己が〝狭霧竜胆〟という名を与えられた人の子ではなく〝神〟であると確かに自覚したのは、漠然としていた番様という存在を〝本能〟で強く感じ取ったある日。
数えで五歳になる霜月のことだった。
その日は神々の眷属として生まれた両親に連れられ、現代では七五三詣でと呼ばれている儀式のうちのひとつである『着袴の儀』のために、神世の鬼門に位置する場所にある『十二天将宮』と呼ばれる神社に参拝していた。
十二天将宮の創建は戦国時代の半ばまで遡る。
最初に〝生き神〟として降り立った〈始祖の神々〉から四季姓を頂戴した者たちが神世に荘厳な社殿を創建し、始祖の神々を奉斎したことが創祀とされされており、今でも歴々の十二の神々を謹み清めて祀られている由緒正しき神社だ。
以来、その場所は神世の鬼門封じとして崇められ、神聖な地であるとして選ばれた眷属たちによって守護されている。
創始の由来から参拝資格を持つ者の門戸は狭く、神々とその眷属、番様、巫女、そして四季姓を冠する一族か、それに準ずる一族と決まっているため、特別な祭儀がない限り参拝客はまばらだ。
広い境内は、常に歴々の十二の神々が残した厳かで清々しい神気に満ちている。
限界まで張りつめられたかのような高貴で気高いそれにどことなく精査されている気がして、幼心にいつだって近寄りがたい場所だった。
邸では普段から和装で過ごしているが、此度の『着袴の儀』は特別らしく、新しく仕立てたばかりの着物を母と使用人たちが数日も前から次々に広げてはあれやこれやと言っている。
そうして選び抜かれた立派な羽織り袴と、〈始祖の青龍〉を模した紋様が墨で描かれた蔵面を着付けてもらった当時四歳の竜胆は、その日、朝から妙な胸騒ぎがしていた。
同世代の神々とともに儀式を終え、境内でそれぞれの一族の大人たちが〈始祖の眷属〉の蔵面を付けたまま社交に興じる中、ふと胸騒ぎが強くなった気がして背後を振り返る。
長方形の和紙に薄い白絹を張った異質な蔵面が風でめくれ上がり、『髪置きの儀』からずっと伸ばし続けている細く結った黒髪が首の付け根で流れるように翻るさなか、朱色の太鼓橋を渡ってこちら側へやって来る少女に竜胆の視線は釘付けになった。
その幼い少女は、同じ年頃の少女を囲む華々しい集団の最後尾でひとり、うつむき気味に歩いていた。
「お父様、日菜子も神様と同じ神社で七五三のお参りができるだなんて、嬉しいわ!」
「日菜子は名家である春宮に生まれた、大切な巫女候補だからな。当然のことだよ」
「巫女候補、そうだわ。お祖父様、日菜子は誰よりも立派な巫女になってみせますね!」
「期待しておるぞ。日菜子の霊力は太く荒削りだが、修練次第ではどこまでも伸びるはずだ。あれなどまだ霊力も目覚めておらんからな」
「うふふ。ねえ、お母様! 日菜子はお姉様よりも目立ってるかしら?」
「ええ、日菜子。日菜子の方があの子よりずっとずっと可愛いもの。当然よ」
「うふふ、うふふ、そうよねっ」
意図的に意識を向けているからか、竜胆の耳にはその華々しい集団の会話がよく聞こえてきた。
そんな中、華々しい集団の大人は皆、上等な真っ赤な生地に大輪の花が刺繍されている豪華な晴れ着で飾り立てられた幼い少女を褒めそやす。
飾り立てられた少女の手を引く母らしき派手な女性は、優しく笑いかけてはあの子と呼んだ少女へ侮蔑を含んだ視線を投げた。
紺地に白菊の花が咲いた清楚な晴れ着姿の少女は、使用人だろう人物たちを含む集団の数歩後ろで怯えたように再びうつむき、両手を胸の前で握りしめる。
その姿は、できるだけ自分の存在感を無くそうとしているみたいだった。
けれども。けれども竜胆の瞳には、彼女だけが眩しく輝いて見えた。
どくんと大きく跳ねた心臓を、竜胆は片手でぎゅっと鷲掴む。
「――見つけた」
全身に血潮が巡るような高揚感。興奮が頬を染め上げる。
感嘆に満ちた声が人知れず呟くようにして唇からこぼれた時、初恋と呼ぶには切なすぎる感情が、きゅうっと喉を鳴らす。
それは竜胆が、今までお伽話のように感じていた番様の存在を、頭でもなく心でもなく本能で感じた瞬間だった。
神気があるわけでもないのに彼女の周囲がきらきらと光って見え、彼女から視線を外すことができない。
しかし、彼女の方は竜胆が向ける熱い視線に気づく様子もなく、白い下駄の鼻緒に視線を落としたまま歩いている。
集団の中心にいる真っ赤な晴れ着の少女が付けている物よりも小さな白菊の髪飾りは華奢で、腰のあたりまで伸びている結いあとのない綺麗な黒髪が逆に引き立って見えると思った。
幼い竜胆は本能から湧き上がる高揚と感動に打ち震えながら、言葉なく少女を見つめる。
(……どうすれば彼女を連れ帰れるだろう?)
番様になってほしいと告げたら、驚かせてしまうだろうか。
もしかしたら、まだ彼女には番という概念が理解できない可能性もある。
(拒否の言葉は聞きたくない)
そんな言葉を聞かされたら、胸が張り裂ける気がする。
(いっそのこと、このまま神世に住んでくれないだろうか。狭霧の邸にはいくらでも部屋がある。ともに過ごしながら、少しずつ理解していけばいい)
纏わりついている現世の気も、あの太鼓橋を渡りきったら禊清められるはずだ。
彼女から微量に感じられる今はまだ芽吹いていない霊力が、十二天将宮を満たす神気で研ぎ澄まされてきているのがわかる。きっと彼女もすぐに神世に馴染める。
(けれど、本当は――今すぐ、誰にも見えないところに彼女を隠したい)
長い睫毛に縁取られた竜胆の青い瞳の瞳孔が、きゅうっと縦長に狭められる。
(神域で穏やかな日々を一緒に暮らせたら、どれほどに幸せだろう?)
