見知らぬ真っ白な部屋で目を覚ました鈴は、竜胆の姿を目に映し――そしてあの宵闇と朝焼けの景色を閉じ込めた宝石のような双眸が、青く凪いでいるのを見て心の底から安堵していた。
 身体の隅々まで刻まれていた灼熱の穢れを帯びた傷痕が、すべて彼の神気で癒されてしまっていたら後悔してもしきれないと思っていたが、最悪の結末はまぬがれたらしい。
 あれからすぐに竜胆がナースコールで呼んだ神霊経絡科の主治医である女性医師から、鈴に施された治療についての話を聞きながら、鈴は相槌を打ちつつぽろぽろと涙を零す。
(ああ、よかった……。私のせいで、竜胆様を歴史書に名を残したような堕ち神様にしなくて、済んだんだ……)
 十二の神々は穢れに敏感だ。現世を少し歩くだけでも、穢れをまとってしまうと聞く。
 そんな十二の神々のひとりである竜胆が、鈴に長年刻まれていた穢れに触れて堕ちてしまったあの時、竜胆の寿命を縮める存在となってしまった自分の存在を酷く恥ずかしく思っていた。
(だけど、まだ、生贄として竜胆様に恩返しをする猶予があるのなら)
 これほど嬉しいことはない。……これほど、幸福なことはなかった。
 鈴の身体中に刻まれていた呪詛の痕は、すべて神霊経絡科の侵蝕度の深い穢れの切除を専門とする医師や看護師によって、七日間をかけて浄化されたのだという。
 浄化と聞いて、巫女見習いたちが行なっていた祈祷をイメージしていた鈴だったが、神霊経絡科で行われるのはもっと高度で専門的なものらしい。
 なんと清らかな霊力と特殊な医療器具を使い、穢れや呪詛を切除していくという外科手術に近い治療を経て、深部から取り除いていくそうだ。
 治療のおかげで、竜胆が唇で触れて浄化した左腕だけでなく、右腕にもあの呪詛の痕は残っていない。
 きっと入院着の下も同じなのだろう。
 鈴が自分自身のこんなに綺麗な肌を見たのは、おそらく初めてに等しい。
 物心がついた頃にはすでに、日菜子に向けられたあらゆる呪詛を代わりに被っていたからだ。
 特に日菜子が百花女学院の中等部に入ってからは、他の巫女見習いたちから嫌われたりやっかまれたりする頻度が上がり、カフェテリアで提供される食事に呪詛が仕込まれるパターンが急増した。
 というのも、特定の物に対し座標や時間軸を指定して、遠隔で浄化の術式を行使するという授業が行われ始めたからだろう。
 高等部を卒業するまでに習得できるかどうかという技術らしいが、巫女見習いとして神々の穢れを癒す巫女になるためには必要な技術になってくる。
 それを習得した優秀な巫女見習いが悪意を持って、浄化の術式を呪詛の術式に応用し始めたのだ。
 代償は霊力のみ、効果は一度きりという呪詛であれば、術式の応用程度で行使できる。
 その上、不特定多数が触れる可能性のあるものや座標や時間軸がわかりやすい物は、呪詛をかける対象物にしやすい。
 シェフや配膳係など多くの手が入るカフェテリアの食事は、その代表格と言っていいだろう。
 日菜子は学年主席を維持し続けているので、カフェテリアで提供される特別なメニューは呪詛をかける対象物として格好の的だったのかもしれない。
 普通の巫女見習いは霊力を使い、食事に祈祷をしてあらかじめ浄化することで、呪詛を仕込んだ術者の力量を下回っていなければ回避できる。
 だが日菜子に呪詛をかける巫女見習いたちは、日菜子がそれをしないのを承知の上で行なっていた。
 さらに巫女見習いとして優秀な者は、呪詛を呪詛とも思わせぬ方法も得意だ。
 日菜子の食事を毒味する〝無能な名無し〟に霊力がないのを知っているからこそ、〝無能な名無し〟にかけられている呪詛破りの術式を突破する自信があったのだ。
 犯人が特定されない限りは『退学』という罰則も発生しないため、食事に呪詛が仕込まれるのは日常茶飯事だった。
 それこそ、鈴が味覚をなくすくらいには。
 けれどその真相も、日菜子の異母姉を虐げたいという思惑も知らぬ鈴は、日菜子に言われるがままに使用人として毒味をする毎日だったのだ。
(これなら竜胆様にも、穢らわしいと思われないかもしれない……。それに、私の肌に刻まれた呪詛の痕のせいで、竜胆様を予期せぬ穢れに触れさせなくて済むかも……)
 鈴は驚くほど真っ白になった両腕を見て、「ありがとうございます」と涙ぐみながら女性医師に感謝を伝える。
「背中にはまだいくつかの術式が残っていますので、そちらの治療はまた改めてということになります」
 主治医として執刀したという彼女は〈玄武の眷属〉だそうで、言われてみれば確かに人の子とは違う雰囲気をまとっている。
 初めて神々の眷属という存在を目にした鈴は、それから一拍して、ここは現世ではなく神世なのだとようやく気がついた。
 ベッドに入ったまま枕を背もたれに座っていた鈴は、慌てて居ずまいを正して一礼する。
「わ、わかりました。治療していただき、本当にありがとうございました」
「いいえ。術式の詳細に関しましては、青龍様から伺った方がわかりやすいかもしれません」
「は、はい」
 鈴は涙をぬぐい、緊張気味に頷く。
 背中には真名を剥奪された際の術式と呪詛破りの術式が刻まれていることは知っているが、いかせん自分は巫女見習いではない。
 使用人科では術式のじゅの字も習わないため、今から竜胆の手を煩わせるのかと思うと、申し訳なさで動悸がしてくる。
「それでは玄武様を呼んで参りますので、もうしばらくお待ちください」
 主治医の女性は丁寧な一礼をして、病室を出て行く。
「今から玄武が来ると言っていたが……断るか? 少しでもきつければ眠っていた方がいい」
 まだ意識が戻ったばかりだというのに、主治医と彼女を長く話し続けさせてしまったと感じた竜胆は、鈴の前髪を指先で払い、長い髪の毛を耳に掛けてやる。
「い、いえっ、大丈夫です。神様をお待たせするわけにはいきませんから」
 竜胆の優しい指先がかすかに耳に触れ、鈴はどぎまぎしながらきゅっと毛布を握る。
「……そうか。無理をしないように」
 青い瞳をふっと細め、竜胆は鈴からそっと指先を離す。
 まだ触れていたいという名残惜しさが胸を突くが、なんと言っても彼女は意識を手放す直前、堕ち神と化した竜胆を見てその生き血を捧げるために命を諦めようとしていた。今も変わらず、恐ろしいと思っていて当然だ。
 せっかく一緒に過ごせる時間を手に入れたのだから、彼女を過剰に怯えさせたくはなかった。
「……あの、竜胆様」
「なんだ?」
「竜胆様にも、なんと感謝の言葉を伝えていいか……。本当に、ありがとうございました」
 鈴はさらにきゅっと毛布を握りしめて、深く頭を下げる。
「当然のことをしたまでだ。かしこまらなくていい」
「でも」
「いいんだ。むしろ俺にも落ち度があった。……君を危険にさらしてしまって、悪かった」
 鈴が言い募ると、竜胆は眉を下げて、心底苦しそうな寂しげで切ない表情を見せた。
「そ、そんなっ。竜胆様はなにも悪くありません!」
 彼にそんな顔をしてほしくなくて、鈴はベッドからちょっとだけ身を乗り出す。そしてすぐにそんな自分の勢いを恥じ、もとの位置で小さくなった。
「私こそ、その……たくさんの穢れを、竜胆様に」
「これくらい、どうってことない」
「そ、そんなはずありません! 霊力のない私には視えませんが、きっと竜胆様のお身体を蝕んでいるはずです」
「俺は君の穢れを肩代わりすることができて、僥倖だとすら思っている」
 竜胆は優しく甘やかに微笑む。
「君の穢れをすべて肩代わりしたいとさえ思っていたが、医師たちからは治療に携わるのを断られてしまった。神気を使うことさえできれば、もっと早く、君の痛みを取り除けたかもしれないのに」
 竜胆は言う。強い神気を用いれば、今回の外科手術的な治療と同じことができるそうだ。
 しかし、それには神気を用いた神にそのまま穢れが移ってしまう。
 十二の神々は受けた穢れを自己浄化できないので、時と場合によっては、最悪……命を落としてしまう場合もあるらしい。
 だから竜胆は鈴の手をずっと握って、ただひたすら神気を流しながら祈り乞うことしかできなかったのだと言う。
 それを聞いて、鈴は顔を青ざめさせていた。
 もしかしたら手を握っている間にも、多少の穢れには触れていた可能性がある。
「……わ、私はどうやったら、竜胆様の穢れをすべて癒すことができますか? その、お恥ずかしいのですが、巫女見習いではないので、なにも知らなくて……っ」
 巫女見習いは一日にしてならず。
 初等部で六歳から学び始めて十八歳で高等部を卒業するまで、その技術を磨き上げる。
 難易度や専門度が求められる大学へと進学できるのは、さらに少数だ。
 その技術を習ったところで、霊力の欠片もない無能な自分ができるとも思えないが、鈴はそれも重々承知の上で聞いた。
(日菜子様だったら、すぐに竜胆様を癒せるのかな……?)
