チリリリリ、と鼓膜を刺激する目覚まし音に意識が引っ張られていく。いつもは目覚ましが鳴る前に起きるのだけど、今日は少し遅かったらしい。まだ視界が鮮明ではない目を擦り、静かに息を吐く。そして、新しい空気を吸い込んだ。
 なんだか変な夢をみたような気がする。どんな夢だったのかはあまり覚えていないけれど、誰かと会話していたことだけはぼんやりと覚えている。

「モヤモヤする……」

 思い出せそうで思い出せない。こういうときが、何気にいちばん不快なときかもしれない。思い出せない自分に苛立ってしまう。
 しばらく天井を見つめていたけれど、一向に思い出せないので諦めた。素早く身支度を済ませ、朝食をとってから玄関で挨拶をして家を出る。

 いつもよりゆったりとしたテンポで歩く。朝食がパンだったため、少しだけ時間に余裕ができたのだ。まだ履き慣れていないピカピカの靴。地面を踏むたび、違和感がお腹のあたりをくすぐる。

「きれい」

 風に揺れる桜の花びらが何枚か落ちてくる。キャッチしようと手を伸ばしてみるけれど、なかなか掴めなかった。何度も手を開いては閉じ、開いては閉じとしているうちに、思っていたよりも時間が過ぎていたのに気付いて慌てて駅に向かう。

 駅に着くと、電車はすでに到着していた。駅員さんに定期を見せるという田舎ならではであろう動作の後、空色の電車に乗り込む。いつもと同じく、車内は人で溢れかえっていた。いくら田舎とはいえど、通勤通学ラッシュは車内の密度が高くなる。自分もその通勤通学ラッシュの一員なのだから仕方がない、とため息が出そうになるのをぐっと堪えて、ドアのそばにある手すりにつかまった。まもなくして、聞き慣れたアナウンスの後、電車が動きだす。


 先輩もこの電車に乗ってるのかな。


 普段はわたしが気づいていないだけで、もしかしたら毎日同じ車両に乗っていたのではないか。そんな淡い希望を胸に抱きながらあたりを見回してみたけれど、先輩の姿はどこにもなかった。今度こそ、我慢していたはずのため息が落ちる。それと同時に、視線も足元に落ちた。電車の上下の揺れだけが足に伝わってくる。
 どんよりと気持ちが沈みかけたそのとき。


『じゃあ明日からはできるだけ窓の外を眺めることだな。足なんかを見るよりずっといい』


 ふいに先輩の言葉がフラッシュバックして、思わず顔が上がる。そしてそのまま、流れるように視線が窓の外へと吸い寄せられた。

「……わ、っ」

 雲ひとつない青空。それがどこか寂しいと感じてしまうほど、わたしを包む空には青だけが広がっていた。わたしは毎日この景色を見ないで、くすんだ色をした床だけを見ていたのだ。
 なんてもったいないことをしていたんだろう。

 気づけてよかった。
 心の底からそう思う。

 もし先輩と出会わなかったら、わたしの通学は霞んだ色で染められていたのかもしれない。毎日毎日電車に揺られながら、彩りあるものに目を向けず、高校生を終えていたのかもしれない。
 世界が色づくきっかけは、ほんのささいな意識の変化。


 そのきっかけをくれたのは、他の誰でもない、先輩だった。



───
───

 まだ静かな校舎に出迎えられ、心の中で学生のスイッチを入れた。面倒なことだけれど、わたしはこうしてスイッチを切り替えないと環境にうまく対応できない。急な変化や予定外の出来事は苦手だ。そのときはなんとか笑えていても、あとからその反動がきてしまう。
 まだ誰もいない教室に鞄を置き、それからいつものように中庭へ出た。最近習慣になりつつある、花壇の世話をするためだ。

「今日も綺麗に咲いてるね」

 声をかけながら根元に水をやる。少し前まで枯れそうだったのに、やはり生き物の生命力は馬鹿にはできない。
 本来であれば花壇の水やりは委員会が行うべきだけど、前に土と花の状態を見た限り、まったくと言っていいほどに手入れされていなかった。
 余計なことかもしれないと思いつつ、枯れていくのをただみることもできなくて、毎朝こうして観察にきているのだ。
 完全に枯れてしまう前に気づけてよかった。萎れている状態だったから、なんとか復活させてあげることができた。さすがに天然の雨だけで生き延びることは難しいだろう。

