厄界……この屋敷の離れに住み込んでから、一週間程が過ぎた。カグヤの看病の甲斐あり、体の具合が良くなってきたアマリは、布団の中でぼんやりとする毎日だった。
始めの数日は、体の怠さや苦しさにひたすら耐えるだけだったが、少しずつ回復してきた今は、落ち着かなくなっている。『無理の無い程度なら構いませんので、お好きに過ごして下さい』とカグヤに言われたが、この状況で何をどうしたら良いのかわからない。
そもそも、この部屋には布団とちゃぶ台、衣装箪笥以外、本当に何もなかった。自害させない為か、あらゆる物らしい物が消えている。姿見や化粧道具すら無い。
今までなら、今刻は『仕事』か、芸事の稽古の時間だった。しかし、ここには仕事を促す者も、依頼人もいない。そんな体力はまだなかったが、よっぽど具合が思わしくない限り、今までは行っていた。
唄……詩吟は軟禁されている今、目立つ事は避けたい。屋敷の者も不快かもしれない。読み書きや勉学は、教本も師範もいない為、出来ない……
窓から見えた池囲いの庭園に出てみようか……と少し思ったが、カグヤは別の任務で数時間不在すると聞いている。勝手に出て良いものかわからない。帰る場所も頼れるアテも無い自分には、逃げ出す事も不可能……
途方に暮れるアマリだったが、これは厄界の長である荊祟の策略……罠だった。あえて彼女を一人きりにさせ、どう動くか試したのだ。
そんな裏事情はつゆ知らずの尊巫女は、ただ戸惑い、狼狽えるしかできないでいる。だが、何もしないまま一人で過ごしているうち、今までの出来事が少しずつ甦ってきた。
余計な考え、良からぬ感情が身体の奥から湧き始めてしまう。痛みの治まった頭が、再び喚き出した。忌まわしい囁きが、耳元で聞こえる――
『――何故、生きている? お前はもう用無しだろう』
『――お前が生ける場所など、もう何処にもない。息する理由があるのか?』
『――今更、生き長らえて何になる? 何故、全てを賭けてきた?』
振り切ろうと眼を閉じ、落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。激しい孤独感、憤り、悲しみ……そんなどうにもならない感情が吹き出してしまいそうになった時、人族の社に居た頃に行っていた鎮静法だった。
だが、沈んでいる心がどんどん深みにはまり、奈落の底へ堕ちていく。止まらない。止められない……
――……怖い。怖くて堪らない。気を紛らわさないとおかしくなりそう……
――何か……何でもいいわ。何か……
すくっ、と取り敢えず立ち上がる。布団を出て、寝間着のまま手足を動かし、長年の習慣で身に染み着いた動作を始めた。ゆらり……ゆらり……と、両腕を宙に舞わす。稽古で習った舞だ。扇子の代わりに、側にあった汗拭き用の半巾を咄嗟に掴む。
足取りのおぼつかない踊りは思うようにいかず、すぐに手順を間違えた。師範の叱咤が飛んでくるのを察し、反射的に動きを止め、思わず身を縮めた。が、何も聞こえない。間違った足を叩く腕も伸びて来ない。何の痛みも感じない。
――…………?
