なぜあんなことを言ってしまったのか。

 春咏は自己嫌悪に見舞われながら、白雉院の周りを見て回る。四方に結界を張るためだ。

 気休め程度のものだが、ないよりはマシだろう。術を跳ね返し掛け合うなら、それ相応の力と用意も必要となる。

 春咏が専従加術士になったのは、皇族に近づき兄の死の真相を探るためだ。そのためには主となる皇族とは、ある程度の信頼関係が必要となってくる。今のままでは、信頼関係どころか専従加術士を降ろされる可能性さえ出てきた。でも、言わずにはいられなかったのだ。

 皇族の声ひとつで皇帝の勅命とし、汪青家は滅ぼされた。一族皆殺され汚名をかぶって死んでいった。彼らにとって命は平等ではない。虫けら同然に踏み潰しても、良心が痛むこともない。

 兄もきっとそんなふうに……。

「歓咏」

 名を呼ばれ振り返ると、そこには乾廉がひとり立っていた。すぐに彼の背後を探るが慶雲の姿はない。厳しい顔をした乾廉に春咏は悟る。おそらくこれは専従加術士の任を解きにきたのだ。

 彼の加術士の入れ替わりは激しいと聞いている。なにより彼の気に障るには十分な発言をしたという自覚もある。

「悪かった」

 ところが春咏の耳に届いたのはまったく予想していないもので、春咏は空耳を疑う。しかし乾廉は真剣な面差しを崩さない。

「お前の言うことはもっともだ。あの状況とお前の立場なら断ることなどできなかっただろう。責める相手を間違えた」

 顔には出さないが春咏は混乱していた。皇族が自分より立場が下の者に謝罪の言葉を述べている。仕わせている人間の意見を尊重し、自身の非を認める。考えられない事態だ。

 皇族が白と言えば暗い闇も白、羊と言えば馬さえ羊だ。そういう世界で春咏は一族を失い、自分を殺して生きてきた。

「僭越ながら、乾廉さまは私に命を捧げる覚悟を求めておられたと記憶しておりますが」

 皮肉めいた口調が抜けず、慶雲がそばにいたら間違いなく眉をつり上げただろう。しかし乾廉は真っ直ぐに春咏を見つめる。

「そうだ。お前の命は俺のものなんだ。だから粗末に扱うのは許さない」

 小さな波紋が春咏の中に広がり、心が揺れ動く。

 皇族にとって、この男にとって所詮加術士など使い捨ての駒くらいにしか思っていないのだと思い込んでいた。代わりなどいくらでもいる。とくに乾廉の加術士の入れ替わりは激しいとの情報もあった。

 けれど今、春咏の目には自分を大切にしろと訴えかけてくる乾廉の姿だ。嘘偽りは感じられず、耐えきれなくなって春咏はとっさに彼から目を逸らす。

「それが命令ならお受けします。主の命令に逆らう加術士など」

「いたよ」

 春咏の言葉にかぶせるように乾廉は声を乗せる。その口調は幾分か軽く柔らかいものになっていた。

「俺が幼いときに、皇宮に出入りしていた加術士だ。俺はその頃、第二皇子として周りに大事にされるのをいいことに、随分と我が侭で生意気に振る舞い、世の中を舐めていた」

 乾廉はどこか懐かしそうに語りはじめ、その話に春咏も耳を傾けた。

 自分よりもはるか年上の人間が仰々しく頭を下げ、なんでも言うことを聞くのが面白かった。簡単なものから難題まで、乾廉はありとあらゆる希望を口にして周囲を困らせる。

 そんな彼が声をかけたのは、若くして実力があると評判の加術士のひとりだ。

『お前、この菓子の毒味をしてみろ』

 前触れもなく砂糖菓子を突き出す。たいていの人間は乾廉が話しかけると、顔に緊張が走り身構えるのが常だ。しかし男はゆっくりと振り向き、穏やかな表情のまま腰を落として乾廉に目線を合わせた。

