◇
ふと、わたしたちの関係性はなんだろうって考えたときに。
友達、は少し距離が近すぎて。他人、は距離がありすぎて。
恋人、ではないから、きっと友達と他人の間の関係なんだろうな、と思う。
友達以上恋人未満なんて言葉があるけれど、わたしたちは他人以上友達未満……いや、他人以上恋人未満の方がしっくりくるかもしれない、なんて。当たり前のようなことをぼんやりと思う。それくらい、わたしたちの関係は常に変化していて、広い範囲を彷徨っているから。
明確にこれ、と言える、ピッタリの表現が見つからない。
(それでも下校を共にしてしまうくらいには、それなりに気を許しているんだよね)
彼と一緒に下校するのは、そんなに嫌ではない。むしろ、この独特な空気感が心地よかったりする。
そんなことを考えて、悶々としながら歩く。
「……なんつー顔してんだよ」
わたしの顔を覗き込んだ彼が、訝しげに眉を寄せた。なんつー顔、って。わたしはいったいどんな顔をしているんだろう。それを知っているのは、正真正銘、星野だけだ。
ぼんやりと考えながら、視線を前に戻して、少しだけ上を向く。
澄み渡る青空、少し広い道路、左右に生い茂る緑。目に映るのは、いつもと変わらない田舎の風景。
あたたかい風が頬を撫でて通り過ぎてゆく。今日の風は、なぜだかいつもより心地が良い。
「……ねえ、わたしたちって」
ふと声を出すと、わたしに合わせて、星野の足もピタリと止まる。顔を向けた星野と、まっすぐに目が合った。
吸い込まれそうな瞳は透き通っていて、ひどく神秘的だった。それでいて、一度捉えたら離さないような強さを奥に秘めているような。人を惹きつける、不思議な瞳。
花を、空を、雨を、雪を綺麗だと感じるように。
……星野の瞳もまた、綺麗だ。
言葉を続けようと思ったけれど、続けられなかった。口を開いて、訊こうと思ったけれど、訊けなかった。
────関係性に名前をつける必要なんて、果たしてあるだろうか。
そう思うと同時に、多分わたしは怖かったのだ。
明確に、言葉にしてしまうのが。彼から返ってくる答えを聞くのが。
「……なんでもない」
ふるふると首を横に振って、また歩き出す。となりで星野が「相変わらずだな」と可笑しそうに笑った。
「それにしても、やっぱりなんか変な感じ」
「何がだよ」
「こうして星野と帰ってること」
すっ、と遠くに視線を流した星野は「確かにな」と呟いた。どこまでも穏やかで、静かで、あたたかい空気。沈黙の中でも、不思議と気まずさはなかった。
部活を休んで、こうして肩を並べて帰っている。
────紛れもなく、星野とだ。
鬱陶しいと思うことだってあるし、煩わしいと思ってしまうことだってある。喧嘩っぽくなってしまうのは事実だし、口数が少なく、時々発せられる言葉に棘があることも知っている。
それでも、他人、と言い切ってしまうことができないのはなぜだろう。その答えを知るために、わたしは彼のとなりに並んでいるのかもしれない。
「沢原、怒ってるかな」
顧問の名前を出して、星野が天を仰ぐ。わたしも視線を上にしながら、鬼の形相で仁王立ちする顧問の姿を思い浮かべた。
「そりゃ、無断で休んでるんだもん。怒ってるでしょ」
「俺は一応顔出して伝えてきたから、無断じゃねーし」
のんびりと歩きながら、星野が告げた。彼はなんの躊躇いもなく、おだかやなこの時間に爆弾を投下したのだ。
聞き捨てならない台詞に、ピタッと足を止める。
「え、あんたちゃんと言ってきたの?」
「おう」
「じゃあ、無断欠席はわたしだけ?」
さあっと血の気が引いていくわたしに飄々とうなずいた彼は、躊躇なくずんずんと先へ進んでいってしまう。堂々としていて、サボりを大したこととは思っていないようすだった。それよりも、無断欠席だと分かって焦るわたしを、どこか嘲笑うような。
