鼓膜を刺激する目覚まし音に意識が引っ張られて、目が覚めた。いつもは目覚ましが鳴る前に起きるのだけど、今日は少し遅かったらしい。まだ視界が鮮明ではない目を擦り、静かに息を吐く。そして、新しい空気を吸い込んだ。
 なんだか変な夢をみたような気がする。どんな夢だったのかはあまり覚えていないけれど、誰かと会話していたことだけはぼんやりと覚えている。

「モヤモヤする……」

 思い出せそうで思い出せない。こういうときが、何気にいちばん不快なときかもしれない。思い出せない自分に苛立ってしまう。
 しばらく天井を見つめていたけれど、一向に思い出せないので諦めた。素早く身支度を済ませ、朝食をとってから玄関で挨拶をして家を出る。

 いつもよりゆったりとしたテンポで歩く。朝食がパンだったため、早く食べ終わって少しだけ時間に余裕ができたのだ。まだ履き慣れていない新しい靴で地面を踏むたび、違和感がお腹のあたりをくすぐる。

 ふと、風に揺れる桜の花びらが何枚か落ちてきた。

「きれい」

 受け止めようと手を伸ばしてみるけれど、なかなか掴めなかった。何度も手を開いては閉じ、開いては閉じとしているうちに、思っていたよりも時間が過ぎていたのに気付いて慌てて駅に向かう。結局、花びらは一枚も手に入らなかった。

 駅に着くと、電車はすでに到着していた。改札を抜けて、電車に乗り込む。車内は人がまばらにいる程度で、ほっと息を吐いた。いくら田舎とはいえど、通勤通学ラッシュは車内の密度が高くなる。やはりこの時間帯の電車で通うと、いちばん心を落ち着かせることができるのだ。まもなくして、聞き慣れたアナウンスの後、電車が動きだす。


 先輩もこの電車に乗っているのだろうか。


 普段はわたしが気づいていないだけで、もしかしたら毎日同じ車両に乗っていたのではないか。そんな淡い希望を胸に抱きながらあたりを見回してみたけれど、先輩の姿はどこにもなかった。今度こそ、我慢していたはずのため息が落ちる。それと同時に、視線も足元に落ちた。電車の上下の揺れだけが足に伝わってくる。
 どんよりと気持ちが沈みかけたそのとき。


『じゃあ明日からはできるだけ窓の外を眺めることだな。足なんかを見るよりずっといい』


 ふいに先輩の言葉がフラッシュバックして、思わず顔が上がる。そしてそのまま、流れるように視線が背後の窓の外へと吸い寄せられた。

「……わ、っ」

 雲ひとつない青空。それがどこか寂しいと感じてしまうほど、わたしを包む空には青だけが広がっていた。わたしは毎日この景色を見ないで、くすんだ色をした床だけを見ていたのだ。
 なんてもったいないことをしていたのだろう。


 気づけてよかった。心の底からそう思う。

 もし先輩と出会わなかったら、わたしの通学は霞んだ色で染められていたのかもしれない。毎日毎日電車に揺られながら、彩りあるものに目を向けず、高校生を終えていたのかもしれない。

「すごい……」

 世界が色づくきっかけは、ほんのささいな意識の変化。

 そのきっかけをくれたのは、他の誰でもない、先輩だった。



───
───


 まだ静かな校舎に出迎えられ、心の中で学生のスイッチを入れた。面倒なことだけれど、わたしはこうしてスイッチを切り替えないと環境にうまく対応できない。急な変化や予定外の出来事は苦手だ。そのときはなんとか笑えていても、あとからその反動がきてしまう。

 まだ誰もいない教室に鞄を置き、それからいつものように中庭へ出た。最近習慣になりつつある、花壇の世話をするためだ。

「今日も綺麗に咲いてるね」

 声をかけながら根元に水をやる。少し前まで枯れそうだったのに、やはり生き物の生命力は馬鹿にはできない。
 本来であれば花壇の水やりは環境委員会が行うべきだけど、前に土と花の状態を見た限り、まったくと言っていいほどに手入れされていなかった。四月のはじめなので、まだ委員会が動いていないのだろう。旧委員会が世話をしているかもしれないという考えが頭をよぎったけれど、荒れた花壇の状態を見るに、そういうわけでもないらしい。

