「俺、好きなやついるから」

 その言葉を聞いた瞬間、ドキリと心臓が嫌な音をたてた。バッと咄嗟に身を翻して、壁に隠れる。十二月半ばの今日。窓の外では粉雪が舞い降りて、世界を白く染め上げていた。聞いてはだめだと頭の片隅で思うのに、足が固まったように動かない。息を殺してそろりとのぞいてみると、そこには顔を歪める女の子と、星野の後ろ姿があった。
 ツインテールをゆるく巻いて、メイクもバッチリな彼女は確か同学年で可愛いと噂されている牧野(まきの)さんだ。

「誰? 何組? もしかして他校の子?」

 せめて最後に少しでも相手の情報を聞き出そうとする彼女に星野は「それ、お前に言う必要あんの?」と冷たく言い放った。容赦ない彼の物言いに、牧野さんの顔がみるみる赤くなっていく。

 ……うわ、ひっど。

 彼の性格上、はっきりとものを言うことは分かっていた。けれど、もう少し言い方があったんじゃないの、と思ってしまう。もしわたしが牧野さんの立場だったら、好意を寄せていて勇気を振り絞って告白した相手にあそこまで冷たく言われてしまっては到底立ち直れないだろう。

「その子のこと、どれくらい好きなの?」

 彼女にも相当なプライドがあるようで、顔を真っ赤にしながらも星野に問いかけた。愛の重さなど、星野が答えるはずがない。だって、恋人はおろか好きな人の影すら見せなかったような男なのだ。
 うるせえ黙れと蹴散らされるに決まっている。どこかそんなふうに決めつけながら、彼の返答を待っていると。

「……すげえ好きだよ。誰よりも幸せにしてやるって決めてんだ」

 星野は不機嫌を露わにしながら、「残念ながらそいつにしか興味ねえんだよ」と加えて吐き捨てる。

 その声を聞いた瞬間、心臓が止まったかと思った。
 別世界の、どこか別の次元の星野みたいだった。こんなに不機嫌そうにしながらも、はっきりと答える星野ははじめて見たし、普段何事にも無頓着な彼のこんなに熱い言葉もはじめて聞いた。
 やがてパタパタと音を立てて牧野さんは走り去っていった。

 ずっと息を殺していたので、胸のあたりがひどく苦しい。空気を大きく吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。

「……あれ」

 それなのに、なんだか胸のあたりがやっぱり苦しい。もやもやというか、むかむかというか、形容するのが難しい感情に包まれているようだった。

「……っ」

 喘ぐような呼吸を繰り返していると、ぐわん、と急に視界が歪む。そしてそのまま、ふらっと身体の力が抜けた。

「あぶねっ」

 咄嗟に伸びてきた腕に受け止められる。この、声は。

「……は、成瀬? お前、いつからここにいたんだよ」

 ぼんやりとする視界の中で、そろりと星野を見上げる。さっきの熱は、もうどこかにいってしまったみたいだった。そこにはいつも通りの星野がいて、そのことにどこか安心してしまう自分がいる。

(ああ……だめだ)

 目を丸くする星野の顔が急激にぼやけていく。

「成瀬?」

 胸の奥深く、すべてをしまい込んでいるような場所から、ぐっと何かが迫り上がってくるような感覚がする。

 意外だった。恋愛だけではなく、人生そのものに無頓着そうな星野が、想いを寄せる女の子がいたなんて。十人に聞けば十人が認めるような美形である彼のことを好きだという女子は何人か耳にしたことがあっても、彼が誰かを好ましく思っているという話は聞いたことがなかった。
 けれどあの性格からして、自分の気持ちや相手との進捗状況をべらべらと喋るようなことはないだろうから、単にわたしが知らないだけかもしれない。

「……おい、成瀬? 大丈夫か」

 焦ったような声と驚きが混ざったような顔を、暗くなっていく視界の隅にぼんやりととらえる。もう、意識を保っているのには限界だった。わたしを支える腕に体重をかけ、そのまままぶたをおろす。

「おい、栞っ」

 その声を最後に、わたしの意識は途切れた。




「────気がついた?」

 柔らかい声がした方を向くと、声によく合った優しい笑顔が向けられる。

「……ここは」
「保健室よ。軽い貧血をおこしたみたい。調子はどう?」

 ベッドに歩み寄ってくる先生は【養護教諭 岡本理子】と書かれた名札をつけていた。基本的に健康体で、保健室に来るのはこれが初めてだったので、当然彼女と言葉を交わすのもこれが初めてだ。