だって、明らかに彼女を愛する気などない家族なんて、いらないはずだ。
(……そうだ。このまま現世とともにあんな家族は捨ててしまえ。――僕の可愛い、可愛い人の子、番様)
まるで龍のごとき瞳が爛々と輝き、衝動的な独占欲が胸いっぱいに渦巻く。
その時、竜胆は生まれて初めて、己が〈青龍〉という〝神〟であると強く自覚した。
大切な大切な人の子以外は、どうだっていい。むしろ、あんな醜い集団のような生き物が人の子だというのなら、視界に入れるのさえ不愉快だ。
幼い竜胆はぎゅっと眉間にしわを寄せる。しかし。
「儀式が終わられた神々も揃われている。さあ、橋を渡り切ったと同時に、お前はこれを付けなさい」
突然猫なで声を出した父親らしき男が、うつむく少女の首になにかを掛けた瞬間、目を見開くような出来事が起こった。
ぱっと、それこそ誰かに〝神隠し〟をされたみたいに一瞬にして、目の前からあの少女の姿が消えたのだ。
芽吹き始めていた彼女の霊力の欠片も、跡形もなく霧散している。
「――嘘だ」
竜胆は信じられない思いで、はっと息を詰めた。
どれだけ彼女から感じていた霊力を探ろうとも、存在そのものが神世から消えている。
どういった理由からかは不明だが、彼らは彼女を神々の目に触れさせないようにしたのだ。
(これが〝神隠し〟でないとするならば……噂に聞く呪具かもしれない)
〈始祖の神々〉が降り立った頃より受け継がれている呪具や神器の類であれば、それくらいの芸当も成せるだろう。
竜胆は怒りに震える指先をぎゅっと握りこみ、拳を作る。
怒りを抑えようとすればするほどぎりぎりと骨が鳴り、爪が肉に食い込んだ。
華々しく着飾った集団は表情ひとつ変えずに太鼓橋を渡り切ると、神々の一族を見つけるやいなや「これはこれは、皆様お揃いで」と大げさに相好を崩した。
「四季幸いをもたらされし神々の皆様におかれましては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます」
集団の長らしき老齢の男は、蔵面で顔を隠した幼い神々たちに頭を下げる。
わざとらしくも見える動作に、竜胆は蔵面の裏で睥睨しつつそれを受けた。
他の神々たちも戸惑っているのか思うところがあるのか、言葉を発することはない。
「春宮殿もご健勝そうでなによりじゃ。本日は七五三詣でですかな?」
こちら側では最も年長者である〈玄武〉の曽祖父が杖を突きながら歩み出て、ひ孫を隠すように立った。
〈玄武〉を授かる名家、漣家の現当主である彼は、先代〈玄武〉の長子に当たる。
神の息子、そして補佐官として生き、すでに齢九十を迎えた曽祖父は、神である自身のひ孫を眷属として守護することを使命としていた。
緊迫した空気を感じたのか、〈玄武〉は震えながら曽祖父の足にしがみつく。
「ええ。我が春宮家の後継ぎである日菜子が満三歳を迎えましたので。歴々の皆様にご挨拶をと。偶然にも神々の皆様に拝謁することができ、恐悦至極に存じます。まるで運命のお導きのようだ。なあ、日菜子?」
「はい、お祖父様!」
真っ赤な晴れ着の少女は神々を目の前にして神気すら感じていないのか、『聞いて驚きなさい? 私こそが神様の巫女になる娘よ!』とでも言いたげに威張り散らした態度で、鼻息荒く胸を張った。
(……神と人の子の違いすらわからないなんて、愚かな人の子の代表格だな。もっとも、神々に選ばれなければ継ぐ後もないだろうに。まるで自分が特別だとでも言いたいのか?)
竜胆は侮蔑を含んだ視線を彼らへ向けながらも、紺色に白菊の晴れ着姿の少女を視線だけで探す。
感覚を研ぎ澄ますと、彼女の魂の気配を見つけることはできた。
しかし、相変わらず姿も霊力も認識できない。これじゃあまるで、死者の弱り切った霊魂のようだ。
他の神々の視線の動きを観察してみても、紺色に白菊の晴れ着姿の少女を認識している様子を見せている者はいない。
この調子だと、彼女からも竜胆の姿は見えていないのだろう。
彼女の瞳に己を映してもらうことすらできない事実に落胆を禁じ得ないが、映してもらえたとしても、今は彼女に見せられるような顔をしていないのは自分が一番わかっていた。
(それに、きっと。……ここで声を上げても無駄だ。見間違いだと主張されるか、本格的に彼女を隠されるかもしれない)
なにしろあの男の言い分では、孫娘はひとりしかいないことになっている。
竜胆は溢れ出そうになる殺気を抑えるために再びぐっと拳を握り込み、足早に踵を返す。
神であれ、幼い己では腕力や財力だけでなく謀略も大人には敵わない。
日本には神に足枷を嵌める法律も多い。警察庁にも防衛省にも属さぬ霊力を操る者たちによる対呪術、対怪異、対堕ち神の特別対策機関、『特殊区域監査局』の討伐対象に認定されでもしたら一巻の終わりだ。
今はとにかく、彼らに己の本心を気取られぬようにするのが幼い自分にできる唯一の得策だろう。
(――彼女は僕のだ。彼女を愛さぬ人の子たちの好きにはさせない。誰よりも彼女に相応しい存在になり、彼女を僕のものにする機会を一刻も早く掴まなければ)
蔵面の下、竜胆は爛々と青い双眸を輝かせながら決意した。
その後、幼い竜胆は昼夜を問わず狭霧家の蔵書を読み漁った。
本邸の書庫にある文献や史料、論文を読み終える頃には、閲覧厳禁とされる禁書が納められている蔵に幾重にも張り巡らされた強固な霊符の封を解くまでに成長していた。
竜胆は出生時より常日頃、社交の場や神城学園の幼稚舎において『孤高の異才』と評されている。それは現存する十二の神々の中で最高峰の神気と強力な異能を持つこと、そしてその神格の高さや年齢に反する頭脳明晰さが理由だろう。
だが、それにしても。その成長速度には目を見張るものがある。
十二天将宮にも祀られている歴々の神々が過去に施した霊符を、たったの四歳で解いてしまった事実に、狭霧家の者たちの中には恐れをなす者も出始めたくらいだ。
けれども竜胆はそれを意に介すこともなく、眷属の者たちの入室が不可能な禁書蔵に足を運ぶ。
禁書に記された日付からの推測によると、蔵の封咒が解かれたのはどうやら江戸末期以来らしい。
しかし書物が煤けた様子もなく、埃が積もっていたり蜘蛛の巣が掛かっていないのは、それだけの術がかけられているからなのだろう。
禁書には強固な神域の創造法や〝神隠し〟に関する書物が多くあった。
「……自身の神域を持つ神々はそれなりに存在するが、神格によっては小さく狭いものになる」
また神気の量の関係から維持できる時間が限られている者も多いらしい。
「広大で緻密な世界観を持たせた神域を、数年間単位で維持できる者は稀である。その神域に人の子を招き〝神隠し〟を行える者も同じく稀な存在となる……か。まずは神域の拡大から始めるべきだな」
神域ならすでに物心ついた頃から持っている。
けれども、その強度と領域の広さに関しては今まで無頓着だった。
(彼女が春宮家の娘だとしたら、神世へ来るのは次の七五三詣での時か)
狭霧家の当主である父に尋ねたところ、四季姓を持つ家系でも十二天将宮への参拝が可能なのは本家の血筋に生まれた者だけだそうだ。
境内までは使用人の同行が許されているものの、その使用人たちも分家筋の者と決まりがある。
昔から本家に子供が生まれた時には、生後一ヶ月の『お宮参り』で歴々の神々へ子宝を授かった感謝を述べ、その子供が巫女候補、あるいは神司候補であると報告を行い、心身の健やかな成長を祈るらしい。
そして七五三詣ででは、巫女候補や神司候補の霊力のさらなる目覚めを願うのだとか。
人の子にとって普段は足を踏み入れられない神世、それも霊験灼かな十二天将宮で歴々の神々に参拝できる機会はとても貴重で、七つまでに歴々の神々に御目通りを済ませてその加護を得られた者は、特別な霊力を授かると言い伝えられているそうだ。