 余計なことかもしれないと思いつつ、枯れていくのをただみることもできなくて、毎朝こうして観察にきているのだ。
 完全に枯れてしまう前に気づけてよかった。萎れている状態だったから、なんとか復活させてあげることができた。さすがに天然の雨だけで生き延びることは難しいだろう。

 せっかくこんなに広い花壇なのに、咲かないともったいない。
 きれいだよ、みんな。

 赤、青、オレンジ、黄色。春を彩る花々が上を向いて笑っているような気がする。それらを見ていると、自然と笑みが洩れた。

「わたしもいつか、咲けるといいなあ」


 わたしもいつか、こんなふうに堂々と笑えるようになりたい。

 そう言葉にしてから、慌てて周囲に人がいないか確認する。無意識は何よりの本心だとどこかで聞いたことがある。聞かれてはいけない内容ではないけれど、自身を花の蕾に例えるような比喩は、できるだけ人に聞かれたくない。なんというか、詩的な言い回しは文学作品だからこそ映える気がするのだ。
 あたりを見回して、わたしひとりだけだったことに安堵する。

「……そろそろ時間かな」

 用具入れにじょうろを戻して教室に戻るころには、もう多くのクラスメイトの喧騒で包まれていた。


 また今日も始まる。
 学校という名の、息苦しい時間が。

 逃げられないこの空間が大嫌いだ。逃げてしまいたいのに、見えない何かで縛られている。
 わたしはゆっくりと息を吐きだして、息苦しい世界へと飛び込んだ。

──────


 移動教室、ペア活動、班活動。こんなものなかったらいいのにと、わたしは今までに何度思ったのだろう。

「瑠胡! もう行くよ!」
「あっ……うん」

 教室に響き渡るほどの大声で名前を呼ばれた。振り向くと、数人の女子が荷物を持ってこちらを見ていた。入学式の日に初めて話して以来、一緒に移動教室をしている緋夏(ひな)と、緋夏を取り囲むいわゆる"取り巻き"という立ち位置の女子たちだった。緋夏は入学してから一ヶ月も経っていないのに、すでに圧倒的な存在感でわたしたちのクラスをものにしている。慌てて荷物を持ち、彼女たちのほうへと駆け寄った。

「おそーい」
「ご、ごめんなさい」

 謝ると、「謝らないでよ。うちらが言わせたみたいじゃん」と呆れたように言われる。その反応が心底嫌そうで、言葉に詰まった。
 だったらその「おそーい」は何の目的で発されるのだろう。謝罪以外に、彼女は何を求めているのだろう。
 分からない。正解答があるなら、今度こそ間違えないようにするから教えてほしい。
 いちいちこんなことを考えてしまう癖が嫌いだ。わたしはつくづく面倒くさい人間だろう。

「今日って英語の小テだよね。まじで何のためにあるのって感じなんだけど」
「それなー」

 そんな意味のない会話がとなりから聞こえてくる。嫌がったところで小テストは逃げてくれないけれど、そんなこと彼女たちにとってはどうでもいい。会話の内容が大事なのではなく、会話をすることそのものが本来の目的なのだ。
 移動教室の間、沈黙が訪れて気まずくなるのを回避するために、各々がいくつか話題を持っていなければならない。黙々と移動するような、居心地の悪い空気を作り出すことは禁忌とされている。
 そしてそれができない人は、グループからの居場所をなくす。だからわたしはいつも必死に────。

「瑠胡もそう思うでしょ?」

 ぐるぐると考えていると、急に言葉が飛んできて頭が真っ白になる。
 いったい何のことについてなのだろうか。話題が変わっていなければ、小テストに関することだろうか。頭をフル回転させて、めいっぱいの愛想笑いを貼りつける。