「大丈夫です」

 正体不明のむかむかは消えていて、安堵でふう、と息が洩れる。

「……どうか、されました?」

 さっきからやけにわたしの顔を見てくる先生に訊ねてみると、先生はゆるりと唇の端を上げて笑みの形をつくり、「実はね」と口を開いた。

「ここまで星野くんが運んできてくれたのよ。言わないでって口止めされていたんだけど、我慢できずに言っちゃった。格好いい彼氏がいて、頼もしいわね」

 にんまりする先生は、てのひらを合わせてうっとりとした表情をみせた。そのようすを見て、わたしは慌てて訂正する。

「わたしと星野は、そんなんじゃないんです」
「え……?」
「彼氏、とか。そういうのじゃないです、星野は」

 首を振りながらそう言うと、目を開いた先生は「あら、私ったら勘違いしてごめんなさい」と言って眉を下げた。

「……いえ」
「無責任な発言だったわね。以後慎みます」

 もう一度ふるふると首を横に振る。
 それでもしゅんと落ち込んだままの先生は、体調をうかがうようにわたしの顔をじっと見つめた。

「顔色はだいぶ良くなったわね。身体でどこか気になるところはない?」
「はい。もう大丈夫です」

 倒れるのはこれが初めてなので少々驚きはしたものの、星野がいてくれたからなんとか大事にならずにすんだ。

「体調に少しでも異変があったら、迷わず私に知らせるか病院を受診しなさい。倒れるっていうことは少なくともどこかに異常があるはずだから。万が一、貧血じゃない可能性もあるからね」
「分かりました。ありがとうございます」

 こくりと頷いてベッドから降りる。そのまま保健室から出ようとすると、「ちょっと待って」と突然腕を掴まれた。

「……え」

 振り返ると、真剣な面持ちでわたしを見つめる瞳があった。

「栞ちゃん」
「……はい」
「何か、悩み事があるんじゃない?」

 ドクッと心臓が一度大きく鼓動する。

「どうして……ですか」
「うーん。そんな顔、してるから……?」

 養護教諭の勘というやつらしい。「なんとなくそんな感じがするの」とわたしを見つめる瞳。何人もの生徒たちの相手をしてきているのだ。その目で見守って寄り添ってきているのだ。そんな瞳を誤魔化せるはずがなかった。押し黙ると、先生は切長の瞳をすっと流す。

「保健室を利用するのは、怪我や病気のときだけじゃないのよ?」
「え」

 目を見開くと、岡本先生はわたしの両手をあたたかい手でぎゅっと握った。

「心のケアをすることだって、保健室の立派な役目なの」

 眼鏡の奥にある切長の目がふっと細くなった。それから何度も大丈夫だよ、というように強く手を握られる。

「無理して話せとは言わないわ。けど、先生は栞ちゃんの味方だし、できることなら不安や悩みから解放してあげたいって思ってる」

 大人の、それも女性のあたたかさを感じるのは久しぶりだった。ポロポロと無意識のうちに涙が溢れ出す。

「今の時間は生徒もあまり来ないだろうし、少し話しましょうか」

 シャッ、とカーテンを閉めた先生は、わたしに椅子に座るよう促し、自らは向かいの席に座った。机の上に用意されていたお茶はまるでこの展開を予想していたかのように熱いまま用意されていた。

「ゆっくりでいい。できるところまででいい。栞ちゃんはいつも頑張っているんだから、たまには吐きだすことも大切よ?」

 言葉によって人から傷つけられたり、自分自身を傷つけたりしているはずなのに、言葉によって救われる。言葉を放つことで心に固い鍵をかけているはずなのに、言葉によってその固い鍵を外される。

「……どんな悩みでも、いいですか。引いたり、しませんか」

 人に相談をしたり、思いを打ち明けるということは、とても勇気のいることだ。そしてそれはわたしのように自分を隠して生きているような、嘘偽りの自分のまま生活しているような人ほど困難だ。

「当たり前じゃない。人間一人ひとり違うんだから、悩みの数だって違う。栞ちゃんの悩みや苦しみを完全に理解してあげることはできなくても、理解(わか)ろうと努力するつもりよ」