「ちょ、星野……」
声にならない声が消えていく。
背中を向けて、前へ前へと歩く星野は、まるでわたしの声など聞こえていないようだった。
さっきまで、罪の意識は軽かったのに。
自分と同じ状況の人が数人いるだけで、まるで罪が軽くなったかのような錯覚を起こす。やってしまったことは、軽くなることも、なくなることもないのに。それなのに、悪いことをしたのが自分だけだと気づくと、そこでようやく自分がしてしまったことの重さを痛感する。
「わたし、やっぱり戻る」
こんなところにいてはだめだ。すぐに戻らないと。戻ったところで、きっともう遅いと思うけれど。
それでも、衝撃の事実を知った手前、罪悪感を感じずにはいられなかった。
(いや、違う)
自身の言い訳を否定する。
最初から罪悪感は感じていたのだ。それでも、一緒に帰ってみたかった、なんて。きっと、彼の瞳に囚われたせいで、感覚が麻痺してしまったのだと思う。
そう、思うことにする。
くるりと踵を返すと、後ろから「成瀬!」とわたしを呼ぶ声が聞こえた。
「戻らなきゃいけないの。星野はこのまま帰っていいから」
「……違う違う。今の、嘘だから」
「嘘?」
眉を寄せて振り返ると、したり顔の星野と目が合った。彼は悪戯っぽく白い歯を見せて笑い、手招きをしている。
「嘘って、どういうこと?」
「お前のことも俺のことも、ちゃんと顧問に言ってきました。だから、無断欠席ではありません」
「……え、いつ」
「教室に残ってるお前に会う前」
初めからこうなることはお見通しだったかのように、ふはっと笑みをこぼす星野の顔をじっと見つめる。
その顔を見ると、安心したような、それでいて腹立たしいような、複雑な感情が入り混じる。顧問に部活の欠席を伝えていた星野をさすがだと思うと同時に、無断欠席ではないと分かっていた上でわたしをからかっていたのかと怒りたくもなってくる。
やけにのんびりしていると思っていたのだ。
ため息を吐くと、空を仰いだ星野は「まー、サボりには変わりねえけどな」と呟いた。
その顔からは焦りや罪悪感は微塵も感じられない。わたしはそれでも、"サボり"というなんとも学生らしい言葉に淡い憧れのようなものを抱きながら、それをしている今、少々後悔が芽生えていた。誰かに見られたらどうしよう、と心の中ではビクビクして、怯えて。きっと、勘のいい星野には気付かれている。
彼はそれを見て、いったいどんな気持ちだったのか。となりで歩く女が、罪悪感に苛まれ、渋い顔をしているのだ。さぞかし面白かったことだろう。
「うわー。あんた、そういうとこだよ。残念なところ」
「指摘されたところ以外は完璧ってことか。遠回しに褒めてる?」
「いったいどうやったらそんな解釈になるの」
つかつかと歩み寄って、その脇腹を軽く小突く。
「いって!」
「あんたが馬鹿なこというからよ」
「暴行罪で訴えるぞ」
いつものように軽口を叩きながら、再び彼のとなりに並ぶ。視線を絡ませながら、互いに歯を見せて大きく笑った。めいっぱいの笑顔。学校という囲いのなかでは浮かべられない、そんな彼だけに見せる表情。
(ああ、やっぱりここは居心地がいい)
どんなに抗おうとしても、結局はこの結論にたどり着く。
声に、言葉に、行動に出さなければ、いくら心の中で思っていても許されるから。とどめておけば、表面上に出さなければ、大丈夫。
無理やり自分を納得させて、となりを歩く星野を見上げる。
「星野はさ、いつからバスケやってるの?」
ふと気になって訊いてみた。
あれほどの実力を持っているのであれば、歴もそれなりに長いだろうから。単純に、彼に対する興味から生まれた質問だった。
「……小四の頃」
「すご。七年間」
「別にすごかねえだろ。もっと小せえ頃からやってる奴なんてたくさんいる」
「ううん。十分すごいよ」