(春宮家の当主も、孫娘ふたりに特別な霊力を授けたかったのかもしれない。わざわざ彼女に強力な呪具を持たせて、僕たちの目には映らないようにした理由は謎だが――)
単にもうひとりの孫娘を神々へ売り込むために、目立たせたかったのならばまだいい。
彼女があの場で目立っていなくとも、番である竜胆には運命を感じさせるだけの時間があった。他の神々に見せるまでもなかっただろう。
(そうであってほしい)
いや、そうでなくては困る。
他の理由では、現世に手出しできない竜胆の手には負えない。
あの時の怒りを鎮めるには、そう思い込むしかなかった。
そんな懸念をよそに、あの日は完全に消えてしまっていた彼女の存在や芽吹き始めていた霊力の片鱗は、翌日にはふと感じられるようになっていた。
今も、目を瞑れば彼女の魂の気配や霊力の片鱗を感じることができる。
神世ではないものの、現世のどこかに確かに生きている彼女の存在に、竜胆の口角は小さく上がる。
真名を知れさえすればもっと明確に彼女の居場所や状況を把握でき、〈青龍〉としての加護も与えることができるだろうが、神世の図書館にある資料室で閲覧できた春宮家の家系図の直系長子の欄には、鬼籍に入っている壱ノ妻とのあいだの娘として〝壱ノ姫〟、現在婚姻関係にある弐ノ妻とのあいだの娘として〝弐ノ姫〟としか名前が記されていなかった。
どうやら一般的に公にされている家系図では、役職を持つ者や功労者、罪人の真名だけを開示し、それ以外の者の真名は意図的に伏せるのが習わしらしい。
(三年後には、逢えるだろうか。その時に真名を尋ねられたらいいが)
真名を知った上で神域に連れ帰れば、あとはどうとでもなる。
彼女こそが〈青龍の番様〉だと両親が知れば、狭霧家の将来の花嫁として、神世での生活も安泰になるだろう。
神が宣誓しさえすれば、春宮家側も番様を引き渡さないなんてことはできまい。
(それまでになんとしてでも、理想とする神域を完成させないとな)
本人に拒否されるなんて未来は万が一にも考えていない竜胆は、手のひら上で異能を操りながら、小さな氷の彫像を作り上げる。
精密な異能操作によって出来上がったあの日の彼女の彫像は、まだ竜胆が目にしたことのない微笑みを浮かべていた。
(……僕が話しかけたら、微笑んで、くれるだろうか)
こんな風に、穏やかな微笑みを浮かべてくれたらとても嬉しい。
この世のどんな幸福にも代えがたい瞬間だろう。
今だってどうしようもなく番様である彼女に会いたくて心が落ち着かないのだが、残念なことに、政府に定められた法律が邪魔をする。
過去、初めて降り立った現世で穢れに当てられてしまい、命を落とした未成年の神々が多かったこと、それから霊力のない人の子が幼い神々を連れ去る悲惨な誘拐事件などが起きたことから、巫女を持たない十六歳未満の神々が現世へ降り立つことは法律で禁じられているのだ。
またどんな理由があろうと、法律上、十六歳未満の神々は〈神巫女〉を持ってはいけない決まりだ。
というのも大正時代の中頃に、年嵩の〈神巫女〉に拐かされて未成年の神々が行方不明になったり、偏った知識を植えつけられたせいで道を踏み外し、新興宗教の教祖になるなどして暴動が起きた事件が原因である。
その他にも、神々に対する法律が制定されていなかった時代には多くの問題が頻発した。
四季幸いをもたらすはずの神々が悪しき巫女によって穢されると、日本の気候に異常が起き四季が乱れるだけでなく、山崩れや水害などの災害が目立つようになり、作物が育たなくなるほか家畜にも疫病が蔓延し、海や川までもが汚染されていく。
それは日本に住まう人の子たちの生活を脅かす、由々しき事態であった。
その後は『神々を守るため』という名目で法律が制定されたが、時代の流れとともに、今は神々に足枷を嵌める法律も増えた。
代表と言えるのが、特定の〈神巫女〉を持たない神々が現世に降り立つには、政府機関と繋がりのある『特殊区域監査局』に属する〈準巫女〉を雇用し、その監視下で生活しなければならないなどの法律である。
しかし、『特殊区域監査局』から派遣される〈準巫女〉を一度でも雇うと厄介なことになる、というのはよく聞く噂だ。
そのひとつに、ある神が現世に降りるために〈準巫女〉を雇ったが、数年後に〈神巫女〉を見つけたため解雇しようとしたところ、〈神巫女〉の暗殺を謀られたという話まである。
(暗殺されてしまった〈神巫女〉は、その神の番様だったというのだから、なんとも恐ろしい話だな)
彼女のまだ芽吹き始めたばかりの霊力の片鱗から、彼女が自分の〈神巫女〉でもある可能性が高いと直感していた竜胆にとって、現世に降り立つために、わざわざ将来邪魔になるリスクの高い〈準巫女〉を雇うのは本末転倒と言えた。
それからというもの、竜胆は睡眠も飲食も忘れて神域の形成に没頭した。
もちろん、両親はそんな我が子を心配した。
まだ幼い我が子が、今までは不服そうながらも黙って通っていた神城学園の幼稚舎に通うことを拒否し、睡眠も飲食も放棄して、禁書蔵で莫大な神気を操り続けているのだ。流石に見過ごすわけにはいかない。
「〝生き神〟として、人の子と同じ肉体を持って生まれたことを忘れてはならない」
「そうよ、竜胆。子供には充分な睡眠と栄養たっぷりのご飯が必要だわ」
両親は毎日、禁書蔵の前にやって来ては竜胆を厳しく諭した。
しかし両親の言葉が今さらながら疑問に思えてきて、竜胆はこてりと首を傾げる。
「でも、僕には必要なさそうです」
龍神の瞳孔が、心底不思議そうに両親を見上げる。
竜胆はあの少女を見つけた日をきっかけに、幼いながらもすでに〈青龍〉として覚醒してしまっていたのだ。
両親ははっと息を呑み、困惑を浮かべた顔を見合わせる。
〈青龍の眷属〉として、神の意向に沿うのが務め。
だがなによりも、ふたりは竜胆と血の繋がった家族だ。
睡眠や食事を蔑ろにする我が子に対し、人の子の肉体を持って生まれた限り必要不可欠な事柄を教えるのは、両親としての義務である。そして同時に、息子の健やかな成長を喜び、没頭できる分野を制限なく自由に学ばせるのもまた、親としての愛だろう。
「……わかったわ。疲れたら休憩をとって、しっかり食べるのよ」
「根を詰めるのもほどほどにな。よく食べよく睡眠をとらなければ、将来身長が伸びなくなるぞ」
両親は『仕方のない子だ』という表情をしながら、かなり譲歩した言葉を伝えて、代わる代わる竜胆の頭を撫でた。
本邸に帰る両親の背中をを見送った竜胆は、ぽつりと呟く。
「………………身長、伸びなくなるのか」
(それは嫌だな……)
母から無理やり持たされた銀製のトレーの上に乗っている湯気のたつ食事に視線を落とし、竜胆は禁書蔵に引っ込んだ。
――しかし。三年後などと、悠長に構えていたのがいけなかったのかもしれない。
師走の半ばに差し掛かり、寒空の下でちらちらと初雪が降り始めたある日。彼女の魂の気配が、跡形もなく搔き消えてしまったのだ。
それは竜胆が神域に閉じこもっていた時、彼女の霊力が大輪の花の如く咲き誇り目覚めたのを感知してから一刻も経たぬうちのことだった。
「どう、して…………」
突然の出来事に、はあ、はあ、と呼吸が浅くなり、目の前が真っ暗になる。
(理解できない。だって、さっきまで、目覚めたばかりの彼女の霊力を感じていたのに)
春の暖かな陽だまりの中、大地に草花が次々と芽吹き花を咲かせていき、苔むす巌によって堰き止められていた川が、冷たい水しぶきあげながら一気に流れて滝を作り出す――……そんな光景が鮮明に思い浮かぶ、五行の偏りのない莫大な、それはそれは心地よい清廉な霊力だった。
その瞬間、竜胆は「ああ、やっぱり彼女が〈青龍の巫女〉だった」と確信さえしたのだ。
けれども。今はまったくその気配は感じられない。
霜月の折に呪具で隠されたのとはまた異なる、魂そのものが失われてしまったかのような、存在の消失だった。
