彼女の名前は『かさね』といった。
 聞き覚えのない女子校に通っていた生徒で、おそらく十七歳。何らかの理由で駅のプラットホームから線路に落ち、入ってきた電車と衝突して亡くなったという。当時のことを含め、自分のことは名前と亡くなる直前のことしか覚えていないらしい。

 これらはすべて、彼女が自ら話した内容だ。決して僕から問いかけたことはない。

 初めて目が合って以来、彼女は決まって夕方に走る電車に乗って僕の前に現れた。
 単に僕が車両を変えればいいだけの話だけど、なぜか自然と足を向けてしまう。まるでかさねが糸を手繰(たぐ)()せているかのように、今日も彼女がいる車両に乗る。横並びの座席、端から三番目という、中途半端な席に座った彼女は笑顔で迎えてくれた。

『お疲れ様! やっぱり来てくれた』

 そりゃあ、この路線じゃないと家に帰れないからね。

『今日も私の話し相手になってくれる? さっきね、小学生が最新のゲームで盛り上がっていたんだけど――』

 まだ誰も了承していないのに、彼女は勝手に話し出す。大抵が一日に自分が珍しいと思った出来事で、たまに僕のことについて聞き出そうとしてくる。

 最初の頃は特にひどかった。

『私ね、最初にあなたのことを見たとき、大学生だと思ったの。大人びて無愛想な顔してるし、私服だったから。でも一度だけ電車が大きく揺れて、鞄の中身を全部ひっくり返したことがあったでしょ? その時に高校の生徒手帳を見つけて、見た目で判断できないなって感心したんだよ』

『いつも本を読んでいるけど、何のジャンルが好きなの? ……ミステリ? ああ、これ私も読んだことある! 結構昔からあるけど、まだ続いているのね。今回の舞台はどこ?』

『そういえば毎日マスクをしているのはどうして? 最近はウイルスが流行っていたから、その名残かなって思っていたんだけど……よく考えたらずっと前からつけているよね? マフラーも電車の中だと暑くない?』

 一気に質問されても答えられるわけがない。
 もちろん、僕は徹底して無視を続けた。答える気は毛頭ないし、僕以外の人に彼女の姿が見えているのかがわからなかったからだ。空席に僕がスマホの画面を向けて何かしてみたら皆が不思議がる。モンスターが出てくるわけでもないのに、ただの不審者に見られてしまうだろう。

 だから彼女の話は一方的に聞き流すようにしていた。彼女が話し始めると、僕は決まって鞄から本を取り出し、顔を隠すようにして掲げる。しかし、読書に集中しようとしても、止まることの知らない彼女の話と、風を切って走る電車の音で車内のBGMが完成してしまうため、物語の内容は一切入ってこない。音量調節ができないのが残念だ。

『ねぇ、最近の流行りはケータイでできるゲームなの? アプリって言ってたけど』

 
 話を聞いていると、かさねが生きていたのは十年以上前のような気がする。
 つい最近だと、かさねの隣でメイクを始めた女子大生に目を輝かせ、感極まって僕に実況してきた。しかもちょっと上手くて、思わず吹き出しそうになると、変身中の女子大生に圧倒的な眼力で睨みつけられた。すぐ顔を逸らしたけど、結構怖かった。
 それを見て、してやったりと笑う彼女を思いっきり睨んだけど、それでも彼女に効果はなく。

『あなたがこっち見てくれただけで嬉しいわ!』

 むしろ喜ばれてしまった。なぜだ。

 彼女は珍しいものを見つけては目を輝かせる。電車の中だけでもいくつ見つけただろうか。僕にとっては普通でも、かさねにはすべて新鮮に見えるらしい。
 一番驚いたのは、無線で繋げるイヤフォンだった。

『ぶるー……なにそれ? 私、お母さんのおさがりでMDプレーヤーを使っていたんだけど、そのぶるーなんちゃらに繋げたら聴けるのかな?』

 さすがに無理じゃないか?

 小さく首を振ると、かさねはしょんぼりと肩を落した。
 本当は見て見ぬふりができれば良かったが、生憎僕はそこまで器用に対応できる人間じゃない。

 かさねと出会ってしばらく経つが、彼女の存在に気付いた人はいない。入れ替わりの多い電車だから、毎日同じ車両で同じ位置にいる人間の方が珍しいけど、それでも彼女がいることに気付く人は、今のところ誰もいない。

『いつも私ばかり話していてつまらないよ。あなたのことを教えて? まずは名前から。はい、どうぞ!』 

 正気か。

 僕は思わず顔をしかめた。
 誰もかさねの姿が見えていない、ということは、彼女が座るその席は誰もいないことになる。もし僕が自分のことを話しでもすれば、一切関わりのない大勢に個人情報を声に出して教えているのと変わらない。自分が周りに気付かれないからって、これで詐欺に使われたらどうしてくれるんだ。

 それを平気でやらせようとする彼女は、相当空気が読めないのか。それとも、彼女が幽霊であるという自覚が足りないのか。

『んー……あ、恥ずかしい?』

 何を悟ったのか、かさねは更に続ける。

『そうだよね、さすがに私とあなたとじゃ、話せることがちがうもの。……でもね』

 かさねが立ち上がると同時に車両が大きく揺れる。何人かが慌てて手すりや吊り革に捕まり、支えきれなかった数人が耐え切れずに転びそうになる。普通の揺れではなかった。その中でただ一人、かさねは僕の本に手をかけて、数センチの距離まで顔をよせて呟く。

『こんなに揺れても、誰も私には気付かない――なんか秘密を共有しているみたいで楽しいね。あなたはどう? シオリくん(・・・・・)

 本に挟んでいた栞をさしながら、かさねは笑った。

『マスクくん、だといろんな人と被っちゃうでしょう? 私があなたを見つけたきっかけってね、その栞なの。本屋さんでもらった栞を使う人もいるけど、シオリくんだけは押し花だったから珍しいなって思って。色褪せているのは、ずっと使っている証拠だもの』

 電車に揺られる中、鞄から毎日厚みの異なる本を取り出すのを、彼女はずっと見ていたらしい。その中でも特に印象として残っていたのは本ではなく、押し花で作られた栞だった。

 電車の揺れが収まったところで、僕は彼女に栞を見えるように持ち上げる。
 僕の使っている栞は、幼い頃に友人からもらったお手製のものだ。そろそろ十年は経つだろうか、今も和紙の中にまぎれて、赤、ピンク、白、紫の花びらが添えられている。

『見たことのない花びらね。何の花?』

 等間隔に並べられた花びらだけでは、何の花かはわからない。このまま黙っていようとも思ったが、目を輝かせて訊いてくる彼女のしつこさにはお手上げだった。
 僕はスマートフォンを取り出し、検索結果の画面を彼女に見えるようにして開いている本の裏に隠した。

『……ね、りね?』

 ネリネ――ヒガンバナによく似た花をつけ、光が当たると花びらがキラキラと輝いて見えることから、「ダイヤモンドリリー」とも呼ばれている。僕も受け取ったときはわからなかったけど、この花の花言葉を知って以来、僕はこの栞を持ち歩くことにしていた。

 かさねがは画面に表示されたすべての情報を読み終えると、顔を上げて僕に言う。

『素敵な花言葉ね。あなたにそれを渡した人もきっと願ってるわ』

 微笑む彼女を見て、僕も心なしか嬉しくて口元が緩んだ。