立ち並ぶいくつもの鳥居をくぐり、鈴を抱き上げていた彼が煌めきを帯びた『百花の滝』へ足を踏み入れた時。
(う……っ。……びしょ濡れに、ならない?)
鈴が予想していた滝壺の落水のしぶきと水圧は訪れず、ただ澄み渡るような清涼な冷たさに身体が包まれたのみだった。
それが、先ほど日菜子から向けられた業火に焼かれて恐怖で震え出しそうだった鈴の心を、静かに穏やかにさせていく。
滝の落水に備えてぎゅっと目を瞑っていた鈴は、ゆるゆると瞼を上げる。
(……あれ?)
そして目の前に広がった光景に対し、ふと言語化できない違和感を覚えた。
(夕方になってる?)
『巫女選定の儀』は一限目に当たる時刻に行われていた。あれからどんなに時間が過ぎ去っていようと、まだ正午頃のはずだ。
しかし空は一面、黄昏時と呼べる色合いに染まっている。
その上、背後にあるはずの『百花の滝』もまったく見当たらなくなっている。
かと言って無音ではない。
(ざあざあと滝が流れている音は聞こえてくる)
異様なほどに澄んでいる空気の中、川のせせらぎや滝の音、高らかに響く鳥の声、それから春と夕暮れの混じり合った心地よい風と匂いがしていて――。
(ここが神世にある神城学園の敷地内? だとしたら『百花の泉』があるはず)
鈴が持つ、使用人科の生徒たちも参加できる授業で習った最低限の神世の知識によると、『百花の滝』の向こう側は神世に繋がっていたはずだ。それも神城学園にある、巫女見習いたちの祈りによって捧げられた霊力の花が咲き誇る『百花の泉』と。
けれども鈴の視界に映るのは、幼稚舎から大学までを内包する広大な神城学園らしき建築物ではなく、龍神が昇る厳粛な緋色の鳥居。
その鳥居の向こう側に広がるのは、神社本殿の屋根造りの様式と同じ檜皮葺の両流造でできた大きな屋根やいくつもの回廊が印象的な、朱塗りの柱で建てられた壮麗な日本家屋だった。
(なんだろう、この建物。神城学園じゃなさそうだけど、神社でもなさそう?)
限りなく神社に近いその建物だが、本坪鈴から伸びる鈴緒は垂れていない。もちろんお賽銭箱もなかった。
(まさか豪華なお邸……? それよりも)
「あの、先ほどまで青龍様の前を歩かれていた神々の皆様はどちらへ……?」
鈴が疑問を口にすると、彼は長い睫毛に縁取られた双眸をやわらかく細める。
「彼らはここには入れない。今頃はきっと学園に戻ったはずだ」
「学園に?」
(ということは、やっぱりここは神城学園じゃないんだ)
だとしたら、ここはいったいどこなのだろう?
「……ああ、この日をどれほど待ちわびただろう。ようやく君をここへ招くことができた」
「えっ?」
異様なほど生き物の気配がしない不可思議な場所。
そこにただひとりだけ招かれたと知り、鈴は思わず心細いような気持ちになって顔を固まらせる。
しかし彼はこの世の僥倖をすべて噛み締めたと言わんばかりの表情で、蜂蜜を溶かしたみたいに甘く、けれど独占欲で満ちた瞳で微笑んだ。
「――ようこそ、俺の神域へ」
艶やかな色気をまとった彼に見つめられる。
神様への畏怖や戸惑いに似た羞恥心がごちゃ混ぜにせり上がってきて、鈴の喉はきゅうっと締めつけられて苦しくなった。
「神……域……?」
けれども〝神域〟という言葉に、一気に不安が増してしまう。
鈴がそう思うのも仕方がない。神域とは神世であり、許されざる者は入れぬ禁足地であるという認識が一般的だ。
神世は神々やその眷属たちによって現世のどこかに創られた、結界内にある特別自治区。政府の行政機関のひとつである神代庁の管轄下にある、鈴の住まう日本となんら変わりのない物質世界である。
だが、彼の神域となると話は違ってくる。
それは――神の創った〝箱庭〟だ。
彼自身の神力で創造された非物質世界と言うのだろうか。すべては幻想であり、彼の想い描く理想郷である。
神がその名において治める絶対的な領域には、彼の神に招かれた愛おしい存在だけが息をすることができる。
そこには老いも、病も、穢れもないとか。
そのかわりに……――彼の神の許しがない限り、永久に閉じ込められ続けることもあるという。
大切な親類縁者や友人にも会えず、人の子の一生という時間を遙かに超えた悠久の時を、永遠に。
このような神の創った箱庭に招かれる現象を、人の子は〝神隠し〟と呼ぶ。
〝神隠し〟という現象は、平安時代くらいから稀に起こっているらしい。
日本には八百万の神々が存在し、神社という社を持ち、時には強力な神域を持つ。黄昏時になると、七歳以前の幼子が土地神に連れ去られる民話は多い。
と言っても、民間伝承や伝説といった噂話程度なので、今となっては本当に起きていたかは定かではないが。
しかし人の子と同じ肉体を持ち、生き神となった十二の神々が引き起こす〝神隠し〟は、その伝承の何倍も恐れられている。
なにせ、どれもこれもが真実である。
歴史書に名を残した堕ち神の神域で、女性の遺体が見つかったというのはあまりにも有名な話だ。
女性は堕ち神の番様だった。
江戸時代末期頃からは演劇や小説の題材にもされ、現代では内容をぼかして子供向けの可愛らしい絵と物語が付けられて、巫女に憧れる子供たちへの教訓を教える絵本にもなっている。