身体中から血の気が引いていく。
どこもかしこもガタガタと小刻みに震えて、力が入らない。
「……彼女は、死んで、……しまったのか…………?」
魂の気配が搔き消えるとは、それすなわち完全な死を意味する。
死んですぐの魂は現世に留まるものや黄泉路を旅するものも多いが、掻き消されたとなると術者によって現世からも黄泉からも祓われ――。
「そ、そんな。そんなの、嘘だ…………嘘だ、嘘だ、嘘だ、うっ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――っ!!」
それは竜胆が、初めて絶望の深淵に叩き落とされた瞬間だった。
幼い龍神の激しい慟哭が、禁書蔵だけでなく強固な結界で覆われた狭霧本邸の敷地全体にまで、轟々と響き渡る。
制御できなくなった神気の暴発が起き、まるで地響きのごとくびりびりと硝子や建物を揺らした。
しかしそれもすぐに新たな衝撃波に上塗りされていく。
暴発していた強力な神気は、竜胆の感情の爆発と意識の混濁ともに少しずつ濁りを生じ、次第に紫色に転じ始めたのだ。
それは彼女の死という堪え難い絶望に呑み込まれ、竜胆が瘴気を生んでしまった結果だった。
禁書蔵の外からは、阿鼻叫喚の悲鳴が上がる。
「こちらに強い神気と瘴気にあてられて意識不明の者が!」
「救急に連絡して医療従事者の〈準巫女〉の派遣を要請しなさい! 今すぐに!」
「だから若様は危険だと言ったんだ! 今は旦那様に電話している場合ではない、すぐに『特殊区域監査局』に通報を!」
「まだ動ける者はいるか!? 若様のおられる蔵に封咒を! ないよりはマシだ!」
鼓膜の内側に反響しているかのごとく、ぐわんぐわんと響く音としてしか捉えてられない使用人たちの叫び声が、遠くで聞こえている。
けれど、真っ暗闇にいるせいでもうなにも理解できない。
長い睫毛に縁取られている伽藍堂になった龍神の瞳から、つうっとひとすじの血の涙が零れ落ちる。
氷晶の異能が荒れ狂う凍てついた青い世界で、小さな竜胆はひとり、もう見せてもらうことすらできない穏やかな微笑みを浮かべた氷の彫像を、そっと抱きしめた。
◇◇◇
「〝十二神将は吉将が木神〈青龍〉。真名を狭霧竜胆。四歳。――お前で間違いないな?〟」
監獄の看守を彷彿とさせる白地の制服を着た二十代前半の長身の男が、無感情で抑揚のない低い声で問う。
その問いで混濁していた意識がようやく浮上し始めた竜胆は、ゆっくりと顔を上げた。
「間違いありません」
神からの問いに唇が自然と動く。
ふと気がつくと、いつのまにか狭い部屋の真ん中で、竜胆は自分の両膝を抱きしめるようにして座り込んでいた。
「……誰?」
「十二神将は吉将が木神〈六合〉。『特殊区域監査局』に所属する上級刑務官だ」
藍色の長髪を首の後ろで一本の太い三つ編みにまとめている金色の双眸の美丈夫は、無表情のままそう言った。
立派な制帽の中央には、八咫烏を榊の葉が取り囲んでいる金色の帽章が掲げられている。
どうやら狭霧家の者から、霊力を操る者たちによる対呪術、対怪異、対堕ち神の特別対策機関『特殊区域監査局』へ通報されたらしい。
竜胆が入れられているのはその建物内にある座敷牢だろう。
男の立つ廊下を区切る木格子以外、空間には窓ひとつなく、霊符や呪符が壁や天井にびっしりと貼られている。赤黒く変色している文字から推測するに、術者の血が用いられているに違いない。
どれほどのものか、試しに異能の力を足元に集めてみるも無数の氷の剣が畳を貫くことはなく、氷晶が舞う竜巻が一回転するだけに終わった。
「無駄だ。異能は使えない。この牢の結界は往年の腕の立つ術者が寿命と引き換えに結んだ、対堕ち神用の特殊なものだからな」
竜胆と同じく十二の神々のひとりであると名乗った男が言う。
男は確かに神気をまとっているが、『特殊区域監査局』の刑務官だとしたら今の竜胆とは相対する地位に就いている。
(警戒する必要があるな)
虚ろな様子の抜けきらない竜胆は、懐疑心を爛々と湛えた青い瞳で挑発的に六合を仰ぐ。
「…………僕はどうなるのですか」
「まるで手負いの子猫だな。そう警戒しなくても、我々はお前を取って食ったりしない」
カツン、カツンと軍靴の音を響かせながら、六合は木格子のぎりぎりまで歩み寄る。
(いったいなにをする気だ)
そんな竜胆の警戒に反し、六合は表情を変えぬまま神気を集中させた手のひらを霊符に翳す。そして木格子に張られた封咒を燃やし尽くす方法で解くと、その扉を外へと開いた。
長身の美丈夫は両膝を抱えて座り込んでいる竜胆を見下ろしながら、「来い」と短く告げる。
「…………『特殊区域監査局』は、堕ち神を討伐なさるのでは?」
「幼いのによく知っているな。確かに我々は堕ち神を討伐する。しかし聞き分けのいい堕ち神は別だ」
「聞き分けの、いい…………」
「今回の出来事は情状酌量の余地がある」
六合はその金色の双眸に遠い日の哀傷を滲ませ、竜胆に同情する姿勢を見せた。
それでも竜胆は彼を信じる気にはなれず、座り込んだまま、懐疑心を隠さぬ様子で見上げる。
「我々が通報を受け、現場に到着した時。お前は確かに神気の半分ほどを瘴気に転じさせ、異能のコントロールを失う形で堕ちかけていた。しかしながら、半分は神気を維持していたとも言える。精神を瘴気に侵蝕されながらも禁書蔵から一歩も出ず、無差別な殺戮を行わなかったのは、堕ち神として非常に珍しいパターンだ」
六合は腕を組み、うっすらと口角を上げた。
「その上、制御不可能となっていた異能を無意識下で行使し、禁書蔵周辺に頑丈な氷の荊棘を形成して他者の侵入を拒んでいた。状況から鑑みるに、お前は己の内に瘴気を溜め込むばかりで、外部を瘴気で汚染し尽くす意思や眷属を攻撃する意思がまったくなかったのだろうと窺えた」
「………………」
「救急搬送された眷属も今は回復し、被害も最小限だ。幼くも、次期当主としては将来有望だな」
「……それは良かったです」
絶望感から意識が混濁していたせいで、なにも覚えていない。
しかし、常日頃、両親や眷属には迷惑をかけまいとしているので、潜在意識がそう働きかけた可能性は十分ある。
六合が語る当時の様子が真実なのだとしたら、ここは『覚えていません』などと素直に申告せず、黙っておくのが賢明だろう。
「上層部での協議の結果、穢れの侵蝕が堕ち神として即討伐対象となるほどの危険域には達していない点、そして今回の事象には特定の穢れといった外的要因が存在せず、また呪詛を行い神々としての魂を自ら貶めた形跡がないという三点から、この件を〝事故〟と判断することにした。結論として、今回の件では今代の〈青龍〉を討伐対象には認定しない」
「……そう、ですか」
竜胆は静かに、無意識のうちに肺に詰めていた空気を吐く。
たったひとりの大切な番様の死という絶望を経験した今、暗闇の深淵で生きていくしかない己の生き死にに執着しているわけではない。
(彼女が死に、魂を完全に消失させるまでに至った理由を知らずして、――彼女を殺めた人間がいるのなら、その人間を始末せずして死ぬわけにはいかない)
今ここで、たった一度堕ち神化したという理由だけで、『特殊区域監査局』の刑務官に討伐されるわけにはいかないのだ。
「一時間後、我々はお前を釈放し、お前の両親に引き渡す予定になっている。それまでに、私からいくつか話すべきことがある」
来い、と再び告げた六合は、両膝を抱えていた竜胆に向かって手を差し伸べる。
長身を屈めて幼い子供の目線と視線を合わせることすらなく、ただまっすぐに。
(……今までは一人称を『我々』と表現していたのに、わざわざ『私』と言い換えたのは、なぜだ? 『特殊区域監査局』の刑務官としてではなく、十二の神々の同胞として話がしたいという意味か? けれど、明らかに約二十は年齢差がある僕に対して、いったいどんな理由があって……?)
