四月は嫌いだ。
 すべての始まりの月だから。

 最寄駅に向かいながら、幾度となく吐いたため息を、今日も静かに吐き出した。
 あぁ、憂鬱(ゆううつ)。わたしはあと何度同じことを思えば、この感情に慣れるのだろうか。

 四月というのは、わたしという弱い人間に課せられた一種の試練だと思う。試練という大きな壁だと認識していないと、それを越えられない自分自身をもっと強く責めてしまうような気がした。

 数々の別れと出会いが一斉におこなわれて、今まで構築してきた人間関係が崩れてしまう時期が好きな人間なんて、いったいどこにいるのだろう。
 毎年四月は憂鬱で逃げ出したい気持ちになるけれど、今年は特に気分が浮かない。理由は分かりきっている。

 この春から、わたしは高校生になったからだ。



「……気持ち悪い」

 突然ぐぐっと腹の底から何かが迫り上がってくるような気がして、思わず口許を押さえた。
 よろよろとふらつきながら、重たい荷物を肩に掛けて歩く。暗い色をしたコンクリートの壁に縋るようにしていないと、すぐにでも倒れてしまいそうだった。


 今日も一日乗り切った。がんばった。
 あと少しの辛抱だから、我慢して。
 頑張って、わたし。

 胸の内で自分を褒め称え、いたわり、応援する。毎日この繰り返しだ。
 帰りのHRを終え、駅まで歩いているこの時間に勝るほど安心する時間はない。

 ようやく解放される。少しは楽になれる。学校という息苦しい空間から逃げ出せるこの瞬間のために、わたしは学校に行っているようなものだ。とてもくだらなくて意味不明な理由だと思う。

 襲ってくる吐き気をなんとか(こら)えながら、細い息を吐き出して呼吸を整えた。


 今年から通い始めた高校には、中学生のときよりも二時間もはやく起きて、人の少ない早い時間の電車で通っている。入学式翌日に通勤通学の時間に出ている電車に乗ったとき、人の多さに酔ってしまい、降車するまでひたすら吐き気を堪えることになった。
 今まで経験したことのない密度で押し込められて、思い出すだけでも悪寒がする。

 たくさんの出会いで笑顔が花咲く四月、わたしはまだ一度も笑えていない。


 わたしは間違えてしまったのだと思う。
 修飾語を入れるとするならば、生き方を、間違えてしまった。


 今になって響いてくる完全な選択ミスに、ずっと苦しめられている。
 どうしてこんなところに進学しようと決めてしまったのか、三ヶ月ほど時間を戻して、受験期のわたしに問いかけたい。

 あなたはなぜその高校に行きたいの?
 将来何になりたくて、何をするためにそこに通おうと決めたの?

 そうしたら、きっと過去のわたしは言うだろう。『分からない』と。


 将来の夢などない。就きたい職業なんて決まっていない。それなのに、たいした理由もなく県内の中でも割と偏差値の高い進学校を受験してしまった。強いて言うなら、優柔不断で流されやすい性格と、小さな見栄のせい。志望校決定に自分の意思など何もない。
 わたしは昔からいつもこうだった。


 誰よりも心配性だから、誰よりも努力した。押し潰されそうな不安と、消えてしまいそうな希望を背負って、涙を流しながら勉強した日々を忘れたことは一度もない。模試の結果が振るわなくて、寝る間も惜しんで勉強した。模試の結果がA判定になっても、学校の先生からゴーサインが出ても、この世に絶対なんてないからと勉強一筋で頑張った。

 その甲斐あって、自分の番号が載っていたときは、これ以上ないほどの喜びと達成感、そして自分にもできるんだという自信を手に入れたはずだった。

 けれど、今は違う。泣きたくなるほど深い後悔に日々苛まれている。

 同じ中学の子が誰もいない高校。一から関係を作っていかなくてはならないプレッシャーに、わたしは簡単に押し潰されてしまった。小学校や中学校のときは同じ地域の子がほとんどで、まだ幾分ホームな雰囲気があった。教室を見渡せば知っている顔がたくさんある。そんな小さなコミュニティがわたしには合っていた。

