「この玻璃の壺が、穢れを帯びているのがわかりますか? では〝二乃紅(にのくれない)〟の貴女。どのような穢れか説明してみてください」
「は、はいッ」
 巫女装束をまとった女性教師が、とある巫女見習いの少女を指名する。
 指名された少女は緊張した面持ちで教卓の上に置かれた大きな玻璃の壺を凝視すると、「く、黒い影が壺の中にあるように視えます」と、上擦った声で答えた。
「なるほど、いいでしょう。では次、〝二乃蒼(にのあおい)〟の貴女」
「そうですね……。複数の気配を感じます。動物……いえ、人間でしょうか。音も聞こえます。……叫び、のような」
「いい回答です。では〝二乃紫(にのむらさき)〟の貴女に問います。この玻璃の壺に宿った穢れの正体は?」
「『死者の霊』です」
「その通り。この玻璃の壺は、経営破綻した病院のエントランスに飾られていたものでした。ではこの穢れを、〝二乃紅〟の生徒から順に実際に祓ってみましょうか」
 百花女学院高等部の第二学年に在籍する巫女見習いたちは、ひと学年にひとつのクラスしかない使用人科とは違い、成績と霊力によって三つのクラスに分けられている。霊力はあるが希薄である〝紅〟、平均的な霊力を持つ〝蒼〟、そして霊力が強く成績優秀な者が集う〝紫 〟だ。
 普段はそれぞれ別の教室で授業を受けているが、本日は『祓除』の実技実習のため、ひとつの教室に集まって合同授業となっていた。
 巫女見習いの生徒たちがひとりずつ順番に禍々しい壺の穢れを祓っていくが、〝紅〟の生徒ではやはり歯が立たない。
「アレが影程度にしか視えない〝紅〟の生徒では、壺の祓除ができるわけないですわ」
「祓詞を唱えているだけで、霊力がまるでのっていませんもの。努力もせず、恥ずかしくないのかしら? そう思いませんか、日菜子様?」
「ええ、本当にそうね」
 日菜子は同じ二乃紫に所属する取り巻きの少女たちの言葉に、澄ました笑みを浮かべつつ返事をしながらも、心の底では安堵していた。
 ――ああ、ちゃんと視えてる! いいえ、それだけじゃない。きっとここにいるどの巫女見習いよりも、私こそが穢れの正体をはっきりと捉えられているはずだわ!
 実技実習で使用するために教師が用意した祓除用の教材なのだから、〝紫〟に所属する巫女見習いたちには視えて当たり前のものだ。
 神気のような高次の清らかな力は、波動や振動や音の周波数が細かく繊細なため、霊力があったとしても感じにくく、はっきりと視覚で捉えるには難しい。清らかな霊力を持つ者を除いて、一般的な霊力を持つ者たちが神々の神気を感じその神威を推し量るには、よほどの神気をぶつけられるほかない。
 それは日菜子とて同じだった。
 膨大な霊力を持つ春宮家の令嬢としてのプライドがある日菜子自身は気づいていないが、日菜子の神気を感知する能力は幼い頃から一般的な巫女見習いとの大差はない。
 しかし、邪気や穢れと呼ばれる低次の悪しき力は、波動や振動や音の周波数が荒い。磁場なども荒く狂うため、霊力がある程度あれば感じたり視えたりしやすい性質があった。
 もちろん高度な呪力や呪詛となると認識しにくくなるため、また話は別なのだが、とにかく邪気や穢れと呼ばれる低次の悪しき力は、膨大な霊力を持つ春宮家の令嬢として視えて当然だったのである。
 けれど日菜子には、あの最悪な『巫女選定の儀』を終えて以降、視えなくなっていた。
 それが、今はどうだろう。
 祖父から名無しの真名を封じた呪符を譲り受けてからは、完全にもとの霊力を取り戻している。いや、それどころか以前よりももっと霊力に満ち満ちているようだ。
 日菜子は口角を吊り上げると、制服の内側、心臓のあたりに位置するポケットに忍ばせた呪符の上に右手を添える。
 どくどくと鼓動を打つ心臓の動きに合わせて、日菜子の自慢の霊力が全身を巡っている。
「合同授業なんて面倒なだけですのに。日菜子様も、もっと有意義に時間を使いたいと思いませんか?」
「ふふっ、そうね。私たちにとっては無意味な時間だわ。けれどそれでも合同授業が行われるのは、私たちの祓除の技術を紅や蒼の生徒に見せて良きお手本となることを、先生方から求められているから。……そう、例えば私のような巫女見習いの技術を」
 日菜子は肩にかかっていた栗色の巻き髪を、さらりと右手の甲で払う。
 すでに〝二乃蒼〟の巫女見習いたちも祓除のための祓詞を唱え終えていたが、穢れはクラスの人数分祓われた程度で、禍々しい壺の様相にあまり変化は見られない。
 次は〝二乃紫〟の生徒が順に祓詞を唱えるが、それでもひとり三体から十体、穢れのもととなっている死者の霊を祓えるかどうかだった。
 それでも完全に祓えているから優秀なのだが、今の日菜子にはそれが、巫女見習いごっこ――おままごとにしか感じられない。
「次、春宮日菜子さん」
「はい」
 教師に名前を呼ばれ、日菜子は生徒たちの輪から中央に歩み出る。
「〝祓い(たま)え、清め給え。一切衆生の罪穢れ、萬物(よろずのもの)禍事(まがごと)をもたちどころに祓い清め給えと、(かしこ)み恐み(もう)す〟」
 自信たっぷりに日菜子がそう唱えた瞬間。
 膨大な霊力が雷のように玻璃の壺へ直撃したかと思うと、数百体はいたはずの死者の霊が一気に浄化されていく。しかもそれだけに留まらず、ヒビすら入っていなかった壺が粉々に粉砕されていた。
「……す、素晴らしい! 素晴らしい祓除の技術です、春宮さん! まさか呪具になりかけていた玻璃の壺まで無効化してしまうなんて……!! 皆さん、圧巻の技術を魅せてくれた春宮さんに盛大な拍手を!」
 玻璃の屑だけが残る教卓を見て、女性教師は興奮したように目を輝かせて大きく拍手をする。
「やっぱりすごいわね、日菜子様って」
「初等部の時から、理解の範疇を超えた霊力をお持ちだったものね」
「霊力を操作した形跡なんて、まったく視えなかったわ。私たちの霊力とはまるで違う……」
 教卓の周囲で半円を描くようにして見学していた巫女見習いたちは、拍手しながら感嘆のため息をついた。
 日菜子は巫女見習いたちの賞賛と羨望の眼差しを一身に浴びながら、高慢な表情で微笑む。
「うふふっ。青龍様の本物の神巫女である私には、この程度の祓除は簡単なことですわ」
 そう、これこそが私の霊力! これこそが私の本来の力!
 青龍様の神巫女として大切にされ、最愛の神嫁として愛されるべき私の、百花女学院一の霊力よ!
 日菜子は異母姉の真名を封じた呪符の威力を改めて認識し、邪悪な様相で赤い唇に弧を描いた。