わたしがバスケを始めたのは、中学二年生の頃だ。それも、自分から望んでではなく、人数が足りないからとたまたま兼部させられただけにすぎない。結果としてチームに求められるようになって、最初入っていた茶道部をやめてバスケ部に転部した。
茶道からバスケ。
イメージだけで言えば真逆とも言えるようなまさかの転部に同級生は驚いていたけれど、正直どうでもよかった。茶道部だって、入りたいけど一人では勇気がなくて入れない、と言った友人に頼まれてなんとなく入部した。だから、辞めるときもたいして何も感じなかった。
ただ、ひとつだけ違うところがあるとすれば。昔から、バスケには興味があったということ。
それはきっと、母の影響。
『しおり。すごいね、かっこいいね』
テレビを食い入るように見つめるわたしに、柔らかな笑みを浮かべる母がいたから────。
「お前は? なんのためにバスケをやってんだよ」
そんな星野の言葉に、ぐんと意識が戻された。星野からの質問を頭の中で反芻する。
……なんのため? そう訊かれると、上手く答えることができない。むしろわたしが訊きたいくらいだ。
────わたしは、なんのためにバスケをやっているのだろう。
黙り込むわたしに、星野がいつものように、ふ、と息を吐いた。なかなか答えが出てこないわたしに苛立っているのだろうか。おそるおそる視線を移すと、淡々とした表情でわたしを見ていて、また不思議な気持ちになる。
「単純に好きだから、とかじゃねえのかよ」
「……分からない」
「あ?」
「好きかどうか、分からない」
はっきりと告げた。これは紛れもないわたしの本心だった。
嫌い、と言えば嘘になるけれど、好きかと訊かれて「当然」とうなずけるほどではなかった。
「なんだよそれ。ここまで続けてんのに?」
「だって、辞める理由がないから……」
いつだってわたしは、辞める理由を探している。続けたい理由ではなく辞める理由を探して、ずっとずっと、自分と周囲を騙して生きている。
なんだか居心地が悪くて、話題を変えようと星野に話を振る。
「星野は、どうなの?」
なんだか今日は、質問してばかりだ。星野がいつもより素直に答えてくれるから、それに甘えてしまっているのかもしれない。
「俺は────」
星野はまっすぐ前を向いて、その瞳の奥に強い光を宿したように見えた。不思議な瞳が、より一層煌めいて魅力を増す。
ふとこちらを向いた星野と、ばちっ、と目が合う。海色がわたしを映した瞬間、心臓を鷲掴みにされたような気がした。
けれど次の瞬間、すっとその色は消えてしまった。あっという間に光がなくなった目を、少し切なげに細める星野。
「お前と同じようなもんだよ」
その言葉だけで、これ以上入ってくるなと、線を引かれたような気がした。
「……ごめん」
反射的に謝ったわたしを見ることないまま、星野は鞄を肩に掛け直した。
「成瀬」
前を向いたまま、星野がわたしを呼ぶ。ドク、と心臓が大きく鼓動した。ただでさえ静寂に包まれていたのに、かすかな風の音さえも聞こえなくなる。そして、ぽつりと告げられた一言。
「────海、行くか」
彼の唇は震えていた。何が彼をここまで深刻な顔にさせるのか、そんなことは分からない。けれど、いつもの勢いのまま、おざなりな返事をしてはいけないということだけは、唐突に理解できた。それくらい、わたしたちを囲む空気は、張り詰めていて、硬い。
目の前にある分かれ道。右に行けば、わたしの家の方角。左に行けば、海がある。出逢った日、屋上から見た海が、広がっているはずだ。
「寄り道」という、どこかワクワクするようなそんな響きに憧れないと言ったら嘘になる。
けれど。
『────なんて、いなくなっちゃえばいいんだ!』
突然、脳内に流れ込んでくる記憶に、思わず頭を抱えた。