竜胆は少しのあいだ逡巡し、警戒心は解かずにおこうと心に決めると、
「……わかりました」
聞き分けのいいふりをして、黒革の手袋に包まれた六合の手を取り立ち上がった。
霊符や呪符に覆われた座敷牢から出され、「こちらだ」と一言告げた六合から案内されたのは、同じ建物内にある彼の執務室だった。
途中、六合と同じ看守のような制服を着ている数人の刑務官らしき人物とすれ違ったが、彼らは皆、六合の姿を目にするやいなやきびきびとした動作で道の端に避け、「お疲れ様です、六合上級刑務官」と敬礼していた。
(どうやら上級刑務官という役職は、『特殊区域監査局』内において地位が高いらしい)
竜胆はそう考えながら、執務室の応接用ソファに腰掛ける。
テーブルを挟んで目の前に座った長身の美丈夫は顔色ひとつ変えないが、どこか考えあぐねている様子だ。
そこに、「失礼いたします」と扉の外から入室の許可を求める女性の声が響く。
「コーヒーをお持ちいたしました」
六合の「ああ」という返事の後、入室してきたのはお盆にふたつのカップを乗せた二十代前半の女性だった。
(……人の子か)
本日初めて目にした人の子に敵意を持って過敏な反応を示した竜胆は、凍てついた瞳で彼女を観察する。
制服は同じだが、六合の襟章とは違う。階級を示す星の数も少ない。もしかしたら噂によく聞く『特殊区域監査局』の〈準巫女〉なのかもしれない。
女性はびくりと肩を揺らし、六合に縋るような視線を向ける。
その視線に含まれた甘えの感情に、六合の〈神巫女〉だったか、と思い直したものの、執務室内の空気は良くない。
案の定、六合は女性の視線を無視して、「ご苦労。では退室を」と促した。
「六合様! 堕ち神との同席は穢れに当てられる心配がありますので、ぜひ私をおそばに……!」
「退室を。心配は無用だ」
女性はまだなにか喋りたそうにしていたが、縋るような視線を残し渋々と言った様子で出ていく。
パタン、と扉が閉まる音がした後も外には女性の気配があったが、六合が結界を張ると、諦めたように去っていった。
(防音結界の術式と守護結界の術式の組み合わせか)
呪符もなく無言で高度な結界術を行って見せた六合を、竜胆は冷静に分析する。
目の前でこんなに神気に満ちた綺麗な結界を編まれたのは初めてだ。眷属の両親もそれなりに霊力は強い方だが、やはり神と眷属では一線を画す。
(さっきの人の子の霊力では、いくら結界術に優れていようと、盗聴用の式神も突破できないな)
「あいにく子供の好む飲み物がわからなくてな。コーヒーで良かったか?」
「……お気遣いなく。ここで出された飲み物に安易に口をつけるほど、純朴ではないので」
「ほう。よく回る口だ」
六合はどこか面白そうにうっすらと笑みを浮かべると、コーヒーカップに口をつける。
けれども彼はそれ以上、竜胆に飲み物を勧めようとはしなかった。
「なにから話すべきか……。そうだな。まずは私の昔話でもしよう」
「昔話?」
「〈六合の番様〉の話だ」
そう告げた六合の顔が哀愁で翳るのを見て、竜胆は悟る。
(彼は僕と同じだ。――番様を、亡くしている)
「……聡いな。その通り。私はたったひとりの〈神巫女〉と〈番様〉を同時に亡くした。……いや、奪われたと言うべきか」
彼は自嘲気味に眉を下げ、「四年前のことだ」と憂いに満ちた目を伏せた。
「神城学園の高等部に進学後、『巫女選定の儀』が行われることになった。当時十六歳だった私は、ふたりの同胞とともに現世に降り立った。そこで〈六合の巫女〉を見つけた。彼女は百花女学院に通う、十六歳の巫女見習いだった」
竜胆は神城学園幼稚舎に置いてあるパンフレットでしか見たことのない高等部の学舎と、『巫女選定の儀』が行われる百花女学院と記されていた一枚の風景写真を思い浮かべる。
そこに目の前の長身の美丈夫を落とし込もうとしたが、あまりにも彼に監獄の看守のような制服が似合いすぎているせいで、上手く想像できなかった。
六合は訝しげな表情を浮かべた竜胆を見やると、金色の目をどこか優しげに細める。
「彼女とは休日ごとに会い、親交を深めた。三年が経った頃には、私は彼女に深い思慕の情を抱いていた。……卒業したら神嫁になってほしいと、告げるほどに」
「……神嫁」
竜胆はそっと息を吸う。
〈神巫女〉や〈準巫女〉が神と婚姻を結び花嫁になる場合、彼女たちのことを〝神嫁〟と表現する。
それは神が本能で選ぶ唯一の人の子である〝番様〟と区別するためだ。
往年の番様が全員霊力を持っていた、あるいはなにかしらの職に就く巫女だったとは一概には言えない。まったく霊力のない番様も、ごく稀にいたらしい。
そのため〈神巫女〉を持ち、妻として番様を持つという神が多く存在した。
大正時代頃までは若くして亡くなる神々や眷属が多かったという理由から、次代の神を産む可能性のある直系眷属を増やすためにも、神々はどちらも正室や側室として迎え婚姻関係を結んだそうだ。
とは言え近年では〈神巫女〉をビジネスパートナーとし、神格を上げるために番様と婚姻するのが理想的とされている。
理想的、と表現されるのには理由がある。
現在、日本の総人口は一億二千四百万人。神と言えど、そのすべての人の子と会えるわけもなく。また、同時代に運命の相手が生まれているかどうかすらわからない。
そんな中、たったひとりの番様を神が見つけるというのは奇跡に近いのだ。
日本に四季幸いをもたらす十二の神々の一族としては、直系を絶やすわけにはいかない。そのため結婚適齢期になる前から、あらかじめ婚約者探しを始める家系もあるくらいだ。
神が神嫁を娶るということは、番様という本能が欲する存在を完全に諦めることに繋がる。
本能よりもなによりも御家の繁栄を優先して、政略的に神嫁を娶らなくてはいけない神が多いという事実が、〈神巫女〉や〈準巫女〉という特殊な職業の人気の高さを押し上げる理由のひとつかもしれない。
しかし。六合は一族の繁栄のために止むを得ずというわけではでなく、深い思慕の情から〈六合の巫女〉を神嫁に選んだのだと言う。
(この世の奇跡にも似た運命の番を、魂が震え本能が欲する神の半身に等しい存在を、諦めてまでも――)
幼くしてすでに自分の番様の存在を知っている竜胆には、到底理解できない感情だった。
「人間らしいと思うか?」
「……そう、ですね。僕が想像していた〝六合上級刑務官〟よりもずっと」
「そうか」
両膝の上に肘を突き手袋に包まれた指先を組んだ六合は、視線を床に落とす。
六合の瞼の裏には、十八歳になり百花女学院の卒業式を迎えた袴姿の、大切な巫女の姿が鮮明に浮かんでいた。
「私と彼女は当時、互いにまだ未成年の立場だった。卒業後はすぐに籍を入れる予定だったが、彼女の両親がそれを拒んだ。百花女学院の歴代主席には珍しく、彼女が一般家庭の出身だったせいだ」
一般家庭とは代々霊力のない家柄を指す。
昨今は報道各社の影響からか、霊力を持たない両親から霊力を持つ子供が生まれると、たいそう喜ばれると聞く。
(それがいったい、どうして)
「……娘が神嫁に選ばれるのは名誉なことであると、ご両親は思わなかったのでしょうか」
「ああ、そうだな。本当にただの一般的な家庭だったのなら、まだ良かったのかもしれない。だが彼女の生家は古くからなる大地主で、しかし巫女見習いを輩出した経験のない、現世における由緒正しい名家だった。霊力は名門校への入学資格程度にしか捉えておらず、巫女見習いとしての授業も花嫁修行と考えていたらしい」
六合の脳裏には、初めて彼女の生家へ挨拶に訪れた日に彼女の親族から向けられた恐怖の視線や怯えた悲鳴が蘇る。