物語では、【堕ち神様の神隠しにあった番様は、光を帯びた硝子の欠片になって砕け散り、天に昇っていきました】というのが一番多い結末だ。
しかし現実はそうではない。
堕ち神の〝神隠し〟にあっていた番様は、白骨化していたというのが真相である。
(神域に隠れた堕ち神を討伐して代替わりさせるために、神域を他の神々たちが強制解除したせいで、本来経過するはずだった時間が一気にその女性の肉体に刻まれたことによる自然現象だって、授業では習ったけれど……)
つまり今、鈴が〝神隠し〟にあっているこの空間は、時間の流れが完全に止められた異界というわけだ。
「この邸は君のために俺が用意した」
「わ、私の、ために?」
「ああ。ふたりだけの、邸だ。誰にも邪魔されることなく、君を奪うことができる」
「え……っ?」
「早速だが、邸内を案内しよう」
彼の微笑みには、堕ち神を象徴するような禍々しさはない。
日菜子が鈴に向けるような悪意に満ちた視線も向けられず、害意も感じられない。
現世と神世の境に詳しい巫女見習いたちの噂話では、『冷酷無慈悲な人嫌い』と称されていたが、鈴に対しては普通のようだ。
それどころか、ただただ甘く艶やかで、鈴にとっては過ぎた好意を向けられているように思える。
(けれど。なんとなく背筋が凍って、胸の奥で底冷えがするみたいな気持ちになるのは、青龍様のことをよく知らないから……なのかな)
巫女見習いの生徒から、『堕ち神様』と呼ばれていた青龍様のことを怖いと思っているのではない。生贄であろうと自分を選んでくれたことに、鈴は感謝すらしているのだ。
だからこそ、こんな風に過剰な好意を向けられた経験がない鈴にとって、底知れぬ感情に緊張してしまうのは当然のことで――。
と、ここで、鈴はまだ自分が青龍様に抱き上げられたままの体制だったことに気が付いた。
(だ、だからこんなに青龍様のお顔が近かったんだ……っ!)
どうりで彼の低く甘い声が鼓膜を溶かそうとするし、向けられる視線にタジタジになってしまうわけである。
「あ、あの、そろそろ自分で歩きます! 長時間すみませんでした、青龍様に運んでいただくなんて……。すぐに降ろしていただけたら、と」
鈴があたふたと申し出ると、微笑みを浮かべていた彼は途端に無表情になった。
「降ろす? 君を? どうして?」
「ど、どうして? このような行為は、青龍様に対して大変失礼に当たりますので」
気に障ることを言ってしまったのだろうか。彼の青い瞳に仄暗い影が落ちる。
「せっかく奪ってきた君を、俺に手放せと?」
「い、いえ、そうではなく……!」
優しげに見える微笑みには先ほどの甘さはなく、伽藍堂に見える。
(や、やっぱり気に障ることを言ってしまったのかも)
鈴は「えっと、そのっ」と言葉に詰まった挙句、ふるふると首を振る。
「あのっ、重いでしょうし……」
「君は軽すぎるくらいだ。もっと食べた方がいい」
そう断言されて、鈴は少しばかり羞恥心を覚える。
長い間、無能な名無しの使用人として、満足な食事を摂れない環境下で生きていた。生贄としては不十分なくらいに栄養不足で、ポキリと折れそうな身体しか持ち合わせていない自覚はある。
(堕ち神様が穢れを祓うために必要とされる血液だって、無能な私に流れているただの血液でいいのかな? 霊力も流れていないのに、青龍様の期待に応えられないかもしれない)
そんな自分が青龍様の腕に抱き上げられているなんて、やっぱりおこがましい。
(私が本当に彼の番様なのだとしたら、慎ましく、青龍様の後ろを歩いていたい)
鈴は両手をきゅっと握り締め、自信なさげならがらも彼を上目遣いに見上げる。
「あ、歩かせてほしいのです。その、人の子である私が、青龍様の神域を歩くことを許していただけるのなら……なのですが」
「………………」
「お願いです、青龍様」
「………………片時も離さないつもりでいたんだが、君から初めて乞われる願いだ。無下にはしたくない」
ぎゅっと眉根を寄せて不服そうな表情をした青龍様は、鈴を自らの神域に降ろす。
かわりに彼は鈴の手をそっと握り、口角を上げるだけの悪戯な笑みを浮かべると、優しく指先を絡めて「行こうか」と鈴とともに歩き出した。
鈴は少し速い彼の歩幅について行きながら、黒革の手袋に包まれた彼の冷たい指先から伝わってくる温度に、再び頬が熱くなるのを感じる。
誰かと手を繋いで歩くのは初めてだ。
鈴の人生において、誰も、鈴の手を引いてくれる人はいなかった。
(青龍様の手は、他人に触れるのを拒絶していると示す真っ黒な革の手袋に覆われていて……。お互いに歩く歩幅も速さもまったく違って、ちぐはぐなのに)
どうしてだろう。世界で一番大切にされているかのような錯覚に陥ってしまう。
(手を繋ぐのって、こんな気持ちになるんだ)
心臓がドキドキする。
指先から彼にそのドキドキが伝わらないか、心配してしまうくらいに。
(白骨化していた番様は、自分を選んでくれたたったひとりの神様と一緒に過ごせて、幸せだったのかな?)