 まっすぐな瞳。澱みのない目。
 先生なら、きっと真摯にわたしと向き合ってくれるだろう。ただ同情するのではなくて、正しいことを教えてくれるような、そんな気がした。わたしが新たな一歩を踏み出せるように、大切なことを教えてくれる先生なのだろうと、そんな予感がした。

「……わたし」

 しまいこんでいた思いを吐き出す。心の奥底の汚い部分、見せたくない自分。深呼吸をして、ゆっくりと口を開いた。


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 わたしは恋愛をしてはいけない人間なのかもしれない。
 そう思い始めたのは、中学三年生のときだった。正確に言えば、疑惑を持ち始めたのは中学一年生のとき。疑惑が確信に変わったのが、中学三年生のときだった。

『〇〇くんと〇〇さん付き合ったらしいよ』
『〇〇ちゃんってすごくモテるよね〜。可愛いし』
『でもめっちゃ性格悪いって聞いた』

 そんな噂話が飛び交うような年頃。小学生時代のような『みんな同じくらい大好き!』という感覚とはまた違うもの。異性として、恋愛的な意味での"好き"。多感な中高生にはもってこいの話題で、口を開けば恋バナか悪口。そんな年齢だからこそ、感じた違和感ははっきりだった。

『成瀬のことが好きです。付き合ってください』

 わたしは少々……急ぎすぎていたのだと思う。


 わたしは本を読むことが好きだった。長期休暇には、家から近い図書館に通い、たくさんの本を借りて家に帰り読み漁る。色々なジャンルを読んだけれど、やはり一番心惹かれたのは恋愛小説だった。いつかこんな恋愛をしてみたいと夢見ていたし、なにより幼き少女たちに夢を与える作家のことを尊敬していた。

 中学一年生になり、同じクラスの男子から告白された。いつも優しく接してくれ、明るくクラスのムードメーカー的存在の彼に気がついたら惹かれていて、人生初めての"彼氏"という存在に浮かれて付き合うことを承諾した。けれど返事をした、その瞬間。ぶわっとなんとも言えない、言葉では表し難い嫌悪感に身体が包まれ、吐きそうになった。

 気持ち悪かった。相手のことがではなくて、「付き合っている」という事実が。その状況下に置かれているということが、ずっと胸の中に大きなしこりとなって、存在していて。二ヶ月という、中学生にしてはほどほどとも言える期間で別れを告げた。他に好きな人ができた、と嘘をついて。
 それからしばらくして、だんだんその出来事の記憶も消えかかってきた中学三年生の夏。夏休みが始まる少し前に、告白された。相手は他クラスでイケメンと噂される人気者だった。

 一年生のときは、自分が子供すぎただけだったのだ。大人になりたいと背伸びをしてしまっただけだったのだ、きっと。そう思い込んで、必死に自分を納得させて、付き合った。
 けれど、やはりだめだった。一年生のときとまったく同じように、自分でもよく分からない嫌悪感に支配された。手を繋ぐとか、ハグするとか、そういうことに嬉しさやドキドキを見出せなくて、ただただ不快でしかなかった。そういうことを求められても応じることができなかったし、なにより応じられてもおかしくない状況、立場にあるということが気持ち悪くて仕方がなかった。

 そこで、はっきりと気がついた。わたしは、恋をしてはいけない人間だと。そういう人間として、生まれてきてしまったのだと。

 わたしは"普通"ではない。人を好きになって結ばれる。そんな単純で簡単なことすらできない人間なのだと。

 自分でもどうしていいか分からなかった。だって、小説の中の女の子たちは。頑張って恋が実って、それから先の輝く日々を大切に噛みしめて、あんなにも幸せそうだったのに。キラキラしていたのに。どうして、自分は恋ができないのだろう。なんで気持ち悪くなってしまうのだろう。震える指で、検索したあの日。

【蛙化現象】

 液晶画面に映し出されたのは、そんな四文字で。説明欄を見て、まるで自分の説明をされているのかと思った。それと同時に、なんて理不尽で自分勝手なのだろうと自嘲すら浮かべることができた。

 だって、普通に考えておかしい。
 好きな人と両想いになった途端、気持ち悪くなるのだ。嫌いになるのだ。触らないで、近付かないでと思ってしまうのだ。まったく意味がわからない。もし自分がされる側だったら、きっと怒るだろうし意味が分からなくて困惑するだろう。遊ばれた、と思ってしまうかもしれない。
 それでも、好きだった。確かに好きだったのだ、あの瞬間までは。想いが結ばれる瞬間までは、紛れもなく好きだった。間違いなく恋だったのだ。それなのに、どうして。
 コメント欄に無数と溢れる、批判の声。

