◆◆◆
『アルカナ』の定休日に、美聖は久々に横浜まで来ていた。
響子の学校帰りに合わせて、彼女と待ち合せをすることになっていたからだ。
こちらの都合で勝手にバレッタを借りたのだ。郵送で返すと美聖は告げたのだが、響子は逆に会った方が早いとメールで告げてきた。
当然、遠い場所に呼び出されたら、断るつもりだったが、彼女の学校は横浜だということで、美聖の戸惑いも解消されて、今に至っている。
まあ、確かに、郵送より、直接届けに行った方が近いだろう。
電車で三十分以内の距離なのだから……。
――しかし……だ。
予想外だったのは、降沢の参加だった。
当初、リフレッシュも兼ねて、美聖は横浜に行く予定にしていたのだが、それを降沢に話したところ、なぜか急に彼も一緒に行きたいと言い出してしまったのだ。
(引きこもりが好物の降沢さんが横浜に行きたいって……?)
彼がまともに歩くことが出来るのか、切符を買うことは出来るのか。
いや、そんなことより……。
(これって、どういうことなんだろう?)
断じて、デートではない。
それは、美聖自身、十分に分かっている。
けれど、気持ち化粧を濃いめにして、お気に入りのふんわりした袖のブラウスと、ミモレ丈の清楚なスカートをチョイスしたのは、少しだけ浮かれた気持ちがあったからかもしれない。
(だって、元町だよ。男の人と二人で来るなんて、初めてだよ!)
それに、待ち合わせ場所がデートスポットで有名な元町の喫茶店なのである。
この時点で、恋愛経験の貧弱な美聖の心は、大いに揺れていた。
相手がたとえ空気の読めない降沢だったしても、ときめくのは仕方ないことではないのか……。
そういうことで、当日を迎える頃には、美聖は考え過ぎですっかり疲れきってしまっていた。
「どうしたんです。一ノ清さん」
降沢は涼しい顔をしている。
何てことはなさそうだ。
腹立たしいくらいに、彼はいつも通りである。
よく見ればお肌も艶々だし、昨夜はよく眠れたことだろう。
「別に、何でもないですよ……」
「一ノ清さん、何だか機嫌が悪そうですね?」
「違いますよ。ただ複雑な気持ちでいるだけですから」
「はっ?」
自分ばかりが振り回されて、癪な気持ちもあったが、何より今は距離が近いのだと、叫び出したい気持ちをぐっと堪えていた。
降沢が美聖の隣に座っている。
気持ちが落ち着かない、この非日常的なムードは喫茶店の雰囲気も大いに影響していた。
そこは、いまどき珍しい昭和を漂わせるレトロ喫茶だった。
『アルカナ』とは違う意味で、モダンな店内で、茶っぽいガラスで仕切られた空間は、独特の空気を漂わせていた。
ソファーの色は焦げ茶色で、水の入ったカップも茶色だ。
クーラーの埃臭さに、どことなく懐かしさを覚えるものの、決して古臭く感じないのは、所々に置かれている手入れの行き届いた観葉植物と、客層のおかげだろう。
若者が多く、しかも、カップルが大多数だ。
平日の昼間から、何をしているのかと突っ込みたくなるが、逆に言えば、降沢と美聖もそういう関係に見えなくもない……かもしれない。
そのむず痒い空間に、早い時間から入店していた美聖と降沢は、声が外に漏れないよう奥の席を希望して座っている。
ぎこちないムードだ。
……それに。
降沢の普段と違う、しっかりした格好もまずかった。
「あのー一つ聞きたいのですが、降沢さん。今日に限って、どうしてスーツなんですか?」
「ああ。だって、一ノ清さんが普段着で来るなって、怒っていたじゃないですか? もしかして、僕、変でしたか?」
「変じゃない……ですけど。きっと適当なシャツ一枚で来ると思っていたので……」
「僕……スーツとシャツ以外、服を持っていないんですよね」
「…………なんか、買った方が良いんじゃないですか?」
お金に、不自由しているわけでもなさそうなのに……。
証拠に、今日の降沢が身に着けているスーツは、有名な海外ブランドの代物だ。
いつものよれよれのシャツとチノパン姿に慣れている美聖には、ノーネクタイとはいえ、きっちりとした格好をしている降沢の姿は直視できないほどの魅力を放っていた。
あとは長い前髪を切ってしまったのなら、完璧だろう。
さらさらの髪と、小さな顔と、整った鼻梁に、すらりとした手足。
(イケメンよね……。実体は、ニート画家だけど)
普段から、そういうふうにちゃんとしていたのなら、ファンクラブでも出来るのではないか……。
しかし、同時に降沢がそういうことに無頓着であることを、美聖はよく知っている。
外見でどう見られるのか、そういうことに関して、この人はあまり興味がなさそうだった。
しょせん、絵を描くこと以外、彼にとっては、どうでもいいことなのだ。
(この人、そこまでして……どうして私について来たんだろう?)
美聖に格好を指定されてまで、ほぼひきこもり状態の降沢がここまで足を運ぶ理由が不明だ。
描き上げた絵に関しても、美聖が窓口になると申し出たにも関わらず、一緒に行くの一点張りだったのだ。
「もしかして……ロリコン……とか?」
「あのー、一ノ清さんの中で、僕のイメージって一体どうなっているんでしょうか?」
「あっ……」
「まったく、いつも僕に聞こえないと思って、毒舌している時がありますけど、みんな、ちゃんと聞こえていますからね」
……ああ、何だ。
聞こえていたらしい。
だったら、黙っていてくれれば良いのに……。
(また今日は、えらく饒舌じゃない?)