鈴の脳裏では、真っ白になった髑髏を大切そうに胸に抱いた青龍様が、先ほど鈴に向けたのと同じように、この世の僥倖をすべて噛み締めたと言わんばかりの表情で、とろけんばかりの微笑を浮かべている。
巫女見習いではない鈴が参加できた授業では、十二の神々について学ぶことは多くなかったが、彼が言った通り、今から鈴のすべてを『奪う』というのなら、この場所は最適に思えた。
(私には大切に思う家族も友人もいないから、現世に思い残すこともない。ここで青龍様と一緒に、彼が穢れを祓いきるまで生かされ続けるというのは、私に存在価値を与えられたみたいな気がして……嬉しい、と、思う)
母に与えられた命を、大切に生きるのが夢だった鈴だ。
他の誰でもなく青龍様のために生きられるというのなら、これほど意義のあることはない。
春宮家で罵られ、虐げられ、使い捨てのボロ雑巾のような扱いを受ける毎日と比べて、何万倍も幸せと言えるだろう。
「ここが玄関、向こう側は庭園だ。邸の内部には坪庭もある。どちらの庭も、君好みにするといい」
「はい」
広々とした玄関を通り抜け、朱塗りの柱が立ち並ぶ板間の回廊を行く。
軍服のような制服をまとった彼の姿とあいまって、なんだか明治時代にタイムスリップしたかのように思える。
窓のないその回廊からは、専属の庭師によって丁寧な手入れがなされているかのごとく美しい庭園が見えている。
回廊の下には青く澄み渡った池があり、さらさらと涼やかな水音が響く中、紅白の鯉らしき色鮮やかな魚影が泳いでいた。
けれどどれも、なんとなく作り物のように感じられる。
その証拠に、優美に泳ぐ鯉には口も目もなかった。
本当に、色がついただけの影のようだ。水面に揺れる太陽の光が、紅白の鯉を通り抜けて水底にも映っている。
人らしきものの気配はまったくない。
もしかしたら、彼がそれを創らなかったのかもしれない。
(どこもかしこも綺麗だけど、不思議な場所……)
パシャリと跳ねた紅白の鯉の躰に透けた朱色の灯籠に、ゆうらりと明かりが灯るのを鈴はぼんやりと眺めながらそう思った。
そんなことを鈴が考えている間にも、彼は広く入りくんだ邸の中をゆっくりと進んでいく。
到着したのは、応接間とおぼしき洋室だった。
やはりどこか明治時代を彷彿とさせる鈴蘭の花の形に似た硝子シェードのシャンデリアが、天井の中央に下げられている。
その真下には飴色のローテーブルとゆったりとした三人掛けのソファセットが向き合って並んでおり、火の入っていない煉瓦製の暖炉には灰ひとつない。
調度品は瀟洒ながら重厚感のあるものばかりで、どれもアンティークの雰囲気を醸していた。
(高級品なのかも。お掃除の時に間違って、壊さないようにしなくちゃ。もしかしたら神域では埃も塵も積もらないのかもしれないけれど、日菜子様の使用人として長い時間を生きてきた私ができることと言ったら、家事か毒味くらいしかないから)
神域に存在させてもらえる間は、恩返しも兼ねて一生懸命働くつもりだ。
鈴の胸ほどの高さまである飾り棚には、紫翡翠製の置き時計があった。秒針の音がしている。時刻は十七時三十二分。
(この時計、動いているみたいだけど……本物?)