『自分勝手すぎる』
『恋に恋しているだけ』
『理想高すぎ』
『される側、めっちゃ辛いよ』

……分かっている。そんなことは分かっているのに、気持ち悪いと思ってしまうのもまた事実なのだ。自分の気持ちなのに自分で制御できない。周りの人に理解してもらう以前に、わたし自身がわたしを理解できなかった。

 わたしだって、好きでこうなっているわけじゃない。わたしだってみんなみたいに人を好きになって、結ばれて、幸せになりたかった。画面をスクロールするうちに、目に入ったひとつのコメント。

『本当に好きな人と出会えたら、治りますよ』

 ひどく落胆した。"本当に好きな人"と出会うまで、あと何人と付き合えばいいのだろう。何人の男性を傷付ければいいのだろう。

 そもそも、"本当に好きな人"って何だ。嘘偽りの気持ちで付き合ったわけではない。同情したわけでも圧されたわけでもなく、好きだから付き合ったはずなのに。一年生のときも、三年生のときも、どちらも全力の恋だった。決して遊びだったわけでも、仕方なく付き合っていたわけでもない。

 もしも次好きになる人が本当に好きな人だったのなら、こんな思いもせずに幸せになれるのかもしれない。けれど、そんな保証はどこにもない。これでは、本当に好きな人と出会うまでの人を理不尽に傷付けることになる。

 そんなの、耐えられない。気持ち悪がられて、嫌われてしまうくらいなら、関わらないほうがずっといい。好意なんて、相手に伝えるべきじゃない。
 だから、わたしは。

 きっとこれは誰にも言ってはいけない、と。強く強く心に刻み込んで、これから先、決して恋愛をしないと決めた。

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 ドンッ、と分厚いノートを机に置いた先生は、ペラペラとページをめくり「あった」と呟く。細かく色々な情報が書き込んであるそれは、先生自前のノートらしかった。

「蛙化現象ね……。近年よく耳にするようになった言葉だけど、名前がついていなかっただけで現象自体は昔からあるみたいよ。私も以前少し調べたことがあるんだけどね、女性のうちの約七割以上の人が蛙化現象を経験しているみたいなのよ。だから、結構身近にあるものみたい」
「そう……なんですか?」
「ええ。確実に蛙化とは言えなくても、それに近いような気持ちは経験してる人が多いってこと」

 わたしだけじゃなかったんだ。その事実だけで、幾分心が軽くなるような気がした。わたしだけが抱く気持ちではなくて、割とみんなが通る気持ちのひとつにあげられているものなのだと。

「こんなの理不尽だって、される側の方が何倍もつらいって分かってるんです。でも、人を好きになる気持ちは他の人と変わらず持ってるから……どうしようも、できなくて」
「それで苦しいのね」
「……はい」

 わたしの返答にうなずきながら、先生は顔を上げた。眼鏡の奥にある慈愛に満ちた瞳がわたしを見つめる。

「栞ちゃん。リスロマンティック、って知ってる?」
「りす……ろまん……?」
「リスロマンティック。相手に恋愛感情を持つけど、その相手から恋愛感情を持ってもらうことを望まないセクシュアリティの一つなの」

 初めて聞く言葉だった。先生を見つめ返して、その続きを聞く。

「人間さまざまなセクシュアリティがあるでしょう? 蛙化現象は否定されやすいけど、もしかしたらそれはリスロマンティックっていう性的指向の可能性もあるの。でもこれはあくまで知識として知っていてくれればいいだけ」
「……知らなかったです、そんな言葉があるなんて」
「リスロマンティックの他にも、手を繋いだりキスしたり、そういう身体の接触自体が嫌な人もいて、恋愛とか距離感に対して悩んでいる人は案外多いものなのよ。あとは、もともと好きになる性別が違う場合もあるわ。多種多様ね」

 自分のこの気持ちに特別な名前がついている可能性なんて、微塵も考えていなかった。
 リスロマンティック。この曖昧で理不尽な気持ちは、もしかするとわたしの性格の問題ではないのかもしれない。もともと生まれたときから持っていたもので、それに負い目を感じたり変えようとしなくても良いのかもしれない。
 わたしがそれに当てはまるかどうかは分からないけれど、わたしと同じように悩む人たちの中に、もしかするとリスロマンティックの人がいるかもしれない。もしも存在しているのならば、これに気づくことができるだけで、きっと少しでも救われるのではないか。