 ふと頭に異母妹のことがよぎり、鈴は暗い気持ちになる。
 片や巫女見習いとして将来を有望視されている学年主席、片やしがない使用人だ。知識量の差だけでなく、全てにおいて差は歴然としている。
「う、噂でしか知らないのですが、堕ち神様は生贄の生き血をすすると瘴気を神気に変えられると聞きました。竜胆様、あの、私の血でよろしければすべて――」
 鈴がそこまで言ったところで、ベッドサイドの椅子に座っていた竜胆が身を乗り出し、鈴を抱きしめた。
「君の生き血を啜るくらいなら、俺は堕ち神として討伐されることを厭わない」
 鼓膜を震わせたのは、激しい感情を押し殺したような甘くかすれた切ない声音。
 捕まえていないとどこかへ儚く消えてしまいそうな鈴を、懸命に引き止めようとする力強い腕と彼のあたたかなぬくもりに、否応無しにどきどき鼓動が早くなり、翻弄されそうになる。
 けれども、彼の言葉の真意に辿りついてしまい、鈴の唇は恐怖で震える。
(答えを、聞きたくない)
 そう思うのに。
「そ、それは……生贄として、私の血が……、私に流れる血までもが、無能で、使えないものだからですか……?」
 震える唇が、真実を問おうと開くのを止められなかった。
 彼の口からだけは、その答えを聞きたくなかった。でもきっと……ずっと知らぬふりをしていくより、ずっといい。
 お前は無能で役に立たない名無しだとひと思いに断言されてしまえば、なにも望まず、今まで通り生きていける。
(……もう、名前を呼んでもらいたいだなんて、願わずに済む)
 霊力のない無能な人の子が持つには傲慢すぎる願いを、手放さなくては。
 そんな鈴の心情を察した竜胆は、腕にぎゅっと力を込めて鈴をさらに抱き寄せると、灰色の髪が流れ落ちる頭頂部にそっと静かに唇を寄せ、目を伏せる。
「違う。――君が大切だからだ」
 それは、鈴が予想もしていなかった言葉だった。
「………………っ」
 思わず息をすることも忘れてしまう。
 竜胆は抱きしめていた身体を離し、瞳を揺らし動揺している鈴と、ゆっくりと視線を合わせる。
「忘れたとは言わせない。君は生贄ではなく、世界でたったひとりしかいない〈青龍の巫女〉としての力を持つ、俺の最愛の番様だ」
「で、でも……。私には霊力が、〈青龍の巫女〉たる霊力がありません……っ」
 竜胆に選ばれたのは『彼の生贄としての役割が自分にあるからだ』と、そう信じていたから納得できていた立場も、『生贄ではない』と言われてしまえばすべてが揺らいでしまう。
(せっかく選んでもらったのに、彼の生贄としてこれから恩返しができると思ったのに、自分の血を使ってもらうこともできず、彼の穢れを少しでも癒せるような霊力もない)
 それどころか、自分に長年刻まれていた穢れに触れさせ、神を冒涜しさえした。
 そんな罰当たりな自分に、〈神巫女〉も番様も務まるわけがない。
(……私は、どうしてこんなに役立たずなんだろう……っ!)
 自責の念に駆られて、感情がぐちゃぐちゃになる。
 そんな鈴の悲痛な訴えに対し、竜胆は低い声で「それも違う」と諭すように口にする。
「〈始祖の神々〉が降り立って約四百年。この長い時間の中で、歴々の神々の番様には霊力のない方も存在した。君に霊力があろうとなかろうと、番様か否かにはまったく関係がない。ただ……――俺の本能が君を求めて飢えている。その事実こそが、君が俺の唯一無二であることの証だ」
 それに、と竜胆は前置きをしてから、
「君の霊力は奪われているだけに過ぎない」
 信じがたいことを口にした。
「……え…………?」
(わ……私の霊力が、奪われて、いる……?)
「君には生まれながらにして霊力が宿っている。春宮の傲慢な娘が持っている霊力が、君の本来有するはずだった〈青龍の巫女〉としての霊力だ」
 その言葉の意味が、わからなかった。
 鈴は物心がついた時からずっと、霊力とは無縁の人生を歩んできた。
 それなのに、今さら霊力があると言われてもにわかには信じられない。
(呪詛がかかっているものに黒い靄が視えるのも、霊力によるものではなく、呪詛にかかり過ぎた代償だって知って……)
 学年主席をおさめる日菜子ほどの巫女見習いでも視えていないのだから、実際その予想は正しいはずだ。
 それじゃあ、鈴の霊力とはいったいなんなのだろうか?
「先ほど医師が話していた通りだ。神霊経絡科での検査の結果、君の背中に刻まれている術式が明らかになった。刻まれていたのは四つ。真名剥奪、呪詛破り、授受反転……そして、霊力搾取の術式だ」
「れいりょく、さくしゅ……?」
(罪人として、真名を剥奪されていただけじゃ、なかったの……?)
「そうだ。この術式が刻まれているという事実こそが、君に霊力があるという証明になる」
 鈴の瞳が困惑で揺れる。
「霊力についてはまだ解明されていないことも多いが、人の子の霊力はその命――魂がその素質を宿し、祖先から脈々と受け継がれてきた血がそれを肉体に目覚めさせることで、生み出されると言われている」
 竜胆の説明に、鈴はおずおずと頷く。
「君の心臓が動いている限り、霊力は生み出され続ける。真名が剥奪されていようとそれは普遍的な法則だ」
「……そ、それじゃあ、もし、私に霊力があるとして……今も生み出されているのですか?」
「そうなるな。そして君の背中に刻まれている霊力搾取の術式が繋がっている先は、――君の異母妹だ」
 ひゅっと、鈴は息を喉に詰めた。
「まさか、そんな。……私に霊力があって、それで、日菜子様に……?」
「春宮家当主があの傲慢な娘を〈神巫女〉にしようと、君が幼い頃に他の術式と一緒に刻んだに違いない。君に目覚めた清廉で稀有で莫大な霊力をすべて搾取し、今も変わらず、あの傲慢な娘のものにしている」
「…………っ」
「君には霊力が存在しないんじゃない。最初からずっと奪われているんだ。あの異母妹の持つ霊力の九割以上が君のものだと断言していい」
 衝撃的な真実を知らされて、鈴は呆然としていた。
(それじゃあ、私は、――霊力の欠片もない、無能な名無しなんかじゃ、なかったの……?)
