「成瀬。ここの書類作成がきちんとできてないんだけど」
「え、わたしはちゃんとしましたよ」
「いや、成瀬はできているかもしれないけどな。この班のリーダーは成瀬なんだから、できていないところはリーダーの成瀬にしっかりまとめてもらわないと困るんだよ」

 いかにも正論だと言ったように書類を差し出す担任の顔を見上げる。顎に生えている髭が視界に入り、なんだか不快な気分になった。理不尽な言動で生徒を叱りつける彼は、当然生徒からの人気は底をついている。じっと見ていると、先生は困ったように眉を寄せて、大きなため息をついた。

「まったく……成瀬には期待してるんだ。問題児が多いグループで大変だと思うが、まあ上手くやってくれよ」

 書類を押し付けるようにして、「あー、忙しい忙しい」とわざとらしく呟きながら、先生は足早に教室を出ていった。
 大人はずるい、と思う。どうしたって、仕事という壁を盾にされたら、それ以上踏み込んではいけなくなってしまう。素直に頷くしかなくなってしまう。そんなの卑怯だ。

(わたしも忙しいんですよ、先生。決して暇なわけではないんです)

 そう言えたら、どんなに楽か。
 結局は引き受けるしかない自分の弱さが悔しい。

「まあ上手くやってくれよ……か」

 わたしだって、好きでこのメンバーになったわけじゃない。問題児と呼ばれるような男子とグループを一緒にしたのは先生じゃないか。みんなの意見も聞かず、一人で勝手にグループを決めてしまったのは先生なのに。

 頭の中で毒を吐きつつ、一人取り残されたわたしは息を吐いて書類に視線を落とした。

「なにこれ、全然できてない……」

 もし、提出できるレベルを五と仮定するならば、この書類の完成度はニだ。半分にすら到達していない。提出期限は明日だというのに、この記事の分担である男子たちは、丸投げしたまま帰ってしまったり、部活に行ってしまったようだった。
 そのうちの数人はおそらく部活中だと思うので、今からでも持っていけば多分間に合う。けれど、部活中のところに乗り込む勇気も、そんなことをしてまでお願いする気力も、わたしにはなかった。もし、明日になってやらずに持って来られては堪らない。あの男子たちは平気でやりかねない。それくらい、彼らへの信頼度は底をついていた。

 ふつふつと怒りが湧いてくる。
 こんなことなら、女子組がもう少し多く受け持つべきだった。そうすれば、容量良く進められたというのに。もっと計画性を持ってできたはずなのに。なのに、彼らはそれをぶち壊した。そしてきっと悪びれもせず、明日もふらふらと学校に来るのだろう。
 そう思うと、腹が立って仕方がなかった。どうして真面目にやっている人が、こんな役を背負わなければならないのだろう。憤りを抑えるように目を閉じると、先生の言葉が蘇ってくる。

『成瀬には期待してるんだ』

 期待? ……冗談じゃない。思い返すたび反吐が出る。わたしは何でも屋じゃない。これから書かなければならない量を考えただけでも頭痛がしてくるようだ。
 それも、たった一人で、たった一日で。
 完全に不可能ではない量ではあるものの、随分と時間がかかってしまうことは目に見えていた。頑張れば、きっと今日中に終わる。帰ってから取りかかっても、頑張り次第で二時間あれば終わるだろう。それでも、自分の時間を彼らのために使うのは、なんだか癪に触るものだ。どうして、と思わずにはいられない。
 悪いのは明らかに男子なのに、どうして先生は彼らには何も言わず、わたしに押し付けるのだろう。責任は彼らにあって、わたしにはないはずなのに。

 ……リーダーだから。

 そんな理由だけで、全ての責任をわたしが負わなければならない。それが、とてつもなく悔しかった。

 こうして『真面目だから』『しっかりしているから』という理由だけで重荷を背負わされるリーダーは、いったい何の利益を得られるのだろう。誰もが当然の如く仕事を押し付けて、まるでわたしが快く受け入れているかのように、嫌な仕事をさせられる。
 学校では『人間は誰もが平等だ』なんて言うけれど、果たしてそれは本当だろうか。平等であるならば、リーダーなんていらない。責任を負う役割なんて、誰一人としていらないのだ。