 せっかくこんなに広い花壇なのに、咲かないともったいないよね。
 きれいだよ、みんな。

 赤、青、オレンジ、黄色。春を彩る花々が上を向いて笑っている。それらを見ていると、自然と笑みが洩れた。

「わたしもいつか、咲けるといいなあ」


 ……こんなふうに堂々と笑えるようになりたい。

 そう言葉にしてから、慌てて周囲に人がいないか確認する。無意識は何よりの本心。だから正直に吐き出せばいいのだけれど、それでも人に聞かれるのはできるだけ避けたいところだ。
 あたりを見回して、わたしひとりだけだったことに安堵する。

「……そろそろ時間かな」

 用具入れにじょうろを戻して教室に戻るころには、もう多くのクラスメイトの喧騒で包まれていた。


 また今日も始まる。
 学校という名の、息苦しい時間が。

 逃げられないこの空間が大嫌いだ。逃げてしまいたいのに、見えない何かで縛られている。
 わたしはげんなりしながらゆっくりと息を吐きだして、息苦しい世界へと飛び込んだ。

──────


 移動教室、ペア活動、班活動。こんなものなかったらいいのにと、わたしは何度思ったことだろう。

「瑠胡ー、行くよ」
「あっ……はい…!」

 教科書の確認もままならない。呼ばれたほうを振り向くと、数人の女子が荷物を持ってこちらを見ていた。入学式の日に初めて話して以来、一緒に移動教室をしている緋夏(ひな)とその取り巻きたち。緋夏は入学してから一ヶ月も経っていないのに、すでに圧倒的な存在感でわたしたちのクラスをものにしている。慌ててわたしも荷物を持ち、彼女たちのほうへと駆け寄った。

「おそーい」
「ご、ごめんなさい」

 謝ると、「謝らないでよ。うちらが言わせたみたいじゃん」と呆れたように言われる。その反応が心底嫌そうで、言葉に詰まった。
 だったらその「おそーい」は何の目的で発されるのだろう。謝罪以外に、彼女は何を求めているのだろう。
 いちいちこんなことを考えてしまうくせが嫌いだ。わたしはつくづく面倒くさい人間だろう。

「今日って英語の小テだよね。まじで何のためにあるのって感じなんだけど」
「それなー」

 そんな意味のない会話がとなりから聞こえてくる。嫌がったところで小テストは逃げてくれないけれど、そんなこと彼女たちにとってはどうでもいい。会話の内容が大事なのではなく、会話をすることそのものが本来の目的なのだ。
 そしてそれができない人は、グループからの居場所をなくす。だからわたしはいつも必死に────。

「瑠胡もそう思うでしょ?」

 ぼーっとしていると、急に言葉が飛んできて頭が真っ白になる。
 いったい何のことについてなのだろうか。話題が変わっていなければ、小テストに関することだろうか。頭をフル回転させて、めいっぱいの愛想笑いを貼りつける。

「小テスト、そうだね。わたしも嫌かも」


 正直、テスト自体は別に嫌ではない。しっかり勉強していれば満点を取れるような、英単語のテストなのだから。
 けれどそれを正直に話せば、明らかに嫌な顔をされてハブかれるのは目に見えていた。だからここは適当に誤魔化して合わせておく。

 無理やり笑みの形をつくりながらそう言った途端、緋夏の眉間にしわが寄った。急な表情の変化に、背筋が凍っていく。何かまずいことをしたんだ、わたし。

「小テストじゃなくて、五組の古園さんが嫌いだって話をしてたんだよ」
「ちゃんと話聞いてる?」
「るこるこ乗り遅れ〜」

 矢のように言葉が降ってくる。すかさず謝ると、また苛立たしげに「だから謝んないでって」と返された。そんな怖い顔をしていながら謝るなだなんて、そんなのどうしていいか分からなくなる。