 どうして適応できなくなったのか。わたしだけがスタートを切れないまま、ずっと取り残されている。
 クラスを見渡すと、知らない顔ばかりで恐怖と不安は募っていく。独りになるのがこわいのに、話しかけるのはもっとこわい。鬱陶しいと思われそうで、関わったら嫌われそうで。それならいっそ顔を覚えられることもないまま、相手の人生に踏み込むことのないまま、全てが終わってしまえばいい。
 こんなふうに悩んで、人よりも弱い自分が毎日嫌いになっていく。

 もうこれ以上頑張れない。この苦しみから逃げ出して楽になるには死ぬしかない。そんな暴論を唱えたところで、どうしようもなかった。

 だって、小心者のわたしに死ぬ勇気なんてないことは、わたし自身がいちばんよく分かっているから。


 生きるのは苦しいけれど、死ぬのはもっと苦しい。それが分かっているから、死に物狂いで頑張るしかない。ぼろぼろになって生きるしかない。どちらに進んでも苦しい。わたしに逃げ場なんて、どこにもない。

 ぐるぐるとまわる悪循環に囚われる。終わらない地獄を永遠と彷徨っているようだった。



『子供なんて楽でいいじゃない。勉強するだけでいいんだから。大人になったらもっと大変だよ?』



 弱音を吐くと、母は必ずこう言う。外で溜め込んだものを家で吐き出せば、またかといったようにため息を吐かれてしまうせいで、いつしか自分の本音を吐露することができなくなった。居場所だった家すら居心地が悪くて、時々唐突な吐き気に襲われる。


 大人のほうが大変。
 仕事も、生活も、人間関係も。きっと、恋愛だってそうだろう。

 そんなことは分かっている。
 "子供だから"という理由で許されていたことが、大人になったら許されなくなること。"子供だから"という理由で助けてもらっていたことが、大人になったらまったく見向きもされなくなること。
 子供が思っている以上に大人の社会は甘くなくて、誰もが学生時代に戻りたくなるような苦痛の日々が待っていること。


 だったら、それらを迎える前に死んでしまったほうがいいのではないか。そんな破滅的な考えがわたしをじわじわ蝕んでいく。
 この先巡り合う幸せと、一生を通しての不幸と。天秤にかけたとしたら、いったいどちらのほうが重いのだろう。


 大人には大人の苦しみがあるように、子供には子供なりの苦悩がある。
 耐える苦しみや背負う重さは、きっと比較するものではない。

 誰かにとっての普通は、わたしにとっての特別。
 逆に、わたしにとっての普通を特別と感じる誰かだっているだろう。


 その人なりの苦しさや悲しみに寄り添って、「辛かったね」ってただ一言。そう言って優しく背中を撫でてくれる人で世界が溢れたならば、きっと誰もが生きやすい世界になるはずなのに。
 人は皆、自分のことに一生懸命だ。自分の人生を輝きあるものにすることで精一杯で、他人のことなど見えていない。

 ただ一人、世界でたった一人だけ。
 自分以外で、同じように見つめることができる人が存在するのならば。そんな人に巡り会えたのならば。


 その奇跡を人はきっと【愛】と呼び、狂おしいほど歪んだ想いを、大切に紡いでいくのだろう。






「愛、なんて……くだら、ない」


 ぽつりと声が洩れた。
 所詮戯れ言。愛ってなんだ。

 知ったふうなことを思いながら、実は自分自身がなによりも否定している。一歩、一歩と地面を見下ろしながら足を進める。少し視線を上げた瞬間、ぐわん、と視界が揺れた。鈍器で何度も頭を殴られているような衝撃と、全身を取り囲む異常なほどの暑さ。

