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 高台に行きたいと降沢が言うので、元町の坂道をゆっくりと上ることにした。
 おそらく、この上にデートスポットの外国人墓地や、港の見える丘公園があるのだろう。

(いやいや……。そんなところに行ったら、完璧にデートだわ。絶対に、あり得ない)

 変な期待に心臓が正直な反応を見せている。冗談ではないと、美聖は懸命に顔を横に振っていた。

「一ノ清さん、どうしたんですか?」
「えっ、はいっ。な、何でもありません!?」

 思わず、声が裏返ってしまった。
 今日はそんなことばかりで、嫌になってしまう。
 降沢は、なにも変わらない。
 彼の何を見ても、もうすでに女たらしという印象しか持てなくなりつつある美聖だが、さすがに、女性慣れしていると主張しただけあって、降沢は意外にリードが上手かった。

「一ノ清さん、この辺り見晴らし良さそうだし、洋食のレストランとか色々とお店があると思うんですけど。何がいいですか? 好き嫌いとかあったら、仰ってください」
「特にないです。好きなのは、高級料理です」
「はははっ」

 降沢は乾いた笑い声を上げた。
 この辺りの店のことまで知っているなんて、一体降沢は誰と来たというのだろう。
 何ということだろう。
 ただのひきこもりではなかったということだ。

「一ノ清さん、この辺りは来たことがなかったんですっけ?」
「うーんと、昔、近くまでは来たんですけど……外国人墓地も港の見える丘公園も敷居が高くて、引き返したんですよね?」
「敷居が高い?」

 降沢が本気で分からないといったふうに、目を瞬かせている。
 無理もないだろう。
 モテない女の戯言など、降沢には分かるまい。

「あ、いいえ。先に進みましょうよ。高台に行ったら綺麗な夕陽も見えるかもしれません」
「えっ、あっ? 一ノ清さん!?」

 美聖は小走りで坂を上って行く。
 汗ばんだ肌を、少しだけ心地よい夕方の風が撫でた。

(ここって?)

 ……と、すぐ脇に煉瓦作りの大きな建物があった。
 最初、教会だと思い込んだその建物の正体に気づく前に、聞いたことのある旋律が美聖の耳に運ばれてきた。 

 澄んだピアノの音色だった。

 どこかで聴いたような気がするのは、テレビなどの媒体からだろうか?
 しかし、この音色は、テレビよりもはるかに耳に残る『感情』を持っていた。
 気が付くと美聖の隣で、降沢が顎に手を当て考えこんでいた。

「綺麗で、悲しい曲ですね……」
「そうですね」

 美聖も同意だ。
 橙色に染まっている煉瓦の建物は、学校だった。目を凝らせば、門の前に私立の学校名がちゃんと書かれていた。
 つまり、誰かが音楽室から、奏でている音色がここまで聞こえているのだ。

「ああ、貴方たちも聴いているの? たまに聞こえてくるんですよ」

 犬の散歩中のマダムが立ち止まって、陽気に答えてくれた。

「誰が弾いているのかしらね……。学校の生徒さんかしら。今日はまた素敵なモーツァルトね」
「えっ、これ、モーツァルトの曲なんですか……」

 降沢が尋ねると、マダムは気を良したふうに、笑いながら教えてくれた。

「そうよ。よくテレビとかで流れているでしょう? モーツァルトのイ短調じゃない」
「……そう……なんですか」

 美聖が振り仰ぐと、校舎の四階辺りの部屋のカーテンがふわりと揺れた。
 散歩の女性を見送った後で、降沢がぽつりと口にした。

「モーツァルトが天才って、誰が言い出したのでしょうか……」

 校舎に目を向け、降沢は呟き続けた。

「いや、モーツァルトが天才だというのは、その通りだと思うんですけど。でも………………僕は、いまだに自分に才能があるなんて思ってもいません。だけど、あの人は、僕には視えない僕の才能とやらを慈しんでいました」
「…………降沢さん?」
「でも、あの頃の僕は、ずっと勘違いしていて。彼女の表面だけが……きっと好きだったんです。あの人と同い年になったら、彼女がどんな想いで僕に絵を描くよう遺言したのか、分かるようになるかと思いましたが、残念ながら、僕にはさっぱり分かりません」

 いつも、淡泊で浮世離れしている降沢が拳を握りしめて、うなだれている。
 美聖はそんな降沢の姿に、愛おしさを感じながら、同時に踏み込んではいけない領域を見極めようとしていた。 

「べ、別に、分からなくてもいいじゃないですか」

 迷った末に、美聖は明るく答えることにした。
 ……もう一度。

「分からなくてもいいと思います」

 ただの初恋でもない。
 『慕情』からにじみ出る、愛おしさと狂気を、美聖は怖いと思っていたはずだ。

(私は、本当に愚かだわ……)

 それが分かっていたはずなのに……。
 美聖は自分の気持ちで精いっぱいで、先ほどの喫茶店で、降沢を茶化してしまったのだ。

 ―――憧れと崇拝と、嫉妬と恋情。

 すべてを飲みこんで、あそこで鍵盤を叩いているのは、彼女が愛していた先生なのではないだろうか……。
 多分、美聖も降沢も同じことを考えて、黄昏色の風景の中、その曲が終わるまで佇んでいた。