黄昏時の空の色合いから想像すると、時計の針が示す時刻は妥当に思える。
けれども神域に朝昼晩という時間概念が存在しているのかは不明だ。今が本当に『巫女選定の儀』と同日の夕方かどうかもわからない。
しかしどうしてだか、それを聞くのを憚られてしまう。
(時間を青龍様に問うのは……なんとなく、彼の心を傷つけてしまうみたいな気がする)
ただの予感に過ぎない。だけれども、自分をこんなに親切に、丁寧に、ひとりの人間として扱ってくれる彼を悲しませて失望させたくないというのが、鈴の心を占めた。
彼は鈴をソファの真ん中へとエスコートして座らせると、その向かい側に着席する。
(こ、こんなに立派なソファに座ったのは生まれて初めて。まるでお客様みたい)
名家出身ではあるが、春宮家でも百花女学院でも使用人としての存在価値しか認められていなかった鈴が、こんな風にソファに座れる機会などあるはずもなく。
鈴にとってのソファは、座るものではなく磨き上げるものだった。
色々な緊張が混じりあう中、鈴は胸に手を当てて「すうっ」と深呼吸をしてから、そろそろと視線を動かす。
モダンなステンドグラスが装飾されている大きな窓には、坪庭の緑が映っている。
縁側を囲うようにして施されている異国情緒な朱色の欄干とのコントラストが華やかだ。
ここは現世ではない、とよりいっそう強調されているような建物の趣は、鈴が生まれ育った春宮家の豪邸とも違っていて、祖父や父や継母、そして日菜子の叱咤の声を思い出さないのがいいなと感じた。
そんな現実逃避をしていると、いつのまにやら紅茶の良い香りが漂ってくる。
ふと視線をその香りのもとへと向けると、なにも無かったはずのローテーブルの上に、ケーキが乗ったお皿とティーセットが忽然と現れていた。
「あ、あれ? いったいどこから……?」
青龍様は疑問符でいっぱいの鈴に小さく微笑むと、「砂糖はいくつ?」と問いながらシュガーポットの蓋を開く。
彼がシュガートングで掴んだのは、彼の瞳のような美しい色合いの金平糖だった。
(わっ、金平糖だ)
その砂糖菓子の可愛らしい見た目と色合いに、鈴の頬が淡く上気する。
金平糖を最後に口にしたのは、いつの頃だったか。
(どこかの神社で、初めて口にして、甘くて、それで――)
記憶にあるのは、幼い頃に手のひらに乗せられた三粒の金平糖と、初めての甘さに感動した瞬間だけ。
心には『またあの感動に出会えるかもしれない』という期待感と、『神様の前なのだから遠慮しなくちゃ』という気持ちが鬩ぎ合う中、
「お砂糖は、えっと、ひとつ……で」
もじもじとしつつ、鈴はそう伝えた。
(どんな味がするのかな? でも、わからないかもしれないから、少し申し訳ない気もする)
自身の紅茶の好みなんて、ちゃんと味わって飲んだ経験がないからわからない。
鈴が知っているのは紅茶の正しい淹れ方だけだ。しかし使用人科の座学であらゆる茶葉の種類や味を学び、実践練習をしたのも今は遠い昔。
それ以来、〝名無し〟として水しか飲むことが許されてこなかった。
それも、春宮家から送られてきた瓶入りの浄化水のみ。
食事は蔑ろにされていたのに、飲み水だけは徹底して厳しく管理されていたものだ。
大罪人を清めるためだろうか。
それとも、飲み水くらいは援助してやろうという、祖父たちの唯一の優しさだったのだろうか。
もしかするとただ単に、巫女見習いとして優秀な日菜子のそばに置く使用人が呪詛やらなんやらで穢れていては、日菜子に支障が出るからそれを防ぐため……だったのかもしれない。
けれども使用人としての給料もお小遣いも出ない鈴にとって、確かに確保されている飲料水は『生命線』とも呼べるものだったので、理由はなんであれありがたかった。
だが紅茶の味以前に、毒味のしすぎで鈴の舌は味覚がない。
せっかくの紅茶も金平糖も、台無しにしてしまう可能性の方が高い。
ケーキなんてもってのほかだ。
春宮家で日菜子の祝い事がある時だけ、無理やり彼女の隣に着席させられて空の皿が配膳されてきたせいで、幼い頃からついケーキへの憧れを抱いてしまっていたが……。
いざ目の前に繊細な生クリームのデコレーション、そして旬を迎えている艶やかな大粒の苺の乗っているケーキを出されると、味覚のない自分には大それたものに見えて、恐縮するしかなかった。
「さあ、お茶にしようか」
彼はシュガーポットから水色と青色、そして紫色の三粒の金平糖を取って鈴のティーカップへ落とすと、彼は指を揃えた手で『どうぞ』という仕草をして、鈴へ紅茶を勧める。
「い、いただきます」
(ひとつと伝えたのに、金平糖、三つも)
もしかして、欲しそうにしていたのがバレたのだろうか。
鈴は恥じらうも、つい嬉しくなってしまって、手に取ったティーカップの中を覗き込んだ。
そうして紅茶に映った自分自身の顔が記憶にあるどの顔よりも明るく穏やかなのに気がつき、現実へと引き戻される。
(……なにかを口にするのは怖い。それが日菜子様の前でなくても)
けれどここは、青龍様に守られた神域。
毒味をする皿のように呪詛を示す黒い靄も漂っていないのだから、苦しめられる心配もしなくていい。
ここには老いも病も、穢れもないはずだ。
鈴は意を決して、こくりとひとくち、嚥下する。
「…………あっ、あ……っ。……美味しい……っ!」
食べ物を『美味しい』と思う感覚はとうに失われていたはずだ。なのに、こんなに美味しいと感じるのはどうしてだろう。
舌の上にじんわりと広がる優しい甘さと爽やかな香り、乾いた喉を潤す上品な渋み。それらが、鈴の胸をあたたかくする。
青龍様の神域にいるからだろうか。
神世とも現世とも完全に遮断された神の箱庭では、なにが起きてもおかしくない。
鈴は、自分に絡みついていたたくさんの鎖から、少しだけ解き放たれたような気がした。
それは完全ではなくて、もちろんまだまだ残っているのだけれど、〝春宮鈴〟という自分の一部が還ってきたかのような感覚というのだろうか。
(すごい、ちゃんと味がする……っ。美味しい……っ!)