   ◇◇◇


 あっという間に五月末となり、『婚約の儀』を執り行う当日がやってきた。
 早朝から準備を整えた竜胆と鈴は、神世と現世の境界に存在する場所とされている〝狭間〟を訪れていた。
 狭間は山頂にある神社から続く参道、そして格子状に整備された鳥居前町から成る場所で、ごつごつとした灰色の石畳が続く。
 この場所の要となる神社は、〈始祖の神々〉が降り立った戦国の乱世以前である平安時代に創建されたものだという伝承がある。
 幾度となく争いや戦火に巻き込まれたその神社は、伝承によると十二回の焼失と再建を経験している。
 その際になんらかの時空間の歪みが生じたことによってその場所を移し、結果として神世でも現世でもない場所となったと言い伝えられているが、足を踏み入れられる者が限られているため真相の解明は進んでいない。
 鳥居前町には様々な老舗料亭や商店、甘味処や薬屋、それから湯屋なども立ち並ぶ。
 現代ではさらに人の手も多く入り、町家を使った宿泊施設がオープンしたり、大きな観劇場を改装して作られた上流階級が訪れるような洋風の社交場も存在していた。
 舞踏会を行う大広間やバンケットホール、ティーサロンを内包しているこの社交場を使って、政治家やあらゆる業界の権力者が神々や眷属を招いたパーティーを催すことも多い。
 上流階級の巫女見習いの生徒たちが様々な噂を仕入れてくるのも、たいていはこの場所だった。
 鳥居前町の中央から続く参道は、入り口となる現世側から次第に山を登っていくかのようななだらかな上り坂で作られていて、最奥には三千もの朱色の鳥居が続く。
 畏怖を感じざるを得ない圧巻の光景を抜けると、立派な社殿が見えてくる。
 そして神世へと続く風光明媚な『境界の滝』が、轟音と水しぶきをあげているのだ。
 竜胆は黒の紋付袴に〈始祖の青龍〉の蔵面を付け、鈴は先日竜胆から贈られた着物のひとつである壺装束(つぼしょうぞく)をまとい、顔を隠すための長く薄い布を垂らした帔垂(むしたれ)のついた市女笠を被って、神世側から狭間へと降りて来ていた。
 ふたりの後ろに続くのは、竜胆と同じように〈始祖の眷属〉の蔵面を付けている狭霧家の者たちだ。
 竜胆と鈴に朱色の大きな妻折傘を差し掛け行列を作る彼らは、この度の儀式において誓いを結ぶ十二人の眷属のひとりとして名乗りを上げた、竜胆に忠誠を誓う霊力の強い眷属たちばかりである。
 老若男女様々な十二人の中には、長年保守派だった分家の当主らも含まれている。
 彼らは竜胆の両親の懸念をよそに、やっと若様が番様を得られたことにこれ以上にないほど歓喜し、『宴を』と騒ぎ立て、涙を流した。
 そして〝名無し〟となった番様の事と次第を聞いた彼らは、若様への忠誠心と春宮家への鉄槌を望む心のもと再び一枚岩となり、今ここへ馳せ参じたのだ。
 神とその番様の後ろに続く、十二人の眷属たち。
 その物々しい雰囲気に、狭間を訪れていた人の子や朝の支度をしている鳥居前町の住人が頭を垂れる。
(わわわ)
 前日から心配と不安で眠れなかった鈴は、雰囲気に気圧されてさらに緊張してしまう。
 帔垂の中で思わずお辞儀を仕返しそうになる鈴に、竜胆は前を見据えたまま告げた。
「堂々としていろ」
「は、はい」
 小さな声で返事をした鈴は、竜胆の隣で慌てて背筋を伸ばす。
 神々を尊ぶ鳥居前町の人々の前で、人の子とはいえど〈青龍の番様〉ともあろう者が頭を垂れるなどあってはならない。
 竜胆も鈴の育ってきた環境や性格から考えれば、威風堂々とした振る舞いがいくらか難しいことであるのは理解しているが、これから会うのはあの春宮家だ。厳しいようだが、ここからすでに堂々と振る舞ってもらわねばいけない。
 鈴の手を握って優しく諭してやりたい気持ちをぐっと抑え、竜胆は十二神将は吉将が木神〈青龍〉として、すっと前だけを見続けていた。

 延々と続く鳥居の道を下り、参道を通って向かった先は、鳥居前町で最も格式高い老舗料亭『瑞祥(ずいしょう)』。
 春宮家との会合が行われる会場として、竜胆が指定した場所だ。
 趣のある瑞祥の門をくぐると、女将や仲居がずらりと並んで狭霧家の到着を待っていた。
「青龍様、本日はお待ちしておりました。応龍の間をご用意いたしております」
「ああ。よろしく頼む」
 雅楽の音が響く静かな料亭内からは、広い窓越しに庭石に囲まれた池を望むことができる。
 紅白の鯉が悠々と泳いでいる姿を見て、鈴はふいに竜胆の神域で見た鯉を思い出した。
(ここの鯉には口も目もある……)
 どうやら正真正銘の鯉らしい。
 白足袋を履いた足で内向きに小さな歩幅で歩みを進める鈴は、あの日の出来事を思い出して、ごくりと唾を飲み込む。
(……真名を、返してもらえる。……そしたら、やっと、竜胆様に名前を呼んでもらえる)
 嬉しいのに、真名を奪われたことで与えられた様々な苦痛が一気に思い出されて、手の震えが止まらない。
 そんな鈴に気がついた竜胆は、一度立ち止まり身体をこちらへと向ける。
 そして鈴の指先をすくいあげると、蔵面の下にそっと運んだ。
(ひゃ……っ)
 周囲からは見えていないが、鈴には彼が自分の手の甲に唇を寄せたのがわかった。
「おまじないだ」
「あ、ありがとうございます」
 竜胆の神気が鈴に移る。
 しかし霊力のない鈴には神気の光はわからず、ただ甘酸っぱい感触が指先をかすめただけだった。
 そのせいで頬だけでなく耳まで一気に熱くなって、ドキドキと心臓が速くなる。
 蔵面に隠れている竜胆の口角は、きっと悪戯っぽく上がっているのだろう。
「もし春宮家のことを考えているのなら……緊張する余裕もないくらいに、俺のことで頭をいっぱいにしていてくれ」
 そう言って竜胆は、蔵面の下で指先をやわく食む。
「…………っ!」
(竜胆様に、噛まれた……!)
「ああ、いい表情(かお)だ。不安になったらその感情を思い出すといい」
 尖った歯の感触に驚いた鈴は、きゃあっと叫びたいのを我慢して思わず責めるように竜胆を見上げるが、真っ赤に染まった顔では迫力も出ない。
 竜胆はまるで何事もなかったかのように、再び蔵面を翻して歩き出す。
 そのわずかな隙間から、彼の形の良い唇が悪戯っぽく弧を描いているのが見えた鈴は、『やっぱり』と思いながら両頬を手で押さえる。
(ううう、恥ずかしいっ。こ、こんなところで、皆さんの前なのに……っ)
 走り出したいほど恥ずかしくなった鈴の頭の中は、竜胆の思惑通り彼への気持ちでいっぱいになる。
 今まで感じていた震えがどこかへ消え去っているのも忘れて、鈴は耳まで真っ赤にしながら応龍の間までの廊下を歩いた。
 その後。【応龍の間】と彫られた上品な大理石のプレートが壁に掲げられている座敷へと到着すると、広い畳張りの室内の中央に、いかにも重厚そうな座敷机が鎮座していた。
 座敷机を挟み、上座と下座に分けて設置されている木製の背もたれがついた座椅子は五つ。
 竜胆がこの会合に招いたのは、春宮家の当主と鈴の父親、そして継母だった。
 座敷に入ると同時に、鈴は道中顔を隠していた市女笠を脱ぐ。
 竜胆は上座の隣にあたる位置に鈴をエスコートして座らせると、無言で神気を操り様々な結界を張り始めた。
 眷属たちも霊力を使いながら祝詞を唱えて、何重にも場を清めていく。
 それを終えると彼らは着席した竜胆と鈴の背後に控え、なにかあった時のためにすぐにでも動けるようにしていた。
 そうして会合の予定時刻の五分前となった頃。
「おお、青龍様。これはこれは、お待たせしてしまいましたかな?」
 仲居に案内されてきた春宮家の老齢なる当主――春宮昭正が、応龍の間を訪れた。
「……いいや。定刻通りだ。座られよ」
 竜胆は春宮家の当主を一瞥もせずに、無感情な冷たい声音で告げる。
「ではではお言葉に甘えまして、御前失礼いたします」
「……(おもて)をあげよ。『婚約の儀』まで時間もあまりないからな。長々とした挨拶はいらない」
「四季幸いをもたらされし尊き神からか弱き人の子へのご配慮、感謝いたします」
 昭正の言葉や態度は謙っている様子ではあるが、齢十八の学生の身である神をどこか嘗めている節が見て取れた。
 昭正の隣に成正と華菜子が正座する。彼らはどこか畏怖の念を抱き、ひどく緊張した面持ちでいた。
 久しぶりに祖父や父、継母と対面した鈴は、視線を上げられずに目を伏せる。
 春宮家にいた頃は、常に彼らに怯えて暮らしていた。
 もう怯えなくてもいいとわかってはいても、十六年間で染み付いた恐怖はそう簡単に消えはしない。
 いくら竜胆のおまじないを思い出しても、竜胆への甘いドキドキよりも、祖父たちへの恐怖感からくるドキドキの方が勝っていた。
(……でも、ここで、私が変わらないと、ダメだ。じゃないと、竜胆様がせっかくこの会合や『婚約の儀』の場を整えてくれた意味がなくなっちゃう)
 鈴は正座していた膝の上できゅっと両の手を握りしめる。
(竜胆様に選んでいただいた番様として、私も、しっかりと前を向きたい)
 伏せていた双眸を、鈴はゆっくりと上げる。
〈始祖の青龍〉の蔵面をつけた神の隣で小さくなっている鈴に対し、侮蔑を含んだ視線を投げながらこれからのことを考えていた昭正は、唐突に向けられた鈴の弱々しくも決意を秘めた視線に驚き、片眉を跳ね上げた。
 生意気な小娘が。
 自分は矮小な存在であるにも関わらず、龍の威を借るとは!
 ふつふつと苛立ちが募るが――春宮家当主として、神の御前ということは忘れてはいない。
「…………では、改めまして。こちらが、お約束しておりました名無しの真名を封じた呪符にございます」
 昭正は懐から木箱を取り出して座敷机に置き、その蓋を開けて呪符を見せた。
 呪符には【春宮鈴】と記され、その周囲を真名剥奪の術式が取り囲んでいる。
 一度は愛孫である日菜子に託した、春宮家の今後を左右する大事な呪符だ。これをまさか、このような形で名無しに返すことになるとは。
『呪符を名無しに返すですって!? お祖父様、正気なのですか!?』
『正気だ。日菜子よ、この取引は春宮家に有利に働く。もちろんお前にとってもだ』
『霊力がなくなってしまうのに、有利ですって? ありえないわッ!! これは私のものよっ! 一生、私のものなんだから……ッ!!!!』
 異母姉の真名を封じた呪符を持ち歩く事で、霊力搾取の術式の効果を実感している日菜子を説得するのにどれほど骨が折れたか。
 金切り声で叫ぶ日菜子の癇癪は、それはもう凄まじいものだった。
 しかし日菜子も今は納得し、これからの春宮家のために大人しくしている。
 昭正は今にも解き放ちたくなる本心を奥歯をギリギリと噛み締めながら、これでもかと言うほどに我慢に我慢を重ね、畳の目に両手をついて深く深く頭を下げた。
「〈青龍の番様〉におかれましては、これまでの非礼をお詫び申し上げる」
「………………」
「誠に、申し訳なかった」
「…………申し訳、ありませんでした」
 春宮家当主の謝罪の言葉のあとに、成正と華菜子も畳の目に両手をついて頭を深く下げた。
 竜胆は、その謝罪に対して睥睨するだけでなにも答えない。
 彼の短い嘆息とともに、周囲の温度が少し下がる。
 冷気が床から天井まで伸びる窓を白くし、初夏に似合わぬ霜が美しく張り巡らされていく。
(竜胆様……)
 氷晶の異能だ。この様子では神気が溢れ出しているのだろう。
 緊張感がこれでもかと張り詰めているのは理解できても、鈴にはどれほどの神気がこの空間を満たしているのか測ることはできない。
 しかし祖父が苦しげな呻き声を上げ、父が鈴の知る父とは思えないほど怯えたようにガタガタと身体を震えさせ、継母がブルブルと震えながら、この世のものではない恐ろしいものでも見たかのように「キャアッ!」と短い悲鳴を上げたことで、その威力を知ることとなった。
(今日だけでも何度も私を励まし、心を砕いてくれた竜胆様の優しさは、春宮家へは一ミリたりとも向けられていない。春宮家どころか、……どんな人の子にさえも、きっと)
 どれほどの謝罪をされようとも、竜胆には彼らを許す気など毛頭ないのだ。
 対して、自分はどうだろうか。鈴は考える。
(日菜子様の使用人だった頃は、悲しい出来事がたくさんあった。……つらい出来事も、理不尽な出来事も、たくさん)
 真名を剥奪され、霊力を搾取され続け、呪詛破りの道具として扱われ、『無能な名無し』という使用人として生かされるだけの毎日だった。到底許しがたい出来事も多くあった。けれども。
(……ずっとずっと、諦めて生きてきた)
 そこには、怒りはない。
 鈴の心の中を占めるのは、ただ痛みと悲しみと恐ろしさと、諦めだけ。
(竜胆様に出会ってから、いろいろな感情を知って…………今は……とても幸せ、だと、思う)
 だからだろうか。
 名前を返してくれるのならば、――もう、それでいいと、思ってしまうのは。
 鈴が隣に座す竜胆を見上げると、凪いだ湖のような青い瞳と視線が交わる。
 この場は自分に託されているのだと感じた鈴は、「……も、もういいです」と小さな声を発した。
「もういいです。頭を、上げてください」
 鈴の言葉を受けて、最初に頭を上げて上半身を起こしたのは祖父だった。父と継母がそれに続く。
(嬉しい、とか、良かった、とか、そういう気持ちはまだわからない)
 しかしこれで春宮家に奪われていたものがすべて返ってくるのだと思うと、鈴はどこかほっとしていた。
「……真名を返していただき、ありがとうございます」
 静かにそう口にし、〈青龍の番様〉としての品位を保ったまま小さくお辞儀をする。
 怒ることも、責めることも、詰りさらなる謝罪を求めることもない。
 それは問題はあれど十六歳まで衣食住を保証してくれた春宮家への恩義を込めた、鈴の精一杯の決別の言葉だった。
 