 「真面目」や「しっかり者」の判断基準はいったいなんなのだろう。
 わたしだってみんなと同じようにまとめ役なんてしたくないし、課題だって提出するのは面倒くさいと思う。先生にいちいち笑顔で接するのも疲れるし、はやく家に帰って好きなことをしたい。
 それでも、投げ出さずにやっているだけだ。
 鉛のような感情が、ふと口から溢れる。

「好きでやってるわけじゃないのに……」

 悲しい、むなしい、息苦しい。
 目を瞑って、ふ、と息を吐き出す。

 ────抑えて、おさえて、見せないで。

 出しちゃだめだ。自分のためにも、周りのためにも。わたしの言葉は、みんなを不幸にするから。いくら思っても、それを言の葉にのせてはならない。

 心の中で唱えて、己を戒める。
 深呼吸をしたら、それでおしまい。


 机の上に書類を置いて、個人ロッカーに向かう。学級委員の仕事があって、鞄の準備がまだできていなかったのだ。クラスメイトたちはとっくに帰宅したり、部活に行ってしまったため、教室にはわたしだけが一人取り残されているみたいだ。
 黙々とロッカーから鞄と資料をとって、再び席に着く。引き出しの中にしまったままの教科書類をがさっと取り出すと、ずしりと重かった。

 窓に視線を遣ると、わたしの沈んだ気持ちには似つかわしくない、真っ青な空が広がっていた。雲一つなく、美術に疎いわたしが見る限りでは一色で染められた空。けれどきっと、この空は一色じゃなくて、少しずつ変化しながら広がっているのだろう。

 引き寄せられるように窓に近寄って、その窓を開ける。その瞬間、あたたかな春風がふわりと入ってきて、髪の毛が揺れた。

「はぁ……」

 ため息がこぼれ落ちる。
 だめだ。新学期だというのに、ちっとも楽しくないし、むしろ疲労が半端じゃない。

 窓から少し身を乗り出してグラウンドに視線を遣ると、野球部が部活をしているのが小さく見えた。野球のルールはいまいちよく分からないけれど、ボールを投げたり、バットで打ったり、塁に向かって走ったりするのでものすごく大変なスポーツであることは理解している。
 もう少し手前に視線を遣ると、そこでは陸上部がトレーニングをしていた。後輩らしき女の子に、クラスメイトの河野(こうの)さんが笑顔で何やら話しかけている。

 そうか、わたしたちはもう先輩なのだ。

 改めて実感する。初々しく入学したあの日から月日はあっという間に流れ、わたしは今や新入生を迎える在校生の一人となっているのだ。最近、時の流れが驚くほど早い。などと、現役高校生である現在ですでに思っている時点で、将来が心配になってくる。


『お前、俺のこと好きになるよ』


 その途端、脳内でリフレインする言葉に、慌てて頭を振った。入学式を思い出すたび、こうして流れてくる記憶。声も、表情も、空気の硬さも、瞳の奥の柔らかさも。すべてがあのときと同じように蘇ってくる。

「……っ」

 最悪だ。忘れようとしていたのに、また思い出してしまった。窓を閉めて、ガチャリと固く鍵をかける。蘇る記憶にも蓋をして、頭の中で鍵をかけた。

(部活、行かないと)

 部活の存在を思い出し、どんよりと気分が落ち込む。怒りやらなんやらですっかり忘れていたけれど、今日は普通に部活の日だった。時計を見ると、開始時刻をとっくに過ぎている。完全な遅刻だった。

 ────もういっそ、帰ってしまおうか。

 そんなずるい考えが浮かび、目を瞑って天井を仰いだ。大きなため息をゆっくりと吐きだす。ため息を吐くと幸せが逃げる、なんて言うけれど、もとよりわたしに逃がせるほどの幸せなどない。

 いつからわたしはこんなふうに思ってしまうようになったのだろう。もともとバスケは嫌いじゃなかったし、サボるだとかは基本できない(たち)だった。それなのに、今では引退を心待ちにしている自分がいる。いかに楽をして部活を終えようかと考えている自分がいる。

 机の上に積み重ねた教科書を鞄に詰める。ただひたすら、無心の作業だった。

 こうしてたくさんのものを持って帰るのは、家で予習復習をするためだ。
 授業で分からなくならないように。小テストで良い点がとれるように。そんな思いで日々怠らず続けている努力の甲斐あってか、大きく失敗はしていない。なんとか授業も理解できている。
 ただ、油断は禁物。二年生での学習定着が受験の合否を大きく分けるのだと、塾の先生が口を酸っぱくして言っているから。