さっきまで聞こえなかった風の音が、鳥の声が、虫の声が、まばらにある民家から聞こえてくる声が、堰を切ったように耳に流れ込んでくる。動悸がして、息が荒くなっていく。肩を揺らして、浅い呼吸を繰り返す。
「う……っ」
痛い、苦しい、息ができない。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい────。
キーンと耳鳴りがして、激しい頭痛に襲われる。心臓の鼓動が速くなっていき、どっどっと血液が全身を駆け巡っているのが分かった。
忘れてはいけない痛み。ずっと、覚えていなければいけない苦しみ。
「……おい、大丈夫か」
彼にしては焦ったような声が降ってくる。そして、うずくまるわたしの肩にそっと手が置かれた。
「……ほ、しの。ほしのっ────」
無我夢中だった。
ただひとつ思ったことがあるとすれば、たしかな存在がそばにいるという事実を確かめたかったということ。
確実な何かを求めて必死にしがみつくと、やや静止した後、それ以上に強い力で抱きしめられた。ふわ、とどこか懐かしい香りがわたしを包み込む。強引だけれど、それ以上に優しい力だった。
「お願い、どこにもいかないで……っ」
「落ち着け、成瀬」
「星野……ねえ、ほしのっ」
「言ったろ。俺はここにいる。お前の────栞のそばにいるよ」
何度も流れて、頭にこびりついて離れない記憶が再び流れだす。ぼろぼろと涙が溢れて止まらなかった。あとからあとから溢れてくる涙は、星野の服を濡らしてしまう。
「ほし、の。ごめ……濡れ、る」
離れようとしても、背中に回った腕により力が込められるだけ。
星野は何も言わず、わたしを決して離さなかった。
どれくらい、そうしていたのだろう。長くも短くも感じられた時間のあと。
「ほしの……海には、行けない」
ひとしきり流した涙が乾き、そう告げたわたしの頭を。
「分かった」
小さく頷いて、星野はゆっくりと撫でた。
ふと、わたしたちの関係性はなんだろうって考えたときに。
友達、は少し距離が近すぎて。他人、は距離がありすぎて。
恋人、ではないから、きっと友達と他人の間の関係なんだろうな、と思う。
友達以上恋人未満なんて言葉があるけれど、わたしたちは他人以上友達未満……いや、他人以上恋人未満の方がしっくりくるかもしれない、なんて。当たり前のようなことをぼんやりと思う。それくらい、わたしたちの関係は常に変化していて、広い範囲を彷徨っているから。
明確にこれ、と言える、ピッタリの表現が見つからない。
(それでも下校を共にしてしまうくらいには、それなりに気を許しているんだよね)
彼と一緒に下校するのは、そんなに嫌ではない。むしろ、この独特な空気感が心地よかったりする。
そんなことを考えて、悶々としながら歩く。
「……なんつー顔してんだよ」
わたしの顔を覗き込んだ彼が、訝しげに眉を寄せた。なんつー顔、って。わたしはいったいどんな顔をしているんだろう。それを知っているのは、正真正銘、星野だけだ。
ぼんやりと考えながら、視線を前に戻して、少しだけ上を向く。
澄み渡る青空、少し広い道路、左右に生い茂る緑。目に映るのは、いつもと変わらない田舎の風景。
あたたかい風が頬を撫でて通り過ぎてゆく。今日の風は、なぜだかいつもより心地が良い。
「……ねえ、わたしたちって」
ふと声を出すと、わたしに合わせて、星野の足もピタリと止まる。顔を向けた星野と、まっすぐに目が合った。
吸い込まれそうな瞳は透き通っていて、ひどく神秘的だった。それでいて、一度捉えたら離さないような強さを奥に秘めているような。人を惹きつける、不思議な瞳。
花を、空を、雨を、雪を綺麗だと感じるように。
……星野の瞳もまた、綺麗だ。
言葉を続けようと思ったけれど、続けられなかった。口を開いて、訊こうと思ったけれど、訊けなかった。