「小テスト、そうだね。わたしも嫌かも」

 今日もまた、思ってもいないことを口にした。
 正直、テスト自体は別に嫌ではない。しっかり勉強していれば満点を取れるような、英単語のテストなのだから。
 けれどそれを正直に話せば、明らかに嫌な顔をされてハブかれるのは目に見えていた。彼女たちだって、テストが好きか嫌いかで言えば"嫌い"に分類されるというだけで、休んだり早退するほど嫌というわけではないはずだ。
 めんどくさいね。そうだね。こんなのやっても無駄だよね。できなくてもいいよね、小テストだし。成績にはどうせ入らないって。
 ただ、定型文を垂れ流していくだけ。だからここは適当に誤魔化して合わせておく。

「毎日あると大変だよね、小テスト」

 無理やり笑みの形をつくりながらそう言った途端、緋夏の眉間にしわが寄った。急な表情の変化に、背筋が凍っていく。何かまずいことをしたんだ、わたし。

「小テストじゃなくて、五組の古園さんが嫌いだって話をしてたんだよ」
「ちゃんと話聞いてる?」
「瑠胡、話に乗り遅れてるよ」

 矢のように言葉が降ってくる。すかさず謝ると、また苛立たしげに「だから謝んないでって」と返された。そんな怖い顔をしていながら謝るなだなんて、そんなのどうしていいか分からなくなる。

「なんか調子乗ってると思っちゃうんだよね。自分で自分のこと可愛いとか思ってそうで嫌い」
「性格悪そうだもんね」
「ぶりっ子でむかつく。色目使ってるのバレバレだし」

 黒い感情は、止まることなくむしろ勢いが増していく。

「え、話したことあるの?」
「いや? 一度もなーい」
「うっわ、性格わっる!」
「悪くてけっこー」

 ためらいの欠片もなく、どんどん出てくる悪口。耳を通すたびに意識が(けが)れ、顔が歪むのを自覚する。お腹のなかが変な感覚に包まれていて、今すぐにでもこの場を離れてしまいたかった。
 五組の古園さんをわたしは知らない。話したこともなければ、当然見たことすらなかった。今ここで悪口を言っている人の何人が、直接彼女と関わり、自分の意思で「嫌いだ」と判断したのだろうか。
 振り向いた緋夏に「瑠胡もそう思うよね?」と共感を求められて、言葉に詰まったのち静かにうなずく。


ーーああ。これでわたしも立派な加害者だ。


 この空間にいたくなくて、それでも逃げ出すことなんてできなくて、罪悪感がぐるぐると渦巻いていくのを感じながら教科書を持つ手に力を込めた。教科書のかたさと冷たさが、弱いわたしを責めているようだった。

 うつむいていると、話題はいつのまにか恋バナへと変わっていた。けれど、キラキラきゃはきゃはとしたものではなく、緋夏の彼氏の愚痴を一方的に聞かされるといった形だ。半分惚気のようにも聞こえるそれを、取り巻きたちは必死に聞いていた。

 この中に、本当にかわいそう、大変だと思って聞いている人は何人いるのだろう。まったく、仮面を被るのが誰も彼も上手だ。「追いラインがしつこいんだけどー」なんて言っている彼女は、結局のところ全然迷惑していない。むしろ"愛されている自分"を自慢したい。そんなふうに見えた。

 はあ、とため息が落ちる。
 一緒にいたくない。だけど、独りにはなりたくない。
 天秤にかけたときに、どうしても後者の方が重くなってしまう。

 だからわたしは、いつまでたっても変われない。


 窓の外には沈む気持ちとは裏腹に、真っ青な空が広がっている。そんな青にひとつだけぽっかりと浮かんでいる雲がなんだか今のわたしのようで、それでもあんなに伸びやかに漂うことなんてできなくて、やるせない気持ちを押し込めて再び笑顔の仮面を被った。





──── 今日も会えるだろうか。
 昨日の今日にそんな期待はしてはいけないと分かっているのに、心のどこかで思うのを止められない。駅に向かう足が無意識のうちに速くなってしまう。帰りのHRが終わるなり、できるだけ無駄な動きを省いて駅に直行する。