『申し訳ありませんが、私にはできません』

 まさかの切り返しに乾廉は面食らう。続けて顔を紅潮させ、男に噛みついた。

『なんだよ! 俺の言うことが聞けないのか?』

 こんな態度を取られたのは初めてだ。しかし男は笑みを湛えたまま口を開く。

『はい。私は加術士なので、毒味はできかねます。ですが、別の方法で乾廉さまをお守りしますよ』

 加術士の役割はなんとなく知っていいる。代々瑚家に仕えてきた者たち。父も随分買っているみたいだが、乾廉には不信感しかない。

『そんなの、信じられるか』

『信じる、信じないかまでは強制できません。ただ加術士の誇りにかけて、瑚家のために命をかける覚悟はあります』

 ふいっと顔を背けた乾廉に、静かな声が響いた。おかげで彼は目の前の加術士に視線を戻す。

『乾廉さま、あなたは未来の瑚家を、高朧国を背負う方。あなたのために多くの者が命を賭して尽くす所存です。ですからあなたの言葉や態度ひとつで、人の人生が左右される。どうかそれを忘れないでください』

 怒っているわけでもないのに、怖いくらい真剣な眼差しに乾廉は瞬きひとつできない。これはなにかの術なのか。しっかりと、はっきりと幼い乾廉の心の中に落ちて溶け込んでいく。

「第二皇子だからと媚びへつらうこともなく、子どもだからと甘い言葉で誤魔化したりもしない。あのとき初めて自分は皇族なのだと自覚できた」

 すっきりした面持ちで一連の説明を終え、改めて乾廉は春咏を見た。

「わかっていたつもりでお前に指摘されて改めて気づかされたよ」

 苦笑する乾廉に春咏は訝しげに尋ねる。

「なぜ、その話を私に?」

 思い出話にただ付き合わせただけなのか、なにか意図が別にあるのか。

「同じなんだ」

 警戒を崩さない春咏に乾廉はふっと微笑む。

「その加術士の名もたしか、歓咏と言った気がする」

 しかし続けられた言葉に春咏は目を見張る。
 
 兄さん……。

 間違いない。乾廉に声をかけた加術士は兄の歓咏だ。

 正式な加術士に任命される際に、加術士として新たな名を名乗るのが慣例だった。兄は勧咏から歓咏に。親しんだ名を大きく変えるのには抵抗があったのだろう。

 しかし春咏は違った。太白の息子として生きていたが、彼女が加術士として新たな名を持つ際に希望したのは“歓咏”だった。兄の名を借りたのは一種の賭けだった。

 下手したら自分の正体がバレる可能性が上がる。けれど兄の名に誰かしら反応を示すかもしれないとも考えた。

 まさか乾廉の口から加術士としての兄の話を聞くなんて。

「その、加術士は……今はどちらへ?」

 極力感情を乗せずに尋ねたが、乾廉の表情はさっと曇った。

「今はいない」

 端的な答えに、春咏は追及をやめる。食らいついて怪しまれても困る。ただ、わずかでも兄と繋がりのある人物に出会えたのは幸いだ。

「名前が同じだからか、なんとなく似ている気がしたんだ」

 乾廉の発言をどう捉えるべきなのか。まさか血のつながりがあるとまでは感付かれてはいないだろうが、これ以上の深入りは危険だ。

 一体兄が誰の専従加術士になったのかまでは、春咏は知らない。前評判などから候補となる加術士が皇宮に幾人も集められ、そこで術を競わせ各々の能力と適性を見る。

 与えられた難題を解させ、実力をしっかり誇示した者が皇族の専従加術士となるのだ。

 四大加術家は、上下関係はなく対等で協力体制を取りながらも、水面下では互いに闘争心を燃やしていた。わかりやすいのが、何人の専従加術士を一族から出したかだ。

 その世代で専従の加術士を多く輩出している家が、必然的に発言権も力を増す。兄が専従に選ばれ、あのときの汪青家は頭一つ抜き出ていた。

 様々な思い出が頭を過ぎった瞬間、意図せず春咏の視界がぐらりと揺れる。ふらついた体は乾廉に支えられた。腰に腕を回され抱き留められ、不可抗力とはいえ他人との接触に体が強張る。