 カーンカーンと踏切の音が遠くでくぐもるように聞こえてくる。


「……いそが、ないと」


 鉛のように重たい身体を引きずるようにして、駅のホームに入る。

 果たして、空気はこんなに薄かっただろうか。肺に入り込んでくる酸素は、ここまでわたしの胸を圧迫させるものだっただろうか。
 額に汗が滲む。じわりと涙が浮かぶ目を動かして右を見ると、こちらへ向かってくる電車が小さく見えた。

 ホームには誰もいない。田舎の無人駅、そして学生たちは部活動に励む午後四時三十分。
 そんな世界に、わたしたった一人だけ。


「っ、はぁ……」


 肩で息をしながら、荷物を肩にかけ直した時だった。無意識のうちに唇が震えて、足がよろめく。ぐらりと身体が傾く感覚だけがわたしを支配する。

 足に力が入ることはなく、ただ流れに身を任すように、まるであらかじめ決まっていた運命に従うように、気付けばレール側に身体を倒していた。あまりにも一瞬の、信じられないほど短い出来事だった。



────ああ、死ぬんだ。わたし。



 斜めに映る景色は、夕暮れに染まるあたたかい色。そんな光の中で思ったのは、ただそれだけだった。

 不可抗力なら仕方がないんじゃない?
 生きることを諦めてもいいんじゃないの、瑠胡(るこ)

 あなたは、よく頑張ったよ。


 ひとりの人間を殺すことは莫大なエネルギーが必要だ。それは自分を殺めるという点でも同じこと。自殺するにも、体力とエネルギーが要る。けれどそれが不幸な事故だったとすれば。体調が優れずに、防ぎようのないものだったとすれば。


 そしたら、わたしの自殺も仕方のないこと(・・・・・・・)として捉えてもらえるのだろうか。


 あれほど怖かったはずの死は、いざ前にしてみるとあまりにもあっけないものだった。スローモーションのような視界も、あと数秒後には真っ暗になっているはずだ。
 はじめから、木月瑠胡という人間など、存在しなかったように。



 さようなら、残酷なほど綺麗で汚い世界。
 もしも来世があるとするならば────わたしは"普通"になりたい。






「……っぶねぇ…!!」

 すぐにでも切れそうな意識のなかで、叫ぶような声が聞こえたのと強く腕が引かれたのはほぼ同時だった。
 何が何だか分からないまま、視界が真っ暗になるなかで鼻腔をつく樹木のような香り。ズクン、と今まで経験したことのない心臓の音が響いた。ドキドキとか、トクトクとか、そんな安直な言葉では表現できない、なんとも言えない響きだった。

 ただひとつ分かるのは、わたしは自殺に失敗したということ。不慮の事故に見せかけた行為は、未遂に終わったのだ。
 その証拠に、わたしの心臓は今もなお鼓動を止めていない。むしろ時間が経てば経つほど、心音を速めるように早鐘を打ちはじめている。

「どうした」

 頭上から声が降ってくる。
 低くて掠れているのに、ひどく落ち着く声だった。ひとつひとつの音を、ばらつきなく綺麗に繋げたような声は、柔らかな音でわたしの耳に落ちてくる。
 そこでようやくわたしは誰かに抱きしめられているのだと気が付いた。それも、おそらく男の人に。

 数秒の沈黙の後、ゆっくりと身体が離れる。明るくなった視界に映ったその顔は、思わず息を呑むほど美しいものだった。
 特に、瞳が。夜空を溶かしたように青みがかった澄んだ目は、綺麗なんて単純な言葉で言い表せないほど、わたしの心を鷲掴みにして離してくれなかった。

 駅に到着した電車が、甲高い音を上げてとまる。アナウンスと同時にドアが開き、なかのようすがちらりと見えた。
 この時間に、この駅に降りる人はほとんどいない。少なくとも、わたしは今まで見たことがなかった。