 期待したらいけない。
 今日も会えたらいいなんて、決して思ったらいけない。

 そうやって意味もなく期待して、いつだって落胆してきた。だから今回だって期待してはいけないのだ。何度も自分に言い聞かせて足を進める。

 駅に向かうまでの道に咲いている桜が、おだやかな春風とともに出迎えてくれた。桜並木を見上げながら春を吸い込んで歩く。悪口や陰口で濁った心ですら、美しい桜に浄化されていくような気がした。
 前に視線を戻すと、それと同時に足が止まって、途端に目が逸らせなくなる。桜よりももっとわたしの視線を惹きつけるもの……ひと(・・)が、いたのだ。

「せん……っ」

 ふと出そうになった声は喉元で消えた。風にのって、薄紅色の桜がはらはらと舞う。まるで彼の登場を華やかにするための演出かと思うほど、美しかった。この瞬間だけ時が止まっているかのような、世界に彼とわたししか存在していないような、そんな錯覚に陥ってしまう。


……なんて綺麗なひと。


 ここまで桜が似合う人をわたしは知らない。さらさら、さらさら。手を伸ばして花びらに触れようとする彼は、儚く柔らかい表情をしていた。こぼれる桜が先輩の頭にひらりと着地して、淡いピンク色を添える。息をするのも忘れて、わたしはただひたすら、絵画のような瞬間を目に焼き付けていた。

 この美しさがいつまでも色褪せることなく、わたしの記憶に刻まれるように。

 そのとき、透き通った瞳がスッと流れて、立ち止まっているわたしを捉えた。思わず視線を逸らしてしまう。桜を映した目でわたしを見ないでほしい。あんなに綺麗なものの次だと、余計に廃れて見えてしまうだろうから。

「瑠胡! そんなとこで何してんだよ」

 けれど大きな声で呼びかけられて、そろりと視線を戻すと、小さく首を傾げてこちらを見る先輩と再び目が合った。トクン、とわけの分からない音がかすかに鳴ったような気がして、胸元を手で押さえる。

 名前、覚えててくれたんだ。
 たったそれだけのことがたまらなく嬉しかった。自然と口許が緩むのを自覚する。

「先輩……!」

 手招きする先輩に駆け寄る。ふわりと桜の香りが鼻腔をくすぐった。
 ふと、先輩の頭に花びらがついていることに気がつく。わたしの視線が動いたことに気づいた先輩は、「ん?」と小さく首を傾げた。

「花びら、ついてます」
「うそ、どこ?」
「左のほう。もう少し……あ、それはいきすぎです」

 なかなかとれずに何度も髪を触る先輩。そのようすが、クールな顔と合わないほど可愛くて、つい笑みが洩れてしまう。

「先輩、少しかがんでください」

 不思議そうな顔をしつつ、膝を折った先輩に一歩近寄って、少しだけ背伸びをする。

「失礼しますね」
「おう……さんきゅ」
「いえ」

 かなりの急接近だったことに気づいたのは、花びらをとって先輩から離れたあとのことだった。
 取った花びらから手を離すと、風にのってひらりと飛んでいく。白い花びらが、儚く舞っていった。

「普通は俺が取る側だよな……」
「え?」
「いや、なんでもない」

 誤魔化すように笑った先輩は、わたしの顔を覗き込んだ。わたしの表情を確認して、それからにっと笑顔になる。

「今日は泣いてないじゃん。頑張ったな」
「……いつも泣いてるわけじゃ、ないです」

 まるでわたしが毎日泣いているとでも言うような物言いに、ふいと視線を逸らすと「拗ねるなって」と額を軽く弾かれる。そんなものにすら心臓が狂いそうになってしまう今日のわたしは、どこかおかしい。

「昨日は泣いてたじゃん」
「昨日は、偶然です」

 出会いが涙から始まっているので、毎日泣いていると思われていてもおかしくないけれど、それは間違いなのできちんと訂正しておきたかった。
 先輩は「ほーん」と適当な返事をする。必要以上に踏み込んだり言及しないその返しが、とても心地よかった。