 押し寄せる激流のような情報で頭が混乱している。
 日菜子が幼い頃からずっと使っている霊力のほとんどが、鈴自身の霊力だっただなんて。
「俺はこの十数年間、ずっと君を探していた。君のことだけを。ずっと」
 これ以上にないほど真剣な瞳に射貫かれ、鈴の頬は急激に熱を持った。
 竜胆は静かに語り出す。幼い頃の一瞬の出会いを。彼が鈴に抱いた愛おしさを。
 そして神であるがゆえに、鈴を探しに行くことも、助けに行くことすらもできずにいた悔しさと、惨めさと、憤りを。
 知らなかった事実に、鈴の心は震える。
 誰かが、――竜胆という神様が、自分をそれほどに求めてくれていただなんて、思ってもみなかった。
 ずっとひとりぼっちだと思っていた鈴の人生には、竜胆のあたたかな想いが寄り添ってくれていたのだ。
 とくり、とくりと、胸が熱くなる。
 竜胆は壊れ物にでも触れるかのように優しく、繊細な指先でもって鈴の頬に手を添え、鈴をまっすぐに見据える。
「……こうして君を手に入れたからには、俺から片時も離れることは許さない。――堕ち神に血を捧げようとして、君が命を諦めることさえもだ」
「あ……っ」
「君が生きるのを諦めていい時は、俺が死ぬ時だ。だから――……俺が許しを出すまで、君は生涯、俺の愛する番様として、俺だけにどこまでも甘やかされて生きてくれ」
 彼は長い睫毛に覆われた双眸を、うっとりとした表情で甘く甘く細める。
 深く、深く、吸い込まれるような青い瞳の奥底には、彼の激情が見え隠れしている。
 それは蜂蜜を溶かしたようなとろけるほどの熱を帯びており、もしも鈴が一度溺れたら為す術もなく沈んでいくだけの、底なしの深淵に誘う微笑みに見えた。
(竜胆様に、甘やかされる、って……)
 心臓がありえないほどドキドキと鼓動を刻んでいる。
(霊力の欠片もない無能な私が、堕ち神様である竜胆様に選ばれたのは……、番様という名の生贄として見出されたからだと思ってた)
 そしてこれからは、彼が生きるためだけに生かされていくのだと。
 それでも〈青龍〉によって直接選ばれ、『神の生贄』という存在価値を与えられたことは、鈴にとって人生最大の幸福だった。
 けれども鈴の想像に反して、真実は信じがたく驚くようなものだった。
(私にも霊力があって、竜胆様はあの『巫女選定の儀』の時にはきっとすべてを知っていて……、私を、私だけを選んでくれていた)
 その上、恐ろしいほどに美しい竜胆から与えられたのは、壮絶な独占欲を孕んだ告白のような言葉だ。
 そのすべての意味を理解しようとしたけれど、混乱する鈴の頭は、すでにいっぱいいっぱいだった。
 なのでそんな状態の鈴が理解できたのは、竜胆が伝えたい気持ちのほんの一部だったかもしれない。
(竜胆様が死ぬ時まで、……番様として、生きていく)
 彼の言葉は、無能な名無しでしかなかった自分に、まったく新しい存在価値を与えてくれた気がして。
 ――なにかが、変わりそうな予感がする。
 なんなのかはまだわからない。確信もない。
 ただ、胸の内側がとてもあたたかくて。
 とくり、とくりと、静かに高まり始めた鼓動が……うつむいてばかりだった鈴に流れている、目には視えない霊力の存在をそっと教えてくれている。
 ずっと靄がかっていた視界が、ゆっくりと、ゆっくりと、淡い光を帯びるように開けていく気配がする中、鈴のすり減って弱り切っていた心に、『これまでとは違うまったく新しい人生を歩んでもいい』のだと――……希望の道を指し示してくれるみたいだった。
 竜胆の甘やかな眼差しを受けていた鈴は、こくりと、遠慮がちに頷く。
「それでいい」
 眩しい光でも見つめるかのごとく、竜胆は鈴にふっとやわらかな表情を見せた。
「これから忙しくなる。なにせ、春宮家から君の真名を取り戻し、霊力搾取の術式を含んだすべての術式を解かなくてはいけないからな」
「あの春宮家と、話し合うのですか……?」
 話し合いで解決するような家ではないことは、鈴が一番知っている。
 祖父も、父も、鈴とは血が繋がっていないのではないかと感じるほど、冷たくて恐ろしい。
 継母と異母妹だってそうだ。
 美しく、華やかで、誰からも羨望を受けている彼女たちを前にすると、鈴は同じ女性として逃げ出したくなる。
「話し合いで解決すればいいが、どうだろうな。……そう不安そうな顔をしなくても大丈夫だ。俺に任せておけばいい」
「でも」
「俺に任せてくれ。いいな?」
「う……っ。わ、わかりました」
「いい子だ」
 竜胆は口角をわずかに上げて微笑み、鈴の頭を撫でた。
 怖がらせないように、と思うものの気がつくとつい彼女に触れているので、愛おしいという気持ちは厄介だ。
 けれども、今まで心細そうな表情をしていたはずの彼女も、どこかホッとした様子を見せている。
 己の手のひらに安心感を感じてくれたらしい彼女の可愛らしさに、竜胆はひどく庇護欲がくすぐられる気がした。
 ――と、そこに病室の扉をノックする音が響く。
 竜胆が返事をしないので代わりに鈴が「はい」と返事をすると、真っ白なスライドドアが開かれた。
「失礼するよ。……竜胆、せっかく外で待っていたんだから、返事くらいしてくれないか」
 そんな言葉とともに入室してきたのは、白衣をまとってはいるがまだ大人には見えない美青年だった。
 薄水色の髪と瞳を持つ、少し高飛車な王子様を彷彿とさせる美貌の青年は、吊り上がった目元に不満げな色を浮かべていたかと思ったが、鈴へと向き直ると口元を緩める。
「僕は十二神将は凶将のひとり、水神〈玄武〉。名は漣湖月。神城学園高等部の三年生で、竜胆とは幼馴染だ」
「玄武様、お初にお目にかかります。私は…………えっと、」
 鈴の自己紹介のあとに続くのは、いつだって『春宮日菜子様の使用人の名無しでございます』だった。
 けれどつい先ほど、竜胆から新しい――いや、素晴らしい存在価値を与えられたのを思い出した鈴は、とっさに口をつきそうになった長年染み付いた自己紹介を飲み込み、面映ゆい気持ちで口元を小さく綻ばせる。
「十二神将は吉将のひとり、木神〈青龍〉様の……番でございます」
 その言葉を聞いて竜胆はわずかに目を瞠り、湖月は吊り上がった目元をうるうるとさせて涙ぐんだ。
「そう、そうか。君が……。声を聞けて良かった」
 感極まった様子の湖月は目元を抑えて、「言っておくけれど、僕は泣いてないぞ」と竜胆を見やる。
 竜胆は「どうだろうな」と少し意地悪な顔をして、湖月をからかった。
