その翌日、学校の用事で遅くなり、いつも乗っている電車の時間から大幅に遅い時間になった。

『シオリくんも補習を受けるのね。何をやらかしたの?』

 真面目そうに見えるのに、といつもの席でニヤニヤと笑っているかさねが言う。
 もちろん返答することなく、いつものように僕は本で顔を隠す。ちなみに補習とは一言も言っていない。

『違うの? だって今日の本、小説じゃないもの。試験で赤点に引っかかったんじゃないの?』

 だから補習だと思ったのか。
 僕が参考書越しから軽く睨みつけると、かさねが口元に手を置いて笑いを堪えるフリをしている。
 内心では大いに笑いたいのだろうが、一応周りのことを考えて堪えているらしい。腹が立つ。

『シオリくん、そんなに眉間にシワが寄せると目がくっついちゃうよ。安心して。飲み込んだから。私が爆笑してたら、さすがのシオリくんも怒鳴っちゃうでしょ? ……でも私、まだあなたの声を聞いていないから、気になるわ。今度やるから楽しみにしててね』

 こてんと首を傾げ、上目遣いでこちらを見てくる。僕は思わず頭を抱えた。

 最近、かさねは僕の考えていることを見通しているのか、眉一つ動かしただけで言い当ててしまう。面倒だと思う反面、僕もこうして話せる相手が少ないから、彼女との時間が楽しいと思い始めていた。
 とはいえ、僕はただ本を読むだけ。彼女の話を無視する形になる。電車の中じゃなかったら、少しは言葉を交わせただろうか。

 ……いいや、無理だろうな。

『シオリくん? どうかした?』

 僕が小さく溜息したのが聞こえたのか、かさねが眉をひそめて顔を覗いてくる。そういえば彼女の話の途中だった。

 なんでもない、と首を横に振る。言葉を発せられない僕が否定するには、表情だけでは分かりにくい。それでもかさねは何も聞かずに話を続けた。

『それでね……――あ』

 途端、かさねの言葉が途切れた。
 気になって参考書から顔を上げると、かさねは遠くを見て目を細めている。

 僕の右斜め後方に向けられた視線の先に、以前彼女が話していた五十代くらいのサラリーマンが扉に寄り掛かっていた。メガネをかけている割にはピントが合っていないのか、文庫本を読んでいる途中でメガネを外して読む、を繰り返している。

 あの人は確か――。

『……この間話した気になる人、あの人なの』

 走行中の電車の音が遠く聞こえるくらい、かさねの声がはっきりと聞こえた。

『あの仕草、マサオミくんも同じことをしていたの。メガネがない方が見えるって笑ってた。……なんて、彼がマサオミくんだっていう証拠はどこにもないのにね』

 無理に笑う彼女を見るのはこれで二回目だ。このまま放っておいても僕には関係ない。それでも気になって、ポケットに入れていたスマホのメモに打ち込んで画面を彼女の方へ向ける。

『君はどうしたい? ……ふふっ、優しいことを聞いてくれるのね』

 画面から目を離して、かさねは少し考えてから口を開いた。

『できるなら一言だけ伝えたいとは思う。私は生きているとき、何も告げずに死んだから。……想いを伝えられるのなら、叶えたいよ』

 答えなんていらないから。

『……でもね、私はもう幽霊だから関わっちゃいけない。この願いは今の私が持っていてはいけないもの。これ以上執着してしまえば、彼に悪影響を及ぼすかもしれない。だから今日を機に、この想いは捨てるわ』

 かさねはそう言って微笑む。何度も見てきたその笑みを見るたびに一段と胸が苦しくなる。

 死んでいるから。
 幽霊だから。

 どれも正論かもしれない。好きな人と結ばれるための参考書や体験談はいくらでもあるのに、書かれていることは生きている人間だけ。告白が上手くいく方法も、振られても立ち直る方法も、故人には該当しない。一方的に行えても、故人は返す術がない。

 幽霊は凄惨(せいさん)なものだと誰が決めた? 彼女だって、死にたくて死んだわけじゃない。想いを伝えることさえ(とが)められてしまったら、幽霊だって息苦しいだろうに。

 僕は唇を噛んだ。口の中に鉄の味が広がる。悔しいが、生きているのだと実感した。