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 月に一度、我が校では委員会が開かれるらしく、今日の放課後はわたしの所属する環境委員会の集まりがある。

 指定された空き教室に向かって歩いていると、ふと、空にハート型の雲を見つけた。青色の澄んだ空にぷかぷか浮いているそれは、わたしの緊張した気持ちなどつゆ知らず、風にゆったりと流されてゆく。


 入学してすぐのHR活動で、アンケートにより委員会が決まった。学級委員は男女ともに立候補する人がいて、あっさり決定したけれど、その他の委員会は人気が偏るものも多く、かなり時間をかけての決定となった。

 特に体育委員会や文化委員会など、学園祭関連の委員会が人気だった。それらの委員会は業務内容が多く派手なので、とても目立つ。逆に、図書委員会や保健委員会、そして環境委員会といった、活動内容が地味なものは競争率が低く、そこまで揉めることなく決定することができた。


 もともと自主的に花壇の世話をしていたということもあり、早い時間に登校して水やりをすることにそこまで抵抗がなかったわたしは、環境委員会に入ることにした。
 やはり早めの登校と花壇整備は他の人にとっては苦らしく、女子はわたし一人だけの立候補だったのがありがたい。男子はなかなか決まらず、最終的にはジャンケンで決めていた。


 今回が初の委員会となり、三学年を通しての活動でもあるため少し緊張する。【環境委員会】と書かれたファイルを胸の前で抱きしめながら、わたしは空き教室に足を踏み入れた。


 すでに三年生のほとんどは集まっていて、窓側の席が埋まっていた。どうやら窓側から三年生、真ん中が二年生、廊下側が一年生となっているようだ。わたしは何度か髪に指を通しながら、指定された席につく。じゃんけんに負けて環境委員になった真陰(まかげ)くんは、まだ来ていなかった。

 真陰くんはとても明るく目立つ性格をしていて、わたしとは真逆の世界を生きている人だ。サッカー部に所属していて、定期試合にはたくさんの友達が応援に行っている印象がある。緋夏たちとの恋バナでも、過去に何度か名前が登場した。『真陰が』『真陰くんが』という呼び名を聞くたびに、苗字に【陰】が入っているのは違和感だなとこっそり思っていた。

 もちろんわたしは彼と話したことがなかったし、彼もわたしと話そうとする素振りを見せなかったので、ここにはわたしひとりで来た。
 けれど、委員会開始時刻まではあと五分。秒針が動くたびに、真陰くんは間に合うだろうかと不安がよぎる。

「あれ、そこ。男子の委員は?」

 委員長が教卓から声を張り上げ、周囲の視線がわたしに集まる。たらりと背中を冷や汗が伝い、急激に背筋が冷えていく。

「あ……えっと」

 カチ、カチと秒針の音がやけに大きく聞こえる。喉が焼けるように熱を帯びている。
 どうしよう。何か返事をしなければ変に思われる。
 こんなことなら、声をかけて一緒に来たほうがよかったかもしれない。
 
 沈黙を破るのはわたししかいないのに、絞り出した声はか細く、わたしの鼓膜だけを震わせた。
 あ、え、と曖昧なぼやきとも言えるそれを紡ぐことしかできない。
 そのとき、ふいに椅子が音を立てた。

「瑠胡」

 俯いていた視線を上げ、そっと声の主をたどると、そこには先輩の顔があった。先輩の青い瞳はまっすぐにわたしを見ていて、締まっていた喉が徐々にゆるくなっていく。

 お、ち、つ、け。
 わたしだけに見えるように口パクで伝えたあと、先輩は委員長のほうを見て「俺、さっき廊下でみたよ」と告げる。委員長の目が見開かれた。

「真陰、環境委員になったって言ってたんで。ここにいないってことは、空いてる席はどうせ真陰だろ」
「そうなんですか?」

 委員長に問われてこくりとうなずく。先輩は呆れたように眉を寄せながら腕を組んだ。

「ここに来る途中でフラフラしてるところを見た。たぶん、もうすぐ飛び込んでくるぐらいだと……」
「遅れました!!」

 タイムリーに飛び込んできた男子生徒を見て、笑いが起こった。おそらくこの場にいる全員が彼を【真陰】だと認識したのだろう。

 一気に注目を浴びた真陰くんは、「え、なんすか?」 と目を丸くしている。そして一人立っている先輩の姿を見ると、「新木先輩!」とさらに目を丸くした。

「新木先輩、どうしてここに」
「お前なぁ、高校生にもなって時間ギリギリはやめろよ。お前が遅刻しないことは分かってるけど、こっちがハラハラするだろうが」

 先輩にたしなめられた真陰くんは「サーセン」と頭を掻いてわたしのとなりに座った。カチリと時計の針が動き、時間ピッタリに全員集合だ。

 みんな、わたしが言葉に詰まっていたあの瞬間など、もう忘れているみたいだった。地獄のような沈黙は先輩のおかげであっという間に笑いに変わり、おだやかに流れ去っていく。
 ちらと先輩のほうを見ると、先輩はすでに前を向いていた。凛としたその姿勢に薄い光があたり、それがひどく綺麗だった。

 
*

 委員会が終わっても、なお教室に残っている先輩をしばらく見つめていた。声をかけるか、かけないかの二択を何度も頭のなかで繰り返す。
 ようやく答えが出た時には、教室にはわたしと先輩しかいなくなっていた。

