「蓮? どうかした?」

 受話器に耳を押し付けるようにして佇んでいた高塔《たかとう》蓮《れん》(二十六歳)に、台所にいた杉山《すぎやま》由香里《ゆかり》(二十六歳)が声をかける。
 ただ呆然と受話器の向こうから聞こえる声を聞いていた蓮は反射的に受話器をおいた。

「いや、なんでもない……間違い電話だよ」

 そう答えた蓮の手はガクガクと震えていた。
 由佳里はその手をそっととり、怯える蓮の痩せた背中へ両手をまわす。

「大丈夫よ……大丈夫、私がついてるから、ずっとついてるから」
「……由佳里」

 電話の主は薙《なぎ》だった。
 柳原《やなぎはら》薙《なぎ》(二十六歳)、かつては親友と呼んでいた男だ。



 ***



 蓮が薙と出合ったのは高校一年の時だった。

 父親がヤクザの組長であると言う特殊な事情のせいで蓮には友人がいなかった。というより幼い頃からずっと、友だちというものが存在していなかった。
 父親がヤクザの組長をしている、そう聞けば大抵の人間はビビる。最初は友達だと思っていても父親のことを知ると逃げていく。初めは普通に接して遊んでくれている友だちも蓮の家庭事情を聞くとみんな離れていった。ヤクザの息子だ、父親は組長だ、機嫌を損ねたら何をされるかわかったもんじゃない。みんなそう思っているようだった。
 それは仕方がない、自分だって普通の家庭に生まれ育っていたらそう思っただろう。
 だからそれは堪えられた。
 だがそれとは逆に蓮のバック、ヤクザの組長の息子、という肩書きを当てにして無駄に媚び諂う輩も多い。中学、高校になると諂うヤツはさらに増えた。みんな蓮の後ろにいる父親、ヤクザの組長という肩書きに諂っているのだ。
 そんなモノに興味はない、欲しいと望んでいたのは上から与えられる権力や甘い蜜ではない。そんなモノが欲しいという輩にはなんの興味も湧かない。奴等が欲しいのは自分ではない、そのバックだとわかっていたからだ。

 蓮には組長の息子として、普段から組員の幾人かがお守り役のように張り付いていた。蓮を坊ちゃんと呼び、ちやほやと甘やかした。だがそれも自分が偉いからではない。父親が大物だからだ。
 もっとバカに生まれていればそれでも良かったのかもしれない。ちやほやと祭り上げられていい気になって、まるでそれが自分の力のように錯覚し、威張り散らす、そんな組長の息子という奴等がいることも知っていた。だがそう思うことは出来なかったのだ。
 組長の息子という部分を除ければ自分はなんの価値もない。ただの頭の悪いガキでしかない。だからなにくれとなく世話を焼いてくる組員たちにも本当には心開くことはなかった。所詮は父親の笠の下、そう自分を卑下しながら、いつかは実力で認められる人間になると心に誓っていた。

 そんな中で薙は唯一、蓮のバック、家庭の事情と言うものを知らずに出会えた人間だった。
 高校に入学したばかりの頃、同じクラスに、ヤケに大柄で熊かと見違うほど強面の男がいるのに気がついた、それが薙だった。
 父親が組長であることは学内では周知の事実で、知らないものなど殆どいない中で、薙はその噂すら知らなかったらしい。薙の朴訥で優しい気質が、噂話などに耳を貸すようなことをさせなかったのだろう。



  ***



 確か古文の授業だったと思う。
 担当教諭はまだ若い女性で、静かな声でゆったりと話していた。古文なんか早口や大声で話すものではないだろうが、それにも程度というモノがある。あまり大人しいので、生徒は殆んど話を聞いていなかったし、ずっと大声で喋りあっていた。授業どころではない。
 蓮もその煩さには少々ウンザリしていたが、別に授業内容が聞こえなくてもかまわないし、聞く気もあまりなかった。だから黙っていた。
 そんなときだった、蓮の横でガタンと席を立つ音がして、太く低い声がボソリと聞こえてきた。

「ちょっと」

 熊の唸り声のような低音でありながら、その声は教室中に響き、ドキリとした。たぶん皆もそうだったのだろう、ざわめきは見る間に小さくなり、みんなその声のするほうへ振り向いた。

「静かにしてくれないか? 先生の声が聞こえない」

 その途端、みんな、当の先生までが黙り込み、クラス中が水をうったように静まり返る。声の主は蓮の二つ隣の席にいた大柄で厳ついご面相の男だ。一見するとそっちのほうがヤクザじゃないのかと聞きたくなるくらいの強面だった。

「先生、続きをお願いします」
「……ぁ、はい」

 静かに授業再開を促した男の迫力に気圧され、その女教師は泣きそうな声で小さく返事を返していた。クラス内は天井から針が降ってきたように張り詰めて、まるでその男が悪いかのような空気が流れる。