それだけで涙が溢れそうになる。
鈴はぐっとこらえて、もうひとくち、さらにひとくちと紅茶を飲んで、「美味しいです」と青龍様へ微笑んだ。
「それは良かった」
考え込むようにして嚥下する喉を無表情で眺めていた彼は、我に返ったように微笑みを浮かべる。
「そういえば、自己紹介がまだだったな。現世では真名を口にすることがないから、失念していた」
彼は自分のティーカップには金平糖を入れずにストレートで口をつけると、静かにティーカップとソーサーをローテーブルに戻した。
「狭霧竜胆だ」
「狭霧、竜胆様……」
(綺麗なお名前……)
鈴は彼の真名を聞き、彼の異能で創られた青い世界を思い出す。
氷の粒がきらきらと輝く世界の中心で、堂々と立つ彼の凛とした姿に竜胆という青紫色の花の名前はよく似合う。まさに青龍様のイメージにぴったりな真名だと思った。
「畏まらずに、ぜひ竜胆と」
「そ、そんな、青龍様を気軽にお呼びすることはできませんっ」
「ここは現世ではないから、誰に遠慮することもない。――君にだけは、俺の名前を呼んでほしい」
切実な声音で言われて、鈴は「うっ」と言葉を詰まらせる。
「……そ……それでは、その、竜胆様とお呼びしてもいいですか……?」
「ああ。そうしてくれ」
無表情にも見える顔にわずかに喜びを浮かべた彼は、「次は君の番だ」と言う。
「〝十二神将がひとり〈青龍〉として、君の真名を問いたい〟」
「私の、真名は……」
紅茶に溶けきっていない金平糖が、かろん、かろん、と涼しげな音を立てている。
無意識に、ティーカップを持つ鈴の手は震えていた。
震えを止めようとするが、身体が言うことを聞かない。
さあっと全身から血の気が引いていくのを感じながら、鈴は「私の、真名、は」と再び声に出す。
(……あ、あれ……?)
声が、出にくい。
(ここは神域だから、現世とは切り離された竜胆様だけの箱庭だから、お祖父様たちに奪われた真名を口にすることだってできると思ったのに)
先ほどだって、紅茶や金平糖の味を感じたのだ。鈴はそう信じて疑っていなかった。
それはきっと竜胆もなのだろう。
彼には『巫女選定の儀』の最中、鈴が大罪人として真名を奪われた〝名無し〟であると、日菜子が告げている。霊力がない無能で、巫女見習いではなくただの使用人であることも。
「……大丈夫だ。ゆっくり深呼吸して、落ち着いたら紅茶を飲むといい」
「は、はい」
鈴は深呼吸を繰り返して、いったん落ち着こうと努力する。
それから引きつった喉を紅茶でゆっくりと潤した。
喉を通った甘味が、優しく労わるように食道を通って、すっと胃に落ちていく。
かろん、かろん、と金平糖がぶつかり合うティーカップを傾け紅茶を飲むたびに、意識がふわふわとして不安が優しく溶けていった。
鈴を雁字搦めにしていた鎖がするすると解けていく感覚に身を任せるだけで、心があたたかく満たされていく。
こんなに心が満たされた経験はなかった。
するとどうだろう。
(……私も、竜胆様に名前を呼んでほしい)
そんな淡い願いが、鈴の胸に芽生えてしまった。
名前を忘れてしまったら最後。きっと、取り戻したいとも思わなくなる。
そして鈴は、本当の意味で〝無能な名無し〟になってしまうのだ。
だからこそ――。
――ずっと、誰かに自分の名前を呼んでほしかった。
――誰でもいいから、忘れないでほしかった。
――会えなくてもいいから、覚えていてほしかった。
――伝えたかった。私が、私自身の名前を忘れる前に。
けれど今は、誰かではダメだ――。
堕ち神である彼の生贄とはいえ、神とともに人生を歩む〈青龍の番様〉に選ばれた少女としては小さすぎる願いだ。
けれども、霊力もないただの人の子が神々に望んではいけない、傲慢な願いとも言えた。
(それでも)
鈴はともすれば溢れそうになる涙をこらえながら、ティーカップを持つ手を握り締める。
(それでも、竜胆様にだけは、伝えたい……っ!)