「なんか調子乗ってると思っちゃうんだよね。自分で自分のこと可愛いとか思ってそうで嫌い」
「性格悪そうだもんね」
「ぶりっ子でむかつく。まあ知らないけど」

 ためらいの欠片もなく、どんどん出てくる悪口。耳を通すたびに意識が(けが)れ、顔が歪むのを自覚する。お腹のなかが変な感覚に包まれていて、今すぐにでもこの場を離れてしまいたかった。
 五組の古園さんをわたしは知らない。話したこともなければ、当然見たことすらなかった。
 けれど、振り向いた緋夏に「瑠胡もそう思うよね?」と共感を求められて、言葉に詰まったのち静かにうなずく。


ーーああ。これでわたしも立派な加害者。


 この空間にいたくなくて、それでも逃げ出すことなんてできなくて、罪悪感がぐるぐると渦巻いていくのを感じながら教科書を持つ手に力を込めた。教科書のかたさと冷たさが、弱いわたしを責めているようだった。


 うつむいていると、話題は恋バナへと変わっていた。けれど、キラキラきゃはきゃはとしたものではなく、緋夏の彼氏の愚痴を一方的に聞かされるといった形だ。半分惚気のようにも聞こえるそれを、取り巻きたちは必死に聞いていた。

 この中に、本当にかわいそう、大変だと思って聞いている人は何人いるのだろう。まったく、仮面を被るのが誰も彼も上手だ。「追いラインがしつこいんだけどー」なんて言っている彼女は、結局のところ全然迷惑していない。むしろ"愛されている自分"を自慢したい。そんなふうに見えた。

 はあ、とため息が落ちる。

 一緒にいたくない。だけど、独りにはなりたくない。天秤にかけたときに、どうしても後者の方が重くなってしまう。


 だからわたしは、いつまでたっても変われない。


 窓の外には沈む気持ちとは裏腹に、真っ青な空が広がっている。そんな青にひとつだけぽっかりと浮かんでいる雲がなんだか今のわたしのようで、それでもあんなに伸びやかに漂うことなんてできなくて、やるせない気持ちを押し込めて再び笑顔の仮面を被った。




 ──── 今日も会えるだろうか。
 昨日の今日にそんな期待はしてはいけないと分かっているのに、心のどこかで思うのを止められない。駅に向かう足が無意識のうちに速くなってしまう。帰りのホームルームが終わるなり、できるだけ無駄な動きを省いて駅に直行する。


 期待したらだめ。


 そうやって意味もなく期待して、いつだって落胆してきた。だから今回だって期待してはいけない。何度も自分に言い聞かせて足を進める。

 駅に向かうまでの道に咲いている桜が、ピンク色の風とともに出迎えてくれた。桜並木を見上げながら春を吸い込んで歩く。悪口や陰口で濁った心ですら、美しい桜に浄化されていくような気がした。
 前に視線を戻すと、それと同時に足が止まる。桜よりももっとわたしの視線を惹きつけるもの……ひと(・・)が、いたのだ。

「せん……っ」

 ふと出そうになった声は喉元で消えた。風にのって、はらはらと桜が舞う。この瞬間だけ時が止まっているかのような、世界に彼とわたししか存在していないような、そんな錯覚に陥ってしまう。


……なんて綺麗なひと。


 ここまで桜が似合う人をわたしは知らない。さらさら、さらさら。手を伸ばして花弁に触れようとする彼は、儚く柔らかい表情をしていた。こぼれる桜が先輩の頭にひらりと着地して、淡いピンク色を添える。息をするのも忘れて、わたしはただひたすら、絵画のような瞬間を目に焼き付けていた。

 忘れないように。この美しさがいつまでも色褪せることなく、記憶に刻まれるように。

 そのとき、透き通った瞳がスッと流れて、立ち止まっているわたしを捉えた。思わず視線を逸らしてしまう。桜を映した目でわたしを見ないでほしい。あんなに綺麗なものの次だと、余計に廃れて見えてしまうだろうから。