────関係性に名前をつける必要なんて、果たしてあるだろうか。
そう思うと同時に、多分わたしは怖かったのだ。
明確に、言葉にしてしまうのが。彼から返ってくる答えを聞くのが。
「……なんでもない」
ふるふると首を横に振って、また歩き出す。となりで星野が「相変わらずだな」と可笑しそうに笑った。
「それにしても、やっぱりなんか変な感じ」
「何がだよ」
「こうして星野と帰ってること」
すっ、と遠くに視線を流した星野は「確かにな」と呟いた。どこまでも穏やかで、静かで、あたたかい空気。沈黙の中でも、不思議と気まずさはなかった。
部活を休んで、こうして肩を並べて帰っている。
────紛れもなく、星野とだ。
鬱陶しいと思うことだってあるし、煩わしいと思ってしまうことだってある。喧嘩っぽくなってしまうのは事実だし、口数が少なく、時々発せられる言葉に棘があることも知っている。
それでも、他人、と言い切ってしまうことができないのはなぜだろう。その答えを知るために、わたしは彼のとなりに並んでいるのかもしれない。
「沢原、怒ってるかな」
顧問の名前を出して、星野が天を仰ぐ。わたしも視線を上にしながら、鬼の形相で仁王立ちする顧問の姿を思い浮かべた。
「そりゃ、無断で休んでるんだもん。怒ってるでしょ」
「俺は一応顔出して伝えてきたから、無断じゃねーし」
のんびりと歩きながら、星野が告げた。彼はなんの躊躇いもなく、おだかやなこの時間に爆弾を投下したのだ。
聞き捨てならない台詞に、ピタッと足を止める。
「え、あんたちゃんと言ってきたの?」
「おう」
「じゃあ、無断欠席はわたしだけ?」
さあっと血の気が引いていくわたしに飄々とうなずいた彼は、躊躇なくずんずんと先へ進んでいってしまう。堂々としていて、サボりを大したこととは思っていないようすだった。それよりも、無断欠席だと分かって焦るわたしを、どこか嘲笑うような。
「ちょ、星野……」
声にならない声が消えていく。
背中を向けて、前へ前へと歩く星野は、まるでわたしの声など聞こえていないようだった。
さっきまで、罪の意識は軽かったのに。
自分と同じ状況の人が数人いるだけで、まるで罪が軽くなったかのような錯覚を起こす。やってしまったことは、軽くなることも、なくなることもないのに。それなのに、悪いことをしたのが自分だけだと気づくと、そこでようやく自分がしてしまったことの重さを痛感する。
「わたし、やっぱり戻る」
こんなところにいてはだめだ。すぐに戻らないと。戻ったところで、きっともう遅いと思うけれど。
それでも、衝撃の事実を知った手前、罪悪感を感じずにはいられなかった。
(いや、違う)
自身の言い訳を否定する。
最初から罪悪感は感じていたのだ。それでも、一緒に帰ってみたかった、なんて。きっと、彼の瞳に囚われたせいで、感覚が麻痺してしまったのだと思う。
そう、思うことにする。
くるりと踵を返すと、後ろから「成瀬!」とわたしを呼ぶ声が聞こえた。
「戻らなきゃいけないの。星野はこのまま帰っていいから」
「……違う違う。今の、嘘だから」
「嘘?」
眉を寄せて振り返ると、したり顔の星野と目が合った。彼は悪戯っぽく白い歯を見せて笑い、手招きをしている。
「嘘って、どういうこと?」
「お前のことも俺のことも、ちゃんと顧問に言ってきました。だから、無断欠席ではありません」
「……え、いつ」
「教室に残ってるお前に会う前」
初めからこうなることはお見通しだったかのように、ふはっと笑みをこぼす星野の顔をじっと見つめる。
その顔を見ると、安心したような、それでいて腹立たしいような、複雑な感情が入り混じる。顧問に部活の欠席を伝えていた星野をさすがだと思うと同時に、無断欠席ではないと分かっていた上でわたしをからかっていたのかと怒りたくもなってくる。
