◆◇◆
――十数年前のあの日のことを、僕は今でも鮮明に覚えている。
病室には、ユリの造花が活けられていた。
なぜ、造花……?
……と思ったら、見舞いの花を病院に持って行くのは、いけないらしい。
抵抗力のない病人には、花についた僅かな菌にも、身体に障る恐れがある。
特に、沙夜子姉さんの場合、難病の病棟に入院中で無菌状態の部屋にいるのだから、御法度ものなのだそうだ。
しかし、死期を前にして、彼女はワガママを口にした。
最期に描いていたモチーフのユリを見たいのだと……。
それを聞いて、何とかしたいと頭をひねって、沙夜子姉さんの後輩で、遠藤浩介という男がユリの造花を持ち込んだそうだ。
僕だって、遠藤浩介がやって来なければ、沙夜子姉さんの見舞いになど来ようとは思わなかっただろう。
それほどに、彼女の死が怖かった。
会うつもりなどなかった。
助かる見込みがないと分かっているからこそ……。
――絶対に、会いたくはなかったのだ。
「沙夜子姉さん……」
沈黙に耐え切れずに、彼女に話しかける。
独特の薬品の香りが、僕の涙腺を刺激していた。
白い空間に、頼りなく横たわる沙夜子姉さんは、僕の知っている太陽の塊のような女性ではなかった。
痩せ細り、生白くなった腕には、幾つもの管が機械と繋がっている。
鼻につけられているカニューラから、酸素が供給されている音が狭い個室に無常に響き渡っていた。
「沙夜子姉さん。……久しぶりです。在季です」
いつもは配慮してもらう側の僕が沙夜子姉さんに気を遣っているなんて、おかしな話だった。
予想通り、答えは、返ってこなかった。
きっと、喋るのも、しんどいのだろう。
ここのところ、大量に薬を投与されているらしく、情緒不安定だと浩介が話していた。
ただ黒目がちな大きな目が、僕をじっと眺めていた。
「僕のこと……怒っていますか。在季です。なかなか顔も出さなくて、すいませんでした」
何も言わない。
それが耐えきれないから、僕は喋りつづけた。
「でも、沙夜子姉さんも知っての通り、厄介な体質があるから、病院なんて来ることができなかったんです。……でも、今回おもいきって、霊媒を閉じてもらったんです」
その一言に、沙夜子姉さんの目が反応した。
「姉さんのおかげです。浩介を紹介してくれたから……。あの人の伝手で、日常生活を送れるようになったんです。生まれつき持っていたものを、なくしてしまうのですから、弊害はあるそうですけど……。いまのところは、快適ですよ」
「…………え……は?」
「はい?」
何事か、沙夜子姉さんが話している。
かさかさの唇が上下に動いていた。
僕は、彼女の口元に、耳を持って行った。
「絵は、どうするの?」
「ああ」
掠れた声で問われて、僕は破顔した。
「…………絵は、やめます。浩介が言うには、どうも、創作活動自体、危ないらしくて。僕の絵は霊媒で描いている部分もあるそうなのです。危険なことはしない方がいいので、この際、きっぱりやめます。その代わり、普通に生きられるみたいですから。大学にも通うことも出来たし、おかげさまで、楽になったんですよ。……だから、姉さんも」
――養生してください。
そう、僕は告げたかったのだ。
今まで、心配をかけたが、僕は大丈夫だ……と。
けれど、彼女の思いは別にあった。
今までの気怠い表情は何処にいったのかと思うくらいに、鬼の形相を浮かべて、身体を起こした。
そうして、渾身の力で一喝したのだ。
「絵を描くことを、やめるなんて許さない!!」
「沙夜子姉さん?」
僕は呆然とすると共に、戦慄した。
こんなに激しい沙夜子姉さんを一度だって見たことがなかったのだ。
「在季! 私がどんな思いで、あんたに絵を描くように言っていたのか、分かる? 私はもう描けない。才能も時間も奪われたの! どうして、あんたにはあって、私にないの? どうして!?」
ピピピッと、警告を告げる機械音に、血相を変えた看護師が飛びこんできた。
年配の看護師によって、僕は強制的に沙夜子姉さんと引き離されたものの、姉さんの怒声は止まなかった。
息を荒くし、髪を振り乱しながら、目を赤くする。
沙夜子姉さんは、命を振り絞るようにして、絶叫した。
「…………やめるなんて、絶対に許さないから! 楽になんて生きさせない! あんたは一生、死ぬまで絵を描き続けるのよ!!」
浩介は、沙夜子姉さんがおかしかったのは、薬のせいだと言い張っていた。
――でも、そんなはずはない。
僕には分かっていた。
その言葉こそ、彼女が長い間秘めていた本音だったのではないか。
元気であれば、魔を寄せ付けない、強い人の言葉は、まるで言霊(ことだま)で……。
呪いの言葉でもあった。
沙夜子姉さんは、人生の最期で、僕の一生を檻の中に閉じ込める呪詛《じゅそ》をかけたのだ。
呪いというのは、相手が受け取らなければ発動しないツールだ。
僕が無視をすれば、それはただの病人の戯言と化す。
それでも、僕はその呪いを受け取ることにしたのだ。
彼女の死後に受け継いだ絶筆のユリの花に、執着した。
―――何て、綺麗で残酷な絵なのだろう……と。
――十数年前のあの日のことを、僕は今でも鮮明に覚えている。
病室には、ユリの造花が活けられていた。
なぜ、造花……?