 真名の封じられた呪符の真贋を竜胆が確認し、春宮家を退出させたあと。
 蔵面を外した竜胆や眷属たちによってその場は清められた。
 鈴は呪符が収められている木箱を手に持ち、不思議な気持ちでいた。
(――春宮、鈴)
 忘れてはいなかった。
 ずっと心に刻み続け、何度も何度も擦り切れるくらい頭の中で唱えてきた。
 その名前がやっと、返ってくる。
(……やっと、竜胆様に名前を呼んでもらえる…………っ)
 大切な存在である彼に名前を呼んでもらえるなど、どれほど幸運で、どれほど幸福な運命だろう。
 これまでは名前を呼んでほしいと願うことすらおこがましいと思っていたのに、これから始まる新しい日々への希望と期待が、徐々に湧き上がってきて胸を突く。
 しかし緊張しているのも事実だ。
 なにせ、物心ついた頃から誰にも名前など呼ばれた経験がない。
(名前を呼ばれるって、どういう気持ちなんだろう……?)
 初めての経験すぎて戸惑いすらある。
 鈴は希望と期待と緊張感が鬩ぎ合い、どきどきと高鳴るばかりの心臓の上に、そっと手のひらを乗せる。
「緊張しているのか?」
「緊張、しています」
「大丈夫だ。そう難しい解呪方法ではないから緊張する必要はない」
 竜胆は鈴の手から木箱を受け取ると、呪符に「ふっ」と息を吹きかける。
(呪符を、神気で清めているのかな?)
 式神を作る時のようだ。そう思いながら、鈴は手元に戻された呪符を見つめる。
「解呪は、祝詞を唱えながら呪符を手にしているだけでいい」
「えっ、祝詞を? 霊力がなくても、できるのでしょうか……?」
「ああ。術式の成り立ちから考えると、神々の許しがあれば簡単なことだ。〝十二神将は吉将が木神〈青龍〉の赦しのもと、奪われし我が真名を我に与え給えと、(かしこ)み恐み(もう)す〟……――言ってみろ」
 竜胆に促されて、鈴はこくりと力強く頷く。
「〝十二神将は吉将が木神〈青龍〉の赦しのもと、奪われし我が真名を我に与え給えと、恐み恐み白す〟」
 真名の封じられた呪符を両手で持ちながら鈴が祝詞を唱えた途端。
 呪符に赤黒い血で記されていた文字が、さらさらと解けるようにして、次々と消えていく。
 そうして最後には、中央に刻まれていた【春宮鈴】という真名が空中に浮かび上がり、眩しい光に包まれながらほろほろと鈴へと降り注いできた。
「あ…………っ!」
 胸の内側が、感動で熱くなるような高揚感で満たされていく。
 霊力もないのに不思議な感覚だが、鈴は自分の真名と魂が還ってきたのだと理解できた。
 その証拠に、手にしていた呪符は白紙に戻り、その術式の終わりを正しく告げている。
「わ、わ……っ!」
 言葉では言い表せない感情でいっぱいになった鈴は、頬を紅潮させて竜胆を仰ぎ見た。
 竜胆はそんな鈴の頭を愛おしげに撫でると、やわらかく口角をあげる。
「〝十二神将がひとり〈青龍〉として、君の真名を問いたい〟」
 それは竜胆が鈴へ、初めて神域でかけた名を問う言葉と同じだった。
 あの時はできなかった自己紹介をやり直せることに、鈴の感情は嬉しさで高ぶる。
「私の、真名は……」
 ぽろぽろと零れ出る涙が止まらない。
「私の真名は、春宮――春宮、鈴と申します」
「……鈴…………」
 すべての感情がこもったような声で、竜胆は壊れものに触れるかのごとく大切にその名を紡ぐ。
 初めて口にできた彼女の名は、儚く、けれども凛としており未来への希望に満ちていた。
 そしてようやく、幼い頃に夢渡りの術で彼女と初めて言葉を交わした時、彼女の存在を示すかのように鳴っていた小さな鈴の音が印象的だった理由を知る。あれは彼女の魂が懸命に真名の剥奪に抗い、竜胆へその名を伝えていたのだと――。
 ちりん、と耳の奥でここにはないはずの髪飾りの鈴の音が響く。
 竜胆はこれまで鈴を苦しめていた存在を無に帰すかのごとく、白紙になった呪符と木箱を神気を使い燃やし尽くす。
 すべてがさらさらと灰になり見事に無になったあと、彼は真剣な眼差しを鈴へ向けた。
「君の背中に刻まれている術式の一部は真名の解放によって消えたかもしれないが、すべてを消すにはもう少しだけ時間がかかるだろう。だが、これで『婚約の儀』は滞りなく行える」
「はい……」
「〝春宮鈴。俺は君だけを生涯、深く愛し続けると誓う〟」
 竜胆は鈴の腰を両腕で抱き寄せると、額にそっと己の額を合わせる。そして彼女の瞳を見つめながら、そう宣言した。
 長い睫毛に縁取られた青い双眸が、先ほどまでの氷のような表情から一変して一気に甘くなる。
 この世の僥倖をすべて手にしたかのような竜胆の、仄暗く、けれど抑えきれないほどの熱を帯びた眼差しに射貫かれ、鈴は身体が熱くなった。
 とくり、とくりと心臓が早鐘を打ち始め、喉元にきゅーっとせり上がってきたときめきのせいで、胸が痛くなる。
(あ、あ、あ……っ)
 至近距離で見つめられながら甘く名前を呼ばれて、しかもこれ以上にないほど竜胆と密着している体勢にいてもたってもいられないほど恥ずかしくなった鈴は、顔を真っ赤に染めてきゅっと唇をつぐむ。
(竜胆様に名前を呼ばれるだけで、こ、こ、こんなにドキドキして胸が苦しくなるなんて……っ!)
 想像もしていなかった。
 そんなふたりのやりとりを見ていた眷属たちは、『おめでとうございます!』と大声で叫びたいのを我慢して、感動に打ち震えていた。
 老若男女、十二人の眷属たちが今にも盛大に拍手しだしては、『本当にようございました……っ』『若様の純愛が実を結びましたね!』などと囃し立て始めそうな一体感に包まれている。
 先ほどまでの物々しい雰囲気はどこへ行ってしまったのか。応龍の間は、それほど祝福に満ち溢れていた。
(……恥ずかしいけれど、なんだか、嬉しいな)
 照れた様子で竜胆の言葉にこくりと頷き応じた鈴は、今は奪われていた真名を取り戻せただけでも十分だと思った。
(きっと、これからが、私の運命の始まりなんだ)
 鈴の背中に刻まれている術式がすべて消し去られた暁には、〈青龍の巫女〉として立派にお役目を果たせるように努力を重ねて――……これまでとは少し違う自分で、胸を張って、自分の運命を生きていけるようになれたらいい。
(竜胆様の隣で、竜胆様を支えられる存在になれたら……)
 それこそが鈴の本当の幸せだと、そう思った。


