「どうして……どうして、私じゃないのよッ!!」
 春宮本家の自室で、日菜子は自慢の華やかな容姿を映し出している豪奢な鏡に向かって、何度も何度もこぶしをぶつける。
「女学院内で最も〈神巫女〉に近いと評価されていたいたのは、まぎれもなく私だったのに!」
 だというのに、神々はひとりも日菜子を選ぶことはなかった。
 それどころか冷酷無慈悲と名高い〝氷の貴公子〟――〈青龍〉は、まるで最高傑作と呼ばれる彫像のごとく完璧な美しさを携えながら、あの無能な名無しに甘く微笑みかけてその手を取ったのだ。
「……こんなのぜったいおかしいわ。なにかの間違いよ……ッ!」
(ただの使用人としての価値しかない名無しが! 顔もプロポーションも霊力も家柄も、すべて完璧な私を差し置いて選ばれるなんて……!)
 幼い頃から祖父や両親といった家族だけでなく、社交の場においても『美人で明るく社交的』と評判なのは日菜子だった。
 初等部から通い始めた百花女学院でも、先輩や後輩だけでなく教師たちからもちやほやされ、ずっと尊敬の眼差しを向けられて生きてきたのだ。
 そんな環境の中で誰よりも愛されてきた日菜子には、神々からも(・・・・・)愛される自信(・・・・・・)があった。
 それに比べて、名無しの異母姉はどうだろう?
 いつもうつむいていて愛想はなく、身体はポキリと折れそうに痩せっぽち。青白い肌には艶もない。昔は黒髪だった気がする長髪も、いつの頃からか灰色だ。
『ねえ名無し。あなたの髪ってもしかして白髪(しらが)なの?』
『え……っと』
『あははっ、おかしい! それじゃあ似合うドレスもなさそうだわ。むしろお婆さんに間違えられても仕方ないわね?』
『……そんなに、その……おかしいでしょうか』
『ふふふっ、おかしいわよ! 和服を着てるから、後ろからじゃお婆さんにしか見えないもの! そうだ、先輩から〝お婆さんを使用人にしてこき使ってる〟なんて噂されたら嫌だから、いますぐ染めといて。……墨汁って、白髪も染められるのかしら? 名無し、試しに被ってみてくれる?』
 異母姉の灰色の髪に気がついたのは、ドレスアップした日菜子がパーティーに向かう際に声をかけた時だった。
 確か、そう、百花女学院の初等部高学年から高等部の成績優良者だけが集う『桜雛の会』に初めて参加した、九歳の時だ。その頃からずっと異母姉の髪は艶のない灰色で、お婆さんのような容姿をしている。
 その上、視えもしないのに巫女見習いの真似事をして、『こちらの食事には呪詛が……』などと言い出す大嘘つきだ。
(誰かに選ばれて、愛される資格など持っていない使用人。それが無能な名無し。そのはずでしょう……!?)
 思い出すだけでも、激しい怒りと嫉妬で狂いそうになる。
 あの最悪な『巫女選定の儀』が終わってからというもの、霊力が変に乱れて安定しない。
 授業では、いつものようにクラスメイトの巫女見習いたちの何倍も抜きん出た首席らしい成績を残せなかった日菜子に、同情や憐憫を含んだ視線が向けられているのを感じてイライラした。
『日菜子様、大丈夫ですわ』
『名無しが選ばれたのは、絶対になにかの間違いですもの』
『すぐに精査され、神城学園から連絡が来るはずです』
 取り巻きの巫女見習いたちが悲痛な面持ちで心配してくれるも、日菜子にはなんの慰めにもならない。
 日菜子を特に贔屓していた教師も取り巻きたちに同意し、『今は一時的に霊力を生み出しにくくなっているのかもしれませんね。春宮さんにはお休みが必要なのかもしれないわ』などと言っていたが、そうではないことは自分が一番理解している。
(……ぜんぶ、ぜんぶ名無しがいないせいだわ。名無しが近くにいないと、私の霊力が滞るじゃない!)
 日菜子に宿るはずだった春宮家の霊力のほとんどすべてを宿し長女として産まれるという、強欲な異母姉に重罪人として罰が下ったのは、日菜子が三歳の時。
 その日からずっと、日菜子は異母姉に奪われている自分に宿るはずだった霊力を返してもらっている。
 潤沢な霊力を取り戻してからの十数年、日菜子は春宮家を背負う巫女候補としてたくさんの努力をしてきた。名家の令嬢としての立ち居振る舞いだって、マナーだって、有名な家庭教師をつけて完璧に身につけている。
(それに比べて、霊力の欠片もない無能な名無しができることなんて限られてるわ。掃除と洗濯、それから毒味。たったそれだけ)
 異母姉には名家の令嬢としての教養などなにひとつなく、巫女見習いとして育ってきていないために霊力の扱い方すら知らない。
 十二の神々へ奏上する祝詞だってもちろん習えるはずもなく、四季幸いや恩頼(みたまのふゆ)を祈り願うことすらできないだろう。
 主人が使用人を評価して与える点数がそのまま成績に反映される使用人科の試験では、いつだって学年最下位。せいぜい落第せずに百花女学院を卒業し、将来は神世で番様か神嫁として暮らす予定である日菜子の〝大勢の使用人の中のひとり〟を目指すくらいしか、人生の選択肢がない少女だ。
(いいえ、それすら身に余る幸福だわ!)