「……何してんだよ、こんなとこで」

 鞄に視線を落としていると、ふいに耳に届いた言葉にびくりと肩が跳ねる。心臓が揺らされたような感覚だった。

 そんな、嘘でしょ。

 最初は聞き間違いかと思った。けれど、聞き間違えるはずがなかった。一年間ずっととなりで聞いてきた声を、今さら間違うはずがなかった。

「……星野」

 そろりと視線を上げると、教室の戸のそばで眉を寄せている星野と目が合った。彼はまっすぐにわたしを見据えたまま、目を逸らさない。

「お前、なにしてんの」
「先生に、頼まれごとしてたから遅くなって。今は鞄の準備、かな」

 何かが詰まってしまったように声が出しづらい。それでもなんとか絞り出して小さく答えると「あっそ」と興味のなさそうな声が返ってきた。自分から訊いてきたくせに、呑気なやつだ。
 ため息を吐きそうになるけれど、なんとか堪える。
 そんなわたしを一瞥もせずに、星野は黙ってわたしの前の席に座った。何も言わないで、ただ窓の外を眺めている。彼の行動が読めなくて、わたしはやや困惑しながら訊ねた。

「どうしたの、星野」
「……別に」

 そっけなく返される。突き放す口調というよりは、これが彼の普通なのだ。たいていのことには興味がない。そして、自分のことにもあまり踏み込まれたくなさそうな、牽制をするような、不思議な空気を纏っている。

 少し近づけたと思えば、スッと離される。逆に離れようとすると、いつのまにか前よりも近づいている不思議な距離感のなかでわたしたちは過ごしている。仲がいいのか悪いのか分からない。苦手だと思うことはあるけれど、なぜか嫌いにはなれないからだ。

(好き……っていうのも、違うけど)

 脳内で一人会話を繰り広げつつ、ふと彼の服装に目を遣ると、彼が部活のTシャツを着ていることに気がついた。

「部活……じゃないの?」

 小さく問いかけてみると、真っ黒な髪を揺らして、くるりと星野は振り返った。カラコンでもつけているのかと疑いたくなるような色素の薄い瞳が、まっすぐにわたしを見ている。途端に動悸がして、呼吸が苦しくなって、思わずその瞳から逃げるように目を逸らした。

「それは、お前もだろ」

 クスリと悪戯っぽく笑った星野が、椅子にもたれて息を吐いた。ふっと空気が緩むのを感じる。
 どことなく気まずい空気が和らいだことに安堵し、ロッカーからとってきた資料本を持ち上げた時だった。ひらり、と書類の何枚かが床に落ちた。慌てて拾おうとするけれど、それより先に星野が手を伸ばしてすばやくそれを拾う。

「なんだよ、これ」
「それは……」

 言い淀んでいると、再び射抜くような視線が向けられた。ドキリと心臓が大きく鼓動して、額に汗が滲む。視線の鋭さだけで、責められているような気持ちになった。嘘をついても、すべてお見通しだと。海の色をした瞳が、そう言っている気がした。

 言ってしまおうか。心の内をすべて話してしまおうか。

 家に帰って一人でやるのは、苦しい。わたしばっかりがやらなきゃいけないなんて、嫌だ。

 ふと口を開きかけて、慌てて固く口を結ぶ。

 きっと、話し出したら止まらなくなってしまう。すべて、声に出してしまう。もし、取り返しがつかないことになったら遅いのだ。

──── 過ちを、繰り返すわけにはいかない。



「ほら。この書類、明日が締め切りでしょ。ちょっと間に合わなくて」

 結局、言えなかった。脳内に潜むもう一人の自分が、言ってはいけないと叫んでいた。刺すようなまなざしから逃げるように、視線を床に落とす。
 けれど、ドン! と音を立てた星野に、びくりと肩を震わせながら顔を上げる。そのまま引きつるような笑みを浮かべて、何事もなかったようにふるまおうとした。

(大丈夫。わたしはちゃんと、笑えてる)

 ……笑えている、はずだ。

 何度も何度も暗示をかけるように、ひたすら繰り返す。
 星野はわたしを真正面からまっすぐに見つめている。まるで嘘を見抜くかのように────否。

「嘘つくんじゃねーよ」

 あっさり見抜かれてしまった。どうしよう、と焦る気持ちとは裏腹に、淡い嬉しさが心の中に生まれたような気がした。
 彼はいつだって、わたしの嘘を見抜いてくる。大抵はそれによって損をすることが多い。けれどたまに、本当にごくわずかではあるけれど、気付いてくれて嬉しいと感じる時がある。