やけにのんびりしていると思っていたのだ。
ため息を吐くと、空を仰いだ星野は「まー、サボりには変わりねえけどな」と呟いた。
その顔からは焦りや罪悪感は微塵も感じられない。わたしはそれでも、"サボり"というなんとも学生らしい言葉に淡い憧れのようなものを抱きながら、それをしている今、少々後悔が芽生えていた。誰かに見られたらどうしよう、と心の中ではビクビクして、怯えて。きっと、勘のいい星野には気付かれている。
彼はそれを見て、いったいどんな気持ちだったのか。となりで歩く女が、罪悪感に苛まれ、渋い顔をしているのだ。さぞかし面白かったことだろう。
「うわー。あんた、そういうとこだよ。残念なところ」
「指摘されたところ以外は完璧ってことか。遠回しに褒めてる?」
「いったいどうやったらそんな解釈になるの」
つかつかと歩み寄って、その脇腹を軽く小突く。
「いって!」
「あんたが馬鹿なこというからよ」
「暴行罪で訴えるぞ」
いつものように軽口を叩きながら、再び彼のとなりに並ぶ。視線を絡ませながら、互いに歯を見せて大きく笑った。めいっぱいの笑顔。学校という囲いのなかでは浮かべられない、そんな彼だけに見せる表情。
(ああ、やっぱりここは居心地がいい)
どんなに抗おうとしても、結局はこの結論にたどり着く。
声に、言葉に、行動に出さなければ、いくら心の中で思っていても許されるから。とどめておけば、表面上に出さなければ、大丈夫。
無理やり自分を納得させて、となりを歩く星野を見上げる。
「星野はさ、いつからバスケやってるの?」
ふと気になって訊いてみた。
あれほどの実力を持っているのであれば、歴もそれなりに長いだろうから。単純に、彼に対する興味から生まれた質問だった。
「……小四の頃」
「すご。七年間」
「別にすごかねえだろ。もっと小せえ頃からやってる奴なんてたくさんいる」
「ううん。十分すごいよ」
わたしがバスケを始めたのは、中学二年生の頃だ。それも、自分から望んでではなく、人数が足りないからとたまたま兼部させられただけにすぎない。結果としてチームに求められるようになって、最初入っていた茶道部をやめてバスケ部に転部した。
茶道からバスケ。
イメージだけで言えば真逆とも言えるようなまさかの転部に同級生は驚いていたけれど、正直どうでもよかった。茶道部だって、入りたいけど一人では勇気がなくて入れない、と言った友人に頼まれてなんとなく入部した。だから、辞めるときもたいして何も感じなかった。
ただ、ひとつだけ違うところがあるとすれば。昔から、バスケには興味があったということ。
それはきっと、母の影響。
『しおり。すごいね、かっこいいね』
テレビを食い入るように見つめるわたしに、柔らかな笑みを浮かべる母がいたから────。
「お前は? なんのためにバスケをやってんだよ」
そんな星野の言葉に、ぐんと意識が戻された。星野からの質問を頭の中で反芻する。
……なんのため? そう訊かれると、上手く答えることができない。むしろわたしが訊きたいくらいだ。
────わたしは、なんのためにバスケをやっているのだろう。
黙り込むわたしに、星野がいつものように、ふ、と息を吐いた。なかなか答えが出てこないわたしに苛立っているのだろうか。おそるおそる視線を移すと、淡々とした表情でわたしを見ていて、また不思議な気持ちになる。
「単純に好きだから、とかじゃねえのかよ」
「……分からない」
「あ?」
「好きかどうか、分からない」
はっきりと告げた。これは紛れもないわたしの本心だった。
嫌い、と言えば嘘になるけれど、好きかと訊かれて「当然」とうなずけるほどではなかった。
「なんだよそれ。ここまで続けてんのに?」
「だって、辞める理由がないから……」
いつだってわたしは、辞める理由を探している。続けたい理由ではなく辞める理由を探して、ずっとずっと、自分と周囲を騙して生きている。