 なぜなら日菜子という名家の令嬢であり、潤沢で高位な霊力を持つ巫女のそばで、誰もが羨む使用人として生きていけるのだから。
(それなのに……ッ)
 これ以上ないほどの激昂で日菜子は顔を赤くする。
 屈辱を味わった最悪な一日を終え、これ以上にないほど機嫌をそこねた日菜子は、今後のことを春宮家当主である祖父に相談するために、授業を休んで実家へ一度帰ることにした。
 邸内で祖父と父の次に広い日菜子の部屋は、祖父や両親からの贈り物である上等な着物やドレス、それから高級な宝飾品であふれている。
 いつもはそれを眺め、名乗る真名すら持っていない異母姉との格差を自慢に思いながら悦に浸ったりするのだが、今日はそんな気分には到底なれなかった。
 そんなものよりも、欲しいものが見つかったせいだ。
 それはあの――日菜子を手酷く振った神の巫女の座。
 名無しに奪われたその座に就く権利を、早く返してもらわなくてはいけない。
「……青龍様が『百花の泉』で見つけた霊力は確かに私のもの。それは間違いないわ」
〈神巫女〉になるための資格は、神をお支えし癒すための霊力を持っていること。
 無能な異母姉は、言わば空っぽの器。霊力が欠片もない状態なのだから、異母姉は〈神巫女〉に選ばれるに値するものをなにひとつ持っていない。
 もしも稀にいる霊力のない番様だったとしても、〈神巫女〉ではないのは明白だ。
「失礼いたします。日菜子お嬢様、旦那様がお呼びでございます」
 (ふすま)の外から、使用人の女性が日菜子に声を掛ける。
 日菜子は「すぐ行くわ」と返事をすると、烈火のごとき怒りと嫉妬心に駆られた美人を映し出していた鏡に背を向け、険しい表情で歩きだした。

 春宮家当主、春宮昭正(あきただ)は、己の血を継ぐ愛孫の日菜子が私室に来ると「待たせたな、日菜子」と、威厳に満ちた様子で出迎えた。
「お祖父様! それで、調べはつきましたの?」
 日菜子は着ていた着物の裾をさばき、座布団の上に行儀よく正座をすると不満げな様子も隠さずに早口で言う。
「そう急くでない。どうやら青龍様は神世に帰ってはおらんそうだ。名無しも、神世に足を踏み入れた形跡がない」
「じゃあいったい、どこへ行ったと言うのですか!?」
 悲鳴じみた声を出し、日菜子は異母姉に対する怒りを祖父にぶつけた。
 文机で紙に筆を滑らせていた昭正は、その手を一度止めて筆を置き、愛孫と視線を合わせる。
「この世ではない場所だ。神世でも現世でも狭間でもない異界……――神域だろうな」
「し、神域ですって……!?」
 日菜子は驚愕で顔を青ざめさせる。
「名無しは……神域に、連れ去られたの? それじゃあ、私は? 私の霊力はどうなるっていうの……!?」
 最悪な『巫女選定の儀』から丸一日が経過したが、一向に霊力が安定しないのは名無しが日菜子の近くにいないからだと思っていた。
 けれども、名無しが神域にいるとなると話が変わってくる。
「神域なんて、時間軸も座標もでたらめな場所にいられたら、霊力を搾取する術式が働かなくなるわ……ッ」
 巫女見習いとしてたくさん学んできたが、名門校である百花女学院でも学べない(ことわり)がある。
 それは神々が生き神となった昔から永久不変の、絶対的な法則。
 そのひとつが、神々が〝神隠し〟をした対象の三位一体を神域の主が所有できるという箱庭の強制力だ。
 これを知る人の子は、始祖の神々に選ばれた名家でも代々当主とされる者のみ。
 日菜子は次期当主を支える巫女候補の娘として、現当主である祖父から学び、異母姉に下された罰を正しく理解してきた。
「それに、もし真名が名無しに奪い返されたら……ッ」
「狼狽えなくてもよい。真名を剥奪した時、すでに策を講じておる」
 昭正は厳重に封咒を施していた木箱から、一枚の紙を取り出す。
「これは?」
「十年以上前、霊力が目覚めたばかりだったあやつの背中に刻んだ術式の写しだ」
「真名剥奪の術式と、霊力搾取の術式、それから呪詛破りの術式を組み合わせているというのは、以前聞いたお話から知っています」
「よく確かめてみなさい」
 日菜子は祖父から異母姉に刻まれている術式の写しを受け取ると、真剣な表情で文字を追う。
「……なによこれ。こんな複雑な術式、巫女見習いの私には読み解けるわけもありませんわ。読み解くにしたって、文献集めから始めて何年かかることやら! お祖父様、もったいぶらずに教えてくださる?」
「我が孫ながらせっかちなものだ。……日菜子、これは術者と被術者を反転するための術式だ」
「そ……っ、そんな、嘘でしょう……? 術者と被術者を反転、ですって……!?」
 日菜子はそのありえない術式を網膜に焼き付けるほど見つめた。
「この授受反転の術式をあらかじめ用いることで、術者となる我らはその呪詛を結ぶ際に必要となる代価の影響を一切受けなくなる。過去、春宮家から追放された苧環(おだまき)家が、四百年の時をかけてようやく完成させた極めて難しい秘術だ」
「こんな、こんな便利なものがこの世に存在していたなんて……! ああ、お祖父様、すごいわ……っ!!」
 日菜子は感嘆のため息をつく。
 便利で効果的な術式があれば、と誰もが一度は夢に見る。
 しかし現実はそう甘くなく、理想の効果を得られるような術式を組み立てるのは難しい。
 専門的な知識が多く必要となり、術式を試すにはそれなりの代価が必要となるからだ。
 術式を記した符を介して発生する代価が霊力なのか、臓器なのか、寿命なのか、それとも他のなにかなのかは試さなければわからない。
 百花女学院の教科書に記されている術式の中でも、たとえ読み解けはしても使役できない術式は多くある。
 しかもいくら代価を投じて術式を試したところで、理想的な効果が発現しなければまた最初からやり直しだ。
 なんども術式を書き換え、効果を確認しながらあらゆる組み替えを行い、ようやく永年発動し続ける術式が完成する。
 新しい術式の開発とはそれほどに途方もない作業だった。
 授受反転の術式の一部には、他家に盗まれぬよう苧環家の血筋の者だけが使用できる紋も組み込まれている。他家の者がこの紋を抜いたところで、一切正しく使役できず、予期せぬ代償を背負うことになるだろう。
 つまり授受反転の秘術とは、完成までの四百年間に多くの人間が代償を背負い命を賭した……いわば苧環家の執念と血にまみれた術式なのである。
「そしてこの授受反転と、真名剥奪、そして呪詛破りを同時に使役するとどうなるか……。神々にも想像がつかぬだろうな」
 昭正は神々を卑下するかのような笑みを浮かべる。

