「じゃあ、降沢さんは、どうなのです? あの『慕情』は……?」
「……それ、言わせるんですか?」
「そうしないと、好奇心から気になってしまうので……」
「君も、お察しのとおり、沙夜子姉さんが僕の初恋だったということですね。今回の件でようやく分かりました」
「……ですよね」

 そうだろう。
 ただの従姉であれば、彼女のことを想った作品を、店の目立つ場所に飾ったりしない。
 まして、その絵の下を定位置に座るなんて、そんなこともしないのだ。
 様々な感情が入り混じっているけど、解きほぐしていけば、元は単純な感情一つなのだ。
 そういうことではないのか……。

「ほらね、やっぱり……。私は、最初からそう思っていたんですよ」

 でも、今度は美聖の心が穏やかではいられない。
 美聖の声は、我知らず、何オクターブも裏返り、早口になっていた。

「酷いなあ。一ノ清さん、そんな勝ち誇ったように言わなくとも……」
「大体、何十年も前の初恋を初恋と認められないなんて、恋愛ができない体質になってしまうかもしれませんよ。降沢さんはただでさえ、女っ気がないんだから」

 頭が真っ白な状態で、深く考えずに言葉を放っている美聖に対して、降沢は寝癖頭を撫でながら、独り言のようにぼそりと言い返してきた。

「女性なんて……僕から誘わなくても……ね」 
「………………はあっ?」

 その一言にこそ、美聖は愕然とした。

「…………あ」

 降沢も不味いと思ったのだろう。紅茶を一気に流し込んだ。

「…………降沢さん、まさかのスケコマシ発言ですか?」
「いまどき、スケコマシという言葉自体、聞きませんけど?」
「降沢さんに、いまどきの言葉なんて指摘されたくはありませんよ。ああ、ほら、もうこんな時間! 私、明日は早いので、もう帰りますからー」

 美聖は、わざと茶化した口調で告げた。
 格好良い、大人な女性だったら、ここで適当に笑って流せたり、自分の経験談まで語りだせるだろうに、美聖は真に受けてしまって、どうしていいか分からなくなる。降沢の真意も読めずに、振り回されてしまうのだ。

「えっ、あっ、ちょっと……。僕も行きますから。一ノ清さん、待って下さい」

 伝票を持ってレジに行く美聖の後を、珍しく小走りで降沢が追いかけてきた。
 そして、無理やり一万円札で支払ってしまった降沢は、おごってもらってありがとうございます……と憮然と礼を述べる美聖に、謎の笑みを湛えて向き合ったのだった。

「な、何ですか? 何か私の顔についているんですか?」
「思ったんですけど……」
「えっ?」
「一ノ清さんって、本当に、男慣れしていませんよね?」

 ――スケコマシに、上から発言されているような気がするのは、気のせいなのだろうか。

「君の素の顔って、占い師をしている時とは別人ですよね。占い師の時は、いつも自信に満ちた物言いをするのに、一ノ清美聖さんに戻ると、いつも……眉間にしわを寄せて、何かに悩んでいるようで、些末なことにも真剣になっていて……面白いです」
「ええ……我ながら、ぼろぼろで。人生経験が貧弱で、占い師にむいてなくて、申し訳ないです」
「そういう人の方が、人間味があって、いいと思います」
「いい?」

 ――何が良いのか?
 美聖は降沢にとって、都合の良い駒なのではないか?
 趣味と実益をかねた絵を描く上で、危険度を図るセンサーのようなものだ。
 トウコの目が見えなくなりつつある今、適度な能力を持っている美聖の存在を重宝しているだけではないのか?

「では、降沢さん。今日は用件も終わったことですし、現地解散ということでよろしいでしょうか。また明日、よろしくお願いします。お疲れさまでした」

 やはり、自分にこの人は無理だ。
 やめた方がいいと、もう一人の冷めた自分がそう言っている。
 降沢を直視できず、駅方向に歩き出そうとしていた美聖のショルダーバックを、不意に降沢が引っ張った。

「ちょっ!……ちょっと、ひったくり犯ですか?」
「君の財布をひったくるほど、僕は落ちぶれていません」
「何ですか?」
「気分を害してしまったのなら、申し訳ありません。お詫びといっては何ですが、これから、僕と食事でも行きませんか?」
「…………はっ、なぜ?」
「まだ帰るには、早いでしょう? 子供の下校時間ですよ。せっかく、お洒落をしてきたんだし、食事くらいいいじゃないですか。僕もたまにはレトルトと浩介の手料理以外を食べたいです」
「はあ……」

 よりにもよって、どうして、美聖がお洒落をしてきたことを知っているのだろう。
 普段の美聖の装いを、さりげなく、チェックしていたのか。

(イヤらしい……わ)

 さすがの女たらしだ。
 完ぺきに、普段の人畜無害っぽい容姿に騙されてしまう。
 更に、普段、外に出たがらないくせして、食事などと口にしている。
 フリーズしている美聖に、降沢は念を押した。
 それは、美聖が断れない魔法の言葉だった。

「…………食事代は全額、僕の奢りです」
「行きます」

 何にしても、一食分浮くのは有難い。

(ついでに、家族分も、持ち帰りしちゃおうかしら?)

 美聖は悪巧みを働かせつつ、日が傾き始めた元町の中心地を降沢と二人、歩き始めたのだった。