさんあるのだってちゃんと分かっている。けれど、それを微塵も見せないような上手な生き方ができることが、それもまた羨ましくてたまらない。

 そこまで黙って聞いていた先輩は、まっすぐにわたしを見て、静かに唇を震わせた。


「それはきっと瑠胡が自分に期待しすぎてるんだと思うよ。期待すればするほど自分としての理想像が高くなって苦しくなる。必要以上の力を求めてしまうから」


 諭すような口調に、思わず口を噤む。頭を鈍器で殴られたような感覚だった。


 期待しすぎてる、だなんて。


 なぜだか自分を否定されたような気がして、悲しみとともに憤りを感じた。誰かに傷つけられても、悲しいとは思ってもそれが怒りに変わることはなかった。けれど今は、自分の思いが"怒り"というたしかな感情に変化していくのを心中で感じる。
 いつもわたしの心を理解して、寄り添ってくれた先輩に、そんなふうに言われてしまった。唯一の存在に非難されたような気がして、それがたまらなく悲しくて、苦しくて、悔しかったのだ。

(どうしてわかってくれないんだろう)

 今までは理解されないことが当たり前だったのに。以前のわたしからすればおこがましく感じてしまうようなことを、わたしは平然と思っているのだ。
 ぎゅっと拳を握りしめて、同じように先輩の瞳をまっすぐ射抜いた。

「諦めろってことですか。自分には何もできないんだって」

 期待をしないということはそういうことだろう。両親に見放されてしまった今、いちばん近くにいる自分という存在すら、己を見捨ててしまってはだめなのではないか。せめて自分一人だけでも期待していないと、期待に応えることすらできなくなってしまう。何のために生きているのか分からなくなってしまう。

 わたしの言葉に先輩は目を伏せ、それから静かに呟いた。

「俺は自分に期待してない。ただ、信じてはいる」

 それは凪のごとく静かで、穏やかで、言葉をそっと手渡すような口調だった。じっと見つめると、パチリと開いた瞳が流れ、海の色がわたしを捉える。

「人を信じるって、期待するよりはるかに難しいことだろ。幻想を抱いて期待するのは誰だってできるけど、自分を委ねられるほど信じるってなかなかできない。だからせめて、俺だけは俺を信じてやるって決めたんだ」

 期待することと信じること。似ているようで、全然違う。

「無条件に信じるって、確証を求める人間にとってすげえ難しいことなんだよ。だから、なんの心配もなく自分を委ねられる存在なんて、一生のうちに数人出会えるか出会えないかなんだ」

 裏切る、という言葉があるけれど、それは相手と自分を信じていないと成り立たない。大人になる過程で何度もそれを経験して、重ねていくうちに誰も信じられなくなる。
 わたしだって同じようなものだ。見放されて失うのが怖いから、初めから近づくことをやめてしまう。裏切られるのが怖いから、人を信じることができなくなった。

「なあ、瑠胡」

 振り向くとそこには、ひどく優しげな表情をした先輩がいた。いくつもの、名前を知らない感情が混ざり合ったような顔をする先輩は、まっすぐにわたしの目を見つめて告げた。

「俺のこと、信じろとは言わないけど────信じていいよ」

 そのときふと、あたりが柔らかい光に包まれて、導かれるように視線が空に吸い寄せられる。太陽と逆の空に、アッシュピンクのラインがかかる。青色と混ざり合うようにグラデーションになるそれはまるでピンク色の橋のようだった。
 言葉には表せない絶景に息を呑む。すべてを溶かし込むような淡い色をした空は、どこまでも終わりなく広がっていた。

「ビーナスベルト」
「え?」

 ぽつりと呟いた先輩に視線を移すと、「ビーナスベルトって言うんだ。すげえ綺麗だろ」と誇らしげに笑っていた。その顔を見た途端に、胸の奥がキュッと締めつけられる。けれどそれは苦しくなるようなものではなくて、ささやかで甘いときめきをもたらす、そんなもの。

「ビーナスベルトは空気が澄んだ日にしか見られないから、春や夏にはあまり見られないんだと」
「え、でも今」
「だから俺たちはツイてるんだ。ほら、しっかり目に焼き付けろ。次いつ見れるか分からないからな」

 そう言われて、視線を空に戻す。海と空の間がぼやけて、神秘的な光に包まれている。

「ヴィーナス。ローマ神話の女神、だっけ。恋と美の女神」

 なにやら解説をしてくれる先輩。黙って先輩を見つめると、あっちを見ろといったようにまた視線を景色に戻される。

「ビーナスベルトの下に濃い青が広がってるだろ、あれが地球影。遠い場所の夜の色。この現象には赤い光と青い光の錯乱が関係しているんだ。その錯乱が混ざってピンクになる。この現象はすぐに消えてしまうから、言うなれば、魔法の時間ってやつだな」
「魔法の、時間……」

 その言葉を反芻する。先輩はこの気象現象の仕組みさえ知っているようだった。

「まあ細かいことはいいよ、難しいし。それより今は景色を楽しめ。あともう少ししたら消えちまうから」

 おもむろに立ち上がった先輩は、いきなり靴を脱いで、迷うことなく海の中に入っていく。押し寄せる波が先輩の足を濡らす。時折「冷てえ」と声を出しながら、子供のようにはしゃぐ先輩。その姿が珍しくて、微笑ましくて、つい笑みがこぼれてしまった。