「瑠胡! そんなとこで何してんだよ」

 そろりと視線を戻すと、小さく首を傾げてこちらを見る先輩と再び目が合った。トクン、とわけの分からない音がかすかに鳴ったような気がして、胸元を手で押さえる。


 名前、覚えててくれたんだ。
 たったそれだけのことがたまらなく嬉しかった。自然と口許が緩むのを自覚する。

「先輩……!」

 手招きする先輩に駆け寄る。ふわりと桜の香りが鼻腔をくすぐった。

「花びら、ついてます」
「うそ、どこ?」
「左のほう。もう少し、あ、それはいきすぎです」

 なかなかとれずに何度も髪を触る先輩。そのようすが、クールな顔と合わないほど可愛くて、つい笑みが洩れてしまう。

「先輩、少しかがんでください」

 不思議そうな顔をしつつ、膝を折った先輩に一歩近寄って、少しだけ背伸びをする。

「失礼しますね」
「おう……さんきゅ」
「いえ」

 取った花びらから手を離すと、風にのってひらりと飛んでいった。白い花びらが、儚く舞っていく。

「たぶん、こういうのって逆なんだろうって思うけど」
「……何がですか?」
「いや、なんでもない」

 誤魔化すように笑った先輩は、わたしの顔を覗き込んだ。わたしの表情を確認して、それからにっと笑顔になる。

「今日は泣いてないじゃん。頑張ったな」
「……いつも泣いてるわけじゃ、ないです」

 まるでわたしが毎日泣いているとでも言うような物言いに、ふいと視線を逸らすと「拗ねるなって」と額を軽く弾かれる。そんなものにすら心臓が狂いそうになってしまう今日のわたしは、どこかおかしい。

「今日は早い時間で帰れるっぽいな」
「ですね」

 駅のベンチに並んで座る。電車がくるまでまだ少し時間がある。たたずむわたしたちの頰をぬるい風が撫でた。

「今日はどうだった?」

 おもむろに先輩が口を開く。

「楽しかったです」

 端的に答えると、先輩の眉間にしわが寄る。嘘をつくな、というような鋭い視線が向けられて、ドキリと心臓が冷たい音を立てた。

「本当は?」
「……あまり」

 もう正直に言うことにした。どう足掻いたところで、この人にはすべて見破られてしまう、そんな気がした。いくら隠そうとしても、結局無意味なことなのだろう。

「何がつまんなかったんだ? 授業? 休み時間? ぜんぶ? それともよく分かんねえ何か?」
「よく分かんねえ何かです」
「あ、汚い言葉遣いが移った。瑠胡がフリョーになっちまう」

 おどけた口調の先輩に、自然と笑みがこぼれる。いつもは意識して口角を上げるのに、今は完全に無意識だった。

「いつか、夜露死苦! とか言ってきたらどうしよ」
「なんで先輩を超えてるんですか。もはや自分で学習しにいってるし」

 ツッコミを入れると、お腹を抱えて笑う先輩。あまりに楽しそうに笑うものだから、つられて笑ってしまう。流れるように、片眉を上げた先輩が口を開く。

「不良少女の瑠胡サン、何かお困りで?」
「……人間関係ってほんとうまくいかないもんだな」
「おっ、意外と才能あるよ瑠胡」

 目を丸くする先輩にくすりと笑う。案外さらっと真似できたことに自分でも驚いた。普段こんな話し方はしないので、どこか違和感があるけれど。

「で、人間関係なあ。確かに俺も苦手だわ」
「……あ」

 無意識のうちに悩みを口にしていて、慌てて口を覆ったけれど、もう遅い。先輩はにやりと悪戯っぽく笑っていた。

「誰かになんかされたのか。嫌なこと言われたのか」
「……逆、です。わたしが傷つけたんです」

 一瞬息を呑んだ先輩は、それから小さく息を吐いて「なるほどな」と呟く。

「どうせあれだろ? 友達の悪口に同調しちまったとか、そういうことだろ?」
「え、なんで」
「瑠胡は絶対に自分から人を傷つけたりしない。じゃないとそんなつらそうな顔してねえだろ」

 額を指で弾かれる。なんでもお見通しなのだ、この人は。

「でも、大丈夫です」

 聞いてほしいのに、口から出るのはこれまで幾度となく口にしてきたテンプレート。意識よりも先に口からこぼれてしまうその言葉は、今までのわたしを助け、そして何よりも苦しめたものだった。
 それは、今も。