「……」

 蓮はしばらくその男の横顔を見つめていた。そいつは見るからに男らしい風貌で、背など周りから頭一つ以上は飛び出るほど高い。箔があると言うか、一度見たら忘れられない強烈な印象を受ける男だった。
 その日の出来事はそれだけ薙が真面目であるということだろうに、何故かそれ以来クラスメイトや先生までが薙を敬遠するようになった。生真面目過ぎる性格で、悪く言えば融通がきかない、よく言えば正義感があるとでもいうのだろうか、みんななんとなく苦手意識が働くらしい。たぶんクラスメイトもそして先生も、自分達のズルさを薙に見抜かれそうで敬遠しているのだろうと感じた。
 だが当の薙は、クラス中から敬遠されようと、歩くたびモーゼの十戒のように人が避けて行こうともまるで気にならないように見えた。いつでも堂々と前を向いて歩く奴、自分とはまるで違うタイプの男、そしていつかはああなりたいと思っていた理想の男。蓮はいつしか薙を目で追うようになった。



 ***



 その日、蓮は家の離れにしつらえてある道場で竹刀を振りながら薙のことを考えていた。
 自分の場合はわかる、環境が環境だ、クラスの連中が敬遠するのも頷ける。だが薙は違う。ただ身体が大きくて少し厳つい顔をしているというだけで他になんの理由もなく阻害されている。それでも薙は拗ねるでも凄むでもなくいつも飄々としていた。

「薙……お前はなんで……?」

 自宅にある道場内で散々に竹刀を振り回して、疲れ果てた蓮は道場の真ん中に寝転んで思わず呟いた。まだ口を聞いたこともないクラスメイトのことが頭から離れない。
 薙のことを考え、ただぼうっと寝転んでいると、頭上の襖がスッと開き、低く威圧的な声がしてきた。

「蓮、どうした、ちゃんと学校にいっとるか?」

 父親だった。

「っせえな、行ってるよ」

 蓮は父親のほうに振り返りもせず投げ捨てるように答えた。父親はそんな蓮の頭越しに低い声で唸るように話を続ける。

「お前はワシと違って頭がいい、これからの極道には知恵も必要だ、しっかり勉強してちゃんと学校を出るんだぞ」
「……」

 極道に知恵? それはいかに他人を騙し、いかに他人の裏をかけるか考える為の知恵かよ?
 父親の言葉をそのまま受け取れずに苛々と唇を噛んでいると、父親は少し声を荒げた。

「聞いとるのか、蓮?」
「聞いてんよ、わかった、もう他に用がないなら消えてくれ!」

 思わず起き上がって怒鳴り返す。父親はジロリと蓮を見据えてから黙って襖を閉めた。

「チッ」

 蓮はそのまま道場の天井を見据えていた。学校へはクラスで盗難事件があった日に、早退して以来、もう十日以上行ってなかった。
 それは蓮がサボっていた体育の授業時間中のこと、クラス内で一人の学生の財布が盗まれるという事件が起きたのだ。



「財布がないんです! 確かにここにいれておいたのに!」

 女生徒がヒステリックに叫ぶ、普段金は購買で昼食を買う程度で、大金は持って来てはいけないことになっていたが、その女生徒は前日バイトの給料が出たとかで、なくなった財布には四万円近く入っていたらしい。盗難事件としての額はたいしたことないが、学生にとっては大金だ。盗まれたのだと騒ぎ立てた。

「しかしね、みんな授業中で、誰もそんなことをしている暇はなかっただろう? キミの勘違いじゃないのか?」
「そんなことないです! 確かに授業前はあったんです!」
「しかしクラスメイトはみんな同じ授業を受けているだろう?」
「サボってた人もいるじゃないですか!」

 担任の呑気な声にカッとした女生徒がいきり立って叫び返すと、クラス中全員がいっせいに蓮のほうへ振り返った。

「な、んだよ……?」

 ヤクザの息子だ、なにを考えているかわからない、なにをするかわからない奴だ。コイツがやったに違いない。みんな報復を恐れて口にこそ出さなかったが、視線がそう言っていた。
 せめて口に出して、お前がやったんだろうと聞かれれば、違うと否定も出来るのに、誰もなにも言わない。蓮を怒らせると何をされるかわからない。そう思っているようだった。
 俺は報復なんてしたこともないし、人のモノを盗ったこともない。そう言いたくても言い返せない重苦しい沈黙に蓮は下唇を噛み締める。そしてその視線に耐え切れなくなったとき、一人黙って教室を出た。どうせ言ったところで誰も信じまい。そう諦めて逃げたのだ。
 だが教室を立ち去るとき、薙が廊下まで追ってきた。そして確かに名前を呼んだ。

「高塔!」

 その声を背中に聞きながら、蓮は自宅へと逃げ帰った。