   ◇◇◇


 眷属たちを連れた竜胆と鈴は、十時を迎える前には一度神世へ戻ると、『婚約の儀』を執り行う十二天将宮へと向かった。
 広い境内に一歩足を踏み入れると、限界まで張りつめられたかのような高貴で気高く、そして清々しい神気が訪れる者へ対し厳しく問いかけてくる。
 眷属たちは背筋をより一層伸ばし、竜胆と鈴の背後に控えた。
 本日の十二天将宮は儀式のために参拝者が制限されている。現在この境内にいるのは十二天将宮の管理を代々任されている十二の神々の眷属と巫女や神司、そして狭霧家と春宮家の者たちだけだろう。
 この辺りには誰もいないので、どうやら裏方である狭霧家の者たちと春宮家の者たちはすでに一足先に儀式の準備に取り掛かっているらしい。
 境内を少し歩いていくと、白装束をまとった眷属と緋袴をまとった人の子であろう巫女が立っていた。
「青龍様、番様、お待ちいたしておりました。本日はご婚約おめでとうございます」
 十二天将宮を任されている神職だろうふたりは、竜胆と鈴の姿を認めると丁寧にお辞儀をする。
「ここから先は、青龍様と番様、それぞれ別の殿舎へ向かっていだたくこととなります」
 そう。『婚約の儀』では、婚約を誓う神と人の子が別々の支度室を使用しなければならない。
 それは現世から神世に嫁入りする人の子と、神世で人の子を迎える神の立場の違いが理由だ。
 これから鈴が向かう予定支度室には、人の子しか入れない。
 太鼓橋の中腹で待つ竜胆の手を取りともに歩みだすまで、眷属たちであろうとついてはいけないのだ。
 鈴はそれが少し心細かった。
 支度室を出たら、当然だが春宮家の者たちと言葉を交わさねばならない。
 先ほど別れたばかりの当主である祖父、そして両親、『婚約の儀』のために集められた十二人の血族たちに、春宮の名を背負う番様として挨拶する必要があるのは十分理解しているが、毅然とした振る舞いをするにはまだ時間が足りていなかった。
「本日、番様のお世話役を務めさせていただきます、梅と申します。お支度室のご用意はすでに整っておりますので、早速ですがご案内させていただきます」
 竜胆は人の子である巫女を推し測るような視線を向ける。
 黒髪の巫女から禍々しい霊力は感じられない。
 それも当然か。十二天将宮の管理を代々任されている家系の巫女だ。
「……彼女を頼む」
「かしこまりました」
「くれぐれも彼女をひとりきりにするな。彼女のそばに必ず控えていてくれ」
「お任せください。それでは番様、参りましょうか」
「は、はい」
 鈴は心細いながらも頷き、隣に佇む竜胆を見上げる。
「一瞬でも君と離れるのは堪え難いが、十二天将宮内で定められている掟にはなにがあっても背けない」
 理解している、というのを示すように鈴はこくりと頷く。
「春宮家にどんな言葉を浴びせられようと、君だけが〈青龍(おれ)の巫女〉で…………たったひとりの番様だということを、絶対に忘れるな」
「は、い」
 眉根を寄せた竜胆は、意を決する鈴の頬を手の甲でさらりと撫でる。
 そうして、「……行ってこい」と、神世へ〝人の子〟として嫁入りする鈴を送り出した。