 この感覚はなんなのか。

「もしかして酔ったのか?」

 乾廉に問いかけられ、春咏は目をぱちくりとさせた。その反応に乾廉はさらに問いかける。

「なにか入っていたのか? 李家の娘からのものなら怪しいものは入っていないと思うが」

 随分、信頼を寄せているのだな、と春咏は回らない頭で思った。

「彼女の父親は、以前俺の専従加術士をしていたんだ。病でその任を退いたが……」

 その思考を読んだかのように補足され、納得するのと共にやはり慶雲に担がれたのだと確信する。最初から中身に不安などなかったのだ。

 険しい表情を向けられたままで春咏は我に返る。ややあって彼女は悩みつつ口を開いた。

「いえ……その、実は酒を飲んだ経験はないので、正直なところなんとも言えないのです」

 直感的にも今の話からも、薬物や毒の可能性はおそらくない。しかしどこか体が熱く、頭がくらくらする。俗に言う酔いが回ってきたのか。

 乾廉はあきれた面持ちで春咏を見下ろした。

「毒味云々の前に、それでよく酒を飲もうと思ったな」

 たしかにその通りだ。これでは異物が混入していても正しい判断ができない。

「そこまでして従わないとならないと思ったのか」

 己の愚かさに嫌悪していると、神妙な声が降ってくる。見上げたら乾廉の顔が思ったよりも近くにあった。その複雑そうな表情に、春咏は無意識に言葉を紡ぐ。

「あなたの信頼を得たかった」

 発言して春咏は自分でも驚いた。しかし声にしたものはしょうがない。迷いつつ補足する。

「専従加術士として……ひとりの人間として」

 そうだ。兄の死の真相を知るためには、この男に信用されないとならない。酒をあおったのもそのためだ。けれど今、春咏の心の中にはあのときとは違う想いがあふれている。

 それが正確に、どのようなものなのかは春咏自身も上手く説明できない。葛藤していると不意に体が宙に浮いた。

「なっ」

「わかった。お前を信じよう」

 子どものように抱き上げられ、春咏はすぐに事態が飲み込めなかった。主が専従加術士を、皇族が従えている者を抱き上げて運ぶなどありえない。抵抗すべきか従順でいるべきなのか判断しかねていると、乾廉は春咏に与えられた部屋までやってきて、ゆっくりと下ろす。

 すぐさま離れた春咏の目を乾廉は真っ直ぐに見てきた。

「だからもう二度と無理をするな。命令してほしいのならしてやろう。お前は俺のものなんだ」

「……御意」

 今日、初めて対面を果たしたときも同じようなやりとりをした。それなのに今はどうしてこうも胸が熱くてざわつくのか。戸惑う春咏をよそに、乾廉はさっさと水を用意させる。

「ほら、念のため飲んでおけ」

 ぶっきらぼうに盃を差し出され、春咏は口元の布を下げ、渋々受け取った。さっきから乾廉の皇族らしくない一面ばかり見せられている。

 対する乾廉は、露わになった春咏の顔に視線を送った。

 冷たい水で喉を潤したあと、視線に気づいていた春咏が乾廉を見遣る。すると思っていたより彼は近くにいた。

「歓咏」

 名を呼ばれ、乾廉の手が春咏の頬に触れた。とっさに距離を取ろうとしたが、その前に乾廉が口を開く。

「後宮に輿入れしないか?」

 そこまで頭は悪くないと自負している春咏だが、このときばかりはまったく理解できなかった。