「『娘を得体の知れない存在にはやれない』と言われてしまった。……だからだろうな。私は余計に、人間らしくあろうとした。――彼女に釣り合う、ひとりの男になれるように」
六合は神世に留まらせようとしていた彼女を一度実家へ帰し、婚約期間を設けることにした。神城学園の大学部に通いながら、合間を見つけては菓子折りを持って両親に挨拶をし、彼女との時間を過ごしたのだ。
あの時。人間らしく振る舞うことに徹さず、もっと早く気がつけたら……手遅れにならずに済んだかもしれない。
六合は悔やんでも悔やみきれない思いを胸に、目の前に座る幼い神を見つめる。
「彼女の生家は山を含む多くの土地を所有していた。彼女の霊力が目覚めたのは、肉体のない神々、いわゆる土地神や山神の加護を幼い頃から受けるという、特別珍しい環境下で育ってきていたせいだ。土地神や山神は、快く私を受け入れてくれたように思えたが…………ある日、彼女の生家一帯は悪質な怪異に見舞われた」
「え…………」
「彼女が怪異に呑み込まれたことすら悟らせぬ、奇妙な怪異だった」
竜胆は思わず息を呑む。
「怪異にいち早く気がついたのは、同じ現世に住まう四季を冠する名家。彼らは怪異を封じ、彼女の生家を見事守りきった。そして今後、その土地一帯を守護すると誓ったそうだ。命が助かった彼女の両親は、術者であろうと人間の彼らに『お礼を』と言い――――彼らが望むままに、娘を輿入れさせた」
「…………は?」
狐につままれたみたいな話だと、竜胆は目を見開く。
「私がすべてを知った時には、彼女はすでに身ごもっていた。そして娘を出産後に、息を引き取ったそうだ」
六合は胸の内の痛みを隠すかのように、無表情で言い切った。
(……どれほどの後悔と悲しみに暮れたのだろうか)
すべてが明るみになった時、神嫁にと望んだ愛する〈神巫女〉が他の男に奪われていたなんて。
予期せぬ政略結婚をした〈六合の巫女〉自身も、『怪異に触れて穢れた身では神嫁にはなれなかった』と、最後にはすべてを諦めてきっていただろうことが想像できる。
けれど……ひと目、逢えたら、と切ない想いを抱えながら互いに思っていたに違いない。
しかし、神は婚姻関係のない人の子の葬儀には参加できない。死に目にも会えず、最期のお別れすら伝えられなかっただろう。
今は上級刑務官と呼ばれ『特殊区域監査局』でも恐れられている長身の美丈夫の想像を絶する過去に、同情せずにはいられない。
「私が人間らしくあろうとせず、有無を言わさず彼女の生家に結界を張り巡らせ、土地神や山神を眷属にしていたら、怪異に見舞われる心配もなかったのかもしれない。…………いや、それよりも。私が神らしく、最初から彼女を〝神隠し〟していたら、あるいは――……」
付け入られる隙などなかったのに。
「後悔してもしきれなかった。そして、彼女の魂が黄泉路へ消える時……私はようやく本能で理解した。――彼女こそが、私の番様だったのだと」
……そう。これは、人間になろうとした自分への罰だ。
六合は「おかしければ嗤うといい」と自嘲気味な笑みを浮かながら、長い足を組み替える。
そんなことを言われても、竜胆には嗤うことなどできなかった。
「神が人間らしくあろうとするなど、くだらない。心底馬鹿げている。――今ではそう思う」
「良心的な大人が子供に教える言葉ではないかと」
「六合という吉将神が、青龍という吉将神に伝えているだけに過ぎない」
「物は言いようですか」
竜胆が唇に排他的な笑みを浮かべると、六合は同じような笑みを浮かべてから眉を下げる。
「大切な番様の手を自ら離し、奪われたのは、……人間らしくあろうとした自分のせいだ。青龍、お前にはそうなって欲しくない」
「………………」
「お前の番様は、春宮家の娘なのだろう?」
「……どうしてそれを」
「事情聴取の際にお前の両親から、『先月の十二天将宮への参詣から、なにかに取り憑かれたみたいに根を詰めるようになった』と聞いた。参詣に同席した使用人からは、『七五三詣でに来ていた春宮家の者に会った』とも」
「どこから春宮家へ情報が漏れるかわからないので、あえて誰にもなにも伝えていなかったのですが……バレていた、と」
「いいや。懸念するような意見は散見されなかった。使用人たちにはお前の神としての能力を評価する意見が多く見られたが、『危険だ』と我々の前でわざと悪評を立て不必要に騒ぎ立てる者もいた。彼らは内部対立に勤しむばかりに、誰も真実には到達していないようだったな」
「そうですか。それはなにより」
「だが……。神域をどうこうしようとしていたのなら、同じ神ならば想像がつく」
つまり六合の推理の結果、というわけだろう。
それは神のみの入室が許されている狭霧邸の禁書蔵に、竜胆の許可なく六合が踏み込み、開かれていた禁書の数々を読まれたことを意味していた。
竜胆が六合をぎろりと睨み上げると、「そう毛を逆立てるな。この件は誰にも伝えていない」なんて、野良の子猫にでも接するかのごとく彼は横に首を振った。
「……それで? 六合上級刑務官殿はなにが仰られたいので?」
「私が神嫁にと望んだ〈六合の巫女〉が輿入れしたのは、――春宮家だ」
「……春宮………………」
大きく双眸を見開いた竜胆の瞳孔が龍の如く縦長に開き、きゅっと狭まる。
竜胆の頭の中ですべてが繋がった。
春宮家の家系図にあった直系長子の鬼籍に入っている壱ノ妻こそ、無理やり輿入れさせられた〈六合の巫女〉。
その〈六合の巫女〉の壱ノ姫こそが、他の家族から不当な扱いを受けていた〈青龍の番様〉であると。
そして強い確信が生まれる。
彼女はなんらかの形で、意図的に神から隠されているに過ぎない。
(――彼女は、まだ、生きている)
一縷の希望を見出すと同時に、ふつふつと沸く怒りから、龍神の青い瞳が手負いの獣のように爛々と輝く。
溢れ出す強い神気に黒髪がふわりと浮き上がり、膨張した神気が執務室内に張られていた結界の壁に触れて、バチバチと音を立てた。
そんな竜胆を見て、さすが現存する十二の神々で最高峰の神格と謳われるだけのことはあるな、と六合は胸の内で冷静に判じる。
「……運命が。番様と成りえる人の子の存在が、お前を強く気高い神にする。そして衝動的な本能こそが神の証であり、また人の子とは一生理解しあえない部分なのかもしれない。……だが」
六合は金色の双眸に遠い日の憂いと憧憬を滲ませる。
「私はお前の神としての生き方を、羨ましく思う」
かちり、と時計の長針が静かに十八時を指す。『特殊区域監査局』から釈放される時間が迫ってきていた。
◇◇◇
竜胆は定刻通りに釈放されたものの、一度堕ち神となった神として、今後三ヶ月に一度のペースで『特殊区域監査局』に召喚されることになった。
現段階で堕ち神と化す傾向がないかの面談と、精神や肉体に蓄積された穢れの侵蝕と深度の検査が主だそうだが、要は討伐対象として認定すべきかどうか、『特殊区域監査局』がいち早く判断するための監視が目的だ。
数年後には半年に一度、一年に一度、三年に一度のペースとなるだろうという話ではあったが、億劫である。
しかも一度堕ちた神へ適用される罰則として、〈神巫女〉が見つかるまでは十六歳以降も〈準巫女〉を伴わずに現世に降り立つのは禁止されてしまった。
法で定められているとはいえ、事故と判断された今回の件にも適用されるとは。
彼女が『巫女選定の儀』の会場にいなかった場合、最悪の未来が待っている。
竜胆は恨みがましい視線を六合へと向けたが、六合は「また三ヶ月後に会おう」としか答えなかった。
その後。狭霧本家の邸に帰宅し、神気と瘴気の暴発で負傷させてしまった者達に謝罪をした竜胆は、再び最近の根城である禁書蔵に引きこもることにした。