 首を横に振った先輩は、わたしの頭に手をのせた。ポン、ポンという二度の後、わたしの目を覗き込む。

「瑠胡はいま大丈夫じゃない。だから嘘つくな、ありのままでいい」

 言い聞かせるようなその口調に、固く閉ざされていた心が開かれていく。自分の気持ちが、素直な思いが繋がって、言葉として口から出ていきそうになる。

「自分の気持ちに正直になれよ、瑠胡」


 ありのままでいい。自分の気持ちに正直でいい。
 そんな言葉をかけられるのは初めてだった。


 自分の中だけに閉じ込めておくつもりだったのに、気づけば言葉を落としていた。


「人の悪口を聞いていると、自分が言われてるみたいになるんです。苦しくて、つらくて。人のこと悪く言ったところでメリットなんてないはずなのに。もう、一緒にいたくない……」

 彼女たちと離れてしまいたい。だけど、そんなことできるはずがない。すべて今更なのだ。

 入学式の日、ぽつんと一人で席にいたわたしに声をかけてきてくれたのが緋夏だった。派手な子だな、というのが第一印象だったように思う。ハーフツインと呼ばれる髪型で、目元にはキラキラとラメが光っていて。田舎の高校生にしては少々浮くのではないかと思うような、そんな身なりをしていた。

 名前を教えあって、アドレスを交換して、よく話すようになった。休み時間、移動教室、その他諸々において、緋夏はわたしを誘うようになった。それ自体は問題なかった。緋夏がわたしを求めてくれるのなら、わたしも一緒にいたかった。

 けれど、わたしは緋夏の唯一ではない。性格も飛び抜けて明るく、いつも笑顔を絶やさない緋夏の周りには自然と人が集まっていた。そうして形成されたグループは、誰もが緋夏寄りの系統の子たちばかりで。

 わたしだけが、浮いている。明らかにわたしだけが違う。異物のような存在。
 いつしかそんな状態になって、ここにいるべきではないと気づいたときには、すでに何もかも遅かった。

「だけど独りになりたくないんです。もう、どうすればいいのか分からない……」


 甘えたことを言うなと、自業自得だと罵られてしまうかもしれない。だけど、こんな思いを抱えていたら、きっと身体が腐ってしまう。心が死んでしまう。


「……ひとりは、こわい?」



 控えめな先輩の問いに、うなずく。生きるときも死ぬときも結局はひとりなのに、それでもひとりはこわい。馬鹿馬鹿しくて情けなくても、ひとりでいいなんて絶対に言えない。

「情けないですよね。でも、こわいんです」
「別に情けなくないよ。世の中のやつらの大概はそう思って生きてるよ」

 「じゃないと孤独なんて言葉存在しないはずだろ」と先輩は天を仰いだ。そのときちょうど踏切の音が鳴り出す。

「だから、一人になれとは言わない。だけど、苦しいところにわざわざいる必要もないよ。見えてないだけで、案外居場所って近くにあるものだからさ」
「居場所……?」
「出逢いって、俺たちが思ってる以上に唐突に来るものだから。けどそれは偶然じゃなくて、いろんな奇跡が積み重なったただの結果。初めから定まってた運命ってやつ。俺はそう信じてる」

 白い歯を見せて笑う先輩。言葉の真意を、このときのわたしはまだ理解することができなかった。
 それでも、重かった身体が楽になっていくのを感じる。すうっと何かが抜けていくように、ネガティブな気持ちも言葉も、すべてが解消されていった。