「今日は早い時間で帰れるっぽいな」
「ですね」

 駅のベンチに並んで座る。電車がくるまでまだ少し時間がある。たたずむわたしたちの頰をぬるい風が撫でた。

「今日はどうだった?」

 おもむろに先輩が口を開く。反射的な言葉が口から飛び出た。

「楽しかったです」

 すると、先輩の眉間にしわが寄る。嘘をつくな、というような鋭い視線が向けられて、ドキリと心臓が冷たい音を立てた。少し前屈みの姿勢で、先輩が顔を覗き込むようにしてくる。

「本当は?」
「……あまり」

 もう正直に言うことにした。どう足掻いたところで、この人にはすべて見破られてしまう、そんな気がした。いくら隠そうとしても、結局無意味なことなのだろう。

「何がつまんなかったんだ? 授業? 休み時間? それともよく分かんねえ何か?」
「よく分かんねえ何かです」
「あ、汚い言葉遣いが移った。瑠胡がフリョーになっちまう」

 おどけた口調の先輩に、自然と笑みがこぼれる。いつもは意識して口角を上げるのに、今は完全に無意識だった。目を線にして笑う先輩の顔があまりにあどけない。先ほどみた彫刻のような顔は笑っても崩れることがなくて、ふとその造形美が羨ましくなった。

「いつか、夜露死苦!とか言ってきたらどうしよ」
「そこまでいったら、もはや自分で学びにいってますから」

 ツッコミを入れると、お腹を抱えて笑う先輩。あまりに楽しそうに笑うものだから、つられて笑ってしまう。流れるように、片眉を上げた先輩が口を開く。

「不良少女の瑠胡サン、何かお困りで?」
「……人間関係ってほんとうまくいかないもんだな」
「おっ、意外と才能あるよ瑠胡」

 目を丸くする先輩にくすりと笑う。案外さらっとフリョー口調を真似できたことに自分でも驚いた。普段こんな話し方はしないので、どこか違和感があるけれど。

「で、人間関係なあ。確かに俺も苦手だわ」
「……あ」

 無意識のうちに悩みを口にしていて、慌てて口を覆ったけれど、もう遅い。先輩はにやりと悪戯っぽく笑っていた。

「誰かに何かされたのか。嫌なこと言われたのか」
「……逆、です。わたしが傷つけたんです」

 力なく首を振って言葉を落とす。一瞬息を呑んだ先輩は、それから小さく息を吐いて「なるほどな」と呟いた。

「どうせあれだろ? 友達の悪口に同調しちまったとか、そういうことだろ?」
「え、なんで」
「瑠胡は絶対に自分から人を傷つけたりしない。じゃないとそんなつらそうな顔してねえだろ」

 額を指で弾かれる。先輩にはなんでもお見通しだ。わたしが悪口に同調して人を傷つけてしまったこと、それで後悔してまた自分のことが嫌いになっていること。今まで気づいてくれる人がいなかったので、心にあたたかい感情が生まれた。けれど。

「でも、大丈夫です」

 話を聞いてほしいのに、口から出るのはこれまで幾度となく口にしてきた定型文だった。意識よりも先に口からこぼれてしまうその言葉は、今までのわたしを助け、そして何よりも苦しめたものだった。
 それは今も変わらずに、わたしの日常に張り付いてはわたしを苦しめてくる。

 首を横に振った先輩は、わたしの頭に手をのせた。ポン、ポンという二度の後、わたしの目を覗き込む。

「瑠胡はいま大丈夫じゃない。だから嘘つくな、ありのままでいい」

 言い聞かせるようなその口調に、固く閉ざされていた心が開かれていく。自分の気持ちが、素直な思いが繋がって、言葉として口から出ていきそうになる。


「自分の気持ちに正直になれよ、瑠胡」


 ありのままでいい。自分の気持ちに正直でいい。
 そんな言葉をかけられるのは初めてだった。

 自分の中だけに閉じ込めておくつもりだったのに、気づけば口を開いていた。


「人の悪口を聞いていると、自分が言われてるみたいになるんです。苦しくて、つらくて。人のこと悪く言ったところでメリットなんてないはずなのに。でも、その中で一人反論するのは怖いし、同調してる自分のこと、どんどん嫌いになっていくんです」

