寿永二年十一月十九日に起きた法住寺合戦は、京のひとびとを震撼させた。
 俱利伽羅峠(くりからとうげ)での戦いや篠原の戦で目覚ましい活躍を見せ、朝日将軍などという称号を与えられた木曾義仲が、平家一門が都落ちした七月から半年もたたないうちに軍事衝突を起こしてしまったのだから。
 このことから、義仲と実質政権を握っていた後白河法皇との関係が決裂したことが民草にも知れ渡ることとなる。
 法皇御所を襲い、わずか四歳の今上帝を確保したのち、法皇を五条東洞院へ監禁。あらたに摂政として権大納言師家(もろいえ)を立て、反抗するすべてのものを制圧。容赦はせず、その場にいた僧侶や公家たちにまで刃を向け、殺戮を楽しむ姿はまさに鬼神とおそれられ、ひとびとに噂された。
 ほかにも、十二歳にして摂政という役を任ぜられた藤原師家のことや、摂政宅に隠匿されていた姫君の神隠しなどが根も葉もない噂となって小子の耳元に流れてくる。
 噂の情報源はお喋りな巴だ。