禁書蔵の外だけでなく蔵内もさぞ変わり果てた姿をしているだろうと思われたが、過去の〈青龍〉が張った神域に近い結界のおかげで、ほとんどが無傷だったことには驚くしかない。
竜胆は今からしようとしている禁術の記されている禁書を急いで探し出し、支度を整えると、六合の見よう見真似で強固な防音結界と守護結界を張る。
(……一刻も早く、真実を突きとめたい)
準備は万端だった。
その夜。己が研鑽を重ねている最中の、まだ領域の境目が霧がかりぼやけている箱庭に、ちりん、ちりん、と小さな鈴の音が鳴ったのを聞いた。
(耳にしたことのない音だ)
警戒心を強めた竜胆は邸を出て、庭園を抜け、神域の入り口となっている朱色の鳥居まで出向く。
すると不思議なことに、そこにはあの紺地に白菊の花が咲いた晴れ着を身にまとった幼い少女がいた。
「――――っ」
竜胆は息を詰め、彼女を見つめる。
彼女もまた、竜胆を不思議そうな様子で見つめ返してきた。
「あの……この辺りの方ですか?」
心細そうで儚い音色の、可憐な声だ。
竜胆は彼女の声が聞けたことに目を見開き、これが夢だと自覚した。
彼女が死んでいないのなら、もしかすると……という一縷の希望を見出していた竜胆は、禁書蔵の書物に記されていた他人の精神に干渉し影響を及ぼす禁術――夢渡りの術を試していたのだ。
【夢渡り――ひとたび渡りて七魄を害し、みたび渡りて魂潰える】
禁書にはそう記されていた。
これは、人の子の三魂七魄に夢渡りの術が大きな影響を及ぼすことを示唆している。
三魂七魄とは、簡単に言うと魂には三つの側面があり、七つの感情を持っているという意味だ。
相手の肉体を傷つけることなく他人の精神に直接干渉できる夢渡りの術を使うと、術者の見せたいものを見せ続けることができるため、七つの感情を破壊できる。
そして三度渡った時には、相手の魂まで消滅させてしまうのだ。
しかし。これが禁術だからと言って、相手に必ず影響を及ぼすものではないと竜胆は解釈している。
禁術であるのは、夢渡りの術が言葉の見た目から連想するような逢瀬のために使用されてきたのではなく、呪術として使用されてきたからに過ぎない。
(ひとたび渡るだけなら、彼女の魂魄は傷つくことすらないだろう。……とは言え、二度も三度も行うの予定はないが)
術者が払うべき代償となるのは夢渡りの禁術符が必要とするだけの神気、または霊力。竜胆の神気も、たった一度の禁術符の行使でごっそりと奪われた。人の子では、霊力どころか寿命の半分を失うかもしれない。
(さすが三魂七魄に影響を及ぼす禁術。危険度の高さは折り紙つきだ)
禁術符に記す必要がある相手の情報には、【春宮家は直系長子に嫁ぎし〈六合の巫女〉の壱ノ姫】と書き記した。真名も知らない彼女とひと目逢えるかは完全に賭けでしかなかったが、どうやら成功したらしい。
(代わりに神気が多く奪われた気もするが、問題はないな)
むしろ竜胆の持つ神気は、霊力を持つ人の子に畏怖を与える。彼女に怯えられるよりはいい。
けれども竜胆の期待に反して、彼女からはあの五行の整った清廉な霊力は感じられない。
やはり完全に、霊力を失っているみたいだった。
「その……ここは、どこでしょうか? いつのまに外に出てしまったのか、道に迷ってしまったみたいで……」
「……迷子か。状況がよくわからないから、詳しく教えてくれないか?」
竜胆が問うと、彼女はこくりと頷く。
「えっと、その」
彼女の頭の動きに合わせて、ちりん、ちりん、と小さな鈴の音がした。
先ほど竜胆が耳にしていた音の出処は、どうやら彼女の髪飾りだったようだ。
だが華奢な摘み細工の白菊の半分には、以前見た時にはなかった炎で焼けたような跡ができている。
(まさか火をつけられでもしたのか……!?)
瞬時に胸の中に灯った春宮家の殺意の炎を、竜胆は慌ててぐっと呑み込む。
釈放されたばかりだというのに堕ちでもしたら大変だ。
(上手く、やらないと)
じわりと神気のうねりが反転しそうになるのを、手のひらを胸に当てることでなんとか抑えて、竜胆は努めて優しく彼女の髪飾りに手を伸ばした。
突然見知らぬ男の子に髪飾りへ触れられたせいか、彼女はぴくりと肩を揺らす。
ちりん、ちりん、と困惑気味の鈴の音が鳴る。
「あの……」
「ああ、すまない」
夢の中だからか指先に髪飾りの感触はない。焦げたような匂いもせず、布地の変化を感じることはできなかった。
そのため本当に炎で焼けた跡なのか、なにかの呪術による穢れを示しているのか……。
それとも身に起きた恐怖を彼女の精神が髪飾りの焼け跡として現しているのか、判断はつかない。
が、彼女の身になにか起きているのは明らかな事実だろう。
竜胆が髪飾りをいじっていた指先を離すと、少女はあからさまにホッとした様子を見せた。
「その……今朝は元気だったのですが、突然の高熱で、寝込んで、いました。……それで、お祖父様とお父様とお継母様がお見舞いに来てくれて、それからはずっと、怖くて痛い夢を見ていたはずなのに…………いつのまにか、ここにいて」
「……そうか」
どうやら彼女は残酷な悪夢に魘されていたようだ。夢の内容を思い出したのか、顔を蒼白にしている。
彼女の言う突然の高熱は、十中八九、強すぎる霊力に彼女の肉体が耐えられなかったからだろう。
幼い神々や眷属の力が成長する過程でもよくある話だ。安静に数日過ごせば、大抵は肉体が神気や霊力に慣れてくる。
(だが、怖くて痛い夢とは? 確かに高熱が出たら魘されもするだろうが――。それが本当に夢だったのかどうかは、わからないな)
竜胆が彼女の霊力の目覚めを感じたのは朝方。
そしてそれから一刻もしないうちに、彼女の存在がすべて消失したのだから、祖父、父、継母によるお見舞いが、彼女を害したのは明白だった。
(彼女の霊力を奪い、魂の存在を完全に消失させるほどの儀式をしたに違いない。でも……いったいなぜだ? なぜ、わざわざ神々から遠ざける必要がある?)
あの時の春宮家の第一印象を、ひと言で表すならば『傲慢』である。
そんな家が、わざわざ霊力の高い巫女候補を二度も神々から隠そうとする理由がわからない。
隠さずにいれば、彼女はじきに春宮家にさらなる栄華と莫大な富をもたらすだろう。
(傲慢な春宮家なら、喉から手が出るほどに欲しい要素をすべて持って生まれた娘。――そのはずだ)
竜胆はあれこれと考えてみるが、人の子の欲望は多岐に渡る。幼い自分では経験が浅く想像もつかない。
悔しいが、一度推理を諦めることにした。
(家族になにかされたのか? と聞くのは簡単だが、残酷な儀式だとしたら……。…………今はまだ、夢だと思っていた方がいい)
成長するにつれて『あれは現実だった』と、〝夢〟ではなく〝記憶〟として思い出すかもしれない。
けれども、それはきっと彼女の心がもう少し大人になり、堪えられるようになった時だ。
(彼女を追い詰める存在にはなりたくない)
竜胆はそっと口元にあたたかい微笑みを浮かべて、心細そうな彼女を見つめる。
「ここは見ての通り、ただの神社だ。君の家の近くかもしれない」
竜胆は彼女をこれ以上不安にさせまいと嘘を吐いた。
創造途中の己の神域に瓜ふたつの空間ではあるが、ここは夢幻の精神領域。
神域に〝神隠し〟できたわけではないので、彼女の意識を翌朝には返さねばならない。
もしも彼女が家族に内容を喋ってしまっても、『どこかの神社の夢を見た』くらいならば、『もしかすると十二天将宮の加護があったのかもしれない』と思われる程度だろう。春宮家に警戒されるおそれは低い。
「……自分の名前は覚えているか?」
真名とは言わずにあえてそう問うと、少女はふるふると横に首を振る。
「名前、は…………わかりません。失くしたのかも……」
「失くした?」
(まさか真名を奪われたのか!?)