鈴は勇気を振り絞り、ソファから少しだけ身を乗り出すと「私は」と意を決して口にした。
「私は、春宮――――っ、ゔっ、あああぁ……!」
「……っ、大丈夫か!?」
鈴が家名を声に出した瞬間、全身が炎に炙られて燃えているかのように痛みだす。
ガシャン! っとティーカップとソーサーが割れる音が響いた時には、カップに残っていた紅茶が飛び散り、ばしゃりと鈴の左手にかかっていた。
慌てた竜胆は酷い形相で急いで鈴の隣へ駆け寄り、鈴を抱き起す。
そして彼女の異常すぎる体温に目を見張って驚いた彼は、皮膚が焼け焦げて爛れたような異臭に気がついた。
ぬるくなった紅茶が染み込んだ鈴の左手に巻かれた包帯を、荒い手つきで解いてく。
「――な、んだ、これは」
彼女の左手の甲には、【夏宮旭】という文字が深く刻まれていた。
高温の炎で炙られたか焼き鏝でも当てられたかのような火傷跡は、まだ新しいのか爛れ、血が滲んでいる。
竜胆は微かに触れるか触れないかの指先で文字をなぞり、その傷に似た痕跡がアイボリーのセーラー服が包む腕にも続いているのを見つけて、急いで制服の袖を捲り上げた。
「……ありえない」
それはにわかには信じがたい光景だった。
ぽきりと折れてしまいそうな儚い彼女の腕には、数え切れないほどの人の子の姓名が、赤黒く爛れた傷となって刻まれているではないか。
「呪詛の痕か……?」
それにしては酷いものだった。
肌に真名を残す呪詛など、聞いたこともない。
しかも彼女を散々いたぶり傷つけた挙句、あまつさえ〈青龍の番様〉を穢し、他者の真名を刻むなんて――!
激しい怒りが、竜胆の胸を仄暗く支配する。
……許せない。許してなるものか。
愚かな人間風情が…………完膚なきまで復讐してやる。
神気は瘴気に転じ始め、溢れ出したそれによって、ふわりと彼の黒髪を浮かせた。
(……っ、竜胆様……)
あまりにも凍てついた竜胆の双眸と、溢れ出る異能の冷気を感じ取った鈴は、彼を怒らせてしまったのだと思った。
(きっと、私の肌に刻まれた呪詛の跡が、見るに耐えない穢らわしさをしているせいだ)
せっかく生贄に選んだ者が、傷物だったらどんな神様だってがっかりするだろう。
しかもこんなに呪詛にまみれて、穢れているなんて。
鈴は痛みに震えて言うことを聞かない右手を必死で動かして、一生懸命に、左手の甲を彼の視線から隠す。
隠したところで、なくならない。
きっといつかは見つかっていたかもしれない傷だ。
だが、竜胆にこんな肌を見せてしまったことが、鈴にとっては悲しくて、恥ずかしくて、いてもたってもいられなかった。
「はあ、はあ……っ、竜胆、さま……申し訳ありま、せん……っ。お、っ、お見苦しい、ものを……、見せてしまい……っ」
「いい、喋るな。無理に動くと身体に障る」
ひゅう、ひゅう、と彼女の喉が過分に酸素を取り込もうとしているのがわかる。
急激に荒くなっていく鈴の呼吸を聞き、眉根を寄せた竜胆は「くそっ」と小さく悪態を吐く。
彼女の真名が何者かに奪われているのは、彼女に会う幾年も前から知っていた。
政府に定められた十二の神々を縛り付ける法律により、彼女を見つけ出すために動くこともできず、手助けも許されなかった十数年が、どれほど竜胆にとって悔しく、惨めで、怒りに満ちたものだっただろうか。
それがようやく、やっと彼女を探して手を伸ばしても良い機会が訪れたのだ。
この日をどれほど待ち望んでいたか、竜胆に黒く渦巻く胸の内など誰にもわかるまい。
竜胆は自分の不甲斐なさを感じて、ぐっと奥歯を噛みしめる。
「……はっ、……はっ、…………うう……っ」
「ゆっくり息を吸うんだ。……君を、必ず助ける。だから安心して、息をしてくれ」
苦しげに呼吸をする鈴を支えながら、竜胆はすぐさま思考を巡らせる。
理論上はなにも問題などなかったはずだ。
真名を他者によって剥奪されることは、魂を他者に掴まれていることと同義。だが、その何者からか彼女自身を奪い、無理やりにでも自分の神域に隠してしまえば……。
彼女の肉体と精神に結びつけられた魂は、神域による影響――〝神隠し〟をした対象の三位一体を神域の主が所有できるという箱庭の強制力のもとに、現世から完全に隔離され、いかなる形であろうが神域の主である竜胆のものになる。
それは神々が生き神となった昔から永久不変の、絶対的な法則である。
だからこそ竜胆はそれに則り、何者かに真名を奪われた状態の彼女の肉体と精神を、強引に神域へ隠す決断をした。
彼女の魂の所有権が竜胆に移りさえすれば、同時に真名を取り戻すことが可能になる。