「あの、先輩」
「お、来た」

 くるりと振り返った先輩は、笑っていた。どうして笑っているのか分からず困惑していると、先輩の腕が伸びてきてわたしの額を軽くはじいた。

「声かけるかどうか迷ってんのバレバレ。悩みすぎ」
「っ、それは……」
「ま、結果的に声かけてきたから上出来だな。褒めてつかわす」
「なんですか、その言い方……」

 じとりと視線を向けると、まったく気にせず笑ったまま、先輩はとなりの席の椅子を引き、わたしに座るよう促した。

「言いたいことがあったんじゃねえの?」
「……あ」
「待っててやるからゆっくりでいーよ」

 いーよ、というのびやかな口調に安心する。先輩は花壇役割の表に名前を書きながら、わたしに耳を傾けてくれている。

「……助けてくれて、ありがとうございました」

 先輩は、ふっと微笑んだ。心地よい春風が先輩の髪を揺らす。


「まかせろ」

 先輩の口角がくっと上がる。
 あの時、先輩が声を発してくれなかったら、今頃わたしはどうなっていたのだろうか。声を出すこともできずに、ずっと息苦しいままだったかもしれない。

 わたしは弱い。周囲の人よりもずっと心が弱くて、すぐに破滅的な気持ちになってしまう。

「瑠胡」

 ふいに名前を呼ばれて視線を上げると、先輩の柔らかな双眸がわたしを見つめていた。ほんの少し青みがかっていて、凛とした強さを持っているけれど、同時に優しさも溶けている瞳。
 この目に見つめられるたび、わたしはわけもなく安心してしまうのだ。

「焦る必要も、自分を否定する必要もない。瑠胡がピンチの時は、俺がなんとかするから。無理に変わろうとしなくていい」

 心臓が控えめに脈打った。自然と手に力が入って、合わせていた視線が左右に揺れた。

 先輩の目をまっすぐに見つめることができない。


 先輩はまた書類に視線を落として、役割分担表に名前を書き込んでいく。小さな筆記音の隙間に洩れるわずかな呼吸音が、この瞬間のすべてだった。


 あまりの静けさに鼓動の音が聞こえてしまう気がして、思いついた話題を口にしてみる。
 
「あの……真陰くんとはお友達だったんですか」

 すると先輩は表を書きながら「小学校のときの」と呟く。

「同じ学校だったんですか?」
「いや、地域のサッカーチームが一緒だったってだけ。アホそうに見えて、案外頭いいんだな、あいつ」


 きっと先輩は、偏差値のことを考えて言っているのだと思う。この学校に来てから、「人は見かけによらない」と思う機会が増えた。

 人は誰しも、意外な部分があると思う。

 たとえば、真陰くんみたいに普段はおちゃらけているのに学力面では文句のつけようもないほど好成績の人もいれば、普段は物静かなのに部活になると大声を張り上げてチームを引っ張っていく人もいる。
 女子の中で密かに噂されている同級生の男の子は、練習のときはだらだらしているけれど試合になると真面目になり、そこがギャップでかっこいいと、以前緋夏たちが話していた。

「先輩、サッカーしてたんですか」
「ガキの時に少しだけな」

 静かに目を伏せる先輩。
 その表情からは、先輩の心情がよく読み取れなかった。


「あの、どうしてーーーー」

 ーーーー辞めちゃったんですか。
 それを紡ぐ前にいきなり戸が開き、高い声が響いた。


「琥尋!」

 振り返ると、赤いラインの入った靴を履いている女子生徒がこちらを見ていた。ラインの色が赤ということは、先輩と同じ三年生だ。

「今日一緒にどっか行こうと思って待ってたんだけど、琥尋が全然来ないから戻ってきちゃった!」
「は? 何か約束してたっけ」
「してないけど、たまにはリラと遊びに行こうよ」

 自分を『リラ』と名乗った女の子の大きな目が先輩を見ている。

ーーーー先輩しか、見ていない。


 放課後に、約束もしていないのに一緒に出かける関係とはなんだろう。先ほどまで心地よい鼓動を続けていた心臓が、嫌な音を立てた。

「あの……わたし帰ります」

 先輩の顔を見られない。椅子から立ち上がって、うつむきながら『リラ』さんの横を通り過ぎる。通り過ぎる瞬間、ふわんと香った花の香りに、わたしにはない女性らしさを感じた。




「あの子ってさ、さっきの委員会で詰まってた子だよね」




 教室を出る直前、ひそめられた声量で『リラ』さんの声が聞こえた。さっきの、ということは、リラさんも環境委員会に参加していたのだ。先輩のことばかり見ていて、まったく気がつかなかった。

 自分の話題だ、と認識した途端にまた喉が詰まって息がしづらくなる。深い海に放り投げられてしまったように、溺れながら沈んでいく。


「さぁ……忘れた」

 そんな先輩の声を拾って、教室をあとにした。



 お腹の底に、もやもやとした感情が広がっていく。誰に何をされたわけでもない、ただ身勝手な感情なのに、それすら制御できない自分が情けなかった。

 

 夢で、ハクトくんに聞いてもらおう。

 最近すぐに出てくるようになった解決策。現実で溜まりに溜まった思いを、夢の中で発散させる。ここ最近で、いつのまにかそれが習慣化されてきていた。


 だからわたしは、今もまだ夢の中でハクトくんに話を聞いてもらうことでしか、前を向けない。現実世界では先輩に助けられ、夢の世界ではハクトくんに救われて、今日という日を必死に生きている。

 どん底だったわたしの人生は、二人に出会ったことによって少しずつでも向上し始めていた。



ーーーー少なくとも、あの日までは。