しん、と静まり返っている室内の中、どく、どく、という怯えた心音だけが聞こえる。至極、奇妙な感覚が襲ってきた。
……何だろう。未知の状況への戸惑いと怯えに加えてやってくる、不思議な安堵感。自分一人しかいないという、不慣れな空気にアマリは狼狽える。
そんな自身の様子を、部屋のあの円い小窓から、朱の眼の鷹がまた見ていた事にも気づかなかった。
「……な、に?」
その夜。黎玄が荊祟の部屋まで飛んで来た。彼らの意思疎通は言葉ではなく、所謂、精神感応のようなもので行っている。
定例の報告――アマリの情報を読み取った荊祟は、らしくなく間の抜けた声をあげ、唖然とした。
翌朝。突然、『夕刻、長様が御会いに来られるそうですので、この部屋でお待ち下さい』と、カグヤに言われたアマリは動揺した。心の準備は全く出来ていない。どんな顔をして、どのように振る舞えば良いかわからないままだ。
恐ろしい力を持つ非情な厄神と聞いていたが、こうして何故か生かされているという不可解さ。一方、場合が場合なら、夫になるかもしれなかった相手でもある。何とも奇妙な心持ちで、ただ時が過ぎていくのを受け入れるしかない自分が、滑稽にも思えた。
「アマリ様。長様がお見えになりました」
夕刻の黄昏時。襖越しのカグヤの声掛けに、反射的にびくつく。急いで梅鼠色の羽織を着込み、素顔のまま正座する。神妙な面持ちで、両手を膝に乗せた。
「は、はい」
返答と同時に、すっ、と襖が開き、慌てて頭を下げる。視界の端に、畏まりながら膝をつくカグヤの姿が見えた。その陰から、見覚えのある漆黒の履き物が忍びやかな足取りで部屋に入って来る。
「顔は上げてよい」
心なしか、あの夜より落ち着きある口調で、促す玲瓏な青年の声。その魅惑的な低音に惹かれるようにアマリは顔を上げる。瞳に映った姿に、思わず息を呑んだ。
素顔を晒している彼の瞳は、澄んだ琥珀色だった。あの夜、稲妻のような眼光を放っていた瞳と同じとは思えない。だが、あの時と同じ藍鼠色の長着物に鋭利な眉、笹形の耳、非対称に分けられた濃灰の髪が、同一人物だと判別させた。
黒地の首巻きで隠されていた肌は小麦色。すっ、と通った鼻筋、きつく結ばれた薄めの唇。腰元には日本刀らしき刀。荒く野性的な気を纏うが、顔立ちや眼差しは涼やかという対称的な魅力を兼ね持っている。そんな妖厄神――荊祟の出で立ちに、アマリは今の状況を忘れ、見入ってしまっていた。
「回復したらしいな」
「は、はい…… お陰様でこの通り……」
いつの間にか少し離れた場所に座り込み、胡座をかきながら淡々と、彼は声を掛けてきた。我に返ったアマリは、少し目を伏せ恐々と、だが、なるべく丁寧に応える。
「だな。この状況で踊りをする位、余裕綽々のようだ」
そんな彼女に、荊祟は容赦なく皮肉を投げる。黎玄の存在には後に気づいたので、昨日の行いも知られているかもしれないとは思っていた。しかし、そんな風に改めて言われると決まりが悪くなる。悪い事をした訳ではないが、どうにも居たたまれない。
「も、申し訳ありません。いつもなら仕事か稽古の時間だったので…… どう過ごしたら良いかわからなくて……」
「……仕事、か」
しまった、とアマリは自分の迂闊さを呪った。この厄神は、自分に課された企てをどこまで感づいているのだろう。どう説明しようかと、瞬時に脳内を転らせる。
「いえ、あの、大した事では……」
「よい。どうせ今回の件に関するのだろう」
どうでもよいとばかりに、ふん、と彼は軽く鼻を鳴らす。図星だったアマリは何と答えたら良いのか判らず、俯く。元々、上手く誤魔化すという所業は苦手な性分だったが、彼にはどんな小手先も通じない。そんなぴりつく空気が、辺りに漂っていた。
「あの…… 長様」
妖厄神とも、本名の『ケイスイ』とも、さすがに口にしづらく、アマリは無難な呼び方をした。
「何だ」
僅かに戸惑いの色を交え、荊祟は無表情のまま問い返す。
「あの時…… 助けて頂きありがとうございました」
改めて、両手を前について頭を下げた。そんな尊巫女に、彼は胡散臭げな猜疑の眼差しを向ける。
「その後も看病して、こうして生かして下さり…… 正直、驚きました」
「お前の為ではない。奴らの所業を見逃すと、界の秩序と風紀が乱れる。故に処罰したまで」
「お察ししております。ですが、そのおかげで身を守れたのは事実でございますから」
この長にとってはあくまで義務で、不本意な行いだったのは理解していた。だが、女としての尊厳だけでも傷つけられないで済んだと考えていたアマリは、それだけは礼を言いたかった。
「めでたい頭だな。お前が厄介な存在なのも事実だ」
ばっさりと辛辣に返し、珍妙な生物を見るような眼差しで、妖厄神はアマリを凝視する。理解不能、という意思が明らかににじみ出ていた。