 梅と名乗った巫女に連れられて鈴がひとりきりで向かった先には、小さな庭園に囲まれた庵があった。
 鈴の予想に反して、春宮家の者たちの姿はない。鈴はほっと胸を撫でおろす。
『婚約の儀』だからと、わざわざ今まで使用人だった鈴を祝福して声を掛けるような春宮家ではないのは知っていたが、悪意をもった嫌味を言いに来るほどでもないらしい。
「おかしいですね。先ほどまでは使用人の方もいらっしゃいましたのに、どなたもおられませんね……?」
 梅は不思議そうに首を傾げながら、「こちらがお支度室です」と鈴を庵へと通す。
 室内にはすでに衣装や化粧道具が並べられており、『婚約の儀』の支度が整えられていた。どうやら梅が話していたように、先ほどまで誰かがいたのだろう。
 しかし。
 室内の中央に鎮座していた立派な朱塗りの衣桁(いこう)には、あの日、竜胆が鈴のために選んでくれた振袖ではなく――なぜだか牡丹の花が大胆にあしらわれている絢爛豪華な真っ赤な振袖が、威風堂々と掛けられていた。
「どうして、これが……?」
(もしかして呉服屋の女将さんが、仕立てる着物を間違えたのかな……?)
 あの日、あんなにたくさん着物を購入していたのだから、間違えてしまうのも無理はない。
 それに納期も短かった。壺装束と儀式に使用する振袖を最優先に依頼していたが、それでも『振袖のお仕立て上りは儀式当日になりそうですので、直接届けさせていただきますね』と言われたほどだ。
 きっと呉服屋の人々の中で、〈青龍の番様〉は〝春宮家のお嬢様〟という印象があまりにも強すぎて、うっかり間違ってしまったのかもしれない。
(竜胆様に選んでいただいた振袖を着れないのは、残念だけど……)
 鈴は振袖に描かれた牡丹の柄にそっと触れ――……そのそばに置かれていた豪奢な全身鏡を見つけて、ひゅっと喉を引きつらせた。
(この、鏡は……)
 庵の調度品とは明らかに違う、異質な雰囲気をまとう不自然なそれに、鈴は違和感を覚える。
 そばに近寄り、観察すればするほど、見覚えがあるように感じる。
 いや、見覚えがあるなんてものじゃない。
(日菜子様のものに、似ている。……違う、似てるだけじゃなくて、これは、間違いなく日菜子様の鏡……っ!)
 春宮家の日菜子の部屋に置かれている、日菜子が小さな頃からお気に入りの金縁のこの鏡を、使用人として毎日磨き上げてきた鈴が見間違えるわけがない。
(で、でも、どうして? どうして、わざわざ鏡を)
 奇妙な違和感と言い表せない不気味さに、鈴の身体が小さく震えだす。
 そしてこれが違和感なんかではなく、仕組まれたことであると鈴が知るのはすぐだった。
「ぐううっ、ううううっ」
「う、梅さん……!」
 鈴のすぐ後ろに控えていた梅が、苦しげに呻き声を上げて喉を掻きむしる。
 顔面を蒼白にした鈴が為す術もなく、梅はその場にどさりと倒れ伏した。
「梅さん! 梅さん! どうしよう、救急車……っ!」
「あはははっ、救急車?」
 梅のそばに駆け寄って座り込んだ鈴の声に、嘲笑う少女の声が重なる。
「さすが、無能な名無し。呼んでどうするの? 呪術で首を絞められた人間が、一般の医療機関で治療できるわけないじゃない。発想が無能ねぇ?」
「……ひ、日菜子、様…………!」
「ああ、おかしいっ」
 鈴を心底馬鹿にした様子でクスクスと笑う日菜子が、庵へと入ってくる。
 その後ろには新しい使用人だろう少女がひとり、控えていた。
(日菜子様が、どうして十二天将宮に……っ)
 まさか鈴に連なる十二人の血族として、儀式に参加するつもりなのだろうか。
 日菜子を前にした鈴の身体は、長年刷り込まれていた彼女への恐怖でカタカタと震えを増していく。
 それでも、意識を失っている梅を抱き寄せて懸命に庇いながら、鈴は日菜子を見上げた。
「……梅さんを、どうするおつもりですか」
「彼女をどうこうするつもりはないわ。ただ見張りが邪魔だったから、意識を落としただけ。でも、こんなに苦しむなんて呪力耐性が低いのねぇ? やっぱり家系の問題かしら」
 日菜子は左手で持っていたなにかの紐を、ぷらぷらと揺らす。
 よく見ると、それは首に黒い麻紐が掛けられている藁人形だった。
(この藁人形って、まさか、梅さん……!?)
 鈴は目を見開き、絶句する。
「巫女見習いや術者が大勢来るのに荷物検査をしないだなんて、十二天将宮は呑気だわ。神様とその番様の『婚約の儀』を、誰もが無条件に祝福してるとでも思ってるのかしら? ふふっ、この鏡も花嫁道具と伝えたらすぐに通してくれたわ。この鏡の中に何が入っているかも聞かずにね」
 日菜子は鈴のそばまでやって来ると、豪奢な姿見の鏡面を指先でつうっとなぞり、「滑稽だこと」と嘲笑する。
(日菜子様の言葉通りなら、この鏡の中に藁人形を隠していたってこと……? 鏡の(・・)中に(・・)?)
 いったいどうやって。
 言葉では言い表せない不気味な気配が、ひたり、ひたりと鈴のそばまでやってきているかのような気がして、背筋がすっと冷たくなる。
「さあ、案内係は外で控えておいてちょうだい」
 日菜子が命令すると、意識がないはずの梅がのっそりと上半身を起き上がらせる。
 そして鈴の手を振り払い、その場ですっと立ち上がった。
「う、梅さん……?」
 鈴が咄嗟に呼びかけるも、返事はない。
 ぼんやりとした表情をしたままおぼつかない足取りで、彼女は庵から出ていく。
 どうやら意識がないまま、日菜子に使役されているらしかった。
(……いつの間に、こんな術を)
 日菜子はいつだって巫女見習いとして優秀な成績を修めてはいたが、こんな藁人形を用いた使役の術を操っているのを目の当たりにするのは初めてだ。
 もしも鈴が使用人をしていた時に操られていたら、と思うとゾッとする。
 すると日菜子は藁人形を指先で突いてから、『もう必要ないわ』とばかりにポイっと投げ捨てて、「驚いた? 名無しのために練習したんだから」と困った風に言った。
「わ、わたしの、ため……?」
「ええ。番様(あなた)には堕ち神である青龍様のために生き血を捧げ終えたら、速やかに退場してもらわないといけないでしょう? その時に上手に退場させてあげられるよう、練習したの」
(退場って、どういうこと……?)
「知ってる? あなたって巷では〝龍の贄嫁〟って呼ばれてるのよ」
「りゅ、〝龍の贄嫁〟……ですか?」
「そう! 青龍様が本物の神巫女を選ぶために娶った生贄だから、〝龍の贄嫁〟。ふふふっ、無能な名無しにぴったりな名前だわ!」
 日菜子は歌うように言うと、真っ赤な振袖の前へと駆けていく。
「見てご覧なさいな。こんな上等な振袖、お婆さんみたいな見た目のあなたには絶対に似合わない」
「そ、それは……」
「地味な振袖の方はいらないから、呉服屋に引き取ってもらったわ。この振袖はなにかの時のための予備にって、呉服屋の厚意で仕立てていたそうだけど……ふふふっ、不思議ね。『牡丹華』、私の霊力の象徴を表した豪華な振袖がこうして届くなんて」
 恍惚とした表情で日菜子は真っ赤な振袖を両手で抱きしめ、頬を寄せる。
「神々の思し召しとは正にこのこと。〈歴々の神々〉の加護が私を導いてくださっているんだわ。――あなたではなく、私こそが〈青龍の巫女〉になるべきだって!」
 狂気を孕んだ顔で日菜子がそう叫んだ瞬間。
 鈴のそばにあった豪奢な鏡から、ゆうらりと、しなやかな腕がなにかを探すように出てきた。
「きゃ……っ!」
 肌色の二本の腕はすぐに鈴を捕まえると、力づくで鏡の方へと手繰り寄せる。
 恐怖に駆られた鈴が見た鏡の中には、日菜子によく似た美しい怪異がいた。それは日菜子の、鈴に対する激しい妬み嫉みから偶然生まれた怪異だった。
「や、やめてっ」
 鈴は一生懸命に身をよじり、怪異の腕から逃れようとする。
 しかし美しい怪異はクスクスと不気味に笑いながら、鈴を鏡の中へと一気に引きずり込んだ。
 とぷん……と鏡面が揺れる。
「いや、やめて……っ。ここから出して……っ!」
 命の危機さえ感じる中、これ以上にないほどの恐怖に苛まれた鈴は、か細い声を振り絞って叫ぶ。
(まだ、こんなところでは、死にたくない――っ)
 竜胆との約束もなにひとつ守れぬまま、死ぬなんてできない。
「なに言ってるのか、まったく聞こえないわね」
 鏡の外側には聞こえていないのか、「まあいいけど」と日菜子は興醒めだとばかりに腕を組む。
 美しい怪異は言葉を発しない。ただクスクスと笑いながら、鈴の首に無理やり呪具を掛ける。
 その呪具には、朧げながら見覚えがあった。
 幼い頃、記憶の片隅にずっと残っていた、金属製の大きな錠前に華奢な鎖がついた首飾りだ。
 美しい怪異は錠前の鍵をかけると、クスクスと笑ってその鍵を暗闇の中へ放り投げる。
 カラン、カラン、カラン……と遠くの方で、金属が床に落ちて転がっていく音が響いた。
 鈴はガタガタと震えながら、その場に崩れ落ちる。
 恐怖が喉に詰まって、もう声が出なかった。
「その呪具はね、昔々、春宮家の優秀な巫女だった娘が神嫁にならなければいけない運命から逃れるために、腕利きの職人に頼んで作られたものなの」
 鏡の前に立った日菜子は、鈴の首元をトントンと指で叩きながら言う。
「嫁入りの日の朝……呪具は神々の目を見事欺き、彼女は雲隠れに成功して現世の想い人と結ばれたそうよ。けれどその代わりに、春宮家の血筋を引く彼女の侍女が呪符を飲んで、お嬢様の身代わりとして神嫁になったんですって。……だけど皮肉よね? 数百年の時を経て、こうして神嫁になる私に使われることになるだなんて」