 少しでも言葉が浸透し、この気持ちがマイナスなものとして捉えられる機会を減らしたい。今はネット社会、影響力の違いはあれど、誰だってアクションを起こすことができる。そんな時代だ。
 自分の気持ちが、想いが、すべて在るべき場所にカチッとはまったような気がした。

「ただ……最近は【蛙化現象】が間違った使い方をされたり、意味を履き違えて使われるせいで、非難すべきものっていう認識に変わりつつあるから大変なのよね。蛙化現象は、好意が現れた、あるいは言葉にされた瞬間に起こるものであって、それ以外は単なる冷めた言い訳でしかないわ」
「だからネットにも誹謗中傷が多くて……」
「不思議な話よね。好きな人なのに、気持ちを返してもらった途端に生理的に嫌悪感を抱いちゃうんだから。片想いが実って両想いになってハッピーエンドってならないからこそ、人間って難しいなって思うわ」

 岡本先生はお茶を啜った。

「でも人間なんだから、仕方がないじゃない? 抱えるものは一人ひとり違う。それぞれが抱く思いだって違う。そうやって悩んで、葛藤して、ドキドキして、涙を流して。無責任なことは言ってあげられないけれど、いつかきっと、栞ちゃんの苦しみを分かち合える人が現れると思う。私はそう信じてる」

 分厚いノートをパタン、と閉じた先生は、「だからそんなに深刻に考えないで」と目を細めた。

「学生の時に焦るのは分かる。高校生なんて特に恋愛の話は多いから、どうしても周りと違う、って思っちゃうと不安になるよね」
「……はい」
「でもね栞ちゃん。未来はどうなっているか、そんなことは誰にも分からない。この世界に絶対はないし、だからこそ"奇跡"なんて言葉が生まれてる。この世界は、すべて奇跡の積み重ねなの。だから奇跡的な出会いをする可能性だって十分にあるのよ。青春を謳歌するあなたたち学生は余計にね」

 窓から入ってきた風が、髪の毛を揺らして通り過ぎてゆく。カチ、カチと時計の秒針の音だけが響いて、それ以外の時が止まったような感覚に包まれる。

「青……春」

 ずっとずっと、遠い言葉だと思っていた。わたしにはまったく関係のない話だと思っていた。高校生なんて、青春真っ只中と言っても過言ではないくらい、青春という言葉と結び付けられることが多くて。

「青春って……なんですか」

 分からない。今これが青春だ、なんて明確に分かるわけがない。青春の定義がないから。

「難しい質問ね……」

 首を捻った先生は、「強いて言うなら」と言葉を続ける。

「過ぎ去ったときにふと思い出すもの……じゃないかしら」
「……えっ?」
「大人になって振り返ってみたときに、キラキラしてたなあ、とか。楽しかったなあ、とか。そんなことをぼんやり思い浮かべて、ちょっと嬉しくなったりときめいたり、悲しくなったり切なくなったり。そんなものが、青春……なのかもしれないわね」

 見つめると、先生は「ちょっとポエムっぽかったかしら、恥ずかしい」と頬を赤く染めた。青春を語る先生に重なるように、少し幼い高校生時代の先生の姿が見えたような気がした。

「栞ちゃんが自分自身で気持ちを伝えないって決めているのなら、その意思に素直に従ったほうがいいと思う。でもふとした瞬間に、想いが溢れることもある。そのとき、自分を責めたり後悔ばかりしないで。進む道に間違いはない。進んだ道がすべて必然だから」

────進んだ道が、すべて必然。

 ストン、とまっすぐに胸に届く。これから先の未来、何が起きるかまったく分からない。けれど、どんな結末を迎えてもそれは必然だったと言えるなら。いかなる選択をしても、すべてわたしにとって正しいと言えるなら。
 目の前の霧が、少しだけ晴れるような気がした。

「少しは楽になった?」
「……はい。とても」
「それはよかった。いつでも待ってるから、つらくなったらまた来てね。私はいつでも栞ちゃんの味方だから」

 ふわっ、と笑う先生。
 そのときわたしは生まれて初めて、先生という存在の偉大さを感じたのだった。