 彼はこうして唯一、わたしの"無理"に気付いてくれる存在だった。


 書類の文字を目でなぞった星野は、わたしの机に書類を置いて「シャーペン」と一言呟いた。

「……え」
「もたもたしてねえで、はやく貸せよ」

 差し出したシャーペンをひったくるようにして受け取った星野は、カチカチと数回のノックの後、何かを書き始めた。驚いて凝視していると、紙の上にすらすらと文字が書き込まれていく。あっという間に達筆な美文字が並んでいった。

「……星野、どうして」

 星野は一度視線を上げて、ちらりとわたしを見た。それからまた紙に視線を落として、黙々と文字を書き続ける。

(もしかして、手伝ってくれるの?)

 心の中で思うだけで、口には出さない。
 きっと、これ以上訊けば鬱陶しいと思われてしまう。最悪の場合、じゃあやめる、なんて言って放りだしてしまうかもしれない。そんなことは絶対に避けたかった。無駄に一年間一緒にいたため、大まかな星野の性格は分かってきたつもりだ。

「お前もやれよ。間に合わねえんだろ」

 やや荒い口調の星野に促されて、ペンケースから水色のシャーペンを取りだす。

「どうせ発表テーマ同じだし。そこにある資料使って書けばいいんだろ」

 確認されて小さく頷くと、星野はそれに対して反応せず、また視線を紙に落とした。

(やっぱり、手伝ってくれるんだ。部活中のはずなのに、わたしのために、きてくれた?)

 天地がひっくり返ってもありえないようなことに思考が突き進んでいく。まさかそんなわけない、と脳内で否定を繰り返し、シャーペンを強く握った。
 本当はこれから部活に行くつもりだったけれど、こうなったら予定変更だ。仕上げてから部活に行くしかない。星野が原稿を作成してくれているようなので、わたしはポスターの作成をしよう。

 たくさん文字を書かないといけない原稿を任せてしまって大丈夫だろうかと思いつつ、なんだかんだいって、本人が選んでやっているのでまあ良いのだろうという考えに至る。

 太陽の光が差す中、二人で黙々と作業をすること三十分程度。カチ、カチと静かな教室に時計の秒針の音が、やけに大きく響いている。
 その間わたしは定規で線を引きながら、彼と過ごした一年間のことをぼんやりと思い返していた。


 入学式翌日の変な発言のあと、わたしはそれなりに彼を警戒していた。だからあまり近づかないようにしていたのだけれど、向こうはまるで懲りずに、熱心に絡んできた。近づくなオーラをそれとなく出していても、まったく気遣うようすなどなく、いつも裸足で踏み込んでくる。

 彼は土足じゃない。いつだって、正直でまっさらな裸足で、わたしを連れ出そうとするのだ。

 それなのに、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
 そして気づけばわたしのほうが、彼を目で追うようになった。わたしから話しかけにいくことも増え、一緒に帰ったこともあった。友情の延長。そんなふうに、わたしは彼との関係性を捉えていた。
 不思議だけれど、恋愛とは少し違うような気がする。彼のことを素敵だと思う時もあれば、苦手だと感じる時もある。好きと嫌い、その狭間に立っているような人だった。
 そう思い込んで自分を納得させないといけない理由が、わたしにはあったから。

(違う。星野は、そんなんじゃ)

 ぎゅっとシャーペンを握る。同じように、心臓がキュウッと縮むような気がした。そして、

「────なあ、栞」

 ドクッ、と大きな音を立てる。いいや、違う。心臓だけではなくて、身体中に鼓動が響き渡るような感覚がした。ふわふわとした感覚に包まれ、頭も心臓もどうにかなりそうだった。

 星野はたまに、わたしを名前で呼ぶ。単なる彼の気分なのだろうけれど、それでもわたしの意識はそのたびに、彼に引っ張られてしまう。
 彼がわたしを名前で呼ぶときは、彼が別の誰かに変わる、合図だから。

「な、なに」
「今日の部活は、サボろうぜ」

 にっ、と笑顔が向けられる。これ以上見ていると何かが起こりそうな気がして、思わず目を背けた。視界からその笑みを追いやり、刺々しい自分を呼び起こす。

「サボるって……この前部活に対して熱い思いを語ってなかったっけ。この間、怒ってきたじゃない」
「それはそれ、これはこれ。そりゃあ、部活の時はいつだって本気だよ。やってることに手は抜かない。でも、たまには休憩だって必要だろ?」