(どういう意味? 日菜子様が……神嫁って……!?)
 舞台女優のように日菜子は踊りながら両手を広げて華やかな目元をくわっと見開くと、「〈青龍の巫女〉として、私が青龍様と『婚約の儀』を行うわッ!!!!」と大声で叫んだ。
 鈴は日菜子のその宣言にひゅうっと息を詰め、両手で口元を押さえる。
「や、……いや……! そんな、竜胆様……っ」
 鈴の脳裏に浮かぶのは、クールな面差しにふっと浮かべる竜胆の甘い微笑みと、どこまでも優しい声。
 心を寄せる彼に名前を呼んでもらえただけでも心臓がドキドキして、いてもたってもいられないほど胸がいっぱいになった、あの時――――竜胆の隣で、竜胆を支えられる存在になれたら、それこそが鈴の本当の幸せだと…………ようやく、強く自覚したばかりだったのに。
(竜胆様が、日菜子様と婚約するなんて――)
 考えるだけで苦しくて、切なくて、胸が潰れそうだと思った。
 竜胆は、鈴にとって〝誰よりも大切な存在〟なのだ。
「お、お願いです、日菜子様……っ! わ、私は、ここから、出れなくたっていい、です……。だけど、どうか……! どうか竜胆様だけは、奪わないで……っ」
 鈴はぽろぽろと涙を流しながら鏡面を叩き、懇願する。
 しかし鏡の外側には鈴の悲痛な叫び声が聞こえるはずもなく。
「ふふふっ、いい気味ね! あなたはそこで、私が世界一美しい神嫁になるのを見ているといいわ!」
 日菜子は憔悴している鈴を蔑むように眺めながらそう告げると、部屋の隅に控えていた使用人に命じて、『婚約の儀』のために用意されていた豪華絢爛な真っ赤な振袖へと着替え始めた。
 身支度はすぐに整えられ、日菜子は栗色の巻き髪を揺らして振袖姿を鏡に映す。
「やっぱりこの振袖は私のためのものだったのね! こんなによく似合うなんて……! 青龍様も、私の姿を見てきっとお喜びになるわ! あなたみたいな貧相な女じゃ、娶ったところで味気ないものねえ?」
 クスクスと妖艶に嗤う着飾った姿の日菜子を真正面から目の当たりにした鈴は、心がすっと冷たくなっていく。
(そうかも、しれない)
 誰もが褒めそやす美しさ、そして華やかさが日菜子にはある。
 大柄の牡丹が大胆にあしらわれた豪華絢爛な真っ赤な振袖も、春宮家の令嬢という日菜子を、これでもかと引き立てていた。
「あら? もうこんな時間。そろそろ儀式が始まる頃だわ」
 日菜子は胸元から一枚の紙を取り出す。
 身代わり符と呼ばれるそれには、【春宮鈴】と書かれていた。
 奪われていた真名が鈴に返されている今だからこそ、身代わり符の術式の効果が正しく発揮できる。
 鈴の真名を封じていた呪符を一度は手にした日菜子が、激昂もせずに祖父に呪符を返した理由はここにあった。
「神様も、こんなもので騙されるのね。効果は短期間らしいけど、『婚約の儀』で一度誓ったら婚約破棄なんてできないもの。効果の短さなんて関係ないわ。これで……これで私が! 私こそがッ! あの美しい青龍様の神嫁になるのッ!」
 欲望にまみれた日菜子は「うふふっ」と口紅で彩られた口角を吊り上げる。
「……あ、そんな……やめて……っ、やめて…………っ!」
「青龍様のために生き血を捧げ終わったら、あなたはその怪異が作った鏡の世界で、ずーっと、ず〜〜〜〜〜っと私のために生き続けるといいわッ!」
 美しい怪異はクスクスと笑いながら、鈴を拘束するように絡みつく。
 そんな中、日菜子は狂気満面の笑みで【春宮鈴】と書かれた呪符を唇に咥え、甘い砂糖菓子でも食べるかのように飲み込んだ。
「そうそう。花嫁道具としてこの鏡も持って行くから安心して? それであなたが飽きないように、青龍様との幸せな日常を毎日欠かさず報告してあげる。私の優しさに感謝しなさい? あははははッ!!!!」
 真っ赤な振袖を踊るように美しく翻し、日菜子は最高の笑顔を見せて支度室を出て行く。
 それに続いて日菜子の使用人も、【春宮日菜子】と書かれた身代わり符を飲み込んで出て行った。
「待って、……待ってください……日菜子様……!」
 部屋にひとり残された鈴は懸命に声を張り、鏡の外の世界へ手を伸ばす。
 しかしそれも虚しく。暗闇の中では、美しい怪異のクスクスと嘲笑う声だけが不気味に響いている。
 そして。
「……無様ねぇ、名無し」
 美しい怪異が、日菜子と同じ声で言葉を発した。
 鈴はゾッとして顔面を蒼白にさせる。
「あの使用人が()だなんて滑稽だけれど。……うふふふ。こうやって言葉を手に入れて、自由になれるのならなんだっていいわ」
 ひたり、ひたりと、美しい怪異は上機嫌で鈴の周囲を円を描くようにゆっくりと歩く。
「ねえ、楽しい遊びをしましょうよ!」
「…………あ、遊び?」
「私が鬼で、名無しは逃げるの。私から逃げ切ったら名無しの勝ち。もし逃げきれなかったら…………あなたの身体の一部を私にちょうだい?」
「…………っ!」
「そしたら私が、……私こそが! 本物(・・)になれる! すべてが終わったら、()に成り代わって……青龍様と幸せに暮らすの!」
 どろりと、美しい怪異の目が濁る。
 日菜子の鈴に対する妬み嫉みから生まれた怪異は、日菜子の意図せぬところで主人から離れ、自我を持ってしまったのだ。
 鏡に生まれた怪異を使役できていると思い込んでいた日菜子は、これから先、自分にも害が及ぶなどとは考えてもいないかもしれない。
 それどころか、〈神巫女〉として生きていくための霊力搾取元である異母姉が、怪異に取り殺されるなど――。
(あ、あ、あ、っ)
 悲しみと恐怖で混乱しきった鈴は、「はっ、はっ」と短い呼吸をしながら後退りする。
「それじゃあ、始めましょうか。いーち、にーい、さーん、しーい」
 濁りきった表情をした怪異が、突然数字を数え始める。
 鈴はまさかという思いで小刻みに震える足を叱咤し、慌ててその場から駆け出した。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう!)
 五を数える怪異を振り返りながら、鈴は闇雲に走り続ける。
「ろーく、なーな、はーち、きゅーう、じゅう!」
 遠くで聞こえる日菜子の、否、怪異の声。
 けれども、「捕まえた」という無邪気で不気味な声は、鈴のすぐ耳元で聞こえた。
「それじゃあ、まずは右腕をもらおうかしら」
 クスクスと笑い声が響く。
 そうして怪異が鈴に襲いかかろうとした、その刹那――。
「怪異ごときが。僕の可愛い、可愛い番様に手を出すな」
 暗闇の中に、ぶわりと氷晶をまとった大風が吹き荒れる。
 きらきらと白い光を発する氷の粒が視界を明るく照らした時、誰かが鈴の前に現れた。
 それは和装束姿の、この世のものとは思えぬ美貌を持った青い双眸の少年――――幼い頃の竜胆の姿をした、青龍の加護(・・・・・)だった。
(だ、誰? 子供の頃の、竜胆様……?)
 鈴は突然現れた少年に驚く。
 けれども彼は恐れる存在ではなく、この暗闇を唯一照らす一縷の希望なのだとすぐに悟った。
 彼の操る氷晶の異能は、瞬く間に暗闇を青く輝く氷の世界に変えていき、怪異の両脚を凍りつかせる。
 そして凍りついた地面の四方八方から、剣のごとき氷柱がすごい速度で現れたかと思うと、怪異の四肢を宙に持ち上げるようにして一気に貫いた。
 それは彼の、一方的な蹂躙だった。
「があ……ッ!」
「汚い声を出さないでくれ。僕の番様の耳が穢れる」
 動きを完全に封じられた怪異は、神格の強い青龍の強すぎる神気に灼かれて、じわじわとその実体を失くしていく。
「無様だな。怪異ごときが、神々の番様に手を出せると思うなよ」
 幼い姿をした竜胆が、少年らしからぬ表情で冷たく言い捨てる。
 日菜子の姿をした美しい怪異は絹を引き裂くような断末魔をあげながら、パリンッという鏡の割れるような音を残して、粉々に消滅していった。
 硬質な鏡面の先にしか見えていなかった支度室の風景が、いつのまにか視界一面に広がっている。
「……も、もしかして……鏡から、出られたの?」
 腰が抜けた鈴は、力の抜けた両足で立っていられずにぺたりとその場に座り込む。
 幼い竜胆は床に落ちていた鍵を拾うと、鈴の首に掛かっていた呪具の錠前に差し込み、封を解いた。
 神から隠すための呪具よりも先に鈴へ与えられた加護には、その効果は発揮されなかったらしい。
 彼はへたり込んだ鈴の正面に跪いて、眉を下げた。
「僕がついていながら、怖い目にあわせてしまって申し訳ありませんでした。番様の加護として与えられたばかりで、その上現実世界に顕現するのは初めてだったので、時間がかかってしまって」
 幼い竜胆の姿をした彼は、鈴との年齢差を気にしてか敬語で喋りかけてきた。
 緊迫した状況から一変、それがなんだか不思議な感じがして、鈴は「い、いえ」と気の抜けた返事をする。
「あの、助けてくださって、ありがとうございます」
「これくらいどうってことないです。それよりも、お疲れになったでしょう?」
 どこからともなくひらひらと侵入してきた綺麗な蝶が、幼い竜胆の指先にとまる。
(あっ、竜胆様の式……)
「あちらももうすぐ片付くそうです。それまでは……〝どうぞゆっくりおやすみください〟」
 幼い竜胆が神気を使ってそう告げると、鈴の意識がどこか朦朧としてくる。
 よほど疲れていたのか、ぱたりとその場に倒れるようにして眠ってしまった鈴に膝枕をしながら、幼い竜胆は幸せそうに「おやすみ。僕の可愛い番様」と微笑んだ。