真名の剥奪は、相当な重罪を犯した者の魂を縛りつけ従属させる刑罰だ。
彼女がなにか犯したとは百パーセント考えられないし、それ以上に幼い少女に行う処罰ではない。
「私が、先に産まれたせいで。……わ、私にも、名前がちゃんとあったはずなのに……」
彼女は大きな瞳いっぱいに涙を溜める。
「お、お母様がつけてくれたのに。お母様が、わ、私のために考えてくれた、大切な名前だったのに……なくなっちゃった……!」
悲痛な面持ちで双眸からポロポロと大粒の涙を零し始めた少女は、小さな両手で顔を覆った。
「…………っ」
竜胆は、穏やかな微笑みを見せてもらうどころか、目の前で大切な番様を泣かせてしまったという衝撃に打ちのめされ、どうしたらいいのかわからず狼狽える。
「だ、大丈夫だ。名前も、僕がきっと見つけてみせる。だから……泣かないでくれ」
零れる涙を一生懸命に拭う少女の手の甲に、竜胆はそっと、自分の手のひらを添える。
「う、……ぐすっ…………ふう……う…………っ」
(ああ、そんなに涙を溢れさせていたら、綺麗な瞳が溶けそうだ)
指の腹で優しく拭っても、それでも次々にポロポロと零れ落ちる大粒の涙に、竜胆も困り果てるしかない。
(彼女の涙を止められる方法はなにかないのか)
頭を悩ませていると、思いのほかすぐにその方法を考えついた。
竜胆は自らの着物の懐に手を入れて、小さな巾着袋を取り出した。伝統的な織物を使った古風なそれには、きらきらと輝く色鮮やかな金平糖が入っている。
神世で有名な老舗和菓子店の代表作である、珠玉の逸品。普段から頭脳や神気を酷使する機会が多い竜胆が、神として目覚めた後もなんとなく欲してしまう甘味である。
神世で作られたものだが、原材料の産地は現世だ。この場所は夢の中なので、肉体が直接摂取するわけでもない。彼女が食べても問題ないだろう。
巾着袋を開くと、残りは三つだけだった。こんな時に、と眉根を寄せてしまうが仕方がない。
「手を」
竜胆は涙に濡れていた彼女のこぶしをそっと目元から下ろし、手を添えてゆっくりと開かせる。
巾着袋から彼女の手のひらの上にころんとまろび出た砂糖菓子を見て、彼女は涙に濡れた睫毛をぱちくりとさせた。
「……こ、これは……?」
「金平糖だ」
「金平糖……?」
「砂糖で作られたお菓子と説明したらわかるか?」
「は、はい。……お星様みたい。初めて、見ました」
彼女は不思議そうな表情で手のひらの上の金平糖を見つめる。
「食べてみるといい。少しは元気になれるはずだ」
竜胆は彼女の手のひらからひと粒を摘み、彼女の口の中にころんと放り込んだ。
「んっ。…………わあっ、甘い……っ。美味しい、です……!」
とっさに唇を閉じた少女は、舌の上にじんわりと広がる甘さに感動したのか、涙の残るきらきらと瞳を輝かせながら竜胆を見上げる。
(ころころと変わる表情が可愛いな)
夢幻の中で金平糖の味が伝わったことを不思議に思いながらも、どうやら泣き止んだ様子に竜胆は安堵する。
そして己の番様のあまりの愛おしさに、思わず微笑みを浮かべずにはいられない。
「……こんなに美味しいものを、私がいただいても、いいのでしょうか……?」
「ああ。たった三つだけだったが」
「そ、そんな、ことないです。あとふたつもあるなんて……! ありがとう、ございます」
少女はまるで稀少な宝石でも渡されたかのように金平糖を見たかと思うと、震える声で竜胆に感謝を伝えた。
竜胆は少し照れくさくなった。
だからあえて答えずに、またひと粒を彼女の唇へ近づける。
遠慮しながらも、まるで雛のように金平糖を頬張る姿は、愛らしくて、愛らしくて――……これ以上、手が伸ばせない現実を思うと胸が苦しくなる。
そうして、三つ目の金平糖を頬張る彼女を眺めていると。
朝焼けに空が白むかのごとく、彼女の姿がすうっと薄くなり始めた。
「……時間切れか」
「え……?」
「迷子にお迎えが来たようだ」
竜胆は寂しさと切なさがごちゃ混ぜになった感情を押し殺して、彼女から一歩離れる。
彼女はなにか言いたげに口をはくはくとさせているが、こちらにはもう声が聞こえない。
そして。
背後の風景が薄く透けて見えるほどになっていた彼女は、蝋燭の火が消えるかのごとく、竜胆の前からふっと消えていった。領域の境界線を越えた場所で、ちりん、ちりんと鳴る小さな鈴の音を残して。
無駄だと知りながら、彼女の存在を追いかけるようにしても、気配は微塵も感じられない。その霊力も、存在も、魂も。すべてが消え去っている。……また振り出しに戻ったようだった。
竜胆は夢渡りの術の終わりを感じ、すっと頭が冷えていく気がした。
同時に、自分の意識も浮上する。
どうやら竜胆は机の上に突っ伏すようにして眠っていたらしい。
枕にしていた両腕の下には、己の血を用いて書いた夢渡りの禁術符があった。術の正しい終わりを示すかのごとく、白紙に戻っている。
(……儚い時間だったな。ほとんどなにも喋れていない)
禁書蔵の扉の隙間から差し込む朝日に目を細めながら、竜胆は夢幻の出来事を反芻する。
彼女に触れてもぬくもりを感じなかったし、彼女の涙の冷たさすら手に残っていない。
それにただ彼女を泣かせてしまっただけで、穏やかな微笑みを見せてはもらうことは叶わなかった。
その上、彼女の存在が消失した件に関して、真実に到達するために聞き出せた内容はごくわずか。この機会に真名を知れたら御の字と思っていたが、まさか真名を失っているとは。
(それでも。僕の番様は、生きていた――)
ようやく実感できたその事実が、絶望を抱いていた竜胆の胸をじわじわと熱くする。
と、その時。
ふと、妙な胸騒ぎがした。
彼女と出会ったあの日のそわそわとした浮き立つようなものとは真逆の、悪い予感がする胸騒ぎだ。
竜胆は目を閉じて、細い糸のようなその予感の気配に意識を集中させ――。
「……な、ん、だ…………これは……!」
怒濤の濁流となって、彼女の霊力が復活している気配がする。
(いや、違う。彼女のものじゃない。これは、これは春宮家の傲慢な娘の――――!)
己の番様の霊力は、春の暖かな陽だまりの中で大地に草花が次々と芽吹き花を咲かせていき、苔むす巌によって堰き止められていた川が、冷たい水しぶきあげながら一気に流れて滝を作り出す――……そんな光景が鮮明に思い浮かぶ、五行の偏りのない莫大な、それはそれは心地よい清廉な霊力だった。
それが今や、歪な雑音と霊力を帯びる形で再び存在していた。
竜胆は神気が再び怒りで膨れ上がる。
(彼女の真名を剥奪して魂ごと存在を消失させたのは、彼女の存在を神々に知られぬよう永久に隠し続けながら、彼女の莫大で清廉な霊力を奪い取るためだったのか……!)
おそらく春宮家は彼女に目覚める霊力が高位のものであると知っていたはずだ。
もしかしたら〈六合の巫女〉を娶った時点で、この計画を立てていたのかもしれない。
そしてこれからも春宮家が欲するさらなる栄華を極めんと、あの傲慢な娘に霊力を差し出すためだけに、彼女は春宮という檻の中で生かされ続けるのだろう。
それは彼女にとって残酷な運命の始まりであり――。
また竜胆にとっても、悔しく、惨めで、怒りに満ちた暗闇の深淵で生きる日々の幕開けだった。
神気に、ゆうらりと瘴気が混じる。
竜胆が細部まで巧みに創造した広大な己の神域を完成させたのは、それからひと月後。
それほどの箱庭を維持し続けるにはまだあまりにも若すぎる、雪も深まる睦月の下旬のことだった。