 今日も人が降りる気配はない。つまり、今この時間はわたしたちが乗車するためだけにあるということだ。ここにいる何十人もの時間を、わたしのために使っている。そう理解すると同時に、再び猛烈な吐き気が襲ってくる。

 この電車は、わたしのせいでとまっている。この無駄な時間は、紛れもなくわたしが作り出している。
 そんな事実を認識すればするほど、申し訳なさと恥ずかしさで頭が真っ白になっていく。


 一向に乗ろうとしないわたしたちを、運転士が不思議そうな顔で見つめていた。


「乗りますか、乗りませんか」


 ヒッ、と喉の奥が締め付けられる感覚がした。空気の通り道を何か固いもので塞がれてしまったような、そんな奇妙な感覚だった。
 こんなところでモタモタしていたら迷惑極まりないことは分かっているのに、まったく足が動かない。力を入れているのに、逆に力が抜けていくようで、身体が言うことをきいてくれなかった。


 なんだよ、おっせーな。
 はやくしろよ、なにあの子。


 そんなことを言われているような気がして、呼吸が浅くなっていく。しだいに吸い込む量と吐き出す量の均衡が保てなくなり、涙が溢れ出した。焦って目に力を入れたけれど、全くの無意味だった。


 恥ずかしい。惨めだ。もう、消えたい。
 やはりわたしは、さっき死んでいればよかったのだ。


 一度負の感情が生まれてしまえば、そこから戻ってくるのはとても難しい。感情曲線が落下傾向にあれば、わたしの場合はそこから落ちるところまで落ち込む。時間が解決しないかぎり、マイナスの沼から這い上がることはできない。

 わたしの腕を掴んだままの彼は、黙り込んでいるわたしの顔を覗き込み、それから「乗りません」と運転士に告げた。再びドアが閉まり、何度聴いても慣れない、悲鳴のような音とともに電車が発車する。


 再び戻った静寂。
 嵐が過ぎ去ったあとのような気味が悪くなるほどの静けさのなかで、小さなため息が聞こえる。無論、そのため息の主は彼だ。


「とりあえずそこ座れ」


 ホームに設置されている小さなベンチに腰掛けるよう促される。動かなければならないことは分かっているのに、石のように固まってしまった足を自分ではどうしようもできなくて、その場で立ちすくむ。そんなわたしを一瞥した彼は、辟易(へきえき)したようにため息を洩らし、わたしの腕を引いてベンチに座らせた。

 涙が乾いた後の変な感覚が頬に残っている。もう涙は出ていないのに、まだ伝っているように感じてしまうのは、これまで何度も流してきたせいかもしれない。わたしはきっと、気づけば泣いている、という状況に慣れすぎてしまったのだと思う。
 うつむいていると、ガコン、と何かが落ちる音がした。

「ん」

 低い声とともに、目の前に透明なペットボトルが差し出される。そろりと視線を上げると、先ほどの彼が無言でこちらを見下ろしていた。そこでようやく、さっきのガコンという音は、彼が自販機で水を買った音だったのだと理解する。

 受け取ってもいいのだろうか。あいにく今日は小銭を持っていない。お金を返すことができないことに罪悪感を抱いて、受け取ることを躊躇してしまう。すると彼は困ったように眉を寄せて、ベンチの空いている部分に腰をおろした。

「これ飲んで落ち着け。さっき泣いた分の水分摂取」

 やや強引にペットボトルを押し付けられ、反射的な動作の一環で受け取ってしまう。ここまでされては、飲まないのもさすがに悪い気がして、キャップをとって液体を喉に流し込む。ほどよい冷たさが乾ききった喉を潤し、それと同時に少しばかりの余裕を心に生んでくれた。
 ふ、と息が洩れる。頭痛と吐き気はまだ少し残っているけれど、電車が到着したころよりはかなりマシになっていた。