「瑠胡」

 少しでも目を離せば溶けてしまいそうな世界のなかで、先輩が笑っている。その瞬間、トンッ、と小さく胸を叩かれたような気がした。胸の内側から、気づいて、というように何度も。

 ──ああ、と。
 そこでようやく気がついた。否、ずっとこの気持ちの正体を探っているふりをして、本当は初めから気づいていたのだ。それでも気づかないふりをしていたのは、傷つくことが怖いから。想いを認めてしまったら、もう後戻りはできないとわかっていたからだ。
 まっすぐに彼を見つめると、柔らかい笑顔が返ってくる。その顔を見ていると、色々な感情が混ざって泣きたくなってしまう。けれどその涙は、きっとなによりもあたたかい。


 ────わたし、琥尋先輩のことが好きなんだ。

 
 自覚をしてしまうと、フィルターがかかったように、一瞬で世界が鮮やかになる。トントン、と、内側から叩く音が強くなり、この感情が言葉として出てしまいそうになった。ぐっと口に力を入れて、それをとどめる。

 誰よりも会いたくて、話がしたくて、顔を見られると嬉しくて。一日のなかで彼と過ごす時間こそが、わたしの楽しみになっていた。会えない日は泣くほど苦しくて、名前を呼ばれるたび胸が高鳴って、呼吸の仕方を忘れてしまう。朝起きたらいちばんに会いたくて、彼の顔を見てから眠りにつきたい。そんなふうに、毎日毎日、彼のことを考えている。
 信じていいよ、と。そう言われたとき、なんの迷いもなくうなずける自分がいた。信頼と愛は、無条件に与えることができるのだと。そして自分も与えられたいと、人生ではじめて思った。

 この感情は、きっと恋。経験したことがなくても、わたしはこの気持ちを知っている。ずっとずっと昔から知っていたような気さえしていた。


「来いよ」


 スッと伸ばされた手がわたしを呼んでいる。透明なピンクと青が混ざり合う世界で、たったひとつだけ輪郭がはっきりとしているもの。


 わたしは、先輩が好き。


 この気持ちだけは揺らぐことなく、ぼやけることもなく、ただそこに在る。
 冷たい水の感触が足を包み込む。上昇した体温と水の温度差が心地よくて、もっと浸っていたいとすら思ってしまう。


 だけど。
 きっとわたしの想いなんて、先輩には届かない。もし奇跡が起きたとしても、わたしの存在なんて重荷にしかならないだろう。医学部受験は大変だと、詳細を知らないわたしですら、分かっている事実なのだから。
 淡いピンク色を見つめながら、泣きたくなった。はっきりと恋心を自覚してしまったのに、この気持ちの行き場がない。先輩の邪魔はできないし、したくない。


 もしもわたしが強い人間だったなら。

 迷惑をかけずにいられる、重くない人物だったとしたら。
 そんなタラレバを考えることすらしてはいけない。

 同じようにビーナスベルトを見つめ、さらさらと髪を揺らす先輩が、視線を逸らさずわたしに問いかけた。

「ブルーモーメントって知ってるか」
「ブルー、モーメント?」
「そう。俺はそれがいちばん好き」

 どんな景色なんですか、と。今までのわたしならきっと迷わず訊いていただろう。けれど今なら次に何を言うべきか、自分が何を言いたいのか、わかる。
 意識しなくても、自然と言葉が溢れていた。

「先輩と一緒に見たいです。ブルーモーメント」

 その瞬間先輩の顔がほころび、あたりが優しい光に包まれた。足に触れる冷たい水と身体中の熱のせいで、ふわふわと浮いているような不思議な感覚になる。先輩の頰はほんのりピンク色に染まっていた。
 それはきっとビーナスベルトのせいなのだと。周りの景色が先輩に溶け込んでいるだけなのだと。勘違いしそうになる自分を必死に説得する。

「約束な」

 細くて長い指が差し出された。驚くほど白くて、少しだけ骨張った手。その手を見るたび「琥尋先輩だ」と、わけのわからないことを思ってしまうわたしはきっと手遅れ。跳ねる鼓動を抑えて、同じように小指を差し出す。
 
「ふふっ、子供みたい」
「まだ子供だからしょうがねーだろ」
「次誕生日が来たら成人ですね、先輩」
「あと三ヶ月……ってとこかな」

 指を絡めあったまま、そう会話をして笑い合う。


 ブルーモーメントを見る、そのときまで。あともう少しだけ、一緒にいたい。



 まだ引き返せる、そのときまで。もう少しだけでいいから、この夢に甘えさせて。
 それで最後にする。すべて、なかったことにするんだ。

 海で交わされた桃色の約束を、あたたかい光が静かに包み込んでいた。


───────


 夢をみるのは、久しぶりだった。
 ずっとよく眠れない日が続いていたから、ここ(・・)にくることも、久しぶりだった。

『瑠胡ちゃん。久しぶりだね』

 生々しい水の感触。煌めく水面から前に視線を預けると、薄茶色の髪がさらさらとなびいていた。

(どうして気づかなかったんだろう)