けれども一抹の懸念を抱き、彼女の身を案じた竜胆は、さらに徹底的に保険をかけることにした。
彼女が真名を奪われる以外に、なにかしらの呪術や呪詛による影響のせいで箱庭の強制力を受けにくくなっているかもしれない状況を危惧して、あらかじめ神域の食べ物を肉体に摂取させることで彼女自身に〈青龍〉の神気を宿させ、ただの人の子ではなくさせたのだ。
つまり竜胆は、竜胆の神域に流れる濃厚な神気を以ってして強制的に真名を奪い返すという、神格の高い神にしかできない理論を組み立て実践したことになる。
実際、竜胆は『数百年に一度生まれるかどうか』と称えられるほどの莫大な神気をその身に宿している。
現存する十二の神々の中では最高峰の神気と強力な異能を持つ、神格の高い〈青龍〉――それが狭霧竜胆という青年だった。
しかし、それらの計画的な行為に、彼女へ対する所有欲や征服欲がまったく掻きたてられなかったわけではない。
むしろ抑えきれないほどの独占欲が腹の中で渦巻き、飢餓状態だった己の喉が少しずつ潤っていく感覚に歓喜しさえした。
ただの金平糖だと思っているのか怪しむ様子もなく、はにかむように顔を綻ばせる彼女のなんと純粋なことだろう。神域内に忽然と現れた食事が、現世のものであるはずがないのに。
彼女から感じられ始めた自分の神気に、つい小さく口角が上がってしまうのを堪えるのが難しかったほどだ。
無垢な反応とは対照的に、紅茶を異常なほどの慎重さでこくりと嚥下する白い喉の動きに、ふと、なにか見落としているような違和感を覚えるまでは、彼女さえ見つけられれば人の子に奪われた真名を奪い返すなど簡単なことだと信じていた。
……そう、信じて疑わなかっただけに、この状況は想定外だった。
腕に抱えていた鈴を見つめていた竜胆は、ぐっと眉根を寄せる。
このままでは呼吸困難に陥り、命の危機に瀕するだろう。
事態は急を要する。
今は、なによりも彼女の命が優先だ。
「……すまない。少しだけ我慢してほしい」
竜胆はそう告げるやいなや、はくはくと苦しそうに呼吸を繰り返す鈴の左手の甲へ、そっと唇を寄せた。
「…………あ……っ!」
突然の行為に驚いた彼女の双眸は限界まで見開かれ、じわじわと涙の膜が張る。
――彼女を大切にしたかった。だからこそ、こんな状況で彼女の肌に触れる気はなかった。
しかし、一度に膨大な神気を流し呪詛の穢れを取り祓う最も効率的な方法が、今はこれしか思いつかない。
酷い痛みと苦しさ、それから竜胆には隠していたかった穢れた醜い痕への急な口づけに戸惑った鈴は、「……やっ、やめて、ください……っ、竜胆、様…………」と声を振り絞る。
神様を呪詛の穢れに触れさせるなど、教養のある巫女見習いならさせない行為だ。
(なのに、長いあいだに渡って自分に刻まれ続けてきた呪詛を、あろうことか自分を選んでくれた大切な神様に唇で触れさせるなんて)
どれほどの穢れが、鈴から竜胆へ移ってしまうかわからない。
穢れは神の寿命を縮める。
すでに堕ち神と呼ばれている彼なら、なおさら影響があるはずだ。
混乱しきった鈴は、心がいっぱいいっぱいになって堪え切れなくなり、ぽろぽろと大粒の涙を零す。
長い睫毛に縁取られた黒く大きな瞳が溶けてしまいそうなほどに涙を浮かべながら、はらはらと儚く涙する鈴を見て、怖がらせてしまったか、と竜胆は罪の意識に苛まれた。
「拒絶の言葉なら後からいくらでも聞く。だから、今だけは我慢してくれ」
彼女を少しでも安心させようとさらに強く抱きしめる。
左手の甲から続くように左腕に刻まれた呪詛の痕へと毒を吸い出すように唇を這わせながら、竜胆は胸が潰れるような思いがした。
春宮と声を出した途端に急激に熱を持った身体、そして呼吸困難に近い彼女の様子から推測するに、真名を奪い取った術者は彼女が神域に隠されても不具合がでないよう、最初から卑劣な呪術を仕組んでいたのだろう。
刻まれている姓名のほとんどは竜胆が知らぬ者であったが、夏宮とくれば四季姓を冠する名家だ。そんな名家の術者が、わざわざ好き好んで自分の真名を残す呪詛をかけるわけがない。
と、すると、これは真名を奪い取った術者によるものだろう。
彼女が受けた呪詛を結んだ術者の真名が残るように、あらかじめ卑劣な呪術を施しているに違いない。
呪詛をかけた者の真名を肌に直接刻ませるなんて、彼女の肉体を他者のものにするのと同じだ。
刻まれた姓名の数だけ、彼女の肉体にはべっとりと他者の穢れが染み込み、肉体までもが〝名無し〟になる。