 そんな彼らの様子を眺めながら、鈴は自分の自己紹介が間違っていなかったことに安堵を覚える。
 先ほどのように名乗るのには勇気がいるし、霊力を取り戻していない自分には不相応でおこがましいと、やはりまだ感じてしまうけれど、この素晴らしい存在価値を与えてくれた竜胆に少しでも報いたかった。
 いつものクールな面差しに、どこか嬉しそうな雰囲気をまとう竜胆の姿をこっそり見つめて、鈴は再び面映ゆい気持ちになって頬を染める。
「僕はこの数日間、君の主治医と一緒に治療に当たらせてもらっていたんだ。それで、気分はどうかな?」
 主治医の女性医師から、彼がこの漣総合病院の跡取り息子で優秀な研修医であることはすでに聞いている。
 竜胆の幼馴染で、鈴にとっては一学年上の先輩といえど、十二の神々のひとりだ。鈴は主治医を前にした時以上に緊張しつつ、こくこくと頷く。
「おかげさまで、とてもいいです」
「良かった。午後の検査次第では、明後日にも退院できそうだ。竜胆もそのつもりで準備しておいてくれるかい?」
「わかった。狭霧家の者に手配しておく」
 竜胆は頷き、制服の胸元から白い紙切れを一枚取り出すと、ふっと息を吹きかける。それはすぐに美しい蝶の形をとり、ひらりと羽を一度羽ばたかせてから隠形(おんぎょう)した。
「式だなんて、君は今どき古典的だな。スマホで連絡すれば簡単でいいだろうに」
「式の方がスマホより早くて確実に話が通る」
「まあ、それは確かに。ただのメッセージより、若様の神気で作られた式に突然顕現された方が、誰だって背筋が伸びるからね」
 湖月と竜胆の会話の中にスマホが出てきたこともそうだが、目の前で紙きれが美しい蝶になったことに鈴は驚き、目を丸める。
(式って、いろいろな形があるんだ)
 日菜子が別室にいる鈴になにか命令する時には、いつも人形(ひとがた)の式が飛んできていた。
「式とは、人形のものだけではないのですね」
「それは人の子の使う式に過ぎない。十二の神々の式は大抵決まった四季折々の虫や鳥、小動物の形を取る。あれは〈青龍〉の俺にしか使役できない式だ」
「眷属も、だいたい主人たる神と同系統の式を飛ばすかな。竜胆の家は蝶で、うちはシマエナガだよ」
「なるほど……」
(それじゃあ竜胆様から連絡がある時は、さっきの美しい蝶の式がくると覚えておいたらいいのかな)
 鈴は窓の外へ飛んで行った式の姿を思い浮かべながら、神世や十二の神々について自分の知らないことが多そうだと、退院後の生活がちょっぴり不安になったのだった。
 

   ◇◇◇


 二日後。漣総合病院を無事に退院した鈴は、竜胆とともに狭霧家の本家へと向かうことになった。
 暦はすでに五月下旬。
 青く澄み渡る空の下、街路樹は青々と茂っており、初夏を感じる熱を含んだ風が肌を撫でる。
 そんな中、病院のアプローチ前にある車寄せに停まったのは、漆黒のなめらかなボディが堅牢な印象を与える見るからに高級そうな車で、鈴は思わず「ひえっ」と小さな悲鳴をあげた。
(神世にも、車って走ってるんだ……)
 勝手な想像で、高貴な風格を漂わせる馬車などが走っているイメージをしていた。
 漣総合病院もきらびやかで、ロビー内に大きな滝と鳥居がある現代的な病院だったが、どうやら『神世は神域であり現世と同じ物質世界である』というのは言葉通りらしい。
「この車は、現世と同じものなんですか?」
「さあ。現世には『巫女選定の儀』以外で降りたことがないから厳密にはわからないが、この車は現世製だと聞いたな。もしも車に興味があるのなら、本邸に他のものも数台所有しているから見てみるといい」
 今後はあまり車に乗る機会はないかもしれないが、と竜胆は言う。
 神世の主要の場所には『百花の滝』のように神聖な霊力を帯びた滝と、その存在を示す鳥居が目印の『境界の滝』があり、大抵の場合そこをくぐり抜けることで繋がっている場所に移動できる。
 しかし、今から向かう狭霧邸は個人所有の邸宅。『境界の滝』も敷地内にあるため、狭霧家の当主に認められた者か、特定の機関の権限を持つ者しか移動できない。
 鈴はまだ狭霧家の当主から佩玉(はいぎょく)――狭霧の家紋が彫られている特別な神気を帯びた玉飾りをもらっていないので、車で直接向かうことになる。
 竜胆はそう説明しながら後部座席のドアを開き、「どうぞ」と鈴を車内へエスコートした。
 鈴は「おじゃまします」と小さく告げて、革張りのシートにどきどきしながら座る。
 車での移動なんて、使用人用の小さな車で、百花女学院の寮から春宮家のあいだを往復した経験しかない。
 鈴は緊張して、借りてきた猫のようにカチコチに背筋を伸ばす。
 そんな鈴の隣の座席におもむろに乗り込んだ竜胆は、「出してくれ」と慣れた様子で運転手に命じていた。
「かしこまりました。……お嬢様、シートベルトをお締めください」
「はい、かしこまりましたっ」
 バックミラーを確認した運転手が告げた言葉に、反射的に春宮家の最下級層の使用人としての返事が口から飛び出す。
 思わずと言った様子でふふっと運転手が優しげに吹き出す中、竜胆は鈴に身体を寄せ、シートベルトを締めてやる。
「……君がかしこまらなくていい。今日から君は、狭霧家の大切な番様だ。もっと堂々としていて構わない」
「わ、わかりました」
 そう返事をしたものの、すでに『お嬢様』と呼ばれただけで気が動転している鈴である。
(堂々とするだなんて)
 鈴にはそうできる自信が、まったくなかったのだった。

 車窓に映る神世の初めて見る街並みは、どこか明治時代や大正時代を思わせる。
 木造建築に瓦屋根がある建物や楼閣、煉瓦造りの建物や洋館が立ち並んでおり、街灯もレトロな雰囲気だ。路地裏にある建物は古めかしくて、ちょっと不思議な看板も出ていた。
(『霊霊薬屋』ってなんだろう?)
 信号待ちの間に店番の老婆と目が合うと、感情のなさそうな笑顔で『おいで、おいで』と手招きされる。
(ちょっと怪しそう)
 神々とその眷属だけが住まう場所だという認識だったが、もしかしたら神々でも眷属でもない人ならざる者もいるのかもしれない。
 竜胆に聞いてみようかと彼の方を振り向くと、彼は首を横に振った。
「もし何か視えても知らないふりをしておけ」
「はい」
 霊力がないのに視えるなにかとは、なんなのだろうか。少し背筋に寒気がした。
 その後も、知らない街並み観察は続く。
(京都の歴史的な街並みや、城下町なんかにも似てるかも。東京駅の外観にも似てるかな?)