 彼女たちと離れてしまいたい。だけど、そんなことできるはずがない。すべて今更なのだ。

 入学式の日、ぽつんと一人で席にいたわたしに声をかけてきてくれたのが緋夏だった。派手な子だな、というのが第一印象だったように思う。ハーフツインと呼ばれる髪型で、目元にはキラキラとラメが光っていて。田舎の高校生にしては少々浮くのではないかと思うような、そんな身なりをしていた。

 名前を教えあって、アドレスを交換して、よく話すようになった。休み時間、移動教室、その他諸々において、緋夏はわたしを誘うようになった。それ自体は問題なかった。緋夏がわたしを求めてくれるのなら、わたしも一緒にいたいと思っていたから。

 けれど、わたしは緋夏の特別でも、唯一でもなかった。性格も飛び抜けて明るく、いつも笑顔を絶やさない緋夏の周りには自然と人が集まっていた。そうして形成されたグループは、誰もが緋夏寄りの系統の子たちばかりで、わたしみたいにいつも下を向いているような人間ではなかった。

 わたしだけが、浮いている。明らかにわたしだけが違う。異物のような存在。
 いつしかそんな状態になって、ここにいるべきではないと気づいたときには、すでに何もかも遅かった。

「だけど独りになりたくないんです。もう、どうすればいいのか分からなくて……」


 自分勝手な気持ちの末路だった。
 甘えたことを言うなと、自業自得だと罵られてしまうかもしれない。だけど、こんな思いを抱えていたら、きっと心が死んでしまう。


「……ひとりは、こわい?」


 控えめな先輩の問いに、うなずく。生きるときも死ぬときも結局はひとりなのに、それでもひとりはこわい。馬鹿馬鹿しくて情けなくても、ひとりでいいなんて絶対に言えない。わたしはそこまで強い人間ではない。

「情けないですよね。でも、やっぱりひとりになるのはこわいんです」
「別に情けなくないよ。世の中のやつらの大概はそう思って生きてるよ」

 「じゃないと孤独なんて言葉存在しないはずだろ」と先輩は天を仰いだ。そのときちょうど踏切の音が鳴り出す。

「だから、一人になれとは言わない。だけど、苦しいところにわざわざいる必要もないだろ。今は気がついていないだけで、案外居場所って近くにあるものだからさ」
「居場所……?」
「もし瑠胡が毎日居場所がないって考えてるなら、俺と会ってるこの時間だけは、俺が瑠胡の居場所になるし。必ず一個に絞って、ずっとそこで過ごさなきゃいけねえ決まりなんてないだろ?」

 白い歯を見せて笑う先輩。
 それでも、重かった身体が楽になっていくのを感じる。すうっと何かが抜けていくように、ネガティブな気持ちも言葉も、すべてが解消されていった。


 やっぱり、すごいひと。


 どうしてこんなに心が楽になるのだろう。彼は何か不思議な力を持っているのかもしれない。

「話すだけで楽になれることだってある。ただそれだけなんだよ、瑠胡」

 わたしの心を見透かしたように告げ、立ち上がった先輩。すらりと伸びた背が、夕陽を受けて影をつくる。くるりと振り返り、切長の目を細めた先輩は。

「すっきりしたら笑え。瑠胡は笑顔がいちばん似合ってる」

 と、どこか照れくさそうに、笑った。

──────


 ああ、また(・・)夢だ、と。
 そう唐突に理解したのは、目の前が青で染まっていたから。キラキラと水面に反射する光が、まっすぐにわたしに届いていた。

 さわ、と木の葉が揺れる。ふと何かの気配を感じて振り返ると、柔らかい表情でたたずむ少年がいた。

「あなたは」
『瑠胡ちゃん、はじめまして……ではないか。昨日ぶりだね』
「どうしてわたしの名前を……?」

 目を丸くすると、『昨日言ってくれたじゃない』と微笑む男の子。男性というより、本当に【男の子】という形容が合う少年だった。

 この夢は、前回の夢と繋がっているのだと理解する。やけにリアルで、到底夢だとは思えないけれど、それでもわたしを囲む空気がなんとなく、いつもの世界とは違って、どこか異質なものだった。