それはすなわち、彼女の肌に刻まれた穢れの染み込んだ他者の真名が彼女自身の魂を受け入れず、逆に拒絶反応を起こし、彼女自身の真名が迷子になるということだ。
いくら神域の食べ物を口にさせて神気を肉体に宿させたところで、他者の真名が刻まれた部分は他者の所有物。
真名を取り戻したところで、他者の真名が刻まれた肉体に彼女の真名は還れない。――魂は、肉体に還れない。
結局、神域の強制力によって春宮家から竜胆が奪えたものは、彼女の純粋無垢な精神と、拒絶反応を起こし彼女の肉体を蝕む呪詛の痕のせいで〝名無し〟となってしまっていた彼女の肉体だけ。
竜胆は彼女を神域に隠した時点で、彼女の真名を剥奪した者の卑劣な罠にかかっていたというわけだ。
もし今回の件で一命を取り留めたとしても、神域で彼女に真名を口にさせようとするたびに、肌に刻まれた呪詛の痕が穢れを帯び、彼女を苦しめ命を蝕んでいくだろう。
それを止めたくば、彼女の真名ひいては魂をを捨て置けと――。
冗談じゃない。
彼女に真名と魂を、――彼女本来の運命を生きる権利を返せ。
ふつふつと募る怒りが瘴気に変わり、竜胆の青い双眸の色を次第に赤く鮮やかに染め上げていく。
鈴は堕ちていく神様を息も絶え絶えに見つめながら、自分の命の終焉を悟った。
(きっと私を助けようとして穢れに触れすぎたせいで……竜胆様の穢れも、深刻化してしまったんだ)
竜胆の唇に触れられた傷痕から灼熱の痛みが引いていくを感じるたびに、彼への心配が増していた。
左手の甲から今朝方の呪詛破りの痕跡が消え、左腕に残された過去の傷が癒えていくたびに、『これ以上は触れないでほしい』と泣きながら懇願したくて仕方がなかった。
(けれど、苦しさのあまり声が出なくて)
「……はあっ、……はあっ、…………ふうう……っ」
(もう、消えていなくなりたい)
身体の隅々まで刻まれている灼熱の穢れを帯びた傷痕が、彼に見つかってしまう前に。
初めて心から名前を呼んでほしいと願った彼を、自分のせいで歴史書に名を残したような堕ち神にしてしまう前に。
願わくば、生贄としての存在価値を与えてくれたまま…………終わらせてほしい。
「……あと少しだ。もうすぐ終わる。だから、堪えてくれ――!」
(竜胆様の瞳、青と赤が混じって、とっても綺麗……)
見たことのない色をしている。まるで宝石みたいだ。
「り、んどう……さま……」
宵闇と朝焼けの狭間を見つめながら、鈴はもう、彼に諦めてほしくて懸命に微笑む。
そうして最後の力を振り絞って、竜胆の頬に手を添えた。
「…………お会い、できて……っ、……よかっ、た…………」
つかの間の、泡沫のような幸せだった。
(どうか、この命が、竜胆様のお役に立ちますように)
儚く微笑んだ鈴の瞳から、あたたかい涙がひと雫、頬を伝った。
ぱたり、と彼女の手が力なく落ちる。
頬にひと筋の涙の跡を残したまま、瞼を閉じた彼女は意識を失っていた。
「……諦めるな、待ってくれ。…………俺はまだ、君の名前すら知らないんだ……!」
竜胆は力尽きた鈴を両腕で抱え込み、慟哭をなんとか押し殺した表情で懸命に呼びかける。
異常な高熱が引かない身体。いまだに燻る、皮膚が焼き爛れたような匂い。
膨大な神気を流し込んだことで左手の甲から腕に続いていた数多の真名は消えたのに、彼女を苦しめる症状は変わらない。
自らの命を捧げるかのごとく眠るように意識を失った彼女は、俺が完全な堕ち神にならないために彼女の生き血を啜るとでも思っているのだろうか?
あり得ない。
彼女の生き血を啜るくらいなら、完全なる堕ち神になることさえ厭わない覚悟だ。
だが。
「また俺は、君を失うのか……っ」
彼女を失う覚悟なんか、あるわけがない。
竜胆は再び暗闇が続く絶望の深淵に落とされた気がした。
………………しかし。絶望がなんだと言うのだろう?
今までだって十四年間、暗闇の中にいた。深淵で生きるのには慣れている。
けれども、彼女は?
もしも、あの日から……真名を奪われるだけでなく、酷い苦しみや灼熱の痛みに嬲られながら、十四年間を生きてきたのだとしたら……。
溢れ出す紫色の瘴気に包まれた竜胆はゆうらりと立ち上がりながら、鈴の膝の裏に片腕を回すと一等大切な宝物のように抱き上げる。
もう二度と、君の運命を奪う愚かな春宮家の者たちの好きにはさせない。
「……君は俺のものだ。俺から片時も離れることは許さない。――こうして、命を諦めることさえも」
長い睫毛に縁取られている朝焼けの双眸は、鈴をまっすぐに見つめたままうっとりと細められる。
壮絶な瘴気をまとった堕ち神は、一歩、また一歩と箱庭を歩きだした。