 百花女学院で過ごす鈴が、少ない自由時間を確保できた時に決まって向かう先は、いつも図書館だった。
 鈴が訪れることもないだろう国内外の様々な街並みや風景を写した写真集などは、不思議と心を穏やかにさせてくれるのでよく手にしたものだ。
 そんなことを考えているうちに、車は目的地に到着したらしい。とてつもない距離のある高い塀に囲まれているお邸の外門を通って敷地内に入ると、静かに車寄せに停車する。
 再びエスコートしてくれた竜胆の手を借り、鈴がどぎまぎしながら車から降りると――、そこにはいかにも歴史がありそうな、壮麗な日本家屋の豪邸がそびえ立っていた。
(す、すごい。春宮家の何倍も大きい……。庭園も広くて、池や川もいくつもあって、わわ、あっちには蔵もある……)
 こんな広大な敷地内で迷子になったら、現在地まで帰るのに一日かかるかもしれない。
 立派な玄関の前には、着物を身にまとった大勢の使用人らしき眷属がずらりと並んでいる。彼らはすぐに、「若様、お嬢様、おかえりなさいませ」と声を揃えて一斉に頭を下げた。
「ああ」
「お、お邪魔いたします」
 鈴は恐縮しきって、ぺこぺこと頭を何度も下げる。
 四季の名を冠する由緒正しき春宮家でも、ここまで大きくはない。
 それどころか、使用人の数などここに並んでいる人数の半分くらいだ。 
「ここが本邸の母屋だ。俺と君の住まいは、本邸の敷地内ではあるが離れにある別邸になる」
「わかりました」
「神域の邸とは違って手狭な上に、別邸とはいえ義理の両親と同居するのは億劫だろう。俺が神城学園の高等部を卒業して邸を移るまでの、仮住まいだと考えていてくれ。……とは言えこの広さだ、両親とはほとんど顔を合わせないから心配しなくていい」
 竜胆はそう言うと、「まあ今日は先に挨拶をしないといけないんだが」と少し煩わしそうな顔をした。
 広大な庭園を内包した、これほどに大きな敷地内だ。両親とは顔を合わせないどころか、待ち合わせでもしなければ滅多にすれ違うことすらなさそうである。
 けれど鈴には、両親と呼べる両親がいない。
 母は鈴を産んですぐに亡くなり、父は血が繋がっているのか疑問に思うほどの人物だ。
 異母妹と父と継母の家族関係に憧れているわけではない。だが、日菜子と父と継母の関係を見ていると、とても甘く、優しく、いつでも彼女を気にかけて守ってくれる存在に感じられた。
 初等部での授業参観でも、そうだ。
 巫女見習いの少女たちの両親だけでなく、使用人科の両親たちでさえ、皆、子供の成長を愛おしげに見守る親ばかりだった。
(竜胆様のご両親は、……私を、認めてくれるだろうか)
 竜胆の番様ということは、狭霧家に嫁ぐ花嫁になるということ。
 そして、竜胆の両親の義理の娘になるということだ。
(……もしかしたら、突然できた番様を扱いあぐねているかもしれない。だけど、……もし、善い関係が築けたら)
 両親という存在に憧れを抱いていた鈴は、「億劫だなんて、とんでもないです」と両手を振って否定してから、やわらかくはにかんだ。
「むしろ、竜胆様のご両親と一緒に暮らせるだなんて、とても嬉しいです。ぜひご挨拶させてください」
「君は……。いや、そうだな。案内しよう」
 竜胆は鈴に少しでも気を遣わせまいとしていたのだが、思っていた反応とは違うものが返ってきてわずかに驚く。
 幼くして龍神〈青龍〉として覚醒した竜胆は、どこか両親に距離を置いている節があった。
 初等部から寮生活になり、長期休暇の際だけに別邸へ帰ってくる生活を続けていたため、両親と顔を合わせるのは行事がある時くらいだ。
 今回も神世における一ヶ月間も神域にいたというのに、『〈青龍の番様〉が見つかった』と式を飛ばして両親に連絡したのみ。
 ずっとそれが普通だと思っていたが、もしかすると人の子の言う家族の形とは、少し違うものなのかもしれない。
 だが、鈴が暮らしていた春宮という環境よりは、遥かにいいだろう。
 ……彼女が少しでも頼れる者が、増えたらいい。
 鈴の見せたはにかんだ笑顔を、竜胆は愛おしく思った。

「こちらでございます」
 初老の男性使用人に先導されながら、邸の客間に向かう。
 堂々と背筋を伸ばして歩く竜胆の後ろを、鈴は再び借りてきた猫のようにカチコチになって歩きながら、緊張しすぎて固唾を呑んだ。
「若様とお嬢様がご到着されました」
「どうぞ、通して」
 室内からやわらかい女性の声が応じる。
 使用人が襖を開けて中に通される時に「失礼いたします」と深く一礼して頭をあげると、「よくいらっしゃいました」と上座に座っていた四十代とおぼしき着物姿の男性と女性が、柔和な表情で鈴を出迎えた。
「さあ、あまり肩肘を張らずに座りなさい」
 最奥に座す男性が告げた言葉に甘えて言葉に甘えて、「ありがとうございます」と鈴も竜胆の隣に正座する。
 青々とした畳と香炉から漂う白檀の匂いが鈴にはより一層緊張感を与えたが、両者の間に漂う空気はとても穏やかだった。
「私が竜胆の父、狭霧家当主を務めている狭霧辰景(たつかげ)だ」
「竜胆の母の狭霧(すみれ)です」
 さらさらとした黒髪に、竜胆と似た青い瞳が印象的な父と母が、洗練された様子でお辞儀をする。
「初めまして。竜胆様の番として選んでいただきました……名無し、と申します」
 鈴は神域での苦しみを思い出して、姓を口にする勇気が持てなかった。
(これからお世話になる竜胆様の大切なご両親に、自分の名前すら名乗れないだなんて)
 しずしずと深く頭を下げながら、鈴の心は申し訳なさでいっぱいだった。
「失礼なこととは重々承知なのですが、訳あって真名を名乗ることができません。……大変申し訳ございません」
 辰景と菫は互いに目を合わせる。
 彼らは小さくなっている鈴の態度に、春宮家で彼女がどう扱われていたのかの片鱗を見つけ、一気に親心が沸き立ちざわめくのを感じざるをえなかった。
 ふたりにとって〈青龍の番様〉であり〈青龍の巫女〉でもある鈴という存在は、長年待ち望んだ希望の光だ。
 その理由としては息子の竜胆が極端に人の子を嫌っていること、それから冷酷な一面を持つ気難しい性格の青年であるところが大きい。
 辰景と菫は『将来、竜胆は〈青龍の巫女〉を選びすらしないのでは……』と心配していたし、他の神々のように〈準巫女〉を付ける気のないそぶりからも、『神嫁を娶ることもないだろう』と確信していた。
 そして、そう感じていたのは両親だけではなかった。
 竜胆が堕ち神となった一件以降、竜胆の立ち居振る舞いは狭霧家の血筋を重んじる老齢の眷属たちに年々不安をもたらしていた。
 そんな中、いくら幼い神が『心に決めた者がいます』と言ったところで、相手が一向に現れなければ、『番様という存在への憧れだろう』と一蹴する保守派の眷属も多い。
 そのせいで過去には無理やり竜胆の婚約者候補を見繕われ、当主派と保守派で一族の意見が割れたこともある。
 だが、それでも辰景と菫は息子である竜胆の意志を尊重し、『いつかきっと必ず』と番様の存在を信じて待っていたのだ。
 しかし、完全ではないもののすでに堕ちた神として瘴気を生み出すことができる竜胆が、日々穢れに蝕まれているのもまた周知の事実。
 このまま状況を改善できなければ、いずれ本当に瘴気に侵食され、完全な堕ち神になってしまうかもしれない。
 そうなってしまえば、竜胆に待っているのは歴史と同じく神々や『特殊区域監査局』による討伐――……死、のみだ。
 そんな状況にある竜胆がまとう瘴気を鎮め穢れを真に癒せるのは、〈青龍の巫女〉としての霊力を持つという春宮家の長女、鈴しかいない。