「あなたは、だれ?」

 おずおずと問うと、何度か目を瞬かせた彼は、口の端をあげてにこりと笑う。

『ハクトだよ』

 口の中で溶かすようにその名前を呟いてみるけれど、まったく聞き覚えのない名前だった。そもそも、ハクトと名乗るこの子が現実の世界に存在しているのかも分からない。わたしが勝手に脳内でつくりだした虚像である可能性だってある。

「ハクトくんは、いったい何者なの?」
『それはそのときが来たらわかるよ』

 そんな曖昧な返答をされてしまう。いちばん気になっていることを濁されてしまえば、わたしはもう何も彼に聞くことができない。口を閉ざすと、彼はわたしを見たまま少し微笑んで告げた。

『僕は瑠胡ちゃんが幸せになる手助けをしたい』
「どうして?」
『瑠胡ちゃんが幸せになれば、きっとアイツも幸せになれるから。そしたら僕も、幸せになれる』
「……アイツ、って」

 その問いにハクトくんは答えることなく、静かに首を横に振って目を伏せた。誤魔化すようなその仕草は、少年がするにはひどく大人びて見えた。

『ここでは我慢する必要なんてない。ぜんぶ海が受け止めてくれるから』

 叫んでもいい。嘆いてもいい。
 ここは何をしてもいい世界。

 つまりは、そういうことらしい。

『ぜんぶ吐いちゃいなよ。誰も(とが)めたりしないから。素直な気持ちを、ここでは出してもいいんだよ』
「素直な、気持ち」
『頑張りすぎてるからつらいでしょ。発散どころがないと、壊れちゃう』

 それを聞いて、途端に唇が震えだす。ちらりとハクトくんをみると、彼はいいよ、というようにしっかりと頷いてみせた。


 毎日毎日、叫んで逃げ出したくなる日々を過ごしている。けれど学校はおろか、家でさえわたしは自分の気持ちを押し込めて、一言も洩らしてしまわないように堪えている。
 どこかで誰かに聞かれるかもしれない。叫んだら、家族に何か思われるかもしれない。そんな恐怖で、いつもわたしは自分の気持ちが言えない。
 だけど、今は。叫んでも醒めない夢を見ているのだとしたら。

 大きく息を吸って、感情のままに声をだす。

「わたし、独りになりたくない! だけど無理してみんなに合わせるのは疲れた! もうぜんぶやめてしまいたい……!」

 濁流のように押し寄せる思いが溢れていく。今まで封じ込めてきた思い。それを今日は先輩とハクトくんのおかげで、こうして吐き出すことができている。

『もっと言っていいんだよ。瑠胡ちゃんが我慢する必要なんてひとつもない』
「悪口とか陰口とか、そんなのききたくない!! わたしに共感を求めてこないで! もう嫌なの! うんざりする!」

 声が響いたのち、静けさがおとずれる。漣の音が大きくなっていき、なんとなく夢の終わりが近づいていることを悟った。
 少しずつ、胸にたまっていたもやもやした感情が消えていく。自分の気持ちを言葉にしただけなのに、どこか爽快で開放的な気分になった。

『瑠胡ちゃんが困ったとき、つらくなったとき、いつでもここで待ってるから。無理して生きなくてもいいんだ。どんなにみっともない姿でも、周りの人みたいに上手く生きられなかったとしても、死なないでいてくれれば……ただそれだけで』

 眩い光がわたしを包み込む。優しく背中を撫でられているような、そんな感覚だった。

 あたたかい。優しい。

 ほわほわとした感情がわたしの心の中に入ってくる。静かに目を閉じると、意識が急激に吸い寄せられた。
 そしてこの青い夢から、醒める。


─────

「夢……」

 目を開けると、天井が見えた。やはり夢だったのだと理解する。けれど、夢の中で感じた爽快さは夢から醒めても残っており、素直に驚いた。
 毎朝身体と頭がだる重くて、朝一番に「学校行きたくない」という負の感情を抱くのに、今日はなぜかすっきりとしている。
 普段、感情の起伏が激しいわたしにとって、ここまで爽快な朝は久しぶりだった。

 爽快で、心地よくて、そして奇妙な夢だった。