 苧環家は、〈始祖の神々〉から春宮の名を頂戴した名家に産まれた次男が当主となり、春宮家の傍流として誕生した。
 当時、苧環家が担っていた役割は、春宮家の者たちがまとう着物の材料になる糸を霊力を流しながら紡ぎ(あざな)い、反物を織るというもの。それ自体が繊細な技術が必要とされる神聖な仕事だった。
 神々に仕える春宮家をさらに支えている苧環家は、縁の下の力持ちとして栄えることになる。
 春宮家が末長く安泰ならば、苧環家にもその恩恵が降る。春宮家から神嫁が選ばれ、その花嫁衣装となる反物を紡ぎ糾い織る時には、一族の誰もが心から祝福していた。
 しかし、ある時。男児しか産まれなかった苧環家に初めて娘が産まれた。
 武家ならば男児ばかりが産まれることは喜ばしいことかもしれないが、神々は巫女を選ぶ。
 娘が産まれて初めて、苧環家は欲を抱いた。――我が一族も、神々に選ばれる巫女を輩出したい。と。
 その三年後。春宮家にも待望の娘が産まれていた。
 元気な産声を高らかに上げた、健康そのものの玉のような赤子だった。けれども、産衣(うぶぎぬ)を着せた途端に苦しみ出し、手の施しようがないほどの速さで命を落としてしまう。
 それは苧環家が贈った反物から作られた産衣が、ひどく穢れていたせいだった。
 戦乱の世、出産は命がけの大仕事だ。
 春宮家の女中が混乱しているさなかに届けられた特別な産衣が、まさか霊力が少なく若い女中をわざわざ選んで届けられたものだとは誰もが想像していなかった。
 それどころか、春宮家を支える苧環家が謀反を起こすなど。
 責任を感じた女中は井戸に身を投げ、春宮家は騒然となった。
 即座に春宮家当主が動き、『今後一切、苧環家を春宮家の分家とは認めない』として、苧環家に対し追放を言い渡したその同時刻。
 産衣の穢れが赤子を呪い殺したことで呪詛が結ばれた代償として、苧環家では多くの死人が出ていた。
 けれども。多くの死人が出た上に『追放』まで言い渡されたにも関わらず、苧環家当主は歓喜に震えていた。
 三歳になった苧環家の娘に、春宮家を彷彿とさせる霊力が目覚めていたのだ。
 その娘は数年後には見事〈準巫女〉となり、神々に選ばれし側室として神嫁の座を射止めるほどに成長する。
 春宮家の傍流から追放されてからというもの没落の一途を辿っていた苧環家は、彼女の存在を機に、次第に息を吹き返していく。
 それに対し、呪詛という穢れに触れた春宮家は、その代において霊力を持つ娘が産まれなくなっていた。
 おかげで苧環家の神世での地位は、以前の没落を微塵も感じさせぬどころか、四季を冠する一族に準ずるほどだと期待の眼差しを向けられることになる。
 禍福は糾える縄の如し。
 その成功こそが、苧環家をさらなる呪術の深みに傾倒させるきっかけとなった。
 しかし。側室として神嫁の座を射止めたはずの娘の霊力は、たったの数年で尽きることとなる。
 神の唯一とされる番様でも、ましてや〈神巫女〉でもなかった娘は、神との間に子をもうけていなかったため簡単に離縁されてしまう。
 霊力のない巫女は、巫女にあらず。
 ただの人の子になった側室を神世に置いておくほど、神々とその眷属は優しくはないのだ。
 苧環家の者たちは怒りに震えた。
 また我が一族は没落の一途を辿るのか、と。
 許さない。
 いつの日か、神々も春宮も跪かせるような偉大な巫女を、苧環家から輩出してみせる。
 そう誓いながら。
 そうしてさらなる栄華の道を目指し、当主を筆頭とした一族総出で呪術や怪異に関する研究を始める。
 より強い霊力、より偉大な巫女を求めて血族結婚を繰り返す中で、その血はもっと濃くなり、霊力はより歪さを帯びて雑音を増していく。
 それでも時折、優れた〈準巫女〉を輩出しては神々に仕えさせるのに成功した。
 いくら事実上は追放されていようとも、やはり苧環家は春宮家の傍流として、下位ではあれどよく似た霊力を確かに継承していたのだ。
 だが、しかし。そんな状況に満足する苧環家ではない。
 苧環家の最大の目標は、神々も春宮も(・・・・・・)跪かせる偉大(・・・・・・)な巫女を作出する(・・・・・・・・)こと。
 その方針は数百年間変わらず、そのために一族の当主や神司は寿命を投げ打った。
 最後に命を賭したのは、当時苧環家の当主を務めていた昭正の祖父。
 そうして四百年の時を経てようやく完成したのが、苧環家の血筋の者が呪術を行使する場合や、怪異を生み出す場合に必要となる代価の影響を一切受けなくなる術式――授受反転の秘術であった。
 授受反転の秘術の完成を喜んだ一族は、最大の目標に向けて動き始める。
 その標的とされたのが、春宮家の清らかな霊力を受け継ぐ直系長子のひとり娘、当時十六歳という若さの八重子(やえこ)だった。
 学年主席で将来を有望視されていた八重子に、突然『異形の病』が発病したのは『巫女選定の儀』が行われる数日前。
 突如として皮膚を白蛇の鱗が覆う奇病は、神々の遣いである白蛇を貶めたせいで生まれる怪異と言われている。
 八重子にとっては、まったく身に覚えのない原因だった。
 だが、八重子はその姿と怪異のせいで神世にある神霊(しんれい)経絡科(けいらくか)に入院することに。
 長い入院生活の末、怪異の侵蝕は食い止められたものの、八重子の皮膚の一部には白蛇の鱗が、そして両足には麻痺が残ってしまう。
 結局、彼女は『巫女選定の儀』には参加できず、百花女学院も辞めざるをえなかった。
 卒業も叶わず、巫女としての仕事にも就けず、以前はひっきりなしにきていた縁談もすべて破談にされる中、影では誰かが『春宮家には異形がいる』『白蛇に呪われた春宮家』などと噂し始める。
 神々を支え、その穢れを癒すための霊力は潤沢だろうとも、怪異や呪術に対抗するための呪力が弱かった春宮家は、神霊経絡科が治療を終了した怪異に対し改善策を見出せずにいた。
 そんな中、異形の姿をした八重子を妻にと望む者が現れる。――苧環家当主の長男、昭正だ。
 彼は『春宮家は呪われてなどいない』と自信たっぷりに豪語し、呪術に秀でた苧環家の力を使って八重子を守ると誓う。
 異形と呼ばれようとも十六歳の少女でしかない八重子が、昭正に淡い恋心を抱くのは自然な流れだったかもしれない。
 それは春宮の一族もまた、同じだった。
 異形の姿をしている娘を慈しみ、仲睦まじい様子を見せる男がどれほど貴重なことか。
 八重子とは十五歳も年齢差がある男だったが、呪術師としてたいそう仕事熱心だったため縁談も断り続けていたのだと聞く。