 星野らしいと言えば星野らしい考えだった。『やると決めたら全力でやる』というのが、彼のモットーらしい。適度に休憩をしながら、楽しくバスケをしているのだ。ただ、決めるときは決めるのだから、そこが彼の魅力であり憎らしい部分でもある。


 シャーペンを走らせる星野の手元を見つめる。細くて長い指。わずかに浮き出た血管。ふと男性らしさを意識してしまって、どうしたらいいか分からなくなった。
 視線を彷徨わせていると、再び「栞」と名前を呼ばれた。慌てて返事をしたけれど、思わず声がひっくり返ってしまい、顔に熱が集まる。うつむいたわたしに、小さな笑いが降ってきた。

「お前、なに緊張してんの」
「し、してない。星野相手に、緊張なんてするわけないじゃん」
「あっそ」

 放るように言いながら、星野はまだクスクスと笑っている。囁くように笑うのは、普段教室で無表情を極めている星野には見られないことで、なんだかおかしな気持ちになる。彼がわたしのことを名前で呼ぶのも、こんな顔をするのも、ふたりきりの時だけだから。

 いったい何がおかしいんだか。もしかして、この嘘すら見抜かれている?

 不安な気持ちを紛らわすために、おろしている髪を手で梳いた。気持ちを落ち着かせるように、何度も髪に指を通す。

「お前それ、癖だよな」

 びくっと身体が跳ねた。星野は海色の瞳でわたしの動作をじっと見つめ、言い放つ。薄い唇がゆるりと綺麗な三日月型をつくり、星野が浮かべた艶っぽい表情に、わたしは思わず息を呑んだ。

「え……?」
「髪触るの、お前の癖」

 自分ではこの動作が癖だという認識はなかったけれど、言われてみれば癖なのかもしれない。
 不安なこと、悲しいこと、嬉しいこと、嫌なこと。ふと感情が動いたとき、無意識のうちに髪を触っているのかもしれない、と思った。

 ふっと真剣な表情になった星野は、薄くて形の良い唇をわずかに震わせる。


「────お前が俺に、最初に言った言葉を覚えてる?」


 名前を呼んだのは、きっとこれを訊くためだったのだろう。突然、空気がガラッと変わって、星野が星野じゃなくなった。
 星野がまとう空気が一気に変わって、いつもの星野を見失う。

 わたしは、この雰囲気を纏う星野が、苦手だ。

 明確な理由を問われれば「なんとなく」と曖昧に答えるしかないけれど、とにかく苦手だった。すべてを見抜かれてしまうような気がして。彼がわたしにしか見せない(・・・・・・・・・・)顔で、ただそこにいる。

 まっすぐに向けられる、いっさい(よど)みのない瞳を見つめ返す。日差しを受けて煌めく瞳は、どこまでも澄んでいた。

「……『あの、わたしに何か用ですか』だっけ」

 出会いというものは時が経てばだいたい薄れていくものだけど、わたしと星野の場合は違う。

 はじまりが、強すぎる。

 あれだけ強く心に残る出会い方は、これまでもこの先もないと思うくらいだった。
 だから、忘れたくても忘れられない。わたしはできるだけ思い出したくないし、記憶から消去してしまいたい。けれど、気を緩めるとふとしたタイミングで頭の中に浮かんできてしまう。

 少しだけトーンを落として答えると、星野は瞬きせずこちらを見つめてから「ふーん」と曖昧な相槌をしてシャーペンを置いた。

 どうしてそんなこと訊いたのだろう。特に興味がないなら、いちいち思い出させないでほしい。こっちは完全に忘れ去りたいと思っているのに。

「終わり。お前は? まだやってんの」
「え」

 原稿に視線を落とすと、もう完成していた。紙を手に取って、文字を目でなぞる。文章も、字も本当に綺麗で、完璧な原稿だった。思わず感嘆の声が洩れる。

「すごっ。本当に終わってる……」
「なんで疑ってんだよ」

 ふはっ、と笑う星野は、シャーペンをわたしのペンケースに入れると、頬杖をついた。身体の向きは変えずに、わたしのほうを向いたままで。

「お前もはやくやってしまえよ」

 うん、と頷いてペンを走らせる。けれど、手元をじっと見られていて、なんだか落ち着かない。ドクン、ドクンとうるさいくらいに、鼓動が大きく鳴り響いている。
 星野はわたしに口出しをすることはなく、黙ってポスターと窓の外へと視線を交互に流している。彼の目が動くたび、ともなって揺れるまつげがすごく長かった。
 妙な緊張の中、作業すること十数分。