   ◇◇◇


 粛々とうつむきながら朱色の太鼓橋を渡る真っ赤な振袖の日菜子の後ろに、春宮家の当主である祖父や両親、そして苧環家出身の当主に陶酔し慕ってきた春宮家と苧環家に連なる十二人の血族たちの行列がつく。
 同様に太鼓橋の対岸からは、紋付袴をまとい正装をした竜胆の後ろに狭霧家の当主と母、それから竜胆に忠誠を誓う十二人の眷属たちの行列がつき従い、一歩、また一歩と『婚約の儀』を行う太鼓橋の中腹へと向かっていた。
 そうして、その時が訪れる。
 朱色の太鼓橋の中腹に辿り着いた竜胆は、甘美な行為を前にしたかのように長い睫毛に縁取られた双眸を細め、口角を上げる。
 その表情を真正面から向けられた日菜子は、『あ、あああっ! なんて美しいの!』と内心歓喜の声を上げていた。
 あの最悪な『巫女選定の儀』から約二ヶ月……。激しい怒りと嫉妬にまみれた毎日は本当に長かった。
 でも、それも今日限りだ。
 日菜子は竜胆の恐ろしくも美しい美貌を前にして、真っ赤に染まった頬を上気させ、まるで恋人かのように彼へ微笑み返す。
 やっと、やっと私が青龍様の〈神巫女〉としての権利を認められる。
 そして神嫁として、世界で一番幸せな結婚ができるんだわっ!
 目の前では、何も知らず疑う様子もないひとりの(おとこ)が、「〝それでは『婚約の儀』を執り行う〟」と宣言する。
 いよいよだ。……いよいよだ、いよいよだ!
 日菜子は歓喜で震えながら息を吸った。
「――〝春宮鈴〟」
「はい」
「〝十二神将は吉将が木神〈青龍の番様〉として、この婚約に嘘偽りはないと誓うか?〟」
「誓います」
「〝十二天将宮に座す十二の神々と契りを交わし、嘘偽りなく自分こそが〈青龍の神巫女〉であると誓うか?〟」
「誓います!」
「〝本日馳せ参じた十二人の〈青龍の眷属〉、そして春宮の十二人の血族の命を神々に捧げ、ここに婚約破棄をせぬことを誓うか?〟」
「もちろんです、青龍様。永遠に誓いますわ!」
 感情が高ぶった日菜子は自身の口調を偽るのも忘れて、そう宣言した。
 けれど口調なんて偽らなくてもいいのかもしれない。相手には、日菜子のことが異母姉に見えているのだから。
 眷属たちも言葉を発しないということは、誰も入れ替わりに気づいていないのだろう。
 身代わり符でこんなに簡単に騙せたのは、やはり一度真名を返した効果が大きいようだ。
 異母姉は鏡の異界に隠しているし、神々からその存在を隠すための呪具も掛けてきた。その気配を悟られる心配もない。
 異母姉は今頃、さめざめと泣きながら、自分の運命を呪っているはずだ。
 ふふふっ、かわいそうな名無し!
 日菜子は今すぐにでも竜胆に抱きつきたいのを我慢して、恍惚とした表情で誓いの口づけを待つ。
 ――しかし。
 誓いの言葉を述べ終わった竜胆は、底冷えのする凍てついた双眸で日菜子を睥睨すると、
「それはそれは。立派な心構えだ」
 低く冷たい声音で、そう告げた。
 ゆうらりと、紫色の瘴気が神々しい神気を侵食していく。
 そうして黄昏時が迫るかのごとく、竜胆の青い瞳に赤が交わった。
「お前はまだ、自分こそが〈神巫女〉に相応しいとでも思っているのか? 愚かな人の子風情が、目障りだ」
「な……なんのことでしょう?」
「とぼけても無駄だ。鈴のすべてを奪い、霊力を搾取し、虐げ続けた罪は重い」
「う、うそ…………ッ」
 竜胆が一歩、また一歩、と日菜子と距離を縮めるたびに、足元から氷晶の異能が世界を変えていく。
 その恐ろしくも美しい堕ち神の怒りに触れたことを知り、恋する乙女のように上気していた日菜子の顔からは、サアッと血の気が引いた。
「なッ、なんで!? どうして……!? こんなの、嘘よ! どうしてバレてるの!?」
「……どうして? 答えは簡単だ。最初から誰も騙されてなどいない」
 それを聞いた日菜子は、神への恐怖でヒュッと息を呑んだ。
「騙されて、ない、なんて」
 真っ青な顔でガタガタと震え始めた日菜子は一歩、また一歩と後退る。
 儀式の言葉に則り、嘘偽りないと誓った。
 春宮家の当主と日菜子に忠誠を誓う十二人の命まで懸けて、誓ってしまった。
 …………――その代償は、なに?
「キャアアアアアアアッ!」
「お、お母様っ!?」
 甲高い叫び声に驚き、切羽詰まった表情で日菜子が後ろを振り返ると、そこには皮膚という皮膚に赤黒い他人の真名が浮かび上がり、業火に焼かれるほどの痛みに叫び続ける祖父と両親がいた。
 焼き鏝を当てられたかのような灼熱の痛みが次々に襲い、眼球の白い部分にまで名前が浮かび上がっている。
 それは苧環家が過去四百年の間に葬り去った、すべての人々の真名だった。
「ヒィイッ! 日菜子様、助けてくださいませッ!」
「くそッ! 祓い除けられん!」
「やめてくれぇぇぇ!」
 神々への誓いを虚偽で破った春宮家の十二人の血族たちは、地面から這いずり出てきた禍々しい黒い影によって、次々と地中へ引きずり込まれていく。
 神々の裁きが下されたのだろう。
 辿り着く先は、奈落の底か。死者の国か。それは誰にもわからない。
「ヤダ……ッ! 嘘よ、こんな……っ! に、逃げなくちゃ……! 逃げなくちゃ、死んじゃうわ!!」
 日菜子は禍々しい黒い影に引きずり込まれる十二人の血族を見捨てて、逃げる選択をした。
 しかし。弾かれるようにして走り始めた日菜子の足が、すぐに思うように動かせなくなる。
「キャァァァァアアアッ! なによこれッ!」
 日菜子の足から、どろりと茶色い腐敗物が落ちる。
 なんと、鼻を突く異臭とともに、日菜子の腕や足が腐り始めていた。
 神々に嘘偽りを述べた代償として、鈴から長年搾取し続けていた偽りの霊力を巡らせていた肉体が、正しく限界を迎えたのだ。
「――因果応報。神々の前では代償のない誓いなど存在しない。……そうだろう?」
 壮絶な瘴気をまとった竜胆の唇が艶やかに弧を描き、この世の者とは思えぬほどの美しい微笑みを浮かべる。
 ()の神が、日菜子に甘く微笑むなど天地がひっくり返ろうとありえない。
 儀式の前に見せた甘美な笑みは、約束を破った愚かな人の子に鉄槌を下す神の、本能的な――。
 堕ち神の怒りと畏怖に触れた日菜子は、全身の震えが止まらない中、どろどろに溶けていく両手で頭を抱える。
「な、なんで? どうして?  私が、私の権利を取り戻してなにが悪いって言うのッ? だいたい名無しが、名無しが私に与えられるはずの霊力をすべて奪って先に生まれたのが悪いのよ……! だから私が、名無しから霊力を搾取するのは当然で……!」
「……この世に生まれた順番で霊力の質が決まると、本当に思っているのか? そんなのは人の子が勝手に作った迷信だ」
「め、迷信ですって? そんなの、嘘…………ッ!!」
「霊力とは、魂の素質そのもの――。清らかな魂には清らかな霊力が宿り、穢れた魂には歪な霊力しか宿らない」
 日菜子の叫びに、竜胆は冷ややかな視線を返す。
「あ、そんな…………ち、違うわ。私は、悪くない。悪くない。悪くない、悪くない、悪くな……っ」
 狂ったように呟く日菜子の後ろに、カツン、カツンと革靴の音が響く。
 日菜子、祖父、そして日菜子の両親の周囲は、いつのまにか監獄の看守を彷彿とさせる白地の制服を着た人間たちに取り囲まれていた。
 立派な制帽の中央に掲げられているのは、八咫烏を榊の葉が取り囲んでいる金色の帽章。
 十二天将宮の神職からの通報を受けて馳せ参じた、対呪術、対怪異、対堕ち神の特別対策機関『特殊区域監査局』の者たちだった。
 そのうちのひとり、藍色の長髪を首の後ろで三つ編みにした金色の双眸を持つ美丈夫――六合が、無感情で抑揚のない低い声で告げる。
「春宮日菜子。そして春宮昭正、春宮成正、春宮華菜子。お前たちを、神世の中枢とも呼べる十二天将宮を呪い穢した罪で『特殊区域監査局』に連行する」
 かろうじて意識のあった昭正は、その言葉に絶望の色を浮かべた。
 今まで処罰を免れてきた罪が、昭正たちには多くある。神気を以ってして取り調べをされたら、今の自分に残る霊力ではとてもじゃないが抗えないだろう。
 苧環家から続く悪行も、命を懸けてきた秘術も、すべて白日のもとに晒されることとなる。
 いいや、それだけではない。
〈六合の巫女〉を怪異で貶めたことも、バレてしまえば、きっと――!
「夏宮、罪人に封咒を」
「はい」
 六合の背後から、長い黒髪を高く結い上げたハンサムな少女が姿を現す。
 夏宮旭。それは日菜子が百花女学院から確かに退学させた、ひとつ年上の少女だった。
 日菜子は幽霊でも見たかのように、目を見開く。
「っ、どうして!? 夏宮先輩が、なぜここに……ッ」
「驚いたろう? この短期間で、使えるコネはすべて使った。……春宮日菜子、君から名無しを救うために」
 旭は八咫烏と榊の葉が描かれた真っ白な制帽の(つば)を上げ、あの時とは反対に日菜子を見下ろした。
 う、嘘よ、嘘よ、嘘よ! こんな風に見下されるなんて冗談じゃないわ……!
 こんな結末、許されないんだからッ!
 そう日菜子は怒りを覚えながらも、心の底ではこれが自分の謀略の終わりであるとも感じていた。そして、この結末のすべてが竜胆の口から鈴へ伝わるだろうことも。
 ……まさか、あの無能な異母姉も、こんな風に私を見下すんじゃ……ッ!
 神々の裁きに対する恐怖でカラカラになっていた日菜子の口内には、酷い屈辱感と敗北感が苦く広がる。
「うっ、あああああああッ!!!!」
 日菜子は伏せながら拳を振り上げ、狂ったように泣き叫びながら地面に何度も振り下ろす。惨めな自分の現状は到底受け入れ難く、気が触れそうだった。
「…………青龍。こちらの処理は任せておけ。追って沙汰を伝えよう」
「ああ」
 六合の申し出に竜胆は頷き、その場をあとにする。
 日菜子たちへ視線を向けることはもうない。竜胆の頭の中は、すでに愛おしい鈴のことでいっぱいだった。