 愛する息子を死から救い、そして尊き敬うべき青龍という神の神格を上げ、その血筋を残せる唯一の少女が真名を奪われている〝名無し〟であると知らされた当初は、驚きもしたが……。
 幼き日の竜胆が神域創造に病的なまでに傾倒していた理由を察して、納得もした。
 むしろ〈青龍の眷属〉として、辰景と菫は春宮家へのなみなみならぬ怒りを募らせている。〈青龍の番様〉は眷属にとっても大切な存在なのだ。けれども。
「顔をあげなさい」
 辰景はつとめて穏やかな声で、畳の上で深く頭を下げたまま小さくなっている鈴に呼びかける。
「真名が名乗れなくても構わないさ」
「そうよ。経緯は竜胆から聞いているわ」
 辰景も菫も〈青龍の眷属〉としてではなく竜胆の父親と母親として、鈴をあたたかく迎えたいと考えていた。
 ふたりは鈴に微笑みを向ける。
「これまで多くの苦労をしてきただろう。ここではなにも気にしないでいい」
「あなたはもうわたくしたちの義娘(むすめ)になるのだから。これからは竜胆と一緒に学生生活をめいっぱい楽しんで、それからゆっくりと神世での花嫁修行をしていきましょうね」
 その言葉に、鈴は胸がいっぱいになった。
 どうやら受け入れてもらえるかどうか、という不安は杞憂だったらしい。それから、名乗る名前がないことも。
 竜胆の両親のあたたかい気持ちが伝わってきて、これからおふたりのためにも頑張ろう! と涙が溢れそうになる。それを必死に我慢して、鈴は再び頭を下げた。
「はい……! ありがとうございます……っ」
「ふふふ、もう。かしこまらないで大丈夫よ」
 とても素直で優しく、思いやりを持つ心清らかな娘だ。彼女が竜胆の番様として狭霧家に嫁いでくれることは、なんと幸運なことだろう。
 辰景と菫は、彼女の存在を見出した竜胆を我が息子ながら誇らしく思う。
「竜胆、よくぞ〈青龍の番様〉を見つけてくれた」
「……はい」
 竜胆は父の熱心な労いの言葉に対しすげなく返しながらも、どこか気恥ずかしい思いがした。
 鈴という愛おしい存在を両親に紹介するという行為は、自分が本当に彼らの子どもであると改めて認識させられる。
〈青龍〉という神としての本能と、〝生き神〟として人の子と同じ肉体を持ち生まれてきた十八歳の青年でしかない部分が()い交ぜになりながら、新たな感情を引き出そうとしているのを感じずにはいられない。
 それを両親に悟られまいと、竜胆は不服そうに少し眉を寄せた。
 そんな竜胆の表情を見て、辰景と菫は久々に息子の年相応な姿を見られて嬉しくなった。
「これから狭霧家は賑やかになりそうだ」
「ええ、そうね」
 ふふふ、と菫は着物の袖を押さえながら指先で口元を隠して微笑む。
「さあ、そろそろ本題に入ろうか。竜胆、なにか言いたいことがあるのだろう」
 辰景はそう言って、竜胆の発言を促す。
 その通りだ。今日はただ両親と挨拶するためだけにここへ来たわけではない。
 竜胆は正座し背筋を伸ばしたまま、長い睫毛に縁取られた青い双眸ですっと両親を見据える。
「すぐにでも日取りを決め、『婚約の儀』を行なっていただきたいのです」
 意図せず神気をまとった竜胆を前に、両親は眷属としての顔になる。
「お話した通り、彼女の霊力や真名は春宮家に奪われたままだ。すべてを取り戻すためには、――すぐにでも儀式を行う必要があります」
 竜胆の言葉に、父は苦渋の表情で頷く。
「『婚約の儀』……そうか、そうだな。その方法しかないだろう」
(なにか、大変なことなのかな? 『婚約の儀』ってことは、番様として竜胆様と正式に婚約するための儀式……だよね?)
 現世で行う結納のようなものだろうか。
「あの、竜胆様。『婚約の儀』とは……?」
 鈴は少し心配になって、すぐ隣に座る竜胆の顔を見上げる。
 竜胆は鈴と視線を合わせると、『心配いらない』とでも言うように目元を和らげた。
「歴々の神々が祀られている十二天将宮で執り行う言祝(ことほ)ぎの儀式だ。言霊によって人の子と神が婚約を結び、同時に両家の血族たちが結びつきを違わぬことを誓いあうことで、婚約を正式なものとして婚約破棄をできなくする」
「そうなんですね。ということは、現世で言うところの神社で行う神前式のようなものでしょうか……?」
「『婚姻の儀』とはまた違うものだが、神々の前で破れぬ誓いを交わすという点では似たようなものだな」
(それなら竜胆様の番様として正式に認めてもらうためにも、大切な儀式に思えるけれど)
 竜胆の両親は難しい顔のままだ。
「あの……もしかして、私になにか、大きな問題があるのでしょうか……?」
 鈴は意を決して、竜胆の両親に尋ねることにした。
 すると辰景と菫は揃って首を横に振り、「いいや」「違うのよ」と眉を下げる。
「『婚約の儀』は古くから伝わる神聖な儀式だ。けれども、行うには多大なるリスクを伴う」
「歴史上では、多くの神々や眷属が最も嫌った儀式でもあるの。『婚約の儀』を行なってしまうと、離縁ができなくなるから……」
「え……っ」
(離縁……?)
 鈴はひゅっと息を詰め、顔を青くする。
 菫は「あっ」と声を上げ慌てて、畳から腰を浮かせた。
「違うのよ、ごめんなさいね。わたくしの説明が悪かったわ」
「そうですね」
 竜胆が目を細めて、冷たく言い放つ。
 それに再び慌てた菫は、「本当にごめんなさいね」と申し訳なさそうな顔をした。
「い、いえ。大丈夫です」
(よ、よかった……。ご両親から離縁の可能性を疑われていたわけではないみたいで)
「俺が君と離縁なんてするはずがないだろう」
 竜胆はそっと優しく鈴の頭を撫でる。
 鈴はほっとしながらも、傷んだ灰色の髪が竜胆の指先に絡められるのを感じ、羞恥心で頬を赤くする。
 こくこくと何度も頷く鈴を、竜胆が悪戯っぽく愛でるさまをこれでもかと見せつけられた父と母は、互いに顔を見合わせながら『婚約の儀』に対する意見を再確認する。
 そして、決断することにした。
「『婚約の儀』を多くの神々や眷属が嫌った理由は、番様や神嫁を正室として迎えていただけでなく、たくさんの側室がいたせいなの。人の子が神々の神嫁や側室に迎えられるのは、その霊力が気に入られたから。でも、時には枯渇してしまう娘もいて……。そうなるとお役目を果たせないから、婚姻後に離縁することも多かった。だから『婚約の儀』という婚約破棄、ひいては離縁ができなくなる儀式を行うのは、神々や眷属にとって足枷になるものだったの」
「先ほど多大なリスクを伴うと話したが、『婚約の儀』は神と人の子だけでなく、神の眷属と人の子の血族が互いに十二人ずつ結ぶ誓いになる。その結びつきが続く限り、婚約の証人となった眷属と血族たちは霊力が格上げされるが……。もしも神が離縁を言い渡した時、誓いを破ったとされる十二人の眷属は〈歴々の神々〉の裁きを受けることになる」
「裁き、ですか……?」
 鈴は言葉を失う。
「『十二天将宮』には〈始祖の神々〉だけでなく、多くの十二の神々の魂が祀られている。彼らの御前で結んだ誓いを破った以上、裁きを受けるのは当然のこと。裁きの内容は定かではないが……異界に引きずり込まれ、死より辛い責め苦を負うと言われている」
(それじゃあ、『婚約の儀』は将来誰かの命を犠牲にするかもしれない儀式で……)
 眷属である竜胆の両親が苦渋の表情をするわけだ。
 そんな儀式を特別に行なってもらうのは気が引けるし、罪悪感が募るというもの。
 それに、わざわざたくさんの命をかけてまで『離縁をしない』と誓ってもらわずとも、竜胆の鈴への気持ちは十分伝わっている。
 鈴は両手をきゅっと胸の前で握りしめて、「あ、あの」と言い募る。
「もしも必要のない儀式なのでしたら、私は」
「いいえ、必要だわ」