 初めて会った、その日から。気づくチャンスはきっといくらでもあったはずなのに。

「久しぶり、ハクトくん」
『なかなか来ないから、心配してたんだよ』

 ふはっと笑う顔が、また重なる。

『でも、心配する必要はないみたいだね。すごくすっきりした顔してる』
「え?」
『最初のころの瑠胡ちゃん、どんな顔してたか覚えてる? こんな死にそうな顔してたよ』

 手を使って萎れたような表情をつくる彼は、ニヤリと口の端を上げてからかうような笑みを浮かべる。怖くなってしまうほど白くて細い手足と顔。それでも違和感なくいられたのは、誰かによく似た美貌と夢のせいだろうか。

「ねえ、ハクトくん。教えて。わたし今日この海に来たの。誰とかわかる?」
『……知らないな』

 わざとらしく目を逸らされる。彷徨う視線が、ほとんど答えのようなものだった。言ってしまえば何かが変わってしまうかもしれない。そう分かっていても、静かに告げた。

「琥尋先輩と、だよ」

 ずっと夢で見ていたこの場所が、まさか現実(リアル)に存在していると思っていなかった。だけど、先輩はここが『思い出の場所』だと言っていた。そして、毎度見る夢は、必ずここが舞台。
 彼らの関係を考えてしまうのは、至極当たり前のことだった。

「ハクトくんは先輩の弟なの?」
『先輩ってだれ』
「琥尋先輩。知らない?」

 ふるふると力なく首を横に振る彼。だけど、どう考えてもそうなのだろう。琥尋先輩とハクトくんは、兄弟関係にある。

「だって、すごく似てるんだもん。笑い方、そっくり」

 先輩のほうが少しだけぶっきらぼうな感じはするけれど。ふと重なる影がそっくりなのだから。

「どうしてわたしを助けてくれるの? わたし、先輩とハクトくんのおかげで自分をちゃんと見つめることができるようになったの」
『それは……よかった』
「夜がくるのが怖いって思わなくなったのは、ハクトくんのおかげだよ。この夢の中で、わたしを待っていてくれるから」

 切なそうに目を細めるハクトくんは、静かに目を伏せ、それから意を決したようにわたしに向き直った。

『瑠胡ちゃん』

 わたしの名前が呼ばれる。あたたかい響きだった。

『そろそろアイツ、壊れるだろうから。どうか守ってやってほしい。こんなこと、瑠胡ちゃんにしか頼めないんだ』
「壊れるって、なんで……」
『アイツはすごく弱いから。僕よりもずっと、脆くて弱いやつだから』

 憂いが混ざる瞳は、どこか遠い場所を見ていた。わたしを見ているはずなのに、どこかピントが合わない。

『瑠胡ちゃんとアイツが出逢ったのは、ちゃんと意味がある。偶然かもしれないけど、紛れもなく必然なんだ。アイツを救えるのは瑠胡ちゃんだけ。アイツの未来を託せるのは君だけなんだ』
「未来……?」
『どうか、救ってやってほしい』

 僕にはそれすらもできないから────。

 同じ色をした水色の瞳が、揺れながらそう訴えていた。

「……無理だよ。わたしには、そんなことできない。その役目はわたしが背負うものじゃない」
『どうして』
「だって……そういうものだから」

 言葉にすると、余計に泣きたくなった。
 好きな人の夢は応援してあげたい。だけどわたしなんかがそばにいたところで、マイナスにしか働かない。これも、自分に自信がないせいだ。こんな半端な気持ちでそばにいたいだなんて、本当にどうかしている。だから、自分から離れるべきだ。

『そんなふうに決めつけたらダメだよ』
「決めつけじゃなくて一般論だよ。先輩の迷惑にはなりたくない」
『アイツが言ったの? 迷惑だって』

 目を逸らしたくなるほどまっすぐな視線で射抜いてくる。その瞳の熱さが、また重なってしまう。

『アイツを見くびってもらっちゃ困るよ。なんでもうまくやるに決まってるじゃん』
「すごい……信頼してるんだね」
『別に、そういうわけではないけど』
「先輩、こんなに弟に応援してもらえて。いいなぁ」

 家族愛、とか。わたしの家庭はそういうのとはかけ離れているから、ますます羨ましい。先輩はたくさんの愛に囲まれて、あんなに素敵な人になったのだ。強くて、あたたかくて、わたしを救ってくれた大切な人。
 そして目の前にいる彼もまた、四月のわたしを救ってくれたひとりだ。

「ハクトくん、夢じゃない世界で会おうね。ここでだけ会うのは嫌だよ」

 そう告げると、彼の瞳に切なさの色が小さく混じったような気がした。けれどそれは一瞬で、すぐに「うん」と返ってくる。
 ぼやけていく視界の中で、ハクトくんが目を細める。そして。

『これだけは言えるよ。アイツは……琥尋は、誰よりも優しいやつだ』

 そんな響きだけが、海に溶けて消えた。