なんだか居心地が悪くて、話題を変えようと星野に話を振る。
「星野は、どうなの?」
なんだか今日は、質問してばかりだ。星野がいつもより素直に答えてくれるから、それに甘えてしまっているのかもしれない。
「俺は────」
星野はまっすぐ前を向いて、その瞳の奥に強い光を宿したように見えた。不思議な瞳が、より一層煌めいて魅力を増す。
ふとこちらを向いた星野と、ばちっ、と目が合う。海色がわたしを映した瞬間、心臓を鷲掴みにされたような気がした。
けれど次の瞬間、すっとその色は消えてしまった。あっという間に光がなくなった目を、少し切なげに細める星野。
「お前と同じようなもんだよ」
その言葉だけで、これ以上入ってくるなと、線を引かれたような気がした。
「……ごめん」
反射的に謝ったわたしを見ることないまま、星野は鞄を肩に掛け直した。
「成瀬」
前を向いたまま、星野がわたしを呼ぶ。ドク、と心臓が大きく鼓動した。ただでさえ静寂に包まれていたのに、かすかな風の音さえも聞こえなくなる。そして、ぽつりと告げられた一言。
「────海、行くか」
彼の唇は震えていた。何が彼をここまで深刻な顔にさせるのか、そんなことは分からない。けれど、いつもの勢いのまま、おざなりな返事をしてはいけないということだけは、唐突に理解できた。それくらい、わたしたちを囲む空気は、張り詰めていて、硬い。
目の前にある分かれ道。右に行けば、わたしの家の方角。左に行けば、海がある。出逢った日、屋上から見た海が、広がっているはずだ。
「寄り道」という、どこかワクワクするようなそんな響きに憧れないと言ったら嘘になる。
けれど。
『────なんて、いなくなっちゃえばいいんだ!』
突然、脳内に流れ込んでくる記憶に、思わず頭を抱えた。
さっきまで聞こえなかった風の音が、鳥の声が、虫の声が、まばらにある民家から聞こえてくる声が、堰を切ったように耳に流れ込んでくる。動悸がして、息が荒くなっていく。肩を揺らして、浅い呼吸を繰り返す。
「う……っ」
痛い、苦しい、息ができない。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい────。
キーンと耳鳴りがして、激しい頭痛に襲われる。心臓の鼓動が速くなっていき、どっどっと血液が全身を駆け巡っているのが分かった。
忘れてはいけない痛み。ずっと、覚えていなければいけない苦しみ。
「……おい、大丈夫か」
彼にしては焦ったような声が降ってくる。そして、うずくまるわたしの肩にそっと手が置かれた。
「……ほ、しの。ほしのっ────」
無我夢中だった。
ただひとつ思ったことがあるとすれば、たしかな存在がそばにいるという事実を確かめたかったということ。
確実な何かを求めて必死にしがみつくと、やや静止した後、それ以上に強い力で抱きしめられた。ふわ、とどこか懐かしい香りがわたしを包み込む。強引だけれど、それ以上に優しい力だった。
「お願い、どこにもいかないで……っ」
「落ち着け、成瀬」
「星野……ねえ、ほしのっ」
「言ったろ。俺はここにいる。お前の────栞のそばにいるよ」
何度も流れて、頭にこびりついて離れない記憶が再び流れだす。ぼろぼろと涙が溢れて止まらなかった。あとからあとから溢れてくる涙は、星野の服を濡らしてしまう。
「ほし、の。ごめ……濡れ、る」
離れようとしても、背中に回った腕により力が込められるだけ。
星野は何も言わず、わたしを決して離さなかった。
どれくらい、そうしていたのだろう。長くも短くも感じられた時間のあと。
「ほしの……海には、行けない」
ひとしきり流した涙が乾き、そう告げたわたしの頭を。
「分かった」
小さく頷いて、星野はゆっくりと撫でた。