「私たちも、竜胆と君が離縁するなどとは少しも思っていない。『婚約の儀』にはもちろん賛成だ。ただちに十二人、証人となってくれる眷属を集めよう」
 側室を娶らない今の時代に神々の裁きを恐れるのは時代錯誤だが、『婚約の儀』という儀式に対し、良い印象を抱いていない眷属は多い。〈青龍の番様〉に今は〈青龍の巫女〉たる霊力がないと知ったら、頭の固い眷属たちはますます嫌がるだろう。
 しかし辰景は、狭霧家の当主として眷属たちを誠心誠意説得する気でいた。
 きっとすぐにでも、〈青龍〉に忠誠を誓う眷属が見つかるはずだ。
 辰景と菫は親として、眷属として、ふたりの門出を祝う儀式をなんとしてでも成功させたいと思っていた。
「で、ですが、もし眷属の皆様が賛成してくださっても、……私の血族に当たる家が、協力してくれるとは思えません」
「それはどうだろうな」
 鈴は本当に協力など得られるわけがないと思っていたが、どうやら竜胆は違うらしい。
「春宮家には願ってもない申し出のはずだ。君と同じ血筋に当たる十二人の霊力の格を無条件で上げられるのなら、繁栄を望む春宮家にとってこんなに好条件の儀式はない。君の真名を封じた呪符との受け渡しを交換条件にしたとしても、喜び勇んで飛びつくだろう」
「そう、でしょうか……」
「ああ。必ず君の真名と霊力を取り戻せるはずだ」
 不安げな様子の鈴とは対照的に、竜胆はどこか凍てついた空気をまといながら、堕ちた時のような冷たい笑みを浮かべていた。


   ◇◇◇


「こちらのお着物などいかがでしょう? 大胆な柄がお嬢様を引き立てますよ」
「春宮家のお嬢様でしたら『牡丹華(ぼたんはなさく)』、晩春を表すこちらもぴったりかと。牡丹は初夏である五月にも咲きますからね」
 和装姿の女性ふたりが、大柄の牡丹が大胆に施された真っ赤な振袖を、鈴の両肩から掛けて広げる。
 狭霧本邸の離れにある竜胆の邸に、鈴が一緒に住み始めてから、数日後。
 贔屓にしている老舗呉服屋を邸に招いた竜胆は、広々とした客間にて、『婚約の儀』で鈴が着るための振袖を選んでいた。
 そう。鈴の想像に反して『婚約の儀』に前向きだった春宮家との段取りが整い、正式に儀式の日取りが決定したのだ。
【『婚約の儀』を執り行うにあたり、彼女の真名を封じた呪符の受け渡しに応じてもらう。こちらは明日にでも受け渡しに応じるが、春宮家の意向をお聞かせ願いたい】
 と、竜胆が〈青龍〉の名で春宮家へ送った書状の返事は、竜胆の予想していた通り〝是〟であった。
 まさかの返事に、鈴は目を丸くして驚いたものだ。
【〈青龍の番様〉の真名を封じた呪符におきましては、『婚約の儀』の当日の朝、受け渡しを行いたく存じます】
 占いで決定した儀式を行う吉日は、春宮家からの返事が遅れたことで、すでに三日後に迫っている。
 当日の朝、と向こうから指定されてしまったが、竜胆は問題ないと言う。
 鈴は長年返してもらうことを待ち望んでいた自分の真名が、こんなに突然、書状のやり取りだけで手元に戻ってくると聞き、戸惑わずにはいられなかった。
 なにかが引っかかる。
 祖父や父、継母、そして日菜子の人となりを知っているからこそ、疑わずにはいられない。
 けれども、そんな鈴の不安はよそに、竜胆は真剣な表情で鈴の試着姿を眺めている。
 濃紺の着物をまとった竜胆の姿は、これまで見てきた軍服に似た制服の姿とはまた違う格好良さがある。
 邸では和装が普段着だと聞いたが、静謐な着物姿の竜胆にはまだ慣れなくて、鈴は彼を視界に映すたびに胸がドキドキして落ち着かなかった。
 しかし呉服屋を邸へ呼ぶなんて、春宮家でも年に数度のこと。
 鈴が思わずお金の心配をしてしまうのも無理はない。
 鈴は今日までに竜胆の母から着物を借りることを提案したりと、丁寧に辞退の申し入れをしたのだが、竜胆は頑なに首を縦に振らなかった。
 それでも鈴は『ご両親にもご迷惑が……っ』と言い募ったのだが、『俺の資産の心配をしているのなら問題ない。君を豪遊させてもなお有り余るほどの資産は持っているつもりだ』と、竜胆はさらりとなんでもないことのように告げた。
 どうやら幼い頃から株式投資を行い、多数の不動産も所持しているらしい。
『神々や眷属といえど、国に四季幸いをもたらすだけで所得が得られる時代ではないからな。漣家が代々大きな病院を経営しているように、狭霧家も現世の国内外で街作りやリゾート開発事業を行なっている』
『ま、街作りに、リゾート開発事業……ですか?』
『ああ。知らないか? 狭霧不動産株式会社と言うんだが』
『えっ』
 世間知らずな鈴でも、なんとなくその存在を知っている。
 狭霧不動産株式会社と言えば確か、高層ビルやマンションの建築だけでなく、グループ事業として大型ショッピングモールなどを建設経営する商業施設事業、ラグジュアリーホテルの建設経営やリゾート地の開発まで行なっている有名な大企業だ。
 百花女学院の談話室をせっせと掃除している最中、夏休みの計画を立てながら旅行雑誌を広げていた巫女見習いたちが話題にしていたのを、幾度か聞いたことがある。
 けれども、まさかそれが、竜胆の家のことだとは思い至りもしなかった。
 ということは竜胆の父はその代表取締役で、竜胆自身は大企業の御曹司ということになる。
 そんな彼だからこそ、幼い頃から株式投資を行ったり、多数の不動産を所持していたりするのだろう。
(神様で、御曹司……)
 百花女学院で巫女見習いたちが度々口にしていた『神々の持つ高い社会的地位』とは、神という尊く侵し難い存在に対する畏怖だけできあがった地位ではなく、現世本来の社会的地位も加味されていたのだと、鈴はようやく悟った。
 様々な情報が入り乱れすぎて鈴が混乱していると、『むしろ儀式までの時間が迫っているせいで、反物から仕立ててやれなくてすまない』と竜胆は悔しげに眉を下げる。
 そんなやりとりがあっての本日――。
 もう呉服屋が邸へ訪れてから一時間は経過しているのだが、鈴は緊張してただの着せ替え人形になっていた。
「赤の振袖も、もちろん似合うが……」
 竜胆は呉服屋の女将さんが見たてた振袖の色合いは良しとしながらも、無表情で首を横に振り、「もっと彼女に相応しいものはないのか」と何度めかの無理難題を言い渡す。
「でしたら薔薇の柄はどうでしょう? 一年を通して着られることも多く、洋風な雰囲気がお嬢様くらいの年齢の方々に好まれていますよ」
 紺色の生地に白い薔薇が咲く振袖は、確かに洋風でモダンな雰囲気がある。
 けれど、それを両肩に掛けられ簡単に着付けられた自分の姿を鏡越しに見た鈴は、「ひゅっ」と息を呑んだ。
(あ、あ……)
 似ている。
 幼い頃、母が唯一残してくれた手作りの着物に。
 春宮家に嫁いですぐに鈴を妊娠した母は、訪問医から安静を言い渡され外出も許されていなかった。
 政略結婚だったため、心の通っていない夫は見舞いに訪れることもない。
 そんな日々を、やがて産まれてくる鈴のために着物を仕立てることで慰めていたのだと、くすくすと笑いながら話す春宮家の使用人から聞いた。
 秋に行われる七五三詣でのために反物から仕立てられた紺地に白菊の上等な着物は、鈴が自ら仕立て直すことで長い間着られていた。
 母が嫁ぐ時に持ってきた数少ない荷物のひとつだったと聞いていた摘み細工の髪飾りとともに、これからも大切にしていこう……そう思っていた矢先、最悪の事態が起こった。
『ねえ名無し。あなたの髪ってもしかして白髪(しらが)なの?』
『え……っと』
『あははっ、おかしい! それじゃあ似合うドレスもなさそうだわ。むしろお婆さんに間違えられても仕方ないわね?』