 竜胆が番様用の支度室として用意されていた庵に到着すると、顕現した加護の小さな膝で、鈴はすやすやと眠っていた。
「……遅かったですね」
「お前こそ」
「今度は上手く顕現してみせますよ」
「……俺は今度がないことを祈るがな」
 ふたりはシニカルな笑みを浮かべてしばし睨み合うと、根負けをした加護の竜胆が白旗を上げた。
「あとは頼みます」
「ああ」
 竜胆は彼の膝に眠っていた鈴を抱き寄せ、自らの膝に眠らせる。
 加護の竜胆は鈴を大切そうに見つめてから、顕現を解いた。
 ふっと、神気が揺らいで消える。
 それからどれほど経っただろう。「ううん」と小さく身じろいだ鈴へ、竜胆は愛おしげに視線を落とす。
「……竜胆、様……?」
 夢うつつのその呼びかけに「ああ」と短く答えた竜胆は、ゆっくりと上半身を折って、鈴の唇へ己の唇を重ねた。
 あたたかく清らかな神気が、日菜子の生んだ怪異で穢れてしまった鈴を癒していく。
 鈴はその心地よさに身をゆだねながら、口づけを終えた竜胆へと両手を伸ばし、彼の頬を手のひらで包んだ。
「……私、竜胆様のことが、……好きです」
 胸いっぱいに溢れ出てくる感情を、鈴は必死に吐露する。
 鏡の世界に囚われた時は、もう伝えられないのではないかと思っていた。だから。
「好きです、竜胆様」
「……ああ」
「言葉では言い表せないくらい、大切で……――――っ!」
 けぶる睫毛に縁取られた鈴の瞳が驚きで染まる中、竜胆は鈴の告白を奪うように再び唇を重ねる。
 強引で甘い口づけに翻弄されながら、鈴はこれ以上ない幸せを感じて一筋の涙を流す。
「俺も君を愛している。きっと君が思っている以上に」
 竜胆はそう告げてから鈴を抱き上げると、己の一等大切な存在を心の奥底から愛でるような穏やかな微笑みを浮かべてから、帰路に着いた。


   ◇◇◇


 鈴の背中の術式は、漣総合病院の神霊経絡科の医師たちによってすべて綺麗に取り除かれた。
 真名も魂も、搾取されていた霊力も、すべてを取り戻した鈴は改めて『婚約の儀』を行うことになり――、晴れて竜胆の婚約者となった。
 その日、鈴が身にまとったのは、竜胆が鈴のために選んでくれたあの特別美しい振袖だった。
 鈴の親族として参列したのは、祖父によって無理やり施設に入れられていた鈴の祖母。
 新しい春宮家当主となった、春宮八重子である。
 その肌に白蛇の鱗を宿した神秘的な姿をした祖母は、初めて会うことになった孫娘を前にしてしわくちゃな顔をさらにくしゃくしゃにして涙を流しながら、「今までずっと、ひとりきりにしてごめんなさい」と鈴をあたたかく抱きしめてくれた。
 祖父によって遠ざけられ、春宮家の門をくぐることすらできなかった分家の者たちも、再び集まることができたそうだ。
 鈴の置かれていた状況を長年知ることすらできなかった彼らは、「少しでも力になれたら」と、十二人の血族として十二天将宮の神々と破れぬ契りを交わしてくれた。
 今、春宮家の結束は鈴を中心とし、八重子のもとで再び強まろうとしている。
 祖父や父、継母と日菜子たちは『特殊区域監査局』の刑務官から罪人として真名剥奪を行われ、春宮家からも追放されているらしい。
 その後どうなったか詳細を聞くか? と竜胆に問われたが、鈴はふるふると首を横に振った。
(罪を償ってくれたのなら、もうそれだけで十分)
 そう思ったのだ。
 鈴には伝えられなかったが、春宮家から追放された祖父や父、継母と日菜子たちは、『特殊区域監査局』が厳重に管理している山奥の荒屋で、そこに発生していた怪異を鎮める人柱となっていた。
 日々霊力と体力を削り、自分たちが神々に裁かれ、十二人の血族たちが地中へ飲み込まれた時のあの時の恐怖に怯えながら、その日を生きのびるために生活している。
 苧環家の者たちで鈴に関わりのあった人間は、ほとんどが十二人の血族として集っていたため、罪に問われた者は使用人くらいのものだったが、彼らは祖父や日菜子たちの使用人として従事させられることで、同じ道を辿っている。
 利益のために怪異を作り出していた者たちは、怪異に怯えることとなったのだ。
 しかし、彼らの本当に悲惨な現状を鈴が知ることは今後もないだろう。
 清らかで優しい心を持つ鈴が、日菜子たちの処遇を憂い心を痛め続ける必要性はないからだ。
 竜胆を始めとする狭霧家の者たちも、現春宮家の者たちも、今まで過酷な生活をしていた鈴を大切に大切に、真綿で包むかのように庇護していた。

 そんな鈴の新しい日常は、きらきらとした輝きに満ちていて、少しばかり忙しい。
 というのも、もうすぐ神城学園高等部への入学を控えているせいだ。
 本来ならば〈神巫女〉となった巫女見習いは、百花女学院の特別科に進むのだが、竜胆がそれを強く反対した。
「あの傲慢な異母妹が牛耳っていたような百花女学院へ、鈴をやれるわけがないだろう」
「で、ですが、巫女見習いではない私が、巫女見習いとしての基礎を学ぶためには必要だと、学院長先生が……」
「駄目だ。基礎を学びたいのなら、神城学園でも特別講習を受けられる制度がある」
 そう言って、彼は一歩も引かなかった。
 新しく仕立てられた真っ白なワンピース型の制服には、〈青龍の巫女〉であることを示す朱色の組紐飾りがつけられている。

 ――そうして。
 数日間降り続いていた雨が上がった、六月の早朝。
「鈴」
 朝露が光る菖蒲の花が彩る神城学園の門前で、竜胆が眩しい光を見つめるかのように目を細めながら、愛おしげに鈴の名を呼んだ。
「今行きます」
 制服を身にまとった鈴は、やわらかな微笑みを浮かべて、竜胆の元へ走り出す。
 竜胆の番様としての、鈴の幸せに満ちた新しい一歩が――……こうして、幕を開けたのだった。




《完》