…………いや、違う。
正確には、先日離れでヒマワリの素描を美聖が見学した日から、降沢は一層、美聖と喋るようになった気がする。
『アルカナ』の定休日に、美聖は久々に横浜まで来ていた。
響子の学校帰りに合わせて、彼女と待ち合せをすることになっていたからだ。
こちらの都合で勝手にバレッタを借りたのだ。郵送で返すと美聖は告げたのだが、響子は逆に会った方が早いとメールで告げてきた。
当然、遠い場所に呼び出されたら、断るつもりだったが、彼女の学校は横浜だということで、美聖の戸惑いも解消されて、今に至っている。
まあ、確かに、郵送より、直接届けに行った方が近いだろう。
電車で三十分以内の距離なのだから……。
――しかし……だ。
予想外だったのは、降沢の参加だった。
当初、リフレッシュも兼ねて、美聖は横浜に行く予定にしていたのだが、それを降沢に話したところ、なぜか急に彼も一緒に行きたいと言い出してしまったのだ。
(引きこもりが好物の降沢さんが横浜に行きたいって……?)
彼がまともに歩くことが出来るのか、切符を買うことは出来るのか。
いや、そんなことより……。
(これって、どういうことなんだろう?)
断じて、デートではない。
それは、美聖自身、十分に分かっている。
けれど、気持ち化粧を濃いめにして、お気に入りのふんわりした袖のブラウスと、ミモレ丈の清楚なスカートをチョイスしたのは、少しだけ浮かれた気持ちがあったからかもしれない。
(だって、元町だよ。男の人と二人で来るなんて、初めてだよ!)
それに、待ち合わせ場所がデートスポットで有名な元町の喫茶店なのである。
この時点で、恋愛経験の貧弱な美聖の心は、大いに揺れていた。
相手がたとえ空気の読めない降沢だったしても、ときめくのは仕方ないことではないのか……。
そういうことで、当日を迎える頃には、美聖は考え過ぎですっかり疲れきってしまっていた。
「どうしたんです。一ノ清さん」
降沢は涼しい顔をしている。
何てことはなさそうだ。
腹立たしいくらいに、彼はいつも通りである。
よく見ればお肌も艶々だし、昨夜はよく眠れたことだろう。
「別に、何でもないですよ……」
「一ノ清さん、何だか機嫌が悪そうですね?」
「違いますよ。ただ複雑な気持ちでいるだけですから」
「はっ?」
自分ばかりが振り回されて、癪な気持ちもあったが、何より今は距離が近いのだと、叫び出したい気持ちをぐっと堪えていた。
降沢が美聖の隣に座っている。
気持ちが落ち着かない、この非日常的なムードは喫茶店の雰囲気も大いに影響していた。
そこは、いまどき珍しい昭和を漂わせるレトロ喫茶だった。
『アルカナ』とは違う意味で、モダンな店内で、茶っぽいガラスで仕切られた空間は、独特の空気を漂わせていた。
ソファーの色は焦げ茶色で、水の入ったカップも茶色だ。
クーラーの埃臭さに、どことなく懐かしさを覚えるものの、決して古臭く感じないのは、所々に置かれている手入れの行き届いた観葉植物と、客層のおかげだろう。
若者が多く、しかも、カップルが大多数だ。
平日の昼間から、何をしているのかと突っ込みたくなるが、逆に言えば、降沢と美聖もそういう関係に見えなくもない……かもしれない。
そのむず痒い空間に、早い時間から入店していた美聖と降沢は、声が外に漏れないよう奥の席を希望して座っている。
ぎこちないムードだ。
……それに。
降沢の普段と違う、しっかりした格好もまずかった。
「あのー一つ聞きたいのですが、降沢さん。今日に限って、どうしてスーツなんですか?」
「ああ。だって、一ノ清さんが普段着で来るなって、怒っていたじゃないですか? もしかして、僕、変でしたか?」
「変じゃない……ですけど。きっと適当なシャツ一枚で来ると思っていたので……」
「僕……スーツとシャツ以外、服を持っていないんですよね」
「…………なんか、買った方が良いんじゃないですか?」
お金に、不自由しているわけでもなさそうなのに……。
証拠に、今日の降沢が身に着けているスーツは、有名な海外ブランドの代物だ。
いつものよれよれのシャツとチノパン姿に慣れている美聖には、ノーネクタイとはいえ、きっちりとした格好をしている降沢の姿は直視できないほどの魅力を放っていた。
あとは長い前髪を切ってしまったのなら、完璧だろう。
さらさらの髪と、小さな顔と、整った鼻梁に、すらりとした手足。
(イケメンよね……。実体は、ニート画家だけど)
普段から、そういうふうにちゃんとしていたのなら、ファンクラブでも出来るのではないか……。
しかし、同時に降沢がそういうことに無頓着であることを、美聖はよく知っている。
外見でどう見られるのか、そういうことに関して、この人はあまり興味がなさそうだった。
しょせん、絵を描くこと以外、彼にとっては、どうでもいいことなのだ。
(この人、そこまでして……どうして私について来たんだろう?)
美聖に格好を指定されてまで、ほぼひきこもり状態の降沢がここまで足を運ぶ理由が不明だ。
描き上げた絵に関しても、美聖が窓口になると申し出たにも関わらず、一緒に行くの一点張りだったのだ。
「もしかして……ロリコン……とか?」
「あのー、一ノ清さんの中で、僕のイメージって一体どうなっているんでしょうか?」
「あっ……」
「まったく、いつも僕に聞こえないと思って、毒舌している時がありますけど、みんな、ちゃんと聞こえていますからね」
……ああ、何だ。
聞こえていたらしい。
だったら、黙っていてくれれば良いのに……。
(また今日は、えらく饒舌じゃない?)
…………いや、違う。
正確には、先日離れでヒマワリの素描を美聖が見学した日から、降沢は一層、美聖と喋るようになった気がする。