『……そんなに、その……おかしいでしょうか』
 成績優良者だけが集う『桜雛の会』に招待された日菜子に、使用人としてついて行くことになったあの日。
 まるでお姫様のように綺麗にドレスアップした日菜子が、『ふふふっ、おかしいわよ! 和服を着てるから、後ろからじゃお婆さんにしか見えないもの!』なんて可愛らしく笑いがら、鈴の傷んだ長い髪に触れた。
 いつの頃からかどんどん傷んでいき、たちまち色素が抜けていく髪の毛を見て、自分でもどうしてこうなっていくのかと不安に感じていた。
 けれど今まで誰にも指摘されなかったから、この髪色を気にしているのは自分だけだと思っていたのに。
 実際は、鈴の髪になど興味がなかったから指摘されなかっただけらしい。
『そうだ、先輩から〝お婆さんを使用人にしてこき使ってる〟なんて噂されたら嫌だから、いますぐ染めといて。……墨汁って、白髪も染められるのかしら? 名無し、試しに被ってみてくれる?』
 そう言って戸棚から墨汁の入った容器を取り出した日菜子は、嘲るような笑みを浮かべて蓋を捻る。そして。
 ばしゃり、と墨汁が鈴の頭上から一気に被せられた。
『あら? 案外染まらないものね。もっと量が必要なのかしら?』
『や、やめてください、日菜子様』
 ばしゃり。
 ぽた、ぽた、と前髪の先から黒い液体が着物に落ちる。
 黒い雫は、紺色の生地に輪染みを広げ、白菊の花をぐちゃぐちゃに汚した。
『汚い畳。名無し、早く片付けてちょうだい。もう時間もないし、その着物でついでに拭いたら? 先生方にはあなたが髪を染めようとして失敗したと事情を話して、制服での参加を認めてもらうわ』
 日菜子は畳にできた墨汁の水溜りに顔をしかめて、部屋から出て行く。
 鈴はガクガクと震え呆然としながら、畳に吸い込まれて行く黒い水を見ていた。
 それからどれほどの時間、茫然自失だっただろう。
 ハッと我に返って、洗濯場へ走り、着物に染み込んだ墨汁を何度も何度も水道で洗い流す。
 しかし母の唯一残してくれた大切な着物は、染み抜きを施したところで無残な姿であるのは変わりなかった。
(あの着物は、すぐに日菜子様が呼んだ他の使用人によって畳の染み抜きに使われて)
 ゴミに出されたんだったか。
「ほら、お嬢様の髪色にもぴったりです。お嬢様はいかがですか?」
「あ……えっと」
 フラッシュバックした過去の出来事と重なり、鈴は言葉を失くす。
(本当だ、……私って、お婆さんみたい)
 母が作ってくれた着物は幼い娘にぴったりの和風なもので、今試着している着物は随分と洋風なデザインだが、色合いや花のあしらいがどこか似ていた。
 そのせいで、鏡に映る自分にあの日の黒い染みまでがくっきりと重なって見える。
「――こちらの、藤の花と蝶の柄の振袖を見せてくれ」
 竜胆の凜とした低い声が強く室内に響く。
 それが鈴を支配していた過去の出来事から、一気に現実に引き戻した。
 呉服屋の女将さんが、慌てた様子ですぐに竜胆が選んだ着物を着付けてくれる。
 しかし現実を直視しても、髪色はなにも変わらない。
 鈴はここまで休む間もなく次々と着物を着せ替えられながら、ただ慌てていただけの自分が、滑稽な道化のように思えてきた。
(お婆さんのような自分に似合う着物など、ここにはない。きっと呉服屋の女将さんたちも、そう思っているはず)
 鈴は顔を上げることができずに、うつむいてしまう。
 その様子を腕を組みながら眺めていた竜胆は、鈴の肩や袖を整えてくれた女将さんが離れると、代わるようにして鈴の後ろに立った。
 彼は鈴の前に立てられた全身鏡を覗き込みながら、背後からゆっくりと鈴の手を取る。
「うつむかずに前を見ろ」
 耳元で低く囁かれて、うつむく鈴の身体が震える。
 鏡を見てみろと言われているのに、反射的に、鈴はぎゅうっと両のまぶたを閉じた。
「……怖いか?」
「は、い」
「ここには、君を怖がらせるものはない」
「で、でも」
「他の誰の言葉にも耳を貸すな。君は俺の言葉だけを信じたらいい」
 竜胆は鈴の側頭部に頬をすり寄せ、再び耳元で囁いた。
 その甘い言葉が、鈴の思考を揺さぶる。
(竜胆様だけの、言葉を)
「さあ、顔をあげろ。そして俺が君のために選んだ着物をまとった、可愛い君の姿を見てくれ」
 竜胆に促されて、鈴はおそるおそる顔を上げる。
 ――鏡に映っている自分は、先ほどとは別人だった。
 白に近い淡い水色に伝統的な古典柄や縁起物の吉祥文様、そして蝶と淡紫の藤が施された振袖は、竜胆が異能で作り出す氷の世界を切り取ったかのごとく静かな華やかさがある。
(髪の色も、私も、なにも変わってないのに……どうしてだろう?)
 この振袖をまとっているだけで、まるで竜胆に守られているかのような安堵感を覚えて、息がしやすくなったではないか。
(もしかして、竜胆様が選んでくれたから?)
 今まではたくさんの着物がある中から、呉服屋の女将さんが主導でいろいろな着物を見せてくれていた。しかしこの着物だけは、竜胆が選んでくれたものだ。
 目をぱちくりしている鈴に、竜胆は鏡越しに微笑みかける。
 竜胆の瞳には、己の神気をまとっているなににも代えがたい番様の、可愛らしい姿が映っていた。
 竜胆は手ずから選んだ淡い青と紫色の花々が咲き誇る髪飾りを、鈴の結われていた髪に挿す。
「初夏の淡い色合いが君を引き立てていて美しいな。『婚約の儀』では、ぜひこの着物を着てほしい」
「……はい」
 愛おしげに鈴だけを見つめている竜胆の褒め言葉に、鈴はいてもたってもいられなくなってうつむこうとしたが、そうしたいのをなんとか押しとどめると、頬を染めて唇をきゅっとつぐむ。
 氷晶の異能を操る〈青龍〉であり、涼しげな青い双眸が印象的で美しい竜胆。その隣に立つ自分の灰色の髪も、こうして見ると氷のような色合いで悪くないように思えてくるから不思議だ。
「いい返事だ」
 竜胆は満足そうな様子で頷くと、「普段着もいくつか見繕いたい」と女将さんへ声を掛けた。
 それから……小一時間が経過しただろうか。
 客間の風景は随分と様変わりしていた。
「そうだな、あとはこちらの――」
「はい、こちらもですね。ありがとうございます」
 鈴は、「あ、あのっ」と声を上げる。
「竜胆様、もうお着物は十分では……?」
 普段使い用の着物から明らかに高価そうな振袖まで、すでに部屋には多くの購入予定の和服が積み重なっている。
 合わせて買うことになった帯や下駄、髪飾りなどといった一式まで含めたら随分な量だ。
「こんなに買っていただかなくても、一枚ずつあれば私はそれで……」
(今までは日菜子様の着物のお古や、お下がりの制服を何度も手直ししながら生活してきたし……)
 だから、竜胆の番様としての狭霧家の格式に合わせた普段着と、『婚約の儀』で使用する振袖が一枚あれば、あとは制服でもやっていける。
「いいや、足りないくらいだ」
 眉間にしわを寄せて、竜胆が首を振る。
「四季幸いをもたらす十二神将は青龍の番様である君に、季節折々の花々が彩る着物をまとわせないなど……〈青龍〉としてのプライドが許さない」
「で、ですが、あまりにも高価すぎて、私が着こなせるようなお品物では……っ」
「高価? これくらいなんてことない。今までどれほど俺が君を飾り立てる機会を渇望していたか、君は知らないだろうが――」
 竜胆は鈴を抱き寄せ、悪魔のように艶やかな顔で囁く。
「男が衣服を贈る意味をよく考えた方がいい」
「……へ?」
「それくらい、君を求めているということだ」
 疑問符をいくつも頭上に浮かべる鈴に対し、竜胆は長い睫毛に縁取られた双眸を美しく細めた。