……と思ったら、見舞いの花を病院に持って行くのは、いけないらしい。
抵抗力のない病人には、花についた僅かな菌にも、身体に障る恐れがある。
特に、沙夜子姉さんの場合、難病の病棟に入院中で無菌状態の部屋にいるのだから、御法度ものなのだそうだ。
しかし、死期を前にして、彼女はワガママを口にした。
最期に描いていたモチーフのユリを見たいのだと……。
それを聞いて、何とかしたいと頭をひねって、沙夜子姉さんの後輩で、遠藤浩介という男がユリの造花を持ち込んだそうだ。
僕だって、遠藤浩介がやって来なければ、沙夜子姉さんの見舞いになど来ようとは思わなかっただろう。
それほどに、彼女の死が怖かった。
会うつもりなどなかった。
助かる見込みがないと分かっているからこそ……。
――絶対に、会いたくはなかったのだ。
「沙夜子姉さん……」
沈黙に耐え切れずに、彼女に話しかける。
独特の薬品の香りが、僕の涙腺を刺激していた。
白い空間に、頼りなく横たわる沙夜子姉さんは、僕の知っている太陽の塊のような女性ではなかった。
痩せ細り、生白くなった腕には、幾つもの管が機械と繋がっている。
鼻につけられているカニューラから、酸素が供給されている音が狭い個室に無常に響き渡っていた。
「沙夜子姉さん。……久しぶりです。在季です」
いつもは配慮してもらう側の僕が沙夜子姉さんに気を遣っているなんて、おかしな話だった。
予想通り、答えは、返ってこなかった。
きっと、喋るのも、しんどいのだろう。
ここのところ、大量に薬を投与されているらしく、情緒不安定だと浩介が話していた。
ただ黒目がちな大きな目が、僕をじっと眺めていた。
「僕のこと……怒っていますか。在季です。なかなか顔も出さなくて、すいませんでした」
何も言わない。
それが耐えきれないから、僕は喋りつづけた。
「でも、沙夜子姉さんも知っての通り、厄介な体質があるから、病院なんて来ることができなかったんです。……でも、今回おもいきって、霊媒を閉じてもらったんです」
その一言に、沙夜子姉さんの目が反応した。
「姉さんのおかげです。浩介を紹介してくれたから……。あの人の伝手で、日常生活を送れるようになったんです。生まれつき持っていたものを、なくしてしまうのですから、弊害はあるそうですけど……。いまのところは、快適ですよ」
「…………え……は?」
「はい?」
何事か、沙夜子姉さんが話している。
かさかさの唇が上下に動いていた。
僕は、彼女の口元に、耳を持って行った。
「絵は、どうするの?」
「ああ」
掠れた声で問われて、僕は破顔した。
「…………絵は、やめます。浩介が言うには、どうも、創作活動自体、危ないらしくて。僕の絵は霊媒で描いている部分もあるそうなのです。危険なことはしない方がいいので、この際、きっぱりやめます。その代わり、普通に生きられるみたいですから。大学にも通うことも出来たし、おかげさまで、楽になったんですよ。……だから、姉さんも」
――養生してください。
そう、僕は告げたかったのだ。
今まで、心配をかけたが、僕は大丈夫だ……と。
けれど、彼女の思いは別にあった。
今までの気怠い表情は何処にいったのかと思うくらいに、鬼の形相を浮かべて、身体を起こした。
そうして、渾身の力で一喝したのだ。
「絵を描くことを、やめるなんて許さない!!」
「沙夜子姉さん?」
僕は呆然とすると共に、戦慄した。
こんなに激しい沙夜子姉さんを一度だって見たことがなかったのだ。
「在季! 私がどんな思いで、あんたに絵を描くように言っていたのか、分かる? 私はもう描けない。才能も時間も奪われたの! どうして、あんたにはあって、私にないの? どうして!?」
ピピピッと、警告を告げる機械音に、血相を変えた看護師が飛びこんできた。
年配の看護師によって、僕は強制的に沙夜子姉さんと引き離されたものの、姉さんの怒声は止まなかった。
息を荒くし、髪を振り乱しながら、目を赤くする。
沙夜子姉さんは、命を振り絞るようにして、絶叫した。
「…………やめるなんて、絶対に許さないから! 楽になんて生きさせない! あんたは一生、死ぬまで絵を描き続けるのよ!!」
浩介は、沙夜子姉さんがおかしかったのは、薬のせいだと言い張っていた。
――でも、そんなはずはない。
僕には分かっていた。
その言葉こそ、彼女が長い間秘めていた本音だったのではないか。
元気であれば、魔を寄せ付けない、強い人の言葉は、まるで言霊(ことだま)で……。
呪いの言葉でもあった。
沙夜子姉さんは、人生の最期で、僕の一生を檻の中に閉じ込める呪詛《じゅそ》をかけたのだ。
呪いというのは、相手が受け取らなければ発動しないツールだ。
僕が無視をすれば、それはただの病人の戯言と化す。
それでも、僕はその呪いを受け取ることにしたのだ。
彼女の死後に受け継いだ絶筆のユリの花に、執着した。
―――何て、綺麗で残酷な絵なのだろう……と。