「……できた」

 なんとか書き上げて、ふうっと息を吐く。ペンを置いた途端に、どっと安堵が押し寄せてきた。二人での作業だったから、一人でやるよりも大幅な短縮ができた。それは、文才に恵まれた星野が原稿を受け持ってくれたからというのが大きい気がする。
 これで、明日は安心だ。そう思いながら書類をまとめていたときだった。

「……これ、お前の担当じゃないんだろ」
「えっ」

 ひら、と書類の一枚を手に取ってふと呟いた星野は、「どうせ押し付けられたんだろ」と小さくため息をついた。唐突に見破ってくるものだから、驚きで目が落ちそうになる。ハッと目を見開いて星野を見つめると、呆れたように眉を寄せた星野が、苛立ったように言葉を吐き出した。

「なんでいつもお前はさ……」

 強く言い返せないんだ、本当に口がついてるのか? そんなふうに言われるような気がして、バッと顔を下げる。身構えないと耐えられないようなことを言われてしまうような気がした。
 けれど、ふ、とひとつ息を吐いた星野は、そのままのトーンでおだやかに告げた。

「書類の量結構多いんだから、一人で溜め込もうとするなよ」

 柔らかい口調に驚いて顔を上げると、そこにあったのはひどく優しい眼差し。いつも鋭くて冷めた視線を送ってくる彼とは似ても似つかないような瞳の色だった。

 ────これだから、苦手なんだ。

 星野は星野らしく、横暴な振る舞いで、わたしを嘲り笑って、馬鹿にしていればいいのに。
 こうしてふと優しい顔をするから。

 苦手なのに、嫌いになれない。気を抜くと、変な感情が生まれそうになってしまい、自分が間違った方に流れないように、精一杯阻止しなければならなくなるのだ。


「だって、先生に頼まれたから……」

 視線から逃げるように顔を背けて、ぼそりと告げる。言い訳をしておけば、いつものように呆れた彼が興味をなくすと思った。それでも、少し声に苛立ちを混ぜた星野は、言葉を続ける。

「無理なことは無理って言えよ」
「言えたら、苦労してないよ」

 最初から、星野の言うようにきっぱりと断ることができたなら。男子たちに、強く言う力がわたしにあったのなら。きっと、こんなことにはならなかっただろう。
 それはわたしがいちばんわかっている。だけどいくら分かっていても、実際に行動できるかどうかは別問題だ。

「だったら」

 星野はふと、そこで言葉を切った。おのずと視線が上がり、瞳に星野が映る。

 澄んだ切長の瞳。スッと通った鼻筋。薄くて潤いのある唇。ニキビ知らずの白い肌。
 その美しさに、思わず息を呑んだ。あまりに儚くて。消えてしまいそうで。
 悔しくなるほどの美貌をじっと見つめる。


 時が止まった────そんな気がした。

 時計の秒針だけが響く、ふたりきりの教室で。はっきりと、わたしの耳に届いた言葉。

「──── 俺を、頼れよ」

 向けられる瞳は、(にご)りなんてひとつもなく、ただまっすぐで。彼が持つ光はなんて綺麗なんだろう、と思った。

「困ったときは言え。一人で溜め込むな。お前には……俺がいる」

 分かったか、と彼らしい乱暴な口調で念を押されてしまえば、素直に頷くしかなかった。先ほどの言葉が繰り返し頭の中で再生される。瞳の熱も、声の柔らかさも、空気の硬さも。きっとまたわたしは、忘れることができないのだろう。

「よし。じゃ、帰るか」
「え、まだ鞄の準備が……」
「おっせーな。置いてくぞ」

 その言い方だと、彼の中ではどうやら一緒に帰ることになっているらしい。たしか部活をサボると言っていたっけ、と思い出し、その誘惑するような響きに鼓動が速まっていく。

「ま、待って……!」

 ガタ、と椅子を鳴らして立ち上がった彼は、後ろを振り返ることなく教室を出ていく。
 わたしは急いで鞄に残りの物を詰め、慌ててその背中を追った。