 やっぱり、すごいひと。


 どうしてこんなに心が楽になるのだろう。彼は何か不思議な力を持っているのかもしれない。

「話すだけで楽になれることだってある。ただそれだけなんだよ、瑠胡」

 わたしの心を見透かしたように告げ、立ち上がった先輩。すらりと伸びた背が、夕陽を受けて影をつくる。くるりと振り返り、切長の目を細めた先輩は。

「すっきりしたら笑え。いつもの笑顔がいちばん似合ってる」

 と、どこか照れくさそうに、笑った。

──────


 ああ、また(・・)夢だ、と。
 そう唐突に理解したのは、目の前が青で染まっていたから。キラキラと水面に反射する光が、まっすぐにわたしに届いていた。

 さわ、と木の葉が揺れる。ふと何かの気配を感じて振り返ると、柔らかい表情でたたずむ少年がいた。

「あなたは」
『瑠胡ちゃん、はじめまして……ではないか。昨日ぶりだね』
「どうしてわたしの名前を……?」

 目を丸くすると、『昨日言ってくれたじゃない』と微笑む男の子。男性というより、本当に【男の子】という形容が合う少年だった。

 この夢は、前回の夢と繋がっているのだと理解する。やけにリアルで、到底夢だとは思えないけれど、それでもわたしを囲む空気がなんとなく、いつもの世界とは違って、どこか異質なものだった。

「あなたは、だれ?」

 おずおずと問うと、何度か目を瞬かせた彼は、口の端をあげてにこりと笑う。

『ハクトだよ』

 口の中で溶かすようにその名前を呟いてみるけれど、まったく聞き覚えのない名前だった。そもそも、ハクトと名乗るこの子が現実の世界に存在しているのかも分からない。

「ハクトくんは、いったい何者なの?」
『それはそのときが来たらわかるよ』

 そんな曖昧な返答をされてしまう。

『僕は瑠胡ちゃんが幸せになる手助けをしたい』
「どうして?」
『瑠胡ちゃんが幸せになれば、きっとアイツも幸せになれるから。そしたら僕も、幸せになれる』
「アイツって、だれ?」

 その問いにハクトくんは答えることなく、静かに首を横に振った。誤魔化すようなその仕草は、少年がするにはひどく大人びて見えた。

『ここでは我慢する必要なんてない。ぜんぶ海が受け止めてくれるから』

 叫んでもいい。嘆いてもいい。ここは何をしたっていい世界。声を出したところで醒めないのだから。

『ぜんぶ吐いちゃいなよ。誰も(とが)めたりしないから。素直な気持ちを、ここでは出してもいいんだよ』
「素直な、気持ち」
『頑張りすぎてるからつらいんでしょ。発散どころがないと、壊れちゃう』

 それを聞いて、途端に唇が震えだす。ちらりとハクトくんをみると、彼はいいよ、というようにしっかりと頷いてみせた。
 大きく息を吸って、感情のままに声をだす。

「わたし、独りになりたくない! だけど無理してみんなに合わせるのは疲れた! もうぜんぶやめてしまいたい……!」

 濁流のように押し寄せる思いが溢れていく。今まで封じ込めてきた思い。それを今日はふたりのおかげで、こうして吐き出すことができている。

『そうだ。もっと言っていいんだよ。瑠胡ちゃんが我慢する必要なんてひとつもない。全部世界が悪いんだよ』
「悪口とか陰口とか、そんなのききたくない!! わたしに共感を求めてこないで! もう嫌なの!」

 響いたのち、静けさがおとずれる。漣の音が大きくなっていき、なんとなく夢の終わりが近づいていることを悟った。

『瑠胡ちゃんが困ったとき、つらくなったとき、いつでもここで待ってるから。無理して生きなくてもいいんだ。どんなにみっともない姿でも、死なないでいてくれれば、ただそれだけで』

 眩い光がわたしを包み込む。優しく背中を撫でられているような、そんな感覚だった。

 あったかい。優しい。

 ほわほわとした感情がわたしの心の中に入ってくる。静かに目を閉じると、意識が急激に吸い寄せられた。そしてこの青い夢から、醒める。


─────

「夢……」

 毎朝だる重くて、朝一番に思うことは「学校行きたくない」というマイナスなことなのに、今日はなぜかすっきりとしていた。
 感情の起伏が激しいわたしにとって、ここまで爽快な朝は久しぶりだった。

 その日はすべてがうまくいって、何事にも困ることなく一日を終えた。しばらくそんな日々が続き、先輩とともに帰るのが日課になりつつあった。そして、夜は夢の中でストレスを発散する。そんなサイクル。

 ────あの日、あの瞬間まで、わたしは紛れもなく充実した日々を過ごせていた。