 過去の追放の件を水に流すことはできなかったが、春宮家存続のためには致し方ない。
 昭正は八重子を娶るにあたっていくつかの条件を提示してきたが、八重子の父である春宮家の当主はそれを呑むほかなかった。
 ――ひとつ、昭正を婿養子として迎えること。
 ――ひとつ、昭正を次期当主として扱うこと。
 ――ひとつ、昭正を必ず当主とすること。
 こうして苧環家は、春宮家を屈服させるという野望を見事叶えたのだ。
 その後。すぐに昭正と八重子はひとりの子を授かる。
 将来、日菜子の父となる男児、成正(なりただ)である。
 呪力の優れた成正は見事に苧環家の思想に傾倒し、一族や父と同じく神々を跪かせるような偉大な巫女の作出を夢に見た。
 けれども苧環家分家の娘である成正の恋人、華菜子(かなこ)は、神司が通う学院でもその名を知られるほどの華やかな美人だが霊力が少なく、神々を跪かせるような偉大な巫女を産める器ではない。
 ……それでも、成正は華菜子との結婚を諦められなかった。
 昭正は成正に言う。
『一度、お前の恋人よりも霊力が強い女を春宮家の籍に入れ、子をもうければよい』
 霊力が少ない華菜子と最初から籍を入れるメリットはない上に、もしも霊力が強い良家の令嬢とのあいだに婚外子をもうけても、親権は母親に取られてしまう可能性が高い。
 それならば最初に、霊力が強い良家の令嬢と籍を入れる方がいい。
 あらかじめ生まれた子供は春宮家の者として育てると相手方を納得させておけば、なにかが起きて(・・・・・・・)離縁したあとも文句は言えないだろう。
『今や我らには授受反転の秘術がある。これと真名剥奪の術、霊力搾取の術を掛け合わせよ』
『そうなると、どうなるのですか』
『我らには術式の代価が発生することなく、子の存在を神々に知られぬよう隠し続けながら霊力を奪い取ることができる。それも一生だ。一生、我らの生贄となる』
 真名剥奪も霊力搾取も術者には大きな代価が発生する。
 特に霊力搾取となると、術を使い続ける期間中もずっと代価を払い続ける必要性がある。その負荷は想像を遙かに超えるものだ。
 だが授受反転の秘術を行使すれば、術をかける者ではなく術をかけられる者に代価を肩代わりさせられる。
 一生代価が発生しないのだから、昭正、成正、そして華菜子とその子供は栄華の中を暮らせるというわけだ。
『同じ歳の娘を授かればなおよかろう。生贄の娘をお前の娘の使用人にし片時も離れないようにすることで、霊力搾取の術式で生まれる負荷を最小限に抑えられる。さすれば安定した霊力を最大限に引き出すことができよう』
『お父様、それではよほどの生贄を用意しなければ……』
『当然だ。強く清らかな枯渇せぬほどの霊力を持ち、春宮家の霊力もしっかりと継いだ生贄が必要となる』
 昭正はにやりと嫌な笑みを浮かべ、結界を解くと、襖の外に控える使用人の男を呼びつける。
 苧環家から連れてきていた使用人だ。昭正が当主に就任してからというもの、今まで春宮家で働いていた使用人は全員解雇し、苧環家で教育された使用人を雇っていた。
 この頃にはすでに八重子も『異形の病』を持つ者たちが住まう神世の施設へと入れられており、春宮家のすべての実権を昭正が握っていたのだ。
『成正の嫁候補を探させろ。希少な霊力を持つ生娘(きむすめ)だ。神巫女だろうが構わん』
 使用人の男はすぐさま頷くと、一礼して座敷を出て行く。
 男が向かう先は苧環家。
 話を受けた苧環家は呪術を駆使し、数ヶ月をかけて最高の生贄を産む可能性がある女性を用意した。
 それが、神嫁になるのではと噂されるほどの霊力を有し、山神と土地神の加護を持つ清らかな乙女――〈六合の巫女〉である。
 娘の霊力の希少さを真に理解していない無知で世間知らずな実家を丸め込み、〈六合の巫女〉を春宮家が政略的に娶るのは容易だった。
 怪異の恐ろしさを知る彼女の実家は、不思議な力に秀でた春宮家の守護を得られることに喜ぶ。
 ふたりの結婚式は、ごく簡易に春宮家の本邸で行われた。
 参加者は〈六合の巫女〉の親族と昭正、そして本邸に住まう使用人たち。
 昭正が当主になって以来遠ざけていた他の春宮の一族には、『息子が結婚した』と葉書で知らせを出したのみで終わった。
 そんなふたりの結婚は、ある意味、両家の祝福に満ちたものだった。
 それが表面上に過ぎないと知るのは、昭正と成正、愛人となった華菜子と、本邸の使用人たちだけ。
『しばらくの辛抱とは言え、あなたにわたくし以外の女が嫁ぐのは嫌ですわ』
『これもお前とお腹の子のためだ。〈六合の巫女〉とは生贄の娘が産まれたあとに、適当な理由をつけて離縁する』
 結婚式から三ヶ月。すでに〈六合の巫女〉のお腹にも、生贄となる娘が宿っていた。
 しかし離縁する間もなく、〈六合の巫女〉は早産で生贄となる娘を産んだあとほどなくして命を落とす。原因は産後の肥立ちが悪かったこと、それから怪異で触れた穢れや環境の変化による心身の疲労と考えられた。
 喪も明けぬうちに華菜子と結婚した成正のもとには、母によく似た容貌の日菜子が誕生する。
 人の子の霊力は、数えで三歳から七歳までに発現すると言い伝えられているが、なんと日菜子はすでに数えで二歳になる頃には霊力を目覚めさせていた。
 昭正と成正夫婦は『天才だ』と褒めそやし、それを喜んだ。
 母親譲りで霊力が少なめではあるが、父親譲りの苧環家を由来とする呪力がひときわ強い。
 それでも、春宮家を由来とする霊力も少なからずあり、修練次第では〈準巫女〉として生きていけるだろう。
 対して生贄の娘は、衣食住を保証してやっているというのに、霊力が発現する予兆もなく満三歳を迎えている。
 生贄の娘を利用して、日菜子を神々を跪かせるほどの偉大な巫女に育て上げる予定だったというのに。
 期待はずれだった。
 ……誰もがそう思っていた時だ。
 生贄の娘の霊力が、突如として開花したのは。
 異常な霊力を察知し、高熱を出して寝込んだ生贄の娘を見舞いに行けば、想像を絶する霊力が狭い室内を取り巻いていた。
『こ、これは春宮家の霊力……!』
〈六合の巫女〉から遺伝した霊力だけでなく、歴史に名を刻む春宮家独特の春の日差しを思わせるあたたかく清廉な霊力が、歪さや雑音を含まずに存在している。
 それだけではない。
 生贄の娘には五行すべての力を有するという、非常に珍しい特別な霊力が目覚めていた。
『これだ……! これこそが、日菜子を偉大な巫女にする力……!』
 枯渇する気配もなく次から次に溢れでている生贄の娘の霊力に、昭正は笑いが止まらなかった。
『ですがお父様、日菜子と生贄の娘にこれほどの霊力の差が生まれるとは……。同じ春宮家の血筋を引くというのに』
 霊力が平等に受け継がれるものではないのは知っている。
 だが日菜子を一とするならば、生贄の娘には百以上のものが宿っているではないか。
『あなたの言う通りだわ。わたくしの大切な日菜子にも、生贄の娘と同等の春宮家の霊力が備わっていてもおかしくないはずです。それがこうも差が開くものでしょうか』
 華菜子は成正の意見に賛同する。昭正は神妙な顔で言う。
『やはり考えられる理由は生贄の娘が予期せぬ早産となったせいで、日菜子より先に産まれたからだろうな。古くから霊力は長子に宿りやすいと言い伝えられておる』
『忌々しい……! なんて強欲な娘なの……!』
 華菜子は甲高い声でヒステリックに言う。
 いっときと言えど、自分の夫を母親ともども奪っただけでなく、大切な娘である日菜子に宿るはずだった春宮家の霊力まで奪い取るなんて。
『霊力が発現してから一時間程度しか経過しておらんが、仕方あるまい。すぐに真名剥奪の儀式を行う』
『今すぐに? こうなったら日菜子が巫女見習いになる年齢まで、生贄の娘の霊力を強く育ててから搾取すべきでは』
『いいや。このままではじきに生贄の娘が神々の目に留まることになろう。本来ならば将来の日菜子の夫かもしれんのだぞ』
 ハッと成正と華菜子が息を呑む。
『このままでは〈神巫女〉の座も、神嫁の座も、生贄の娘に奪われることになる』
『お、お義父(とう)様! そんなのあんまりですわ……ッ!』
『そう、華菜子さんの言う通りだ。……強欲な生贄の娘には、重罪人として罰を与えねばなるまいな』
 浅い息をしながら玉の汗を浮かべ苦しげに眠る生贄の娘に、華菜子は『起きなさい!』と声を掛ける。
 こうして――生贄の娘は重罪人として真名を剥奪され、背中にはいくつもの呪術を組み合わせた術式が刻まれる。
 春宮家、否、苧環家が欲するさらなる栄華を極めんと、神々を跪かせるほどの偉大な巫女となる日菜子に霊力を差し出すためだけに、彼女は春宮という檻の中で生かされ続けることになったのだった。

 昭正は名無しの背に刻んだ術式の写しを日菜子から受け取りながら、高慢な態度で言う。
「名無しがいつの日か、日菜子の権利を脅かすのではないかと思っておった」
「……私の権利?」
「そうだ。神々から〈神巫女〉に選ばれ、神嫁となる権利だ」
 昭正の言葉に、日菜子は大きく目を見開き「やっぱりそうだったのね……!」と頬を紅潮させる。
「それじゃあ、やっぱり私が青龍様の……っ!!」
 日菜子は胸が熱くなった。
 このどこへもぶつけられない烈火のごとき怒りも、全身の血が沸き立つような嫉妬も、神々にプライドを傷つけられて感じた羞恥心も、本来は日菜子が感じなくてもいいものだったのだ。
 日菜子に伝えられている春宮家と苧環家の因縁は、たった一部に過ぎない。
 呪術に秀でた苧環家が祖父の生家であり、そのために異形となった祖母を娶ったこと。
 様々な事情があり、政略結婚で良家の女性と一度結婚せざるをえなかった父の娘が異母姉であること。その間も日菜子の両親は想いあっていたこと。
 それから。早産で日菜子より先に産まれてきた異母姉が強欲なあまりに、日菜子にも宿るはずだった春宮家の霊力のほとんどすべて宿して産まれてきたことだ。
 日菜子は異母姉が重罪人であると疑わず、自分こそが正義で、春宮家の正当な後継者であると信じている。
 歪んだ価値観の中で育ってきた日菜子にとって、異母姉は霊力を搾取されて当然の存在だった。
 今の春宮本家に日菜子の意見を否定する者はいない。
 使用人たちも皆、日菜子と同じ知識を持ち、日菜子の味方だった。
「それじゃあ、私の権利を名無しが脅かすのを危惧して、お祖父様は先手を打って策を講じていたのですか?」
「その通り」
「まあ! すごいわ! いったいどのような……!?」
「本来、呪詛破りは呪符を使って行うものだ。呪詛を結んだ者の名が呪符に浮かび上がる。しかし名無しの場合、呪詛を受けた数だけ、呪詛を結んだ者の名が肉体に直接刻まれておるだろう?」
「ええ。名無しの皮膚にいつも術者の姓名が火傷のように浮かび上がって」
「その姓名が重要なのだ。名無しには真名を剥奪した上で、呪符ではなくその背に術式を刻んでおるからな。あやつの皮膚は呪符と同じくまっさらな紙とみなされ、呪符と同じ効果を発揮するのだ」
 そのかわり他者から向けられた呪詛の効果も、呪符の身代わりに生贄の娘に現れる。
「真名を剥奪し魂を握ったところで、神々の神域に隠されればひとたまりもない。しかし、肉体に他者の真名を刻めば刻むほど――……肉体をも〝名無し〟にできる」
「……あ、あれに、そんな効果があったなんて…………!」
「神域だろうが、名無しの魂と真名が肉体に還らなければ霊力は名無しに止まらず、霊力搾取の術式が優位に行使し続けられる。授受反転の術式は、そのすべての術式が永続的に行使されるための(かなめ)というわけだ」
 どれも難易度が高く、術者にとってもが代価が大きい術式の組み合わせだ。それを永続的となると、さすがにこちらも寿命が尽きる。
 だが、授受反転によってすべての術の負荷を名無しに背負わせることで、こちらには影響なくすべてが円滑に進む。
 神々によって名無しが神域に隠されようと変わらず日菜子には霊力が届き、名無しは霊力の欠片もなく無能なまま。
 それでは神々も『使えぬ娘だ』と辟易するだろう。
 己の判断が間違っていたとさえ感じるはずだ。これは〈神巫女〉ではない、と。
 そして本当の〈神巫女〉を――日菜子を見つけ出すはずだ。
 住む家も生活費もなく、百花女学院を卒業してもいないため使用人としての働き口を探すこともできない名無しは、生きるためにまた春宮家に戻ってくるほかない。
 霊力の欠片もない、無能な、名無しの使用人としての存在価値にしがみつくしかないのだ。
 名無しには、そうであってもらわねば困る。あれは生贄の娘なのだ。
 昭正は醜悪な笑みを浮かべる。
「日菜子。霊力が安定しないと話していたな」
「はい」
「これを持っていなさい」
 厳重に封咒を施していた木箱から、祖父が取り出したのは赤黒い血痕にまみれた一枚の紙。
 術者の血によって術式が精密に書かれた中央には、
【春宮鈴】
 と、記されている。
「これは?」
「――名無しの真名を封じた呪符だ」
「…………ッ!」
 祖父の言葉は、異母姉の魂がこのたった一枚の紙きれの中にあることを示していた。
「これを、私に……?」
 異母姉の魂のなんと儚いことか!
 日菜子は唇が戦慄(わなな)いて勝手に弧を描くのを止められなかった。
「日菜子のそばに名無しを置くことで、霊力搾取の術式が百パーセントの力を発揮するのは明白。だが、本人がいないとなれば、魂をそばに置くしかあるまい。もう呪符を失くすような年齢でもなかろう。日菜子に預けておく。――有用に使え」
「ええ、ええ……! 大切に使いますわ……ッ!」
 やはり自分こそが〈青龍の巫女〉に……――あの恐ろしいほどに美しい神の神嫁になるのだ!
 番様として選ばれた名無しには、堕ち神の彼を浄化したあと速やかに退場してもらわねばならない。
 これからは〈神巫女〉である日菜子だけが、〈青龍〉のたったひとりの妻として……甘く愛でられながら、いつまでも幸せに暮らすのだから。

 あの最悪な『巫女選定の儀』から一週間が経った日。
 日菜子は新しい使用人を連れ、いつも通りの高慢な様子で百花女学院高等部のカフェテリアにいた。
「日菜子様、もう霊力のご不調は治られたのですか?」
「ええ。心配をかけたわね」
 取り巻きの巫女見習いたちは互いの見合わせながら、ホッした様子で胸をなでおろす。
 そんな日菜子たちの様子を、カフェテリアで過ごす巫女見習いの生徒全員が注目していた。
 日菜子はまるで女優のように演技がかった仕草で、栗色の巻き髪を指先で耳に掛けながら声を張る。
「春宮家当主である祖父に聞いたら、やっぱり私が青龍様の〈神巫女〉だと判明したの」
 その言葉に、カフェテリアの騒めきが増した。
「堕ちかけていた青龍様は、神気を浄化するための生贄として名無しを選んだだけに過ぎないわ。そして今度こそ、青龍様は私を選ぶの。――ふふっ、楽しみね」
 日菜子の発言は、巫女見習いたちの様々な憶測を呼んだ。
 そして百花女学院内で、全国に散らばった〈準巫女〉や〈巫女見習い〉たちが集う研修で、神世と現世の境で催されるパーティーで、ひそひそと囁かれ噂だけがひとり歩きしていく。
(……春宮鈴。いいえ、〝無能な名無し〟には、一生私の使用人でいてもらわなくちゃね……?)
 百花女学院の寮にある自室で、華やかな容姿をさらに美しく磨きたてながら、日菜子は不幸な異母姉をクスクスと嘲笑った。


   ◇◇◇


 真っ白な天井の下、ベッドで昏々(こんこん)と眠り続ける鈴の手を握りながら、竜胆は目を伏せる。
 ふたりきりの病室を支配しているのは、点滴を繋がれた鈴の心臓の脈拍を示す電子音と呼吸器の音だけ。
 そんな中。竜胆を不安にさせる静けさを祓うかのように、硬いノックの音が響く。
「竜胆、結果が出たぞ」
 返事を待たずにドアを開き、颯爽と入ってきた白衣姿の青年は、カルテを片手にベッドサイドへと近寄る。
 薄水色の髪と瞳を持つ、少し高飛車な王子様を彷彿とさせる美貌の彼は、(さざなみ)湖月(こげつ)
 十二神将は凶将のひとり、水神〈玄武〉である。
 形の良い唇の左下にあるほくろが知的で硬派な印象を与える彼は、竜胆と同じく神城学園高等部に通う三年生でありながら、神世で最も有名な大病院『漣総合病院』で神霊経絡科の特別研修医をしている。
 通常の医学を扱う医師を目指す場合は、神世に住まう神々やその眷属であろうと現世の大学の医学部医学科に通い、人の子と同じ過程を経て医師免許を取得した後に臨床研修を受ける必要がある。
 しかし、神霊経絡科となると話が少し変わってくる。
 神霊経絡科は神気や霊力に関する病、怪異による難病などを治療する。
 当然、普通の人の子の目には視えない分野なので、神霊経絡科の医師は大抵が神々の眷属、または神司や〈準巫女〉に限られてくる。
 その誰もが浄化の力が強く、穢れや呪詛が視えるのはもちろんのこと、神気や霊力の流れを色や数字といった様々な方法で視認できるほどに強い霊力を持つ。
 基本的には神城学園大学医学部の神霊経絡科に通い国家試験合格後に医師免許を取得するのだが、湖月の場合は〈玄武〉という神の本質と彼が持つ特殊な異能から、重篤な急患が運ばれて来た時のみ漣総合病院で特別研修医として、十二の神々である〈玄武〉にしかできない分野から医師たちのサポートに入っている。
 漣総合病院を代々経営している漣家の、将来有望な跡取り息子なのだ。
「……彼女は、大丈夫なのか」
「結果から言うと現在は肉体も精神も安定していて、問題はなさそうだね。ただ」
「……ただ?」
「僕も〈玄武〉として冥界を出入りしてみたけれど、彼女の魂は見つからなかった。やはりまだ春宮家の術者が握っているとみていい。早く奪い返せたらいいんだが」
 湖月は幼馴染に検査結果が記された紙を手渡すと、ベッドサイドに置かれているバイタルモニターを確認する。
 心拍数、呼吸数ともに異常はなく、波形も安定している。患者の呼吸音や顔色も正常に戻っており、肉体的には順調な回復が見て取れた。
 竜胆は検査結果に目を通し、胸に詰めていた息を吐く。
 (さかのぼ)ること三日前。神域内で意識を失った彼女を抱き上げて向かった先は、神世にある神城学園高等部に隣接された学生寮。
 そのひとつである黒曜寮の談話室に、突如として顕現(けんげん)した瘴気をまとう〈青龍〉を見て、黒曜寮内が騒然となったのは言うまでもない。
『――急患だ。〈玄武〉を呼んでくれ』
『ハ、ハイッ!』
 しかし竜胆の伝えた急患という言葉に即座に対応できるのは、やはり命の源である水気(すいき)を司る寮の特色だろう。
 周囲にいた神々の眷属たちも、『急患です!』『救急に連絡を!』『漣総合病院にも連絡を入れて!』と、自分たちができる範囲で素早く行動を始める。
 それはたった一分未満の出来事だったが、竜胆が瘴気を抑え、神気に転じさせるには十分な時間だった。
 その後、駆けつけた湖月とともに病院に向かい、すぐに入院となった彼女は三日三晩眠り続けている。
 治療を施され回復傾向にあるとは言え、やはり真名と魂が春宮家に握られているとなると気が気ではない。
(急いては事を仕損じる)
 竜胆は灼け爛れた痕が綺麗になくなった彼女の白磁のような左手をそっと握り、そのぬくもりを感じて目を伏せた。
 その姿をじっと見つめていた湖月は、少し驚いていた。
 冷酷無慈悲で人嫌いな幼馴染の、こんなに弱々しい姿を見たのは初めてだからだ。
『巫女選定の儀』でも氷晶の異能を使い、あっという間に風景を変えてしまっていた。
 あの青い世界の中では、竜胆に抱かれていたこの少女以外の人の子たちは、立って息をするのもやっとだったに違いない。
 愛しい番様にしか配慮しない、冷酷で、人の子を嫌う性格がどうやって形成されていったか知っている者としては、その振る舞いに反対はしない。が、時にその高すぎる神格と皇帝然とした神気に気圧されてしまうのは事実だった。
「けれど竜胆。君の落ち度をあえて指摘するなら、神域の時間軸は神世と現世とはまったく異なるのを忘れていたことだ」
 湖月は幼馴染として、眉を吊り上げて竜胆を睨む。
「君の神域ではたった一時間程度の出来事でも、こちらでは一ヶ月も経過しているんだぞ。その分、こちらに戻った時には人の子の肉体に負荷がかかる」
 そう。すでに『巫女選定の儀』で湖月が竜胆とともに現世に降り立った日より、一ヶ月以上が経過している。
 桜はとうの昔に散り、季節は立夏を過ぎて初夏を迎えていた。
「忘れてはいない」
「忘れていないだって? まさか君は、神域からこちらへ帰ってくる気がなかったのか!?」
(神域という安全な箱庭で、すべてを取り戻した彼女を骨の髄まで甘やかしたいとは考えていたが…… 神世へ一度も戻らないつもりでは)
 いたかもしれない。
「……だから最初に〝番の契り〟をしただろう。あれで彼女は〈青龍の番様〉として、神域で過ごしたことによる負荷はゼロだったはずだ」
「そ、……っ!」
 湖月はひと月前に見た、幼馴染と彼の番様だという少女の口づけを思い出し、羞恥心で顔を真っ赤にする。
「あんな大勢の前でする必要ないだろう! だいたい僕らはまだ学生なんだぞ! 〝番の契り〟なんて、あんな、破廉恥な――っ」
「湖月。静かにしてくれ。彼女の呼吸がせっかく安定してきたところなんだ」
「……っ! す、すまない」
 慌てて口をつぐみながら、湖月は「今後は彼女にかかる負荷を考えた方がいい」と声を落とす。
「今回は〝番の契り〟と神域の滞在時間が運良く等しく作用したのかもしれないけれど、神域に一週間滞在しようものなら、場合によっては彼女の年齢に誤差が生じる可能性だってあるんだ」
 今後も竜胆の神域の時間の流れに変化がなく、一時間が一ヶ月に相当するのなら……神世や現世で十年を超える時間と代価を等しくするためには、一度の口づけで済むわけがない。
 そこに老いも、病も、穢れもないというのは、人の子がその箱庭の主である神と正しく契った時のみだ。
 しかも現世の理において人の子の寿命を超える神域の滞在には、神世や現世に降りた時に死という残酷な負荷が発生する。
 竜胆がそこまで長期間の滞在を考えていなくとも、神域で行う〝番の契り〟がなんたるかを知る湖月には、医療に携わる特別研修医としても竜胆に注意したいことが山のようにあった。
 けれども、羞恥心が勝ってしまい「とにかく」と言葉を濁すしかない。
「学生の本分は勉学に励むこと! 神域はしばらく出入り禁止だからね」
「湖月に言われずともそのつもりだ。どれだけ待たされようと、理性のない獣になるつもりはない」
 眉根を寄せて不服そうに告げた竜胆に、「それならいいけれど」と湖月は胡乱げな様子を隠さずに言う。
「それから検査結果に書いている通り、彼女の肩の下から背中、そして腰にかけて、見たこともない術式を含んだ複数の呪術式が肌に直接刻まれているのが見つかった」
「……それは湖月も見たのか?」
「馬鹿! 僕は見てない!」
 湖月は顔を真っ赤にして再び怒る。
「君ってやつは、幼馴染をよくそんな射殺しそうな目で見られるな……。他の患者で必要な場合は見せてもらうけれど、君の子(・・・)だからね。僕が見たのは写しだ。一応伝えておくと、検査をしたのはすべて彼女の主治医になった女性医師と〈準巫女〉の看護師だからね」
「そうか」
 湖月は白衣の下に着ているシャツのネクタイの結び目を直しながら、「まったく、君の独占欲は厄介すぎる」とぼやく。
 それでも配慮してしまうのは、やはり同じ十二神将という神だからだろう。
 湖月にはまだ番様も〈神巫女〉もいなかったが、もしも見つかったら竜胆と同じようになるだろうと、なんとなく想像がついていた。
「その術式は、三日前に専門機関に提出して今朝ようやく解読結果が受け取れたんだ。ひとつずつ説明していくと」
「真名剥奪、霊力搾取、呪詛破り、そしてもうひとつは……この文字と紋様の羅列から考えると、授受反転と言ったところか」
 竜胆はさらりと読み解きながら、「しかも苧環家の家紋まで組み込まれているとなると、この授受反転の術式は苧環家が開発した苧環家の血筋の者だけが使役できる秘術だろうな」と忌々しげに術式の写しを睨みつける。
「……さすが竜胆。そんなに早く読み解くのなら、最初から竜胆に任せた方が早かったな」
 疲れた様子の湖月は肩を落として、「全部正解だ」と告げる。
「代々霊力が清らか過ぎて呪術に向いていない春宮家が施したにしては、複雑で悪意に満ちた組み合わせだと専門機関の担当者も話していたよ。やっぱり、苧環家が一枚噛んでるとみていいかもしれないね」
「ああ。真名剥奪と呪詛破りを掛け合わせようなんて、よほど呪術に傾倒した者でなければ考えつきもしない。そこに霊力搾取を重ねがけ、さらに授受反転を施して代価の責任逃れとは。卑劣な犯行としか言いようがないな」
 竜胆は彼女を苦しめていた呪詛の正体を知り、再び愚かな人の子への怒りがふつふつと沸いてくるのを感じて、ぐっとこぶしを握りしめる。
 湖月は懇々と眠る春宮家の長女を見つめながら、「残念だけれど、背中の術式に関して神霊経絡科ではこれ以上の治療はできない。すべての術式を正しく解いて痕を消すには、彼女の真名が刻まれた呪符を取り戻してからになるかな……」と言うと、痛ましげな表情をして唇をつぐんだ。
 背中に刻まれていたのは、真名剥奪を中心として編まれた非常に卑劣な術式だ。
 他のものから解こうにも、魂に障りが出る可能性がある。
 それでなくても、真名を封じた呪符が春宮家に握られているのだから、こちらも慎重に動く必要性があった。
「それから。君が応急処置で彼女の呪詛の一部に神気を流していたから命は助かったけれど、他の場所にも刻まれている他者の真名もすべて同じ方法で消し去るには、君が相当な穢れを受けることになる」
「穢れくらい、いくらでも引き受けるつもりだ」
「馬鹿! 自分の穢れで神が寿命を縮めたと知ったら、悲しむのは君の子だぞ!」
 他者の真名が刻まれていた鈴の肌は、侵蝕度の深い穢れの切除を専門とする神霊経絡科の女性医師と看護師資格を持つ〈準巫女〉たちによって、すでに三日間をかけて清められている。
 まだ五割程度であるが、焼け爛れたような傷痕が綺麗に浄化された素肌は透き通るように白く、本来の美しさを取り戻していた。
「君はそれでなくても堕ち神として瘴気を帯びやすいのだから、穢れにはあまり触れないようにしてくれないと。今後の治療も、引き続きうちに任せるように」
「…………わかった」
「なんにしろ、君の子が見つかってよかった」
 湖月は物心がついた時から、幼馴染が自身の番様を奪われて堕ち神となり、誰よりも苦しんで生きてきたのを間近で見てきた。
 初等部に入った頃にはもうひとりの幼馴染と一緒に連れ立って、伽藍堂な瞳で生きる竜胆を少しでも励まそうと、『百花の泉』に通ったこともある。
 泉に浮かぶ赤い牡丹の花を複雑な表情で手に取っては、無言でぐしゃりと握り潰し粉々にしていた竜胆の心情を理解できず、幼心に恐ろしいと思った日もあった。
 ……けれど。
 幼い頃は気弱な泣き虫でいじめられっ子だった自分に、何度も手を差し伸べてくれたのもまた、誰よりも強く気高い竜胆だった。
 湖月が大学を卒業する前に特別研修医になろうと決意したのも、なにかの時に幼馴染を少しでも助けたかったからだ。
 ――〈青龍の番様〉、か。
 その存在は、湖月にとっても大きく、なぜだか胸の奥底をあたたかくする。
「……竜胆。僕はもう行くけど、なにかあった時はすぐにナースコールを押すように」
「ああ。恩に着る」
 竜胆はもう湖月へと視線を向けずに、ベッドの上で眠る鈴の手を握る。
 そんな幼馴染に呆れた思いを抱きつつ、湖月は眉を下げてふっと優しげな笑みを浮かべ、この三日間で通い慣れてしまった病室を出た。

 再びふたりきりになった病室は、点滴を繋がれた鈴の心臓の脈拍を示す電子音と呼吸器の音だけになる。
『怪異や呪詛で苦しんだ患者様が意識を失ったあと、回復傾向にあっても、目覚めるかどうかは患者様次第になります。あとは彼女の生きたいと思う心に懸けるしかありません』
 主治医となった女性医師からはそう説明されていた。
「……どうか、帰ってきてくれ」
 眠り続ける鈴の手を握りながら竜胆は目を伏せ、彼女が一刻も早く目覚めるようにと、彼女の身体の負担にならないよう少しずつ神気を流しながら祈り乞う。
 竜胆も湖月も諦めてはいなかった。
 しかし多くの患者を見てきた医師や看護師たちは、この手の患者が目を覚ますのは難しいと考えているようだ。
 竜胆は飲食も睡眠も必要とせず彼女に付き添い、己の番様に神気をまとわせる。
 鈴は治療のために一日のうちの数時間は別室へと移されたが、その間も竜胆が食事を摂り眠ることはなかった。
 そんな日々が続き、彼女が入院してから七日間が経過した。
 入院着から覗く点滴に繋がれている腕は、いまだ儚くポキリと折れそうだが、白く滑らかな肌を取り戻している。
 他者の真名が焼きつき爛れた傷痕となって刻まれていた鈴の肌は、すべての治療を終えていた。
(このまま神域に連れ去れたとしたら――)
 神域の強制力が働き、彼女の魂を手にできる。
 今度こそ真名も正しく奪い返せるだろう。
 ただこんな状況だ。一週間も寝たきりの彼女の肉体へかかるかもしれない負担を考えると、予後が悪くなってしまうかもしれないという不安に苛まれる。
(……それに。あの時の彼女の表情が忘れられない)
 呪詛の穢れが残る左手の甲の火傷痕に唇を寄せた時の、長い睫毛に縁取られた黒く大きな瞳が溶けてしまいそうなほどに涙を浮かべた彼女の表情が。
『……やっ、やめて、ください……っ、竜胆、様…………』
 彼女は、はらはらと儚く涙し懸命に声を振り絞って竜胆を拒絶した。
 怖がらせ、怯えさせてしまった彼女に再び〝番の契り〟を強いるのは、あまりにも無情というもの。
 竜胆自身、己が冷酷無慈悲と噂されているのは知っているが、それは人の子に対して相応な態度を取っているだけであり、そこに悪意もなければ善意もない。
 だが己の番様の前だけでは、殊更(ことさら)に誠実で慈悲深くありたい。
 それが神であり、ひとりの男としての(さが)だろう。
 彼女をこの世の誰よりも大切にしたいという想いが、竜胆の決断を鈍らせる。
 それに加えて…………彼女がこれほどに苦しめられ、虐げられ、嬲られ、搾取され続けられていたとわかった以上、彼女を神域に連れ帰って真名を取り戻し、己の加護を与え春宮家から守るだけではなにも終わったことにはならないと、飢えきった本能が咆哮を上げている。
(神の番様を害するとはどういう意味を持つのか、――愚かで傲慢なあの一族に教えて差し上げねばならないな)
 因果応報。真に代償のない呪術など存在しない。
 神を前にした時、人の子は代価からも責任からも、逃げられはしないのだ。
 その時。ふと、竜胆が握っていた鈴の手のひらに、きゅっと弱々しいながらも力がこもる。
 竜胆は瞠目し、彼女の手をぎゅっと握り返す。そして。
「…………ん……」
 小さな音が、薄く開いた唇から零れた。
 それは、もう何日も聞いていなかった大切な少女の、どこか心細そうで儚い音色を持つ可憐な声。
「………………っ」
 竜胆は彼女の名前を呼びたい衝動に駆られ口を開くが、呼びかけるための真名を知らなければ呼吸音がもれるだけ。
 酷く悔しい感情に圧し潰されながら、「どうか、起きてくれ」とただただ懇願する。
 すると願いが通じたのか、彼女はゆっくりと両の瞼を開いた。
 天井のライトに眩しそうに目を細め、そして大きな黒い瞳が竜胆を映す。
「…………りん、どう、……さま?」
 竜胆は思わず溢れ出しそうになった涙をぐっとこらえると、「ああ」と彼女の呼びかけに短く返事をする。
 その声が、自分でも聞いたことのないような穏やかな音色だったことに少し驚くも、竜胆はそのまま青い双眸をやわらかく細めた。
「おかえり、俺の大切な番様」
 そしてかけがえのない